HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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レオリオ達に甘え、甘やかされるアズリル。
そしていよいよゾルディック家とご対面。


兄の形

「レオリオ……」

 

 妙に甘ったるい声で名前を呼ばれて、レオリオは思わず足を止めた。

 

 アズリルは汗で頬を赤くし、息を弾ませながら、こちらへ向かって両腕を広げていた。熱のこもった目でまっすぐ見上げられ、レオリオは一瞬、反応が遅れる。

 

「アズリル……」

 

 喉が、ごくりと鳴った。

 

 そのまま引き寄せられるように一歩踏み出しかけた、その時。

 

「おんぶして」

「いいかげん……一人で歩け!!」

 

 山道にレオリオの怒鳴り声が響いた。

 

 坂道の途中、アズリルは疲れ果てて、重りを背負ったまましゃがみ込んでいた。

 

「だって、疲れたんだもん」

「俺も疲れてんだよ!」

「でも、僕を背負ったままの方が、いい鍛錬になるんじゃない?」

「そういう問題じゃねえ!」

 

 そう言いながらも、しばらく後には、レオリオはアズリルを背中に乗せて坂道を上っていた。しかもそのアズリルには、百キロの重りがついたままである。

 

「っ……荷物が荷物背負ってんじゃねえよ……」

「レオリオ、すごいねえ」

「褒めりゃ何とかなると思ってんだろ」

「まあね」

「おまえな」

 

 背中の上でアズリルは満足そうに揺られ、レオリオだけが汗だくで文句を言い続けていた。

 

 

 

 

 アズリルは浮かれきっていた。

 みんなで和解して以来、楽しくて仕方がないのだと、全身で告げているようだった。

 

 城を出た経緯も、ハンター試験を受けた理由も、これからハンターライセンスを受け取るための試練が残っていることも、すべて打ち明けていた。

 

 もう、隠さなくていい。

 

 そう思った途端、胸の内側でずっと押さえ込んでいたものが、次から次へと外へ溢れ出した。城を出て以来、アズリルは見違えるほどよく喋るようになり、ハンター試験で見せていた物静かな印象は、どうやら緊張と遠慮でできていたらしいと、レオリオたちもすぐに気づいた。

 

 最初こそ面食らったものの、三人はやがて、その甘えようを笑って受け止めるようになった。

 

 これまでどれだけ自分を抑えていたのかが、今のアズリルを見ていると嫌でも分かる。ようやく手を伸ばしていい相手を見つけたのだと思えば、呆れながらも放っておけなかった。しかも、そうやって遠慮なく懐いてくる姿は、腹が立つくらい可愛かった。

 

 

 

 

「ゴン〜っ」

 

 訓練が終わり、部屋のソファで休んでいたゴンのところへ、アズリルが当然のように転がり込んできた。

 

 そのまま、背もたれ越しにゴンの肩へ顎を乗せる。

 

「ねえ、ゴン。僕のこと、兄上って呼んでもいいんだよ」

「兄上?」

 

 ゴンが首を傾げる。

 

「うん。ゴン、兄弟いないって言ってたでしょ。だから僕がお兄さんになってあげる」

 

 言っていることだけ聞けば兄らしいのかもしれない。

 

 けれど実際のアズリルは、兄というより、構ってほしくてまとわりつく子どものようだった。

 

 ゴンもゴンで、寄りかかってくるアズリルを自然に受け止めている。

 

「うーん。でもアズリルって、お兄さんっていうより……」

「何?」

「なんか、犬みたい」

「犬?」

「うん。すぐくっついてくるし」

「兄ってそういうもんじゃない?」

「たぶん違うと思う」

 

 アズリルは不満そうに「えー」と声を漏らしながら、ころんと身体を倒した。そのまま当然のようにゴンの膝の上へ頭を乗せる。

 

 兄と呼ばせたいと言い張るわりに、していることは完全に甘えにいっている。

 

 ゴンはすっかり慣れた様子で、その頭をぽんぽんと撫でていた。

 

 そのやり取りを横目で見ながら、クラピカは深く息を吐いた。

 

 まったく、レオリオもゴンもアズリルを甘やかしすぎだ。

 これでは、温室育ちの王子を何でも許してしまう取り巻きと変わらないではないか。もちろん、アズリルが悪いわけではない。悪いわけではないが、このままでは本人のためにもならない。

 

「私は、そうはならないぞ」

 

 思わず小さく呟いてから、クラピカは改めて心に決めた。

 

 アズリルを王子としてではなく、一人の少年として、友達として扱う。必要以上に甘やかさず、駄目なものは駄目だと言う。そうでなければ、本当の意味で対等とは言えない。

 

 そう結論づけ、クラピカは湯浴みの支度を整えて部屋を出ようとした。

 

 その時だった。

 

 いつの間に近づいていたのか、すぐ真横にアズリルがいた。

 

 袖をきゅっと引かれる。

 

「ねえ、クラピカ」

 

 先ほどゴンに向けられていた甘えた声が、今度はすぐ耳元で響いた。

 

 クラピカは一瞬、反応が遅れる。

 

「今日は一緒に風呂入ろうよ」

 

 クラピカの思考が、一瞬止まった。

 

 断るべきだ。

 

 即座に断るべきだ。

 

