これ以降、場面も登場人物も変わっていきます。
アズリルも、ようやく成長していく予定です。
迷いのない足取りでアズリルの手を引くキルアの表情は、いつも通り悠然としたものに見えた。けれど、繋いだ手のひらだけは、まるで迷子になった子供を導くように、優しく握られたままだった。
ふと横顔を見ると、頬や腕に、まだ生々しい傷跡が残っている。
さっき、あの部屋で受けていたものだ。
これまで、どれほどの痛みに耐えてきたのだろうと思うと、アズリルは思わず繋いだ手をぎゅっと握った。
キルアはちらりとこちらを見ると、その手をさらに強く握り返した。
「……来てくれて嬉しかったぜ」
「え?」
不意に落とされた言葉に、アズリルはパチクリと目を丸くした。
「まさか屋敷まで迎えに来るとは思わなかったけどな」
キルアは、どこか照れくさそうに柔らかく笑った。
「あ、ううん……そこはちょっと、成り行きで……」
アズリルは慌てて視線を泳がせる。
「じいちゃんたちのこと信頼しすぎるなよ」
キルアは歩調を緩めることなく、まっすぐこちらを見つめていた。
「あいつら、結局利用できるかでしか考えねーからさ」
アズリルはしばらく何も言えなかった。
キルアの言葉はあまりに冷たかったが、同時に、自分のよく知る世界の匂いがしたからだ。
「……そういうのには慣れてるよ」
アズリルは視線を落とし、自嘲気味に微笑んだ。
「城に来る人の大半は、僕たちから何かが欲しい人たちばかりだからね」
きつく握られた指先から、アズリルの小さな諦めと、それでも抗いながら生きてきた強さが伝わってくる気がした。
キルアはしばらくその横顔を見て、ふいっと前を向く。
「そういや」
顎で小さく、後ろを歩く男を指した。
「こいつ誰?」
アズリルは背後のノクトをちらりと振り返った。
彼は相変わらず冷めた表情のまま、ただ静かについてきている。
「僕の……その、護衛をしてくれている人、かな」
ノクトは深く頭を下げた。
「ノクトと申します」
キルアは軽く眉をひそめ、品定めするようにノクトを見た。
「へえ。ゴトーみたいなやつか」
「ゴトーって?」
アズリルが聞き返すと、キルアは「着いたら分かるぜ」とだけ言って、歩き続ける。
やがて、木々の向こうに巨大な建物が見えてきた。使用人たちの宿舎とは比べものにならないほど立派な建物だった。扉の前には、黒装束の執事たちが整然と並んでいる。
中に案内されると、外観に違わぬ豪奢な空間が広がっていた。執事の住まいでさえ、この規模なのだ。ゾルディック家という存在の大きさが、そこにははっきりと表れていた。
その時、キルアがようやく繋いでいた手を離した。
「ゴーン!」
キルアが弾んだ声を上げ、そのまま廊下の奥へ駆けていく。アズリルは離された自分の掌をしばし見つめてから、慌てて背中を追った。
広い居間に足を踏み入れると、そこにはゴン、クラピカ、レオリオがいた。中央のソファに座り、数名の執事に囲まれている。どこか緊迫した空気は残っているが、部屋全体には再会を喜ぶ活気が満ちていた。
「よっ」
「キルア!」
ゴンが顔を輝かせて立ち上がる。
「久しぶり! よく来たな。……つーか、ひでー顔」
「キルアこそ!」
すぐにレオリオとクラピカもアズリルに気づき、駆け寄ってきた。
二人の顔を見た途端、張り詰めていたものがぷつりと切れた。
アズリルは、たまらず二人に飛びついた。
離れていた時間は、ほんのわずかだったはずだ。
それでも、あの不気味な屋敷の中で、底の知れない大人たちに囲まれていた緊張が、二人の顔を見た途端、一気にほどけてしまった。
「レオリオ、クラピカ!」
震える声で名前を呼び、二人にしがみつく。
レオリオは一瞬面食らったように目を見開いたが、すぐにアズリルの背中を支えた。
「お、おい。大丈夫かよ」
クラピカも驚いた顔をしたが、すぐにその肩へ手を置く。
「怪我はないな?」
「うん。話をしてただけ」
そう答えるアズリルの言葉に嘘がないか確かめるように、レオリオは頭のてっぺんから足先までじっくりと視線を走らせる。
