レオリオは大きな欠伸を噛み殺しながら、食堂代わりのリビングへ入ってきた。眠たげな目尻には、うっすらと涙が滲んでいる。
テーブルではクラピカとゴンがすでに朝食を取っていた。ゴンはパンを頬張り、クラピカはコーヒーを片手に新聞へ目を落としている。
「……ん、おはよ」
レオリオは眠気の残る声で言うと、ふらつくように椅子へ腰を下ろした。昨夜、アズリルが部屋を飛び出していったあと、結局ほとんど一睡もできなかったのだ。
「随分眠そうだな」
クラピカは新聞から目を上げずに言う。
「……ああ。ちと、寝つきが悪くてな」
レオリオは気まずそうに視線を逸らした。眠れなかった理由を思い出すと、妙な後ろめたさがこみ上げてきて、どうしても二人の目を直視できない。
「アズリルは?」
「まだ寝ているようだ」
レオリオは部屋の中を軽く見回した。
「……あいつは」
クラピカは視線を落としたまま、静かに窓の外を指さした。
座ったまま身を乗り出して覗き込むと、家のすぐ外にノクトが立っていた。建物に背を向け、背筋を伸ばしたまま、まるで石像のように微動だにしない。
「何してんだ、あいつ」
「見張りだって言ってたよ」
ゴンは口いっぱいにパンを詰め込んだまま答えた。
レオリオは無言でノクトを見つめていたが、ふと部屋の中へ視線を戻した。
昨夜、自分が吹き飛ばされて叩きつけられた食器棚は、きれいに元通り片付けられていた。倒れた棚も、床に散らばっていた破片も跡形もない。
その視線に気づいたのか、クラピカが淡々と言う。
「昨夜、君たちが部屋へ戻ったあとノクトが片付けていた。割れた食器までは元に戻せないからと、あとでゼブロに弁償すると言っていたよ」
「そ、そうか……」
レオリオは複雑な顔で頷き、目の前のコーヒーに手を伸ばした。
その間も、クラピカは相変わらず新聞を見下ろしている。だが──先ほどから同じ箇所を凝視したまま、ページをめくる気配がない。
「昨日のことだが」
その言葉に、レオリオの肩がびくりと跳ねた。
「な、何だよ」
クラピカは黙って新聞を持ち上げ、レオリオの方へ向けた。
「これを見てくれ」
眉をひそめて覗き込む。最初は何のことか分からなかった。だが、記事の見出しと載っている写真を確認した瞬間、顔色が変わった。
「……おい」
気になったゴンも椅子から立ち上がり、後ろから新聞を覗き込む。
「こ、これ……いつの新聞だ」
レオリオの声が、一気に低くなった。
「数か月前のものだ。ここに置かれたままになっていたらしい」
クラピカの表情も、いつになく硬い。
レオリオは新聞に目を落としたまま、しばらく動かなかった。視線は、紙面に載った金髪の青年の姿へ釘づけになっている。
ゴンは二人の間から新聞を覗き込み、写真とレオリオの顔を交互に見比べた。
「昨日言ってたレオンハルトって、この人のことだったの?」
「っ……声がでけえ!」
レオリオは慌ててゴンの口を塞ぎかけた。
クラピカも窓の外を気にしながら、声を潜める。
「私もまさかとは思った。だがこの写真を見ろ。レオンハルト皇太子の後ろに立っている護衛……どう見てもノクトだ」
レオリオはもう一度、写真に目を落とした。
そこには、華やかな式典の場で微笑む美しい青年が写っていた。整った容貌、穏やかな微笑み、堂々とした佇まい。小さな写真からでも伝わる圧倒的な存在感。見出しには『オルドヴィア帝国第一皇子、レオンハルト=オルロフ』の名が躍っている。
そして、その背後に控える黒衣の騎士。
その姿は、今、建物の外に立つ男と紛れもなく同じだった。
「「「…………」」」
三人は思わず、同時に窓の外を見た。
ノクトは相変わらず、背を向けたまま立っている。
「ノクトって……あのオルドヴィアの皇太子の護衛なのか? なんでそんな奴がこんなところに……」
レオリオは掠れた声で呟いた。
だが次の瞬間、はっと目を見開く。額にじわりと冷や汗が浮かんだ。
「待て待て待て! 待てよ……っ!」
小声で、だが猛烈な勢いで捲し立てる。
「アズリルは昨日、ノクトと言い争ってた時、レオンハルトって奴のこと『兄上』って呼んでたよな? そのレオンハルトが、この新聞に載ってる皇太子だとしたら……」
重苦しい沈黙が落ちる。