 さっき自分で決めたばかりではないか。駄目だと。そう、言うべきなのに。

 

「……」

「やった。じゃあ先に行ってて。僕、着替え持ってくる!」

「いや、待て。私はまだ何も──」

 

 言い終える前に、アズリルはぱっと袖を離し、嬉しそうに廊下の奥へ駆けていった。

 

 残されたクラピカは、湯浴み用の布を手にしたまま固まる。

 

 背後から、痛いほどの視線を感じた。

 

 振り返ると、レオリオとゴンがこちらを見ていた。

 

 どちらも、実に言いたげな顔をしている。

 

「……そうはならないんじゃなかったのか?」

 

 レオリオがぼそりと言った。

 

 ゴンもこくこくと頷く。

 

 クラピカは何か言い返そうとして、結局、何も出てこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 そして、ここに来てから二十日が経ったころ、クラピカとゴンも第一の門を開けられるようになっていた。レオリオにいたっては、すでに第二の門まで開けてしまっている。

 

 アズリルの左腕は、大きな固定こそ外れたものの、まだ包帯が巻かれたままだった。レオリオによれば、まだしばらくは力を入れない方がいいらしい。けれど終盤には訓練にもきちんと参加するようになり、使用人小屋の扉くらいなら、右手一本でどうにか押し開けられるようになっていた。

 

 だからこそ、本人としては試さずにはいられなかったのだろう。

 

 アズリルは試しの門の前に立ち、右手を第一の門に当てた。

 

 レオリオたちは少し離れた場所で、その様子を見守っている。顔つきだけは真剣だったが、どこか、初めて子どもを一人で歩かせる親のようでもあった。

 

「……いくよ」

 

 誰に言うでもなく呟いて、アズリルは深く息を吸った。

 

 足を踏ん張り、肩に力を込める。右腕が震え、額に汗が滲み、足元の土がわずかに削れた。

 

 扉は動かない。

 

 アズリルはなおも粘った。顔を真っ赤にして、歯を食いしばり、ほとんど門に体当たりするように全身で押す。

 

 それでも、扉はまるで何も感じていないかのように沈黙していた。

 

 しばらくして、アズリルは力尽きたように手を離した。

 

「……だめだ」

 

 本人は悔しそうにしているが、正直、よくそこまで本気で押したな、という顔で三人は見ていた。

 

「気にすんなよ、アズリル。両腕使ったってきつい門なんだぞ。片腕でどうにかしようって方が無茶だろ」

 

 レオリオがそう言ったが、アズリルは門を見上げたまま首を振った。

 

「僕、もうしばらくここで訓練してる」

「は?」

「レオリオたちだけ先に行って。ここを開けられないなら、やっぱり僕はこの先に行く資格はないと思う」

「おいおい、何言ってんだよ」

 

「ねえ、ゼブロさん。僕だけもう少しここに残ってもいいでしょ」

「私は構わないが……」

 

 レオリオ、クラピカ、ゴンは互いに顔を見合わせる。

 

 その時、輪の外から声がした。

 

「アズリル様。一つ、ご提案してもよろしいでしょうか」

 

 全員が、はっとしてそちらを見た。

 

 ノクトが立っていた。

 

 レオンハルトではなく、ノクトとして姿を見せるようになってから、彼は相変わらず皆の輪から一歩引いた場所にいた。訓練に加わることも、食事の席に混ざることもない。遠くにいることがあまりに当たり前になっていて、いつしか、その存在に意識を向けることも少なくなっていた。

 

(アズリル……様?)

 

 その名に様がつく聞き慣れない呼び方に、アズリルは思わず首を傾げた。

 

 けれどノクトはその反応には触れず、いつも通り淡々と続けた。

 

「アズリル様は、まだ左腕を使うことができません。であれば、その分だけ私が補助に入るというのはいかがでしょう」

「ノクトが……僕の左腕の代わりに?」

「はい。怪我が治られていない以上、その不利を補うための補助です。それに、門は何人がかりでも、開けられれば資格ありという話でした」

 

 ノクトはゼブロへ視線を向けた。

 

 ゼブロは頷く。

 

「ああ。何人がかりでも構わない。開けられさえすれば、通っていいことになっている」

 

 アズリルはすぐには答えなかった。

 

 ノクトの言っていることは分かる。左腕が使えないなら、誰かがその分を補えばいい。門の決まりから外れているわけでもない。

 

 それでもいいのかもしれない。

 

 ただ、ここでノクトの手を借りたら、また前の自分に戻ってしまう気がした。

 

 守られる王子と、それを助ける騎士。

 

 だから、どうしても頷けなかった。

 

「ノクトは……いやだ」

「俺ならどうだ」

 

 アズリルの返事を待っていたかのように、レオリオが横から割って入った。

 

 アズリルはちらりとその顔を見上げた。

 

 何でもないふりをしているのに、その顔に僅かな緊張が浮かんでいる。

 

 ノクトの時とは違って、胸の奥が強張ることはなかった。レオリオなら、自分の代わりに開けるのではなく、隣で一緒に押してくれる気がした。

 

「……うん」

 

 レオリオは一瞬だけ安心したように目元を緩めたが、すぐにそれを隠すように、妙に得意げな顔になった。

 

