HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

22 / 27
お別れ回です。
これ以降、場面も登場人物も変わっていきます。
アズリルも、ようやく成長していく予定です。


それぞれの別れ、それぞれの沈黙

 迷いのない足取りでアズリルの手を引くキルアの表情は、いつも通り悠然としたものに見えた。けれど、繋いだ手のひらだけは、まるで迷子になった子供を導くように、優しく握られたままだった。

 

 ふと横顔を見ると、頬や腕に、まだ生々しい傷跡が残っている。

 

 さっき、あの部屋で受けていたものだ。

 

 これまで、どれほどの痛みに耐えてきたのだろうと思うと、アズリルは思わず繋いだ手をぎゅっと握った。

 

 キルアはちらりとこちらを見ると、その手をさらに強く握り返した。

 

「……来てくれて嬉しかったぜ」

「え?」

 

 不意に落とされた言葉に、アズリルはパチクリと目を丸くした。

 

「まさか屋敷まで迎えに来るとは思わなかったけどな」

 キルアは、どこか照れくさそうに柔らかく笑った。

 

「あ、ううん……そこはちょっと、成り行きで……」

 アズリルは慌てて視線を泳がせる。

 

「じいちゃんたちのこと信頼しすぎるなよ」

 

 キルアは歩調を緩めることなく、まっすぐこちらを見つめていた。

 

「あいつら、結局利用できるかでしか考えねーからさ」

 

 アズリルはしばらく何も言えなかった。

 キルアの言葉はあまりに冷たかったが、同時に、自分のよく知る世界の匂いがしたからだ。

 

「……そういうのには慣れてるよ」

 

 アズリルは視線を落とし、自嘲気味に微笑んだ。

 

「城に来る人の大半は、僕たちから何かが欲しい人たちばかりだからね」

 

 きつく握られた指先から、アズリルの小さな諦めと、それでも抗いながら生きてきた強さが伝わってくる気がした。

 

 キルアはしばらくその横顔を見て、ふいっと前を向く。

 

「そういや」

 

 顎で小さく、後ろを歩く男を指した。

 

「こいつ誰?」

 

 アズリルは背後のノクトをちらりと振り返った。

 彼は相変わらず冷めた表情のまま、ただ静かについてきている。

 

「僕の……その、護衛をしてくれている人、かな」

 

 ノクトは深く頭を下げた。

 

「ノクトと申します」

 

 キルアは軽く眉をひそめ、品定めするようにノクトを見た。

 

「へえ。ゴトーみたいなやつか」

「ゴトーって?」

 

 アズリルが聞き返すと、キルアは「着いたら分かるぜ」とだけ言って、歩き続ける。

 

 

 

 やがて、木々の向こうに巨大な建物が見えてきた。使用人たちの宿舎とは比べものにならないほど立派な建物だった。扉の前には、黒装束の執事たちが整然と並んでいる。

 中に案内されると、外観に違わぬ豪奢な空間が広がっていた。執事の住まいでさえ、この規模なのだ。ゾルディック家という存在の大きさが、そこにははっきりと表れていた。

 

 その時、キルアがようやく繋いでいた手を離した。

 

「ゴーン!」

 

 キルアが弾んだ声を上げ、そのまま廊下の奥へ駆けていく。アズリルは離された自分の掌をしばし見つめてから、慌てて背中を追った。

 

 広い居間に足を踏み入れると、そこにはゴン、クラピカ、レオリオがいた。中央のソファに座り、数名の執事に囲まれている。どこか緊迫した空気は残っているが、部屋全体には再会を喜ぶ活気が満ちていた。

 

「よっ」

「キルア!」

 

 ゴンが顔を輝かせて立ち上がる。

 

「久しぶり! よく来たな。……つーか、ひでー顔」

「キルアこそ!」

 

 すぐにレオリオとクラピカもアズリルに気づき、駆け寄ってきた。

 

 二人の顔を見た途端、張り詰めていたものがぷつりと切れた。

 

 アズリルは、たまらず二人に飛びついた。

 

 離れていた時間は、ほんのわずかだったはずだ。

 それでも、あの不気味な屋敷の中で、底の知れない大人たちに囲まれていた緊張が、二人の顔を見た途端、一気にほどけてしまった。

 

「レオリオ、クラピカ!」

 

 震える声で名前を呼び、二人にしがみつく。

 

 レオリオは一瞬面食らったように目を見開いたが、すぐにアズリルの背中を支えた。

 

「お、おい。大丈夫かよ」

 

 クラピカも驚いた顔をしたが、すぐにその肩へ手を置く。

 