誰も、その先を口にしようとはしなかった。
けれど、これまで抱いていたいくつもの違和感──ノクトの振る舞いも、アズリルに対する態度も、昨夜交わされていた言葉も、すべてがひとつの答えへとつながっていく。
「……じゃあ、アズリルって」
レオリオはごくりと唾を飲み込んだ。
クラピカは新聞を見つめたまま、低く言い切った。
「レオンハルト皇太子の弟──つまり、オルドヴィア帝国の皇子だ」
重い空気がリビングを支配する。
その静寂を破るように、ゴンがすっと首を傾げた。
「ねえ、オルドヴィアテーコクって何? レオンハルトってやつもそんなに有名なの?」
レオリオとクラピカは、ぎょっとした顔でゴンを振り返った。
次の瞬間、二人は同時に身を乗り出し、怒涛の勢いで口を開いた。
「お前、一体どんな世俗離れした暮らししてたらオルドヴィアを知らずに済むんだよ!?」
「ヨルビアン大陸で最大級の版図を誇る世界屈指の大帝国だ! 歴史、軍事力、資源量、すべてが桁外れだ。長らく徹底した閉国主義を貫いていたが──」
「そうそう! その閉ざされた国が最近急に外交へ乗り出してな! その中心にいるのが、まさにこのレオンハルト皇太子なんだよ!」
「周辺国どころか、ハンター協会やV5の要人すら動向を注視している。世界情勢を左右するレベルの超重要人物だ!」
「しかもこの完璧なルックスだぞ!? 連日ニュースや特集で引っ張りだこで、今や世界中で知らねえ奴はいねえ超有名人なんだよ!!」
怒涛の弾丸トークを終え、二人はぜえぜえと肩を揺らしながら、ゴンを挟み込んで睨み据えた。
「「分かったか!?」」
「う、うん……なんとなく分かった……」
二人の剣幕にすっかり圧倒されたゴンは、頬に汗を伝わせながらコクコクと頷いた。
クラピカは深く息を吐き、ぱたりと新聞を閉じた。
「……ともかくだ」
その声は、一転して重く落ち着いていた。
「このことは絶対に他言無用だ。いいな。もしアズリルが本当に帝国の皇子なら、私たちが軽々しく触れていい問題じゃない。一歩間違えれば、国際問題に発展しかねない」
「ああ……分かってる」
レオリオは固い表情で大きく頷いた。
[newpage]
その日の昼過ぎ、アズリルはようやく目を覚ました。
「……ん」
寝台の上でゆっくりと身じろぎし、アズリルは大きく欠伸をした。目元をこすりながら、ぼんやりと時計へ視線を向ける。
柔らかい蜂蜜色の髪は、寝癖であちこちに跳ねていた。
「……何時」
針が示す時刻を理解しても、慌てる気力は湧かなかった。
アズリルはしばらく寝台の上でぼんやりしてから、のろのろと身体を起こす。ちらりと隣の寝台を見たが、そこにノクトが眠った痕跡はなかった。掛け布も、枕も、使われた様子がない。
昨日、自分が言った言葉を思い出して、胸の奥が小さく痛んだ。
アズリルは寝台から下りると、窓辺へ向かった。
三階にある部屋の窓から庭を見下ろすと、ゴンたちはちょうど昼の訓練を終えるところらしい。レオリオは上半身に汗を光らせながら、二百キロ以上はありそうな重りを背負い、最後の坂道を駆け上がっていた。
「……元気そうだ」
小さく呟いて、アズリルはほっと息を吐く。
その時、窓の下に、見覚えのある立ち姿が見えた。窓から身を乗り出して真下を覗くと、家の壁を背にノクトが立っていた。
昨夜から、ずっとそこにいたのだろうか。
胸に浮かんだ罪悪感を振り払うように、アズリルは首をぶんぶんと振った。レオリオにあんなことをしたのだ。一晩くらい外にいたって、ノクトなら平気だ。そう思うことにして、アズリルは窓から離れた。
身支度を整えて下へ降りると、ちょうどレオリオたちが息を切らしながら家へ戻ってきたところだった。
「あ……アズリル。起きたのか」
レオリオは一瞬だけ気まずそうにしたが、すぐにいつもの調子で笑った。
「茶でも飲むか。あ、朝飯の残りもあるぜ」
そう言いながら、レオリオはばたばたとテーブルへ向かい、アズリルの前にパンやら茶やらを並べ始める。
「……ありがとう」
アズリルは困惑しながらも、差し出されたパンを手に取った。
「特訓……どうだった?」
「ああ、順調だ。かなりきついが、ゼブロはよく考えた訓練メニューを組んでくれている」