クラピカも表情こそいつもの落ち着きを取り戻していたが、その瞳の奥には、隠しきれない安堵がはっきりと浮かんでいた。
アズリルはふと視線を感じて顔を上げた。
部屋の隅に、黒づくめの執事が一人、静かに立っている。丁寧な物腰の中にも、決して踏み込ませない芯の強さを感じる。
(あの人が、キルアの言っていたゴトーだろうか……)
アズリルは、背後に控える己の護衛へと視線を巡らせる。
他者との距離の取り方や、主人に対する一歩引いた遠慮の滲む気配は、確かにノクトとよく似ていた。けれど、その口元に張り付いたような、どこか無機質な笑みだけは、ノクトのそれとは決定的に違っている。
ゴトーはすっと視線を動かし、アズリルの後ろに立つノクトを見やった。
互いに名乗ることもないまま、二人は以前から知る者同士のように、一礼を交わした。
「よし。じゃ、さっさと出発しようぜ」
キルアが、いつも通りの軽い調子でみんなを促す。
「どこでもいいからさ。ここにいると、おふくろがうるせーし」
「うん!」
ゴンが嬉しそうに勢いよく頷いた。
キルアはくるりと執事たちの方へ振り返る。
「じゃーな。あ、ゴトー。おふくろに何言われても、ついてくんなよ」
ゴトーは深々と一礼する。
「承知いたしました。いってらっしゃいませ、キルア様」
「ゴトーさん、キルアがいなくなったら寂しくなるね」
ゴンが首を傾げると、ゴトーは表情を一つも変えずに答える。
「いいえ。我々執事は、雇用主に対して特別な感情を持ち合わせておりませんので」
その言葉は、思いがけないほど鋭くアズリルの胸を刺した。
どうしてこれほど胸が痛むのか。アズリルは隣のノクトを仰ぐが、その横顔はいつも通り静寂に包まれている。
「うそつき」
ゴンが子どもっぽく舌を出す。
「……キルア様を、よろしくお願いいたします」
ゴトーの声に微かに含まれた個人的な寂しさや情を、アズリルに読み取ることはできなかった。
[newpage]
こうしてゾルディック家の領地を後にし、山の麓まで戻ってきた一同だったが、そこにはどこか落ち着かない空気が漂っていた。
アズリルは、いつになく焦った様子でノクトに何かを必死に訴えかけている。ノクトは表情を変えないまま、ただ深く頭を下げてそれを受け止めていた。
その光景を、クラピカとレオリオは少し離れた場所から見守っていた。
「……なんて言う?」
「あれは、絶対泣くぞ」
レオリオが渋い顔で呟く。
「別に俺は、一緒に連れてってやってもいいんだがな」
「甘やかすな。アズリルには、ネテロ会長との約束があるだろ」
「けどよ」
「それを果たさない限り、あの子はハンターライセンスを受け取れない」
クラピカに諭され、レオリオは唇を噛んだ。
その時だった。
「おおおお! お久しぶりですぞ!! お元気そうで何よりです!!」
腹の底に響くような大声に一同が振り返ると、大柄な男が豪快な笑みを浮かべてこちらへ歩いてくる。
その背後から、若い青年が小走りで続く。
「が、ガレス隊長、待ってください……!」
その姿を見た瞬間、アズリルは弾かれたように駆け出した。
「ガレス……っ!」
そのまま、大柄な男の広い胸元へ飛び込む。
「おおっと!」
ガレスは豪快に笑いながらも、体勢を崩すことはなかった。背筋を伸ばしたまま、しっかりと主君を受け止める。
けれど、その腕がアズリルの背に回ることはない。そこには親しみも情もありながら、決して踏み越えない線があった。
一方、レオリオたちは、突然現れた大男の気配に完全に呑まれていた。
ただ身体が大きいだけではない。
一歩間違えれば押し潰されそうなほどの圧と、幾度も修羅場をくぐってきた者だけがまとう凄みがある。キルアやクラピカでさえ、その尋常ではない気配に一瞬、警戒の目を向けた。
「……な、なんだあ? あの大男……とんでもねぇ気配だぞ……」
レオリオが冷や汗を浮かべながら呟く。
ガレスとノクトは短く視線を交わした。