「怪我はないな?」

「うん。話をしてただけ」

 

 そう答えるアズリルの言葉に嘘がないか確かめるように、レオリオは頭のてっぺんから足先までじっくりと視線を走らせる。

 

 クラピカも表情こそいつもの落ち着きを取り戻していたが、その瞳の奥には、隠しきれない安堵がはっきりと浮かんでいた。

 

 アズリルはふと視線を感じて顔を上げた。

 

 部屋の隅に、黒づくめの執事が一人、静かに立っている。丁寧な物腰の中にも、決して踏み込ませない芯の強さを感じる。

 

(あの人が、キルアの言っていたゴトーだろうか……)

 

 アズリルは、背後に控える己の護衛へと視線を巡らせる。

 他者との距離の取り方や、主人に対する一歩引いた遠慮の滲む気配は、確かにノクトとよく似ていた。けれど、その口元に張り付いたような、どこか無機質な笑みだけは、ノクトのそれとは決定的に違っている。

 

 ゴトーはすっと視線を動かし、アズリルの後ろに立つノクトを見やった。

 

 互いに名乗ることもないまま、二人は以前から知る者同士のように、一礼を交わした。

 

「よし。じゃ、さっさと出発しようぜ」

 

 キルアが、いつも通りの軽い調子でみんなを促す。

 

「どこでもいいからさ。ここにいると、おふくろがうるせーし」

「うん!」

 ゴンが嬉しそうに勢いよく頷いた。

 キルアはくるりと執事たちの方へ振り返る。

 

「じゃーな。あ、ゴトー。おふくろに何言われても、ついてくんなよ」

 

 ゴトーは深々と一礼する。

 

「承知いたしました。いってらっしゃいませ、キルア様」

 

「ゴトーさん、キルアがいなくなったら寂しくなるね」

 

 ゴンが首を傾げると、ゴトーは表情を一つも変えずに答える。

 

「いいえ。我々執事は、雇用主に対して特別な感情を持ち合わせておりませんので」

 

 その言葉は、思いがけないほど鋭くアズリルの胸を刺した。

 どうしてこれほど胸が痛むのか。アズリルは隣のノクトを仰ぐが、その横顔はいつも通り静寂に包まれている。

 

「うそつき」

 

 ゴンが子どもっぽく舌を出す。

 

「……キルア様を、よろしくお願いいたします」

 

 ゴトーの声に微かに含まれた個人的な寂しさや情を、アズリルに読み取ることはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 こうしてゾルディック家の領地を後にし、山の麓まで戻ってきた一同だったが、そこにはどこか落ち着かない空気が漂っていた。

 

 アズリルは、いつになく焦った様子でノクトに何かを必死に訴えかけている。ノクトは表情を変えないまま、ただ深く頭を下げてそれを受け止めていた。

 

 その光景を、クラピカとレオリオは少し離れた場所から見守っていた。

 

「……なんて言う?」

「あれは、絶対泣くぞ」

 

 レオリオが渋い顔で呟く。

 

「別に俺は、一緒に連れてってやってもいいんだがな」

「甘やかすな。アズリルには、ネテロ会長との約束があるだろ」

「けどよ」

「それを果たさない限り、あの子はハンターライセンスを受け取れない」

 

 クラピカに諭され、レオリオは唇を噛んだ。

 

 その時だった。

 

「おおおお! お久しぶりですぞ!! お元気そうで何よりです!!」

 

 腹の底に響くような大声に一同が振り返ると、大柄な男が豪快な笑みを浮かべてこちらへ歩いてくる。

 

 その背後から、若い青年が小走りで続く。

「が、ガレス隊長、待ってください……!」

 

 その姿を見た瞬間、アズリルは弾かれたように駆け出した。

 

「ガレス……っ!」

 

 そのまま、大柄な男の広い胸元へ飛び込む。

 

「おおっと!」

 

 ガレスは豪快に笑いながらも、体勢を崩すことはなかった。背筋を伸ばしたまま、しっかりと主君を受け止める。

 

 けれど、その腕がアズリルの背に回ることはない。そこには親しみも情もありながら、決して踏み越えない線があった。

 

 一方、レオリオたちは、突然現れた大男の気配に完全に呑まれていた。

 

 ただ身体が大きいだけではない。

 

 一歩間違えれば押し潰されそうなほどの圧と、幾度も修羅場をくぐってきた者だけがまとう凄みがある。キルアやクラピカでさえ、その尋常ではない気配に一瞬、警戒の目を向けた。

 

「……な、なんだあ? あの大男……とんでもねぇ気配だぞ……」

 