クラピカは普段と変わらない声で答えた。けれど、最後まで目は合わなかった。
部屋に、妙な沈黙が落ちる。
アズリルはパンを口に運びながら、そっと顔を上げた。
レオリオも、クラピカも、いつもと同じように振る舞っている。けれど、会話の間が少しだけずれていた。ゴンでさえ、落ち着かない様子で水を飲んでいる。
結局、アズリルは何も言えないまま視線を落とし、冷めたパンを黙って噛んだ。
味は、ほとんどしなかった。
[newpage]
それから、さらに数日が経ち、レオリオはついに一人で一の門を開けられるようになった。
「わあ、すごいやレオリオ!」
ゴンは大はしゃぎで飛び跳ねている。
「いやはや、驚いた。まさか二週間ほどでここまで来るとは」
ゼブロは感心したように頷いた。
その輪の少し外に立ちながら、アズリルはふと視線を動かした。
ノクトは相変わらず、離れた場所から一行を見ていた。
あの日以来、ノクトはアズリルに話しかけることも、近寄ることもしなかった。以前のように同じ寝室にいることもなく、夜をどこで過ごしているのかさえ、アズリルには分からない。
けれど、変わったのはノクトだけではない。
レオリオたち三人も、どこかよそよそしかった。
クラピカは何かを考え込んでいることが増え、レオリオは以前よりもずっと気を遣ってくるようになった。ゴンでさえ、いつものように話しかけてくるものの、ふとした瞬間に何かを言いかけて、途中でやめることがある。
優しいのは変わらない。けれど、その優しさの中に、前にはなかった遠慮が混じっている。
何もしないでいると、その距離ばかりが気になった。本を開いても文字は頭に入らず、部屋の中で一人で時間を潰していても、皆が外で訓練している気配ばかりを追ってしまう。
正直に言えば、アズリルは昔から、こういう訓練がひどく苦手だった。
息が切れることも、身体が痛むことも、もう無理だと思ってからさらに足を動かさなければならないことも嫌いだった。自分が皆と同じようにできるはずがないとも、思っていた。
それでも、何もしないまま置いていかれる方がずっと怖かった。
だからアズリルは、最近になって、少しずつ特訓に加わるようになっていた。その日も五十キロの重りを背負い、皆の後を追うように坂道を上っていた。
前方では、レオリオ、クラピカ、ゴンが自分よりはるかに重い荷を背負って歩いている。三人の足取りも決して軽くはなかったが、それでもアズリルとは明らかに速さが違い、気づけば少しずつ距離が開いていた。
息が上がるたび、重りが肩に食い込む痛みがじわじわと増していく。足元は頼りなく、気を抜けばそのまま坂道に膝をついてしまいそうだったが、それでもアズリルは何も言わず、ただ足元だけを見て歩き続けた。
レオリオが何度も後ろを振り返っていることには気づいていた。けれど、顔を上げれば、もう無理だと見抜かれてしまいそうで、アズリルは気づかないふりをした。
やがて、レオリオが足を止めた。
しばらく迷った末、レオリオは見かねたようにアズリルのもとへ戻ってきた。
「そんなに無理して、怪我が悪化したらどうすんだよ」
「でも……」
「でもじゃねえ。お前、さっきから顔色悪いし、足元だってふらついてんだろ」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃねえよ。腕だってまだ治ってねえんだぞ」
「気にしないで先に行ってて。僕も、出来るところまでやってみたいんだ」
レオリオは困ったように眉を寄せた。
心配しているだけのはずだった。けれど焦れば焦るほど、口から出る言葉はきつくなる。
「そこまでして、俺たちに合わせることねえだろ」
その言葉に、アズリルの足が止まった。
「……俺たち?」
小さく繰り返した声は、思ったより冷えていた。
「僕は、そこに入ってないんだ」
レオリオはそこでようやく、自分が何を言ったのかに気づいた。
けれど、一度口にしたものはもう戻らない。
「いや、その……違う。そういう意味じゃなくてな。ただ、ほら、お前にはそういう……立場とかもあるだろ。俺たちと同じつもりでいたら、まずいっていうか」