「おうよ、任せろ」

 

 そのやり取りを見てから、クラピカはちらりとノクトへ視線を向けた。

 

 ノクトの表情は変わらない。

 

 けれど、その沈黙だけが、先ほどより深くなったように見えた。まるで、何かを言う権利など最初からないのだと、自分に言い聞かせているようだった。

 

 アズリルは門の前に立ち、右手を扉に添えた。左腕をかばうように身体を少し斜めにし、右肩から押し込む姿勢を取る。レオリオはその背後に半歩ずれて立ち、アズリルを支えるように、同じ扉へ左手を当てた。

 

「いくぞ」

「うん」

 

 二人は同時に力を込めた。

 

 アズリルは短く息を吸い、そのまま扉に体重を預けるように力を込めた。右腕が震え、肩の奥がじんと痺れても、添えた手だけは扉から離さなかった。

 

 重い音を立てて、第一の門が軋んだ。

 

 指一本ぶんの隙間が開く。

 

 そこからさらに、二人は声もなく押し続けた。

 

 やがて人ひとり通れるほどの幅ができた瞬間、アズリルは荒い息を吐きながら、その場に膝をついた。

 

 レオリオがにやりと笑う。

 

「開けられたな」

「……こんなんで、本当に開けたうちに入るのかな」

「入るさ」

 

 アズリルは不満そうに唇を尖らせたが、乱れた息の奥には、隠しきれない安堵があった。

 

 その時、背後で長身の影が動いた。

 

「私も、押させていただきます」

「え、ノクトも?」

 

 アズリルが顔を上げる。

 

「この先へ同行する以上、私も正式に門を越えておくべきでしょう」

 

 アズリルたちは自然と門の前を空けた。

 

 ゼブロもまた、黙ってその背中を見ていた。これまで一度も力らしい力を見せてこなかった男が、どれほどのものなのか、測りかねているようだった。

 

 ノクトは特に身構えることもなく、巨大な扉に両手を添えた。

 

 ほんの一拍、何も起きなかった。

 

 次の瞬間、腹の底を殴られるような轟音が響いた。

 

 第一の門だけではなかった。

 

 第二、第三、第四。重なり合った巨大な扉が、加えられた力に耐えきれなくなったように、まとめて軋みを上げる。

 

「そ、そんな馬鹿な……」

 

 ゼブロが呆然と声を漏らした。

 

 足元の地面が震えている。空気まで重く揺れているようで、レオリオは思わず一歩後ずさった。

 

 クラピカは息を呑み、ゴンは目を輝かせたまま、押し広げられていく門を見上げている。

 

 アズリルだけは、膝をついたまま動けなかった。

 

 やがて、最奥に控えていた第七の門までもが、巨大な軋みを響かせながら開いていく。

 

 あまりにも巨大な扉が左右へ押し広げられていく。影が動き、風が抜け、門の向こうの道が、これまでとはまるで違う場所のように現れていく。

 

 誰も、すぐには声を出せなかった。

 

「……マジかよ」

 

 ようやくレオリオが呟いた。

 

 アズリルは呆然とノクトを見上げた。

 

 ノクトは先ほどの怪力を見せたとは思えないほど平然と振り返る。

 

「参りましょう、アズリル様」

 

 その顔は気のせいか、いつもよりほんの少しだけ、輪郭が硬く強引に見えた。

 

 

 

 

 

 

 こうして一行は、ようやく試しの門を越えることになった。

 

「ゼブロさん、長い間本当にありがとう!」

 

 ゴンが元気よく頭を下げる。

 

「お世話になりました」

 

 クラピカも丁寧に礼を言った。

 

「ええ。気をつけて行きなさい。道なりに山を目指せばいい。屋敷は、その先にあるはずです」

 

 ゼブロはそう言ってから、困ったように笑った。

 

「もっとも、長年ここに勤めている私でさえ、山の方までは行ったことがなくてね。大した案内もできず、すまない」

「いえ、とんでもない」

 

 レオリオが首を振る。

 

 アズリルもゼブロへ向き直り、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

「どうかご無事で」

 

 ゼブロに見送られながら、一行は山道を歩き出した。

 

 その背中が遠ざかってから、後ろに立っていた使用人がぽつりと言った。

 

「大した連中だな」

「ああ。奴らなら、屋敷まで辿り着けるかもしれん」

 

 ゼブロがそう言うと、使用人はからからと笑った。

 

「そりゃあ無理だ。三年前、百人ほどの賞金首ハンターが押し寄せてきたことがあっただろ。あの時だって、たった一人の執事見習いに全滅させられた。まだ十歳くらいの女の子によ」

「いたな。あまりの恐ろしさに、そのまま雇われてしまったハンターも」

「悪かったな」

 

 使用人は肩をすくめる。

 

「嫌ってほど思い知らされたんだよ。分相応ってものがある。化け物ばかりさ。雇い主も、使用人も」

 

 彼は、山へ続く道を見た。

 

()()()を一歩越えたらな」

 

 

 

 その頃、ゾルディック家の屋敷では、ゼノ=ゾルディックがふと目を上げていた。

 

 遠く、門の方角から近づいてくる気配がある。

 

 数は五つ。

 

 そのうち一つだけ、他とは明らかに質が違う。

 