 レオリオが冷や汗を浮かべながら呟く。

 

 ガレスとノクトは短く視線を交わした。

 

 やがてアズリルはゆっくりとガレスの胸元から離れ、ゴンたちの方へ体を向けた。

 

「この人たちは、ガレスとマルク。試験場まで送ってくれたんだ」

 

 そう言って、アズリルは再びガレスたちへと視線を移した。

「こっちがゴンで、隣がキルア。この綺麗な人がクラピカ。それから、こっちがレオリオ」

 

 紹介された四人は、それぞれ軽く挨拶を返した。

 

 クラピカは「綺麗な人」と言われたことに一瞬だけ複雑そうな顔をしたが、すぐに礼儀正しく頷く。

 

 ガレスもまた、四人へ向かって恭しく一礼した。

 

「我が主が、皆様には大変お世話になったと伺っております」

 

「いやいや、とんでもない」

「こちらこそ、アズリルには助けられた」

「うん。友達だしね」

「ま、手はかかるけどな」

 

 四人はそれぞれ照れくさそうに返した。

 

 やがて、ガレスはアズリルに向き直り、重々しく口を開く。

 

「ここから先は、我々が援護いたします。ノクト殿は所用のため、これより一度戻らねばなりません」

 

「ノクト、帰っちゃうんだ」

 

 ゴンの言葉に、アズリルはむっと眉を寄せた。

 

「……まだ、納得したわけじゃないから」

 そう小さく反論して、ノクトの方を見る。

 

「はい。しばらくお側を離れさせていただきます」

 

「そうか……それは、アズリルも寂しいな」

 クラピカが、アズリルのこわばった横顔をそっと労わるような声音で言った。

 

 しばしの沈黙が落ちた。

 

 レオリオとクラピカは顔を見合わせる。ほんの一瞬だけ迷うような間があって、それから、二人は意を決したように頷いた。

 

「アズリル」

 

 レオリオの呼びかけに、アズリルの肩が小さく揺れる。

 

「ここで、いったんお別れになる」

 

 アズリルはすぐには返事をしなかった。

 ただ、ぎゅっと唇を噛み締め、ゆっくりと視線を足元へと落とす。

 

 レオリオは困ったように頭を掻きながらも、逃げずに続ける。

 

「オレは一度、故郷に帰る。医者になるために、国立の医大を目指すよ」

 

「私は、本格的にハンターとして動くつもりだ」

 

 クラピカも口を開いた。

 

「まずは雇い主を探す」

 

 淡々とした声音だった。けれど、その言葉を選ぶ横顔には、アズリルを突き放そうとしているわけではないことが滲んでいた。

 

「だから、ここからは少しだけ別行動だ」

 

 レオリオはそう言って、できるだけ明るい雰囲気にしようと、いつものようにニカッと笑ってみせた。

 

「永遠の別れってわけじゃねぇよ。また会える。つーか、会うに決まってんだろ。落ち着いたら、また合流しようぜ」

 

 アズリルは下を向いたまま、必死に込み上げるものをこらえていた。

 やがて深く息を吸い、顔を上げる。

 

「……分かった。また会えるなら、僕も頑張る」

 

 その目は涙で揺れていた。

 

 それでもアズリルは、泣きそうな顔で、懸命に笑おうとしていた。

 

 そのいじらしい姿に、レオリオとクラピカは申し訳なさそうに微笑む。

 

 すると、ゴンが大きな笑顔で駆け寄ってきた。背伸びをして、いつかアズリルが自分にしたように、その頭をよしよしと撫でる。

 

「大丈夫。またすぐ一緒になれるよ」

 

 ゴンの声を聞いた途端、とうとうアズリルの目から涙がこぼれ落ちた。

 

「ありがとう、みんな……っ。大好き、本当に大好き。だから、離れていても……僕は、ちゃんと大丈夫だから……!」

 

 まっすぐな言葉に、ゴンたちは一瞬、言葉を失った。

 

 それから、照れくさそうに笑って、それぞれアズリルのそばへ寄る。レオリオは乱暴に頭を撫で、クラピカはそっと肩に手を置いた。

 

「泣くなよ。また会うって言ってるだろ」

 

 キルアは少し離れた場所で、腕を頭の後ろに組んでいた。

 

「なんだよ。すげー甘やかされてんじゃん」

 

 呆れたように言いながら近づくと、乱暴な手つきでアズリルの背中を叩く。

 

「ま、頑張れよ」

 

 その様子を、ガレスは背筋を伸ばしたまま見守っていた。

 

 愛されておられる。

 