言い訳を重ねるほど、言葉は悪い方へ転がっていく。
立場。
その一言で、ここ数日の距離が何だったのか分かってしまった。
「そういうことね。……分かった」
小さく呟くと、アズリルは重りを外した。
どさり、と重い音を立てて、それが地面に落ちる。
「あ、アズリル?」
「疲れたから、先に戻ってるね」
「おい、待てって」
様子がおかしいことに気づいたクラピカとゴンも、先の方から戻ってきていた。
「どうしたんだ」
「いや、先に戻るって……おい、アズリル!」
けれどアズリルは振り返らなかった。
そのまま、使用人の家がある方へ向かって坂を下り始める。
三人は、何も言えないままその背中を見送るしかなかった。
家へ戻る途中、ノクトとすれ違った。
おそらく、離れたところからずっとついてきていたのだろう。
「アズレイ様、どうかされましたか」
通り過ぎざまに、ノクトが静かに尋ねる。
アズリルは答えず、ただ視線を落としたまま家へと歩を進めた。
ノクトもまた、一定の距離を保ったまま、ゆっくりと後を追ってくる。
家の前まで来ると、アズリルは扉の前で足を止めた。
背後のノクトを拒むように、無言で扉に右手を当て、ぐっと押した。
けれど、びくともしない。
……そうだった。
この家の扉は、片側だけで二百キロもある。
もう一度、力を込めた。右腕が震え、足を踏ん張っても、扉はほんの少しも動かない。
惨めだった。
自分の力では、家の中に入ることすらできない。けれどそれ以上に、このままノクトに扉を開けてもらえば、また同じ形に戻ってしまう気がした。
王子と騎士。
結局、自分はそこへ戻される。
ぽたり、と地面に水滴が落ちた。乾いた土の色が、そこだけ濃く変わっていく。
「アズレイ様」
ノクトの声が近づいた。
「どこか痛むのですか。腕ですか。扉は私が開けます。どうか、無理をなさらないでください」
その言葉で、なぜか涙がさらに溢れた。
アズリルは声にならない息を漏らし、扉に手をついたまま、肩を震わせる。
「アズレイ様、失礼します」
無理に扉を押し続けるアズリルの右肩にそっと手を添え、慎重に扉から引き離そうとした。
その瞬間だった。
アズリルは振り向きざま、ノクトの胸に額を押しつける。
どん、と軽い衝撃が伝わった。
アズリルはそのまま縋るように、ノクトの上着を掴んだ。
声を殺す余裕もなく、泣き出す。
ノクトの胸元が、こぼれ続ける涙で少しずつ温かく濡れていった。
「僕はただ……友達と一緒に、普通に……遊んで、旅をしたいだけなんだ……っ」
途切れ途切れにこぼれた言葉に、ノクトの目元がわずかに揺れた。
アズリルはしゃくり上げながら、上着の胸元を強く握りしめている。指先が白くなるほど力を込められても、ノクトは何も言わなかった。
両手をアズリルの背の近くに浮かせたまま、触れるべきか、触れずにいるべきか決めかねている。
結局、その身体を抱きしめることはしなかった。
ただ、胸に縋りつく小さな身体を拒まず、泣き止むまでそこに立ち続けた。
そして、少し離れた坂道の上では、心配になって後を追ってきたレオリオがその光景を前に足を止めていた。
[newpage]
ようやく落ち着いたころ、アズリルは結局、ノクトに扉を開けてもらって自分の寝室へ戻っていた。
先ほど無理に力を入れたせいで、左腕に巻いていた包帯が崩れている。
アズリルは寝台の端に腰かけ、ノクトはその前に片膝をついて、黙々と包帯を直していた。
一度すべてほどかれた包帯の下から、左手首に巻かれた細い革紐が顔を出す。
アズリルは一瞬だけそれに目を留めた。それから、丁寧に包帯を巻き直していくノクトの手元を見下ろしながら、ぽつりと尋ねる。
「夜は……どうしてるの」
「……クラピカ殿のご厚意で、ゼブロ殿から空き部屋をお借りしております」
ノクトは静かに答えた。
「アズレイ様のご命令に背く形になってしまったこと、申し訳ございません。ご不快であれば、すぐに部屋を引き払い、外で──」
「いい」
アズリルは短く遮った。
「いいよ。……すまなかった」
包帯を巻く指先が一瞬止まる。だがノクトは顔を上げず、作業を続けた。
その完璧な線引きが、無性に寂しかった。
「……部屋、戻ってきてよ」