やがてアズリルはゆっくりとガレスの胸元から離れ、ゴンたちの方へ体を向けた。
「この人たちは、ガレスとマルク。試験場まで送ってくれたんだ」
そう言って、アズリルは再びガレスたちへと視線を移した。
「こっちがゴンで、隣がキルア。この綺麗な人がクラピカ。それから、こっちがレオリオ」
紹介された四人は、それぞれ軽く挨拶を返した。
クラピカは「綺麗な人」と言われたことに一瞬だけ複雑そうな顔をしたが、すぐに礼儀正しく頷く。
ガレスもまた、四人へ向かって恭しく一礼した。
「我が主が、皆様には大変お世話になったと伺っております」
「いやいや、とんでもない」
「こちらこそ、アズリルには助けられた」
「うん。友達だしね」
「ま、手はかかるけどな」
四人はそれぞれ照れくさそうに返した。
やがて、ガレスはアズリルに向き直り、重々しく口を開く。
「ここから先は、我々が援護いたします。ノクト殿は所用のため、これより一度戻らねばなりません」
「ノクト、帰っちゃうんだ」
ゴンの言葉に、アズリルはむっと眉を寄せた。
「……まだ、納得したわけじゃないから」
そう小さく反論して、ノクトの方を見る。
「はい。しばらくお側を離れさせていただきます」
「そうか……それは、アズリルも寂しいな」
クラピカが、アズリルのこわばった横顔をそっと労わるような声音で言った。
しばしの沈黙が落ちた。
レオリオとクラピカは顔を見合わせる。ほんの一瞬だけ迷うような間があって、それから、二人は意を決したように頷いた。
「アズリル」
レオリオの呼びかけに、アズリルの肩が小さく揺れる。
「ここで、いったんお別れになる」
アズリルはすぐには返事をしなかった。
ただ、ぎゅっと唇を噛み締め、ゆっくりと視線を足元へと落とす。
レオリオは困ったように頭を掻きながらも、逃げずに続ける。
「オレは一度、故郷に帰る。医者になるために、国立の医大を目指すよ」
「私は、本格的にハンターとして動くつもりだ」
クラピカも口を開いた。
「まずは雇い主を探す」
淡々とした声音だった。けれど、その言葉を選ぶ横顔には、アズリルを突き放そうとしているわけではないことが滲んでいた。
「だから、ここからは少しだけ別行動だ」
レオリオはそう言って、できるだけ明るい雰囲気にしようと、いつものようにニカッと笑ってみせた。
「永遠の別れってわけじゃねぇよ。また会える。つーか、会うに決まってんだろ。落ち着いたら、また合流しようぜ」
アズリルは下を向いたまま、必死に込み上げるものをこらえていた。
やがて深く息を吸い、顔を上げる。
「……分かった。また会えるなら、僕も頑張る」
その目は涙で揺れていた。
それでもアズリルは、泣きそうな顔で、懸命に笑おうとしていた。
そのいじらしい姿に、レオリオとクラピカは申し訳なさそうに微笑む。
すると、ゴンが大きな笑顔で駆け寄ってきた。背伸びをして、いつかアズリルが自分にしたように、その頭をよしよしと撫でる。
「大丈夫。またすぐ一緒になれるよ」
ゴンの声を聞いた途端、とうとうアズリルの目から涙がこぼれ落ちた。
「ありがとう、みんな……っ。大好き、本当に大好き。だから、離れていても……僕は、ちゃんと大丈夫だから……!」
まっすぐな言葉に、ゴンたちは一瞬、言葉を失った。
それから、照れくさそうに笑って、それぞれアズリルのそばへ寄る。レオリオは乱暴に頭を撫で、クラピカはそっと肩に手を置いた。
「泣くなよ。また会うって言ってるだろ」
キルアは少し離れた場所で、腕を頭の後ろに組んでいた。
「なんだよ。すげー甘やかされてんじゃん」
呆れたように言いながら近づくと、乱暴な手つきでアズリルの背中を叩く。
「ま、頑張れよ」
その様子を、ガレスは背筋を伸ばしたまま見守っていた。
愛されておられる。
そして、堪えておられる。
かつてなら泣いて縋ったであろう少年が、今は別れを正面から受け止めようとしている。
その姿に、ガレスは胸の内で静かに頷いた。
成長なされた。