 ゼノはしばらく黙ってそちらへ意識を向けていたが、やがて静かに目を細めた。

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 一行が道なりにしばらく進んでいくと、前方に一人の影が見えた。

 

 道を塞ぐように立っていたのは、まだ十代前半ほどに見える少女だった。赤みがかった縮れ髪をいくつかの房に分けてまとめ、細い杖を片手に、こちらをまっすぐ見据えている。

 

「出て行きなさい。あなたたちがいる場所は私有地よ」

 

 冷静な声だった。

 

 ゴンは一歩前に出た。

 

「友達に会いに来たんだ。ちゃんと試しの門から通ってきたし」

「入邸の許可は得ているの?」

「……友達だって言っても、取り次いでくれないじゃないか」

「そうね。許可した前例もないしね」

「じゃあ、無断で入るしかないじゃん」

「そういうことになるわね」

 

 少女は淡々と答えた。

 

 それから、持っていた杖の先を地面に当てる。

 

 乾いた音を立てて、足元に一本の線が引かれた。

 

「とにかく、多めに見るのはそこまでよ。この線を一歩でも越えたら、全力で排除します」

 

 空気が張り詰める。

 

 レオリオが眉をひそめ、クラピカもわずかに身構えた。アズリルは少女の細い腕と、その目の奥にある揺るぎのなさを見比べる。

 

 どう見ても、自分たちより幼い。

 

 けれど、その立ち方に隙はなかった。

 

「みんな、下がってて」

 

 ゴンが言い、そのまま少女の方へ歩いていった。

 

 足が、線を越える。

 

 その瞬間だった。

 

 少女の杖が、目にも止まらぬ速さで振り抜かれた。

 

 鈍い音が響き、ゴンの身体が後ろへ吹き飛ぶ。

 

「ゴン!!」

 

 レオリオ、クラピカ、アズリルが同時に前へ出かける。

 

「待って!」

 

 地面に手をついたまま、ゴンが叫んだ。

 

 鼻血がつうっと流れている。それでもゴンは、ふらつきながら自分の足で立ち上がった。

 

「手を出しちゃだめだよ。俺に任せて」

「任せてって、お前……!」

「俺たち、争う気は全然ないんだ。ただ、キルアに会いたいだけだから」

 

 少女は何も答えなかった。

 

 ゴンはもう一度、線の前に立つ。

 

 そして、また一歩踏み出した。

 

 同じだった。

 

 線を越えた瞬間、杖が振り抜かれ、ゴンは地面へ叩きつけられる。

 

 それでもゴンは立ち上がった。

 

 何度も、何度も。

 

 線を越えては弾き飛ばされ、倒れては起き上がる。レオリオたちは唇を引き結び、アズリルは拳を握ったまま、その場から動けずにいた。

 

 日が傾き、木々の影が長く伸びても、ゴンはやめなかった。頬は腫れ、口元には血が滲み、足取りもすでにふらついている。それでも、線の前に立つたびに、その目だけは変わらなかった。

 

「もう……やめてよ」

 

 少女の声が初めて震えた。

 

「来ないで」

 

 それでもゴンは止まらなかった。

 

「なんでかな」

 

 掠れた声で、ゴンが言う。

 

「友達に会いたいだけなのに。キルアに会いたいだけなのに」

 

 ゴンはもう一度歩き出した。

 

 少女は杖を構える。

 

 けれどその手は、さっきまでのようには動かなかった。

 

 ゴンは線を越えた。

 

 そして、少女ではなく、その横に立っていた石柱へ向かって拳を振り上げる。

 

「なんでこんなことしなきゃいけないんだ!!」

 

 拳が石柱に叩きつけられた。

 

 鈍い音とともに、岩が砕ける。

 

 少女は動けなかった。

 

 線を越えたゴンを、もう叩くことができずにいた。

 

 その目に、涙が浮かぶ。

 

「お願い……」

 

 少女の唇が震えた。

 

「キルア様を、助けてあげて」

 

 その言葉が落ちた直後、乾いた破裂音が弾けた。

 

 少女の身体がぐらりと傾き、そのまま地面へ倒れ込む。

 

「まったく、使用人が何を勝手なことを言っているのかしら」

 

 道の奥から、女の声がした。

 

 現れたのは、豪奢なドレスに身を包んだ奇妙な女性だった。鍔の広い帽子。顔の大半を覆う包帯。そして目元には、機械じみたバイザーのようなものがかかっていて、表情はほとんど見えない。

 

「まるで私たちがキルをいじめているみたいじゃない。ただの見習いのくせに、失礼な子ね」

 

 女は倒れた少女を見下ろし、それからゆっくりとゴンたちへ視線を向けた。

 

「あなたたちのことはイルミから聞いています。三週間も前から庭内に居座っていることも、キルにはちゃんと伝えてありますよ」

 

 ゴンは何も言わず、女を見ていた。

 

「キルからの伝言を、そのまま伝えましょう」

 

 ほんの少しだけ、声色が変わった。

 

「来てくれてありがとう。すげー嬉しいよ。でも、今は会えない。ごめんな」

 

 レオリオが歯を食いしばる。クラピカも、何かを言いかけて飲み込んだ。

 

「そういうことですから、諦めてくださいね。キルの母である私の言葉に免じて、ここは大人しくおかえりください」

 