包帯の端を押さえていた指先だけが、わずかに反応した。
「一人だと、広すぎるし……寂しい」
「できません、アズレイ様」
すぐに返ってきた声は、静かだった。
「な、なんで」
「私は一介の臣下です。王子と同じ部屋で寝泊まりすることはできません。ご希望でしたら、部屋の前で待機いたします」
「な……ついこの間まで、ずっと一緒に寝てたじゃないか」
「それは、私がレオンハルト様の代わりを務めていたためです」
ノクトは目を伏せたまま言った。
「私が距離感を誤り、度を越した振る舞いをしておりました。不徳の致すところです」
アズリルは深く息を吐いた。
──だが、そのノクトの言葉で、不意に気づいてしまった。
そうだ。あの十日間、すぐ側で自分を抱きしめていてくれたのは──兄の姿をした、ノクトだったのだ。
はっと息を呑む。
ノクトの顔が見たい。
本当に今、目の前にいるのが彼なのだと確かめるように、アズリルは男の肩へ、そっと右手を置いた。
そこで初めて、ノクトが手元から目を離した。
顔を上げ、アズリルを静かに見つめる。
その瞬間、胸がどきりと跳ねた。
ここ数週間、ずっと一緒にいたはずだった。けれど自分はこれまで、この人をノクト自身として、きちんと見たことが一度もなかった。
そう気づくと、彼と過ごしてきた時間が、急に惜しく思えた。
「……別に、僕がいいって言ってるんだからいいよ」
アズリルは気まずさを隠すように、そっと目を逸らした。
「ここで寝なよ」
「できません」
「どうして」
「レオンハルト様が許しません」
「大丈夫だよ。ノクトだし、兄上も気にしないよ」
「アズレイ様」
ノクトは本当に困ったように眉を下げた。
「……困ります」
そう言うと、彼は急いで包帯の端を留め、立ち上がった。
一歩下がると、いつものように深く頭を下げる。
「また何かありましたら、お声をおかけください」
相変わらずそっけない態度に、アズリルは思わず口を尖らせた。
ノクトが静かに背を向け、部屋を出ようとした──その直前。
また自分から距離を置こうとするその背中に、アズリルは意地を張るように、少し棘のある声を投げた。
「まだ……レオリオにしたこと、許したわけじゃないからね」
「はい。重々承知しております」
言ったそばから、アズリルは後悔した。
けれど、どれほど棘のある言葉を向けても、ノクトの表情は少しも揺らがない。何も届いていないような、その崩れない態度が、無性に寂しかった。
ノクトがドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開ける──。
──そのすぐ先には、腕を組んで壁に寄りかかっていたレオリオが立っていた。
引く気はないとでもいうように、ノクトをまっすぐ見据えている。
「入らせてもらうぞ」
一瞬だけ緊張が走る。だがノクトは何も言わず、すっと身を引いた。
「どうぞ」
拒まれると思っていたのか、レオリオは拍子抜けしたような顔をした。それでもすぐに表情を引き締め、ノクトの横を通り抜ける。
そして、何のためらいもなく寝台の方へ歩いてくると、どすん、とアズリルの横に腰を下ろした。
ノクトはちらりとその様子を見て、ただ丁寧に頭を下げて、扉を閉める。
「れ、レオリオ……?」
いつもなら、近づくだけでどこか気まずそうにする男が、今はあまりにも堂々としていた。迷いも遠慮もなく、当然のように隣に座っている。
レオリオは一度、深く息を吸った。
「アズリル」
「……うん」
「すまなかった!」
突然頭を深く下げられて、アズリルはぽかんとした。
「さっき言ったこと、俺が悪かった。あんな言い方、するべきじゃなかった。いや、そもそも俺が勝手にビビって、勝手に距離を取ってただけだ」
レオリオは顔を上げると、照れくさそうにゴシゴシと頭をかいた。
「実は、ノクトとの騒動のあと、クラピカたちと話しててさ。お前、もしかして……オルドヴィアの王子様、なのか? ええと、アズレイ王子、って」
アズリルの肩が、かすかに強張る。
その反応だけで、レオリオには十分だった。けれど、それ以上確かめるつもりはなかった。今ここで大事なのは、アズリルの口から身分を認めさせることではない。