 そして、堪えておられる。

 

 かつてなら泣いて縋ったであろう少年が、今は別れを正面から受け止めようとしている。

 

 その姿に、ガレスは胸の内で静かに頷いた。

 

 成長なされた。

 

 

 涙をぬぐうアズリルを見て、クラピカが優しく声をかけた。

 

「アズリル。離れても連絡が取れるように、連絡先を交換しておかないか」

 

「あ……でも僕、携帯持ってないんだ」

 

 アズリルが困ったように言うと、ゴンとキルアも顔を見合わせた。

 

「実は俺たちも持ってないんだよね」

 

 キルアが軽く肩をすくめる。

 

「なら、私の番号を渡しておこう。ガレス殿、控えていただけますか」

「おう、俺のも頼む」

 

 マルクがすかさず手帳を取り出し、クラピカとレオリオの連絡先を書き留める。

 

「何かあったらそこに連絡しろよ」

 

 レオリオが言うと、アズリルは嬉しそうに頷いた。

 

「ありがとう。……じゃあ、僕の代わりにガレスの連絡先を渡しておくね。僕に連絡したい時は、ガレスに繋げて」

 

 マルクは今度はガレスの連絡先を記したメモを、四人に手渡した。

 

「ありがとう! これなら俺たちからでも連絡できるね!」

 

 ゴンが嬉しそうに受け取り、キルアも「一応持っとくわ」と言って、ポケットにしまう。

 

 ガレスは四人へ向かって、恭しく一礼した。

 

「万が一の際や、私どもでお力になれることがあれば、いつでもこちらへ」

「ああ、わざわざすまねえな」

 

 レオリオが笑って応じ、クラピカも丁重にメモをしまった。

 

 やがて、アズリルは今度こそゴンたちから一歩離れた。

 

「またね!」

 その声は、泣いたあととは思えないほど明るかった。

 

 何度も、何度も振り返りながら、アズリルはちぎれるほどに手を振り続ける。

 

 ガレス、マルク、そしてノクトは、そんな主君の歩調に寄り添うように、その背中を包み込んで歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 アズリルの背中が遠ざかるのを見送りながら、レオリオがぽつりと言った。

「本当に、あのことは言わないままでよかったのか」

「……ああ」

 

 クラピカは短く答えたきり、視線を落とした。その様子に、キルアが小首を傾げて尋ねる。

「あのこと?」

「九月一日。ヨークシンシティの件だ」

 

 クラピカはすでに、レオリオたちには話していた。

 最終試験のあと、クラピカはヒソカから幻影旅団について知っていると告げられ、九月一日にヨークシンシティに向かうことになったこと。

 そして、その日その場所に、アズリルだけを除いた「四人」で再び落ち合う約束を交わしていたこと。

 

「あいつには言ってなかったんだ」

「ねえ、なんで?」

 ゴンの声には責めるような響きがあった。「隠し事するの、嫌だったんだけど」

 

「それについては、すまないと思っている」

 クラピカは素直に頭を下げた。

 

「あいつ、そういうの一番傷つくだろ」

 キルアの言葉に、レオリオが低く唸る。

「……これに関しちゃ、俺はクラピカと同意見だ。アズリルに話したら、あいつは来る。友達のためなら、無茶をしてでも来るだろ」

 

 クラピカは静かに言う。

 

「ヨークシンには、幻影旅団が現れる可能性が高い。そこにアズリルが来てしまうことだけは避けたかった」

 

 目的のためなら手段を選ばない連中だ。

 

 アズリルの身分が知られれば、交渉の道具にも、人質にもされかねない。

 

 そんな血生臭い街に、大切な友人を連れて行くわけにはいかなかった。

 

「それに、オルドヴィアと旅団には因縁がある」

 

 レオリオが苦い顔で言葉を継ぐ。

 

「オルロフ家の王子がのこのこ出ていったら……」

「真っ先に狙われるだろうな」

 

 

 クラピカの冷徹とも言えるほど冷静な言葉に、ゴンは言葉を失い、ただ拳を強く強く握りしめた。アズリルを守りたい気持ちはみんな同じなのに、一緒に行けない現実がもどかしくてたまらないのだ。

 

 クラピカは自らに言い聞かせるように呟いた。

「これは私の問題だ。あの子を巻き込みたくない」

 

 クルタ族のこと。緋の眼のこと。そして、同胞の仇として幻影旅団を追っていること。

 それをアズリルに打ち明けることは、結局最後までできなかった。

 

 静寂が四人を包む。

 