涙をぬぐうアズリルを見て、クラピカが優しく声をかけた。
「アズリル。離れても連絡が取れるように、連絡先を交換しておかないか」
「あ……でも僕、携帯持ってないんだ」
アズリルが困ったように言うと、ゴンとキルアも顔を見合わせた。
「実は俺たちも持ってないんだよね」
キルアが軽く肩をすくめる。
「なら、私の番号を渡しておこう。ガレス殿、控えていただけますか」
「おう、俺のも頼む」
マルクがすかさず手帳を取り出し、クラピカとレオリオの連絡先を書き留める。
「何かあったらそこに連絡しろよ」
レオリオが言うと、アズリルは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。……じゃあ、僕の代わりにガレスの連絡先を渡しておくね。僕に連絡したい時は、ガレスに繋げて」
マルクは今度はガレスの連絡先を記したメモを、四人に手渡した。
「ありがとう! これなら俺たちからでも連絡できるね!」
ゴンが嬉しそうに受け取り、キルアも「一応持っとくわ」と言って、ポケットにしまう。
ガレスは四人へ向かって、恭しく一礼した。
「万が一の際や、私どもでお力になれることがあれば、いつでもこちらへ」
「ああ、わざわざすまねえな」
レオリオが笑って応じ、クラピカも丁重にメモをしまった。
やがて、アズリルは今度こそゴンたちから一歩離れた。
「またね!」
その声は、泣いたあととは思えないほど明るかった。
何度も、何度も振り返りながら、アズリルはちぎれるほどに手を振り続ける。
ガレス、マルク、そしてノクトは、そんな主君の歩調に寄り添うように、その背中を包み込んで歩いていった。
アズリルの背中が遠ざかるのを見送りながら、レオリオがぽつりと言った。
「本当に、あのことは言わないままでよかったのか」
「……ああ」
クラピカは短く答えたきり、視線を落とした。その様子に、キルアが小首を傾げて尋ねる。
「あのこと?」
「九月一日。ヨークシンシティの件だ」
クラピカはすでに、レオリオたちには話していた。
最終試験のあと、クラピカはヒソカから幻影旅団について知っていると告げられ、九月一日にヨークシンシティに向かうことになったこと。
そして、その日その場所に、アズリルだけを除いた「四人」で再び落ち合う約束を交わしていたこと。
「あいつには言ってなかったんだ」
「ねえ、なんで?」
ゴンの声には責めるような響きがあった。「隠し事するの、嫌だったんだけど」
「それについては、すまないと思っている」
クラピカは素直に頭を下げた。
「あいつ、そういうの一番傷つくだろ」
キルアの言葉に、レオリオが低く唸る。
「……これに関しちゃ、俺はクラピカと同意見だ。アズリルに話したら、あいつは来る。友達のためなら、無茶をしてでも来るだろ」
クラピカは静かに言う。
「ヨークシンには、幻影旅団が現れる可能性が高い。そこにアズリルが来てしまうことだけは避けたかった」
目的のためなら手段を選ばない連中だ。
アズリルの身分が知られれば、交渉の道具にも、人質にもされかねない。
そんな血生臭い街に、大切な友人を連れて行くわけにはいかなかった。
「それに、オルドヴィアと旅団には因縁がある」
レオリオが苦い顔で言葉を継ぐ。
「オルロフ家の王子がのこのこ出ていったら……」
「真っ先に狙われるだろうな」
クラピカの冷徹とも言えるほど冷静な言葉に、ゴンは言葉を失い、ただ拳を強く強く握りしめた。アズリルを守りたい気持ちはみんな同じなのに、一緒に行けない現実がもどかしくてたまらないのだ。
クラピカは自らに言い聞かせるように呟いた。
「これは私の問題だ。あの子を巻き込みたくない」
クルタ族のこと。緋の眼のこと。そして、同胞の仇として幻影旅団を追っていること。
それをアズリルに打ち明けることは、結局最後までできなかった。
静寂が四人を包む。
「じゃあ、今度会ったらちゃんと話そう」
ゴンが呟くと、クラピカは小さく目を細めた。