 女は満足げに言った。

 

 けれどゴンは、女の言葉が終わると、何も言わずに視線をそらした。

 

 見たのは、倒れた少女だった。

 

 レオリオはすでにそのそばへ膝をついている。脈を確かめ、呼吸を見て、それから短く息を吐いた。

 

「……気絶してるだけだ」

 

 ゴンはその言葉を聞いて、ようやく小さく息をついた。

 

「よかった」

「……」

 

 アズリルは拳を握りしめていた。

 

「キルアは、どうして僕たちに会えないんですか?」

 

 女がちらりとアズリルを見る。

 

「独房にいるからです」

 

 独房。その言葉が胸の奥に重く落ちた。

 

 アズリルはぎり、と奥歯を噛みしめる。

 

 その時だった。

 

 女が何かに気づいたように、急に大きな声を上げた。

 

「まあ! あなた!」

 

 あまりの声に、アズリルの肩がびくりと跳ねる。

 

 女の視線は、アズリルではなく、少し後ろに立っているノクトへ向けられていた。

 

「ノクト殿ではありませんの!」

 

 ノクトは静かに目を伏せた。

 

「ご無沙汰しております」

「まあ、まあ、嬉しいわ。来ると知っていたら、きちんとお出迎えをしましたのに」

 

 女は浮き立つようにノクトへ近づいた。

 

「あら、でもレオンハルト様はいらっしゃらないようですけれど……」

 

 言いながら、女は一度クラピカを見た。

 

 金の髪に、整った顔立ち。

 

 けれどすぐに違うと判断したのか、視線はふいとアズリルへ移る。

 

 次の瞬間、女の声がさらに高くなった。

 

「まあ、まあまあまあ! あなた、もしかしてアズレイ坊ちゃまではありませんの!」

 

 アズリルは固まった。

 

 誰なんだ、この人は。

 

 自分は知らない。

 

 けれど女の方は、こちらをよく知っているような顔をしている。

 

「大きくなられて! なんてこと、やっぱり血は争えませんわね。お美しくなられて」

「……」

「そうだわ。アズレイ坊ちゃま、屋敷へいらっしゃい。きっとパパも喜ぶわぁ」

 

 そう言うなり、女はアズリルの手を取った。

 

「え、あの、待って。僕はみんなと──」

「お友達の皆さんは待っていてくださるわ。そうね、あなた」

 

 女は倒れていた少女へ視線を向ける。

 

「起きているのでしょう。お友達の方々を執事室まで案内なさい」

 

 少女はゆっくりと身じろぎし、ふらつきながらも上体を起こす。

 

 アズリルは驚いてそちらを見たが、女はもう構わず歩き出していた。ほとんど引きずられるようにして、アズリルも道の奥へ連れていかれる。

 

 ノクトが後を追う。

 

「アズリル!」

 

 レオリオが反射的に駆け出しかけた。

 

 けれど、その腕をゴンが掴む。

 

「待って」

「待ってって、お前、アズリルが──」

「このまま勝手についていったら、この子が責任を取らされる気がする」

 

 レオリオははっとして、先ほどまで倒れていた少女を見た。

 

 少女はまだ顔色が悪いけど、杖を支えに、ゆっくり立ち上がろうとしていた。

 

 レオリオは歯を食いしばり、踏み出しかけた足を止める。

 

 少女は少しだけ荒い息を吐いた。

 

「……執事室まで案内するわ」

「でも、お前」

「平気よ。それに、あの子も、あの様子なら悪い扱いは受けないと思う。執事室に行けば屋敷に直接繋がる電話があるから、そこからでも連絡できる」

 

 ゴンは頷いた。

 

 

 

 

 

 

 アズリルは女に手を引かれながら、ほとんど返事をする間もなく歩かされていた。

 

 女はずっと喋っている。

 

「懐かしいわぁ。レオンハルト様は次いついらっしゃるのかしら。あらノクト殿、いつもよりまして凛々しいこと。そういえば昔はあんなに小さかったのに──」

 

 言葉は次から次へと降ってくるのに、アズリルが答える隙はどこにもない。

 

 気づけば、周囲は薄暗い石造りの通路に変わっていた。

 

 外の空気は遠ざかり、足音だけが硬い床に響いている。

 

 その先に、一人の老人が立っていた。

 

 小柄な老人だった。けれど、その姿を見た瞬間、アズリルの足は自然に止まりかけた。白い髪と髭。襟の詰まった中華風の上着。決して威圧的な体格ではないのに、そこに立っているだけで、通路の空気が少し重くなるような存在感があった。

 

「お義父様! こんなところで何をしていらっしゃるの!」

 

 女が声を上げる。

 

 老人はその問いには答えなかった。

 

 代わりに、女の後ろで手を引かれているアズリルを見る。

 

「その少年は誰だね」

 

 女はぴたりと勢いを止めた。

 

「あら、お分かりになりませんの? オルロフ家のアズレイ坊ちゃまですわよ」

「オルロフのアズレイだとな」

 

 老人の眉がわずかに持ち上がる。その表情は、今初めて聞いたというよりは、答え合わせに納得しているかのような落ち着きを孕んでいた。

 

 老人の視線が、改めてアズリルを射抜く。

 