「じゃあ、今度会ったらちゃんと話そう」

 ゴンが呟くと、クラピカは小さく目を細めた。

「そうだな。その時は、ちゃんと怒られよう」

 

 レオリオが頷き、キルアが鼻で笑う。

「ぜってー泣きながら怒るだろ、あいつ」

 

 次に会うとき、真実を告げたとき、あの子はどう受け止めるのか。

 四人はそれぞれの覚悟を抱え、すでに姿も見えなくなった友の往く道の先を、いつまでも黙って見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 ゴンたちと別れて、アズリルたちがしばらく歩いていた時のことだ。

 先ほどまでの焦燥とは違う、どこか重苦しい沈黙が、主従の間に満ちていた。

 

「ノクト殿」

 

 ガレスの呼びかけに、ノクトが静かに足を止めた。

 振り返ったノクトを見据えるガレスの顔に、いつもの豪快な笑みはなかった。

 

「……もう行くの?」

 

 アズリルがおずおずと尋ねると、ノクトはすぐに主君の方へと向き直った。

「はい。これより一度、城へ戻ります」

「兄上に何かあったの?」

 

 何気なく、けれど胸を騒がせる予感に突き動かされて聞いた質問だった。

 ──その瞬間、後ろに控えていたマルクの肩がぴくりと跳ねる。

 

 アズリルはその微かな動揺を見逃さなかったが、ノクトは至って冷静に言葉を継いだ。

 

「いえ。少々、急ぎの用件を仰せつかっただけです」

 

 それでも、アズリルの胸のざわつきは収まらない。そんな若き主君の不安を敏感に察したのだろう。ノクトは、優しく言い聞かせるように言葉を重ねた。

 

「レオンハルト様はご無事です」

 

「……本当?」

 すがるようなアズリルの問いに、ノクトは深く、静かに頷いてみせる。

「はい。アズリル様のご無事を、何より案じておられます」

 

 アズリルは張り詰めていた肩の力を少しだけ抜き、表情を緩めた。

 

「……わかった」

 

 ノクトは一歩近づく。

 

 だが、近づいたのはそこまでだった。

 

「ここから先は、ガレス殿とマルク殿が必ずお守りいたします」

「……また会える?」

「可能な限り、早くお戻りいたします」

 

 それは、確実な期限のない曖昧な返事だった。

 

 アズリルはしばらく黙ってその言葉を胸に落とし込んでいたが、やがて小さく頷いた。

 

「……じゃあ、待ってる」

 

 ノクトが深く一礼した、その瞬間だった。

 

 アズリルは一度だけ息を吸った。迷うように指先をきゅっと握りしめ、それから、意を決したように強く一歩を踏み出す。

 

「ノクト」

 

 その声に、ノクトが顔を上げようとしたその時──。

 アズリルはノクトの頬に、そっと唇を寄せた。

 

「え”っ」

 マルクが思わず素っ頓狂な声を上げかけたが、すかさずガレスに脇腹を小突かれてガハッと声を詰まらせる。

 

 アズリルは弾かれたように後ろへと下がり、自分から仕掛けたくせに、みるみるうちに顔を真っ赤に染めた。

 

「行ってらっしゃい、ノクト」

 

 ノクトは珍しく、目を見開いたまま完全に凝固していた。

 だが、やがて何とも言えない複雑な表情を浮かべた後、すっと背筋を真っ直ぐに伸ばして告げる。

 

「はい……行ってまいります、アズリル様」

 

 ノクトは鮮やかに踵を返し、去っていく。アズリルたちの位置からはもうその背中しか見えなかったが、滅多に動じることのないその顔には、照れや動揺など疾うに消え失せていた。

 そこに宿っていたのは、ただ一つ。主君から与えられた温かな約束を、何が何でも守り抜くという、今まで以上に冷徹で、深く、揺るぎない『覚悟』の眼差しだった。

 

 

 

 

 ──……✶……──

 

 その日、アズリルは二度、別れを告げられた。

 

 友人たちから。

 そして、いつも背後にあった影から。

 

 どちらの別れにも、優しい言葉が添えられていた。

 

「また会える」

「必ず戻る」

 

 だから、心配することはないのだ、と。

 アズリルは、その言葉を真っ直ぐに信じた。

 

 信じたからこそ、泣きながらも前を向いた。

 

 けれど、その信頼の陰で、二つの真実が伏せられていた。

 

 友人たちが告げなかった、蜘蛛の蠢く街の名。

 

 ノクトが隠した、城の不穏な異変。

 

 どちらも、アズリルを守るためのものだった。

 

 けれど、守るために選ばれた沈黙が、必ずしも優しさとして届くとは限らない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。