「正直、ど肝抜かれた。俺がずっと普通に話してた相手が、そんなとんでもねえ立場のやつかもしれないなんて、思わねえだろ。ビビったし、どう接すりゃいいのか分かんなくなった」
レオリオはそこで一度言葉を切り、今度こそ逃げることなく、アズリルの顔をまっすぐに見た。
「でもさっき、お前が泣いてるのを見たら、そんなの全部どうでもよくなった。俺にとってはさ。お前はやっぱり、アズリルなんだよ」
照れを隠すように息を吐くと、そのまま言葉を続けた。
「一緒に試験を越えてきた仲間で、同じ飯食って、くだらねえこと喋って、怪我したら心配する。友達……だろ。それなのに俺は、さっき、お前をそういうふうに扱えなかった」
レオリオは最後まで、視線を逸らさなかった。
「突き放したみたいになった。本当に、悪かった」
アズリルは言葉もなく、その顔を見つめていた。
いつものように笑って誤魔化すこともなく、真正面から向き合うレオリオのまっすぐな眼差しに、心臓が少しずつ速くなっていく。
ここ数日、胸の奥で膨らみ続けていたその不安を、アズリルは誰にも打ち明けられずにいた。それなのにレオリオは、何も聞かずともその痛みに気づき、自分からここまで来てくれた。身分も名前も関係なく、お前はお前だと、真正面から告げてくれた。
その言葉に触れた途端、ずっと胸を塞いでいた重苦しいものが、音もなく解けていく。代わりに、熱いものがじわじわと胸の奥へ広がっていった。
「……レオリオ」
呼んだ声が震えた。
次の瞬間、涙がこぼれた。
「え、お、おい! なんで泣くんだよ!?」
レオリオが慌てて腰を浮かせる。
けれどアズリルは、返事の代わりにその胸へ飛びついた。
「ありがとう」
ぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう、レオリオ」
レオリオは真っ赤になったまま固まっていたが、やがて困ったように笑って、ぽんぽんとアズリルの背を叩いた。
その時、扉の方から静かな声がした。
「私たちのことも、忘れないでほしいな」
アズリルが顔を上げると、いつの間にか扉が少し開いていた。
そこにはクラピカとゴンが立っていた。二人とも、どこか申し訳なさそうな顔をしている。
クラピカは一度レオリオに視線を向けてから、静かに部屋へ入ってきた。そして、アズリルの前で足を止める。
「アズリル。私からも謝らせてほしい」
「クラピカ……?」
「君は前に、自分のことをまだ話したくないと相談してくれていた。それなのに、私たちは知ってしまった途端、勝手に身構えてしまった。君の立場を守らなければと考えるあまり、君自身を見ることを少し忘れていたのだと思う」
クラピカは静かに頭を下げた。
「すまない。君は君のままなのに、私たちの態度で傷つけた」
「俺も」
ゴンがクラピカの横から一歩前に出た。
「なんか、ちょっと変だったかも。ごめんね、アズリル」
「ゴンに関しては、私が余計なことを言わないよう口止めしていた。彼だけが悪いわけではない」
「でも、俺も変だった」
ゴンはまっすぐにアズリルを見た。
「だから、ごめん」
アズリルは、しばらく何も言えなかった。
レオリオはすぐ隣にいる。クラピカも、ゴンも、自分の方を見ている。
胸がいっぱいで、うまく息ができない。
「……これからも」
ようやく絞り出した声は、まだ少し涙に濡れていた。
「これからも、友達でいてくれる?」
クラピカが穏やかに頷く。
「ああ。もちろんだ」
「当たり前だろ」
レオリオが照れくさそうに笑い、アズリルの頭をわしわしと撫でた。
ゴンも笑って、勢いよくアズリルに飛びついた。
「わっ」
アズリルはよろけたが、レオリオが慌てて支えた。クラピカが苦笑しながら近づき、そっとその肩に手を添える。
アズリルは泣きながら笑った。
さっきまで胸の奥に詰まっていたものが、少しずつほどけていく気がした。
部屋の外で、ノクトは閉めきられていない扉の隙間からその声を聞いていた。
アズリルが笑っている。
それは、喜ばしいことのはずだった。
それなのに、胸の奥に、かすかな重さだけが残る。
ノクトはその重さに気づかないふりをするように目を伏せ、音を立てないよう、そっと扉を閉めた。