 なるほど。

 

 先ほどから奇妙な気配が近づいてくるとは思っていたが、──やはり、この少年か。

 

 老人はしばらく黙ってアズリルを見ていた。

 

「これはまた、なぜあなたのようなお方がこちらに」

「えっと……キルアに、会いに来ました」

 

 目の前の老人は自分を知っている、けれどアズリルは相手を知らない。

 

 その不均衡が気味悪くて、声が少しだけ硬くなった。

 

 老人は特に表情を変えず、短く頷く。

 

「ふむ」

 

 それから、老人は女の方へ目を向けた。

 

「キキョウ。ワシが連れていく」

「お義父様!」

 

 女が抗議の声を上げる。

 

 老人は取り合わず、今度はその後ろに控えていたノクトへ視線を向けた。

 

「ノクト……だったな」

「はい」

「お主はここで待っておれ」

 

 ノクトの表情は変わらなかった。

 

 ただ、一度だけアズリルを見る。

 

 アズリルは戸惑ったまま、その視線を受け止めた。離れてほしくはなかった。けれど、老人の声には逆らいがたいものがある。ノクトもそれを理解しているようだった。

 

「……承知しました」

 

 短く答え、ノクトはその場に留まる。

 

 途端に、キキョウは先ほどまでの不機嫌が嘘のように、ぱっと声を弾ませた。

 

「あら、ではノクト殿。この後は私とお付き合いいただけますわね? ええ、拒否は受け入れませんわ」

 

 うふふ、と嬉しそうに笑いながら、彼女は当然のようにノクトの腕へ手を絡めた。

 

 ノクトはわずかに目を伏せただけで、振りほどくことはしなかった。

 

 唯一の盾を失い、アズリルは息を呑んだが、促されるまま老人の後について歩き出した。

 

 

 

 しばらく進むと、重そうな扉の前に辿り着く。

 

 老人は軽く扉を叩いた。

 

「入るぞ」

 

 返事を待たずに扉が開かれる。

 

 部屋に足を踏み入れた瞬間、アズリルは呼吸を忘れて硬直した。

 

 視界の中心に、キルアがいた。

 両手首は鎖で乱暴に吊り上げられ、足首もまた冷たい鉄の輪に固定されている。宙に浮いたその身体は重力に抗うこともできず、ただ小太りの男が振るう鞭のなすがままになっていた。

 

 バチン、と鋭い音が鳴る。

 白い肌に赤い線が走り、その裂け目から鮮血がじわりと滲み出した。

 

 アズリルの頭が真っ白になった。

 

「キルア──」

 

 声を上げかけたその時、老人が先に口を開いた。

 

「そのへんにしとけ、ミル」

「でもゼノじいちゃん!」

 

 小太りの男が不満げに叫ぶ。

 

「こいつ全然反省してないんだぜ!」

「んなこたわかっとる」

 

 ゼノと呼ばれた老人は、何でもないことのように言った。

 

「キル、もう行っていいぞ」

「はーい」

 

 キルアは軽い調子で返事をした。

 

 ──ばきり。

 乾いた破裂音が空気を裂いた。彼の手足に食い込んでいたはずの重厚な枷は、まるで紙細工のように無残な音を立てて弾け飛んだ。

 

 アズリルはその光景に言葉を失った。

 

 あれほど痛めつけられていたはずなのに、キルアはまるで昼寝から起きたような顔をしている。

 

「あー、痛かった」

 

 首を鳴らしながら顔を上げ、そこでようやくアズリルに気づいた。

 

「あれ? アズリルじゃん! なんでいんの?」

 

 さっきまで拷問めいたことをされていたとは思えない明るい声だった。

 

「き、キルア!? 大丈夫なの!?」

「あ? これぐらいへっちゃらだよ」

 

 その言葉に、ミルキと呼ばれた男がぎりぎりと歯を食いしばる。

 

 ゼノはそんな二人を横目に見て、静かに言った。

 

「キル。シルバが呼んどる」

「親父が? ……分かった」

 

 キルアは頷き、それからちらりとアズリルを見た。

 

「一緒に来るか?」

「え」

 

 アズリルが答えるより先に、ゼノが口を挟む。

 

「この子はワシと少し話がある。そのあとで合流すればよい」

 

 キルアは不思議そうにゼノを見たが、深くは聞かなかった。

 

「ふーん。じゃ、またな」

 

 そう言って、何事もなかったように部屋を出ていく。

 

 アズリルはその背中を呆然と見送った。

 

 キルアは平気そうだった。けれど、平気そうにしていること自体が怖かった。あれほどの扱いを受けても笑っていられるのは、慣れているからなのだろうか。

 

 胸の奥に冷たい不安が広がりかけた、その時。

 

 がん、と荒い音がした。

 

 ミルキが鞭を床へ投げつけたのだ。

 

「甘いよ、じいちゃんはキルアに! だからあいつ、つけあがるんだよ!」

 

 ゼノはミルキへ目を向ける。

 

「あいつは特別だからな」

「チッ。そりゃすごいけどさ。ゾルディック家の歴史でピカイチだとしても、暗殺者としては失格だよ。友達なんか作っちゃってさ。要するに、あいつは弱虫なんだよ」

 