「そうだな。その時は、ちゃんと怒られよう」
レオリオが頷き、キルアが鼻で笑う。
「ぜってー泣きながら怒るだろ、あいつ」
次に会うとき、真実を告げたとき、あの子はどう受け止めるのか。
四人はそれぞれの覚悟を抱え、すでに姿も見えなくなった友の往く道の先を、いつまでも黙って見つめていた。
[newpage]
ゴンたちと別れて、アズリルたちがしばらく歩いていた時のことだ。
先ほどまでの焦燥とは違う、どこか重苦しい沈黙が、主従の間に満ちていた。
「ノクト殿」
ガレスの呼びかけに、ノクトが静かに足を止めた。
振り返ったノクトを見据えるガレスの顔に、いつもの豪快な笑みはなかった。
「……もう行くの?」
アズリルがおずおずと尋ねると、ノクトはすぐに主君の方へと向き直った。
「はい。これより一度、城へ戻ります」
「兄上に何かあったの?」
何気なく、けれど胸を騒がせる予感に突き動かされて聞いた質問だった。
──その瞬間、後ろに控えていたマルクの肩がぴくりと跳ねる。
アズリルはその微かな動揺を見逃さなかったが、ノクトは至って冷静に言葉を継いだ。
「いえ。少々、急ぎの用件を仰せつかっただけです」
それでも、アズリルの胸のざわつきは収まらない。そんな若き主君の不安を敏感に察したのだろう。ノクトは、優しく言い聞かせるように言葉を重ねた。
「レオンハルト様はご無事です」
「……本当?」
すがるようなアズリルの問いに、ノクトは深く、静かに頷いてみせる。
「はい。アズリル様のご無事を、何より案じておられます」
アズリルは張り詰めていた肩の力を少しだけ抜き、表情を緩めた。
「……わかった」
ノクトは一歩近づく。
だが、近づいたのはそこまでだった。
「ここから先は、ガレス殿とマルク殿が必ずお守りいたします」
「……また会える?」
「可能な限り、早くお戻りいたします」
それは、確実な期限のない曖昧な返事だった。
アズリルはしばらく黙ってその言葉を胸に落とし込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……じゃあ、待ってる」
ノクトが深く一礼した、その瞬間だった。
アズリルは一度だけ息を吸った。迷うように指先をきゅっと握りしめ、それから、意を決したように強く一歩を踏み出す。
「ノクト」
その声に、ノクトが顔を上げようとしたその時──。
アズリルはノクトの頬に、そっと唇を寄せた。
「え”っ」
マルクが思わず素っ頓狂な声を上げかけたが、すかさずガレスに脇腹を小突かれてガハッと声を詰まらせる。
アズリルは弾かれたように後ろへと下がり、自分から仕掛けたくせに、みるみるうちに顔を真っ赤に染めた。
「行ってらっしゃい、ノクト」
ノクトは珍しく、目を見開いたまま完全に凝固していた。
だが、やがて何とも言えない複雑な表情を浮かべた後、すっと背筋を真っ直ぐに伸ばして告げる。
「はい……行ってまいります、アズリル様」
ノクトは鮮やかに踵を返し、去っていく。アズリルたちの位置からはもうその背中しか見えなかったが、滅多に動じることのないその顔には、照れや動揺など疾うに消え失せていた。
そこに宿っていたのは、ただ一つ。主君から与えられた温かな約束を、何が何でも守り抜くという、今まで以上に冷徹で、深く、揺るぎない『覚悟』の眼差しだった。
──……✶……──
その日、アズリルは二度、別れを告げられた。
友人たちから。
そして、いつも背後にあった影から。
どちらの別れにも、優しい言葉が添えられていた。
「また会える」
「必ず戻る」
だから、心配することはないのだ、と。
アズリルは、その言葉を真っ直ぐに信じた。
信じたからこそ、泣きながらも前を向いた。
けれど、その信頼の陰で、二つの真実が伏せられていた。
友人たちが告げなかった、蜘蛛の蠢く街の名。
ノクトが隠した、城の不穏な異変。
どちらも、アズリルを守るためのものだった。
けれど、守るために選ばれた沈黙が、必ずしも優しさとして届くとは限らない。