 ミルキの視線がアズリルへ向いた。

 

「その点、オレはいつでも誰でも始末できるぜ」

 

 汗を浮かべ荒い息を吐きながらも、ミルキは得意げに笑う。その昏い瞳はキルアを蔑む一方で、目の前の少年を解体するとしたらどうなるか──そんな仮定を愉しむように、執拗にアズリルの全身を品定めしていた。

 

 アズリルの手が、ぎゅっと握られる。

 

 限界だった。

 

「……一体、何様のつもり?」

 

 自分でも驚くほど冷たい声だった。

 

「キルアをあれほど痛めつけておいて、なお友を持つことを弱さと呼ぶのか。……本気で言っているの?」

 

 ミルキが顔をしかめる。

 

「何様って、オレはあいつのお兄様だぜ。躾ける権利くらいあるだろ」

「兄……?」

 

 アズリルは呆気に取られた。

 

 イルミといい、この男といい、あまりにも自分の知る兄とは違いすぎる。

 

 兄とは、そういうものではないはずだった。

 

 少なくとも、アズリルの知る兄は、弟を痛めつけて当然のような顔をする人ではない。弟を縛りつけ、自分の思い通りにしようとするような人でもない。

 

 そんなものを兄の愛だと言うのなら、あまりにも間違っている。

 

 怒りと悔しさと、うまく名づけられない感情が胸の奥で膨れ上がり、その熱が喉まで込み上げかけた時、静かな声が落ちた。

 

「アズレイ」

 

 ゼノだった。

 

 振り返りながら、アズリルは言葉を飲み込む。ミルキにこれ以上何を言っても無駄なのだと、ゼノの声音が諭すように告げていた。

 

 だが、次の瞬間、別の不快感が胸の奥を冷たく撫でた。

 

 この老人は、当然のように自分の本名を呼んだ。

 

「……ずいぶん親しげに呼ぶんですね」

 

 アズリルは冷ややかに言った。

 

「僕は、あなたを存じ上げませんが」

 

「そうだろうな。最後に会った時、おぬしはまだ幼子だった」

「……父上と知り合いなの」

「うむ。古い付き合いじゃ」

 

 ゼノはそこで、ちらりとミルキを見る。

 

「ミル、少し外しておれ」

「はあ? なんで」

「ミル」

 

 ミルキは舌打ちをする。アズリルを値踏みするように見てから、ふんと鼻を鳴らして部屋を出ていった。

 

 扉が閉まると、部屋は急に静まり返った。

 

 二人きりで一体何を話すつもりなのか。幼いころの記憶しかない相手に、積もる話などあるはずがない。

 

 不審に思うアズリルの前で、ゼノが距離を詰めてきた。彼はアズリルの全身を観察するように見回すと、低い声で問いかけた。

 

「最近、体調はどうだ」

 

 予想外の言葉に、アズリルは瞬きをする。

 

「体調……?」

「うむ。どこか、変わったところはないか」

「……?」

 

 何を言われているのか分からない。戸惑うアズリルに、ゼノは静かに言葉を継いだ。

 

「たとえば──身体の内側で、何かが這うような感覚はないか」

 

 アズリルの息が止まる。

 

「あるいは、何かが奥で育っているような感覚じゃ」

 

 ぞくりと背筋が凍りついた。

 ふとした拍子に身体の深部で蠢く、あの感覚を思い出してしまったからだ。

 

 その瞬間、顔に出てしまったのだろう。

 

 ゼノはそれだけで悟ったのか、不敵に目を細める。

 

 突如、ゼノが軽く手を挙げ、アズリルへ向けた。

 

 何かに触れられたわけではない。

 

 だが、全身の皮膚が粟立つような悪寒が走り、腹の奥底で何かが脈打った。

 それは今まで経験したことのないほど荒々しく暴れ回り、アズリルはたまらず自分を抱えて前のめりに倒れ込む。

 

 床に膝をつき、必死に吐き気をこらえながらえづいた。

 

「……悪いな。大丈夫かね、アズレイ」

 

 ゼノは悪びれる様子もなく言った。

 

 差し出された手を、アズリルは一瞬見つめる。けれど自力で立ち上がる力は残っておらず、結局その手を取るしかなかった。

 

 引き上げられながら、アズリルは荒い息のままゼノを見上げる。

 

「これは……なんなの。何をした」

「あまり気にせんことじゃ」

 

 アズリルがさらに問いただそうと口を開くより早く、老人は諭すように言った。

 

「血というものは、時折、主の意志を離れて目覚めるものゆえ」

 

 ゼノはそれだけ言い捨てると、それ以上は何も語ろうとしなかった。

 沈黙の中で、アズリルはその言葉の真意を反芻する。

 

「そろそろ行くか」

「え」

「キルのところへ案内する」

 

 ゼノはそれだけ言って、部屋を出る。

 

 アズリルは一瞬立ち尽くしたが、すぐに後を追った。

 

 廊下をゆっくりと歩きながら、ゼノはぽつぽつと昔の話をした。

 

 ヴィクトル皇帝の偉大さと、それ以上に手に負えない気難しさについて。かつてオルドヴィアの王宮を訪れた時の記憶や、まだ言葉もろくに話せなかった幼きアズリルが、兄であるレオンハルトにわざと泣かされていたという他愛のない逸話まで。

 

 話の内容は、正直言って退屈だった。

 

 けれどゼノは、何かを急がせるわけでも、先ほどの不穏な問いを掘り返すこともしない。ただ場を繋ぐように歩き続けていた。

 

 やがて、別の部屋の前に着いた。

 

 ゼノが静かに扉を開くと、その先には奇妙な空間が広がっていた。

 

 殺風景でありながら、喉元を締めつけられるような圧迫感がある。天井を見上げれば、模型なのか剥製なのか判別のつかない異形の標本が、無数に吊り下げられていた。

 

 それらが頭上からじっとこちらを見下ろしているようで、アズリルは思わず息を呑む。

 

 部屋の中心には重厚なソファが置かれ、そこにキルアと、大柄な銀髪の男が座っていた。

 

 おそらく、この人がシルバなのだろう。

 

 アズリルはその異様な部屋と、男の静かな威圧感に息を呑んだ。

 

 けれどキルアと目が合った瞬間、キルアはぱっと立ち上がった。

 

「あ、来た」

 

 そのまま駆け寄ってきて、当然のようにアズリルの肩へ腕を回す。

 

「親父、こいつさっき話してたやつ。なかなかドジそうだろ」

 

 にしし、とキルアが笑う。

 

 シルバはただ静かに、何かを探るような眼差しでアズリルを見つめている。何を考えているのか、その瞳からは一切の感情が読み取れない。

 

 一体、僕の何を話していたんだろう。

 

 そう思って横目でキルアを見たものの、今のアズリルにとって彼の存在は、何よりも大きかった。

 異様な大人たちや部屋の中で、キルアの変わらない面持ちは唯一の救いだった。

 

 アズリルは無意識に、少年の服をぎゅっと掴んだ。

 

 キルアはちらりとその手元に視線を落とすと、そっとアズリルの指先を引き剥がした。かと思えば、その空いた隙間を埋めるように、今度はキルアからその手をしっかりと握り返す。

 

 普段なら絶対にしないような行動に、アズリルは驚いて彼を見下ろした。

 

「行こうぜ」

 

 彼は短くそう告げると、アズリルの手を引いて足早にその部屋をあとにした。

 

 

 

 

 廊下に響く二人の足音が、やがて遠ざかっていく。

 

 閉ざされた扉の先、静まり返った部屋には、ゼノとシルバだけが取り残された。

 

 しばらく沈黙が落ちる。

 

「あの子か」

 

 シルバが静かに言った。

 

「ああ」

 

 ゼノは頷く。

 

「ヴィクトルも、厄介な時期に外へ出したものじゃな」

「放っておいていいのか」

「ちとばかり、いじらせてもらったわい」

 

 二人の気配が遠ざかった方角へ、ゼノは静かに意識を向ける。

 

「……まあ、すでに手遅れのような気もするがね。あれが何になるのか、みてみるのもよかろう」

 

 ゼノの表情に揺らぎはない。だが、その瞳の奥には、やがて降りかかるであろう激動の予兆が深く沈んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 キルアは振り返ることなく、アズリルの手を力強く引いていた。

 

「もう、出ても大丈夫なの?」

「ああ。親父が許してくれた」

「そう……」

 

「……じいちゃんたちに何かされた?」

「え? ううん。少し、話をしただけだよ」

 

 沈黙が二人の間に流れる。それを破ったのは、唐突な問いだった。

 

「親父から聞いたよ。お前、王子なんだってな」

 

 アズリルの指先がわずかに強張る。だが、隣を歩くキルアの横顔には、特に動揺の色はなかった。アズリルは小さく安堵の息をつく。

 

「うん……」

「へえ、すげえな」

 

 キルアの反応はいたって淡白だった。その硬く小さな手が、迷いのない足取りでアズリルを出口へと導いていく。

 

 その時だった。廊下の前方から二つの影が立ちはだかったのは。キルアの母と、背後に控えるノクトだ。

 

「キル!! 待っていたお友達はもう帰らせたわ。さっさと独房に戻りなさい!」

「いやだ。オレは行くよ」

 

 切実に叫ぶ母の姿に、アズリルの胸が痛んだ。城を出る自分を強引に引き止める父の姿と、重なって見えたからだ。

 

「キルッ!!」

 

 母親がそのままキルアに掴みかかろうとした瞬間──。

 

 キルアは恐ろしいほどの冷徹な眼差しで、女を制した。

「どけよ」

 

 鬼気迫る空気に母親は動きを止め、凍りつく。その隙を突き、キルアはアズリルの手を引き、二人の間を悠々とすり抜けた。

 

 ノクトは母親に一礼だけを残し、二人の後を追った。

 

 彼女はそれを追うことはなかった。

 

 

 

 

 

 キルアは何も知らない。アズリルも同様に。

 自分たちの逃避行が、誰に阻まれることもなく進んでいる理由を。

 

 息子が今この瞬間に外の世界へ飛び出すことも、いずれ自分の足でこの場所へ戻ってくることも、シルバにとっては最初から計算の内だった。

 

 それはかつて、アズリルの兄レオンハルトが辿った道とも重なる。

 

 そのすべてが支配者の掌中にあるなどと、今の二人は露ほども知らない。

 

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