HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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ジンから出された最初の課題。
いきなり雲より高い世界樹に置き去りにされるアズリル。
そこで人生で初めてかもしれない勇気を振り絞ります。


世界樹の上で

 なんなんだ、この男は。

 

 アズリルは相変わらず、枝の上で身動きが取れずにいた。幹にしがみついた腕は震え、枝がわずかに揺れるだけで、喉の奥から情けない声が漏れる。

 

 それを、ジンと名乗った男は黙って見ていた。

 ただ、じっと。

 

 こちらの都合などお構いなしに、勝手にこんな異常な場所へ連れてきておいて、あとは興味を失ったように放置している。

 

(こんなの……やっていることは、あのヒソカと変わらないじゃないか……っ)

 

 しばらくアズリルの様子を眺めていたジンは、やがて手元にあったクレープの最後の一口を、口の中へ放り込み、ゴクリと飲み込んだ。

 

「……ま。ここで立ち話もなんだし、とりあえず下りるか」

 

 その言葉を聞いた瞬間、アズリルは全身の力が抜けるほどの激しい安堵に包まれた。

 

 よかった、ようやくこの地獄から下ろしてもらえる。

 

 そう思って、ガチガチと震える足をどうにか動かし、ジンの方へゆっくりと歩み寄ろうとした。

 

「じゃ、頑張れよ」

「……え」

 

 アズリルは固まった。

 

「何……を?」

「俺は先に下りてる。下で待っててやるからさ」

「……」

「じゃ」

 

 ジンは事も無げに背を向け、そのまま今にも飛び降りそうな予備動作に入る。

 そのあまりにも非情な背中を見て、アズリルは絶句し、思わず叫んだ。

 

「ま、待って!!!!」

 

 鼓膜を突き刺すような悲鳴に、ジンは片目を瞑り、心底うんざりした様子で肩をすくめた。

 

「……んだよ」

「無理です……っ、こんなところから自力で下りるなんて無理だ! お願い、お願いだから下ろして……!」

 

 堪えきれなくなった少年の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。

 

 ジンはその姿に呆れたように向き直ると、冷淡な口調で告げた。

 

「ああ、そう。まあ、お前がそう言うならいいけどよ」

 

 そう言って、ゆっくりとアズリルの方へ歩み寄ってくる。

 

「その方が俺も楽だ。初日にして『あいつは才能なし、失格』とあのジジイに報告できるからよ」

「……!!」

「よかったよかった。これで面倒が減る」

 

 ジンがアズリルを抱え上げようと手を伸ばす。

 

「待って!!」

 

 アズリルは反射的に身を引いた。

 

「あ?」

「それは、嫌だ……失格にだけは、しないで……っ」

「ああ??」

 

 ジンはピクリと眉を上げた。伸ばしかけた手を止めたまま、あからさまに値踏みするような視線を少年に落とす。

 

「ハッ、注文の多いわがままなガキだな」

「……」

「下りられねえんだろ。下りる気もねえんだろ。じゃあ──」

「下りる」

 

 アズリルは、震える拳を握りしめた。

 

「下りるから……っ、自分で、下りるから……!」

 

 溢れそうになる涙を必死にこらえ、ジンの助けを拒むように激しく首を振る。

 

 ジンはしばらくその様子を見ていた。

 それから、面倒くさそうにふうと息を吐き、伸ばしていた手をポケットに引っ込める。

 

「……言っとくが、途中で泣き叫ぼうが、助けには来ねえぞ」

 

 アズリルは歯を食いしばり、震えながら深く頷いた。

 

 ジンは最後にもう一度だけ少年の顔を見ると、次の瞬間には、何でもないことのように枝の端へと歩いていった。

 そして、何の躊躇もなく、重力に身を委ねるようにして軽く跳んだ。

 

「……っ!」

 

 アズリルは喉を引きつらせる。

 慌てて枝にしがみつきながら、恐る恐るジンが消えた空間を覗き込んだ。

 

 けれど、そこにはもう男の影も形もなかった。

 

 残されたのは、ゴオゴオと吹き荒れる容赦のない風と、軋み続ける巨大な木の音だけ。

 

 そして、とんでもない高度に取り残された、アズリルひとりだけだった。

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 一人きりになった巨大木の上で、アズリルは膝を抱えてうずくまっていた。

 怖い。ただひたすらに、高所の恐怖が全身の血を冷やしていく。

 

 動かなければ。

 

 そう思う。

 

 このままここにいたって、何も変わらない。

 

 けれど、何もできないまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 

 じっと震えているうちに、アズリルの脳裏にある記憶がよみがえっていた。

 

 ハンター試験の、第二次試験。

 マフタツ山の深い割れ目、吹き荒れる上昇気流の中を、躊躇なく飛び降りて「くもわしの卵」を掴み取った、あの時のことだ。

 

 あの時だって、死ぬほど怖かったはずだった。記憶が飛んでいるわけじゃない。

 けれどあの瞬間は、気づいた時にはもう、崖から一歩を踏み出していた。そして、気づいた時には、卵を抱えて元の場所へ戻ってきていたのだ。

 

(あの時は、できた。僕の身体は、ちゃんと動いてくれたんだ。なら、今だって──)

 

 アズリルは歯を食いしばり、意を決して顔を上げた。

 すぐ下に見える、別の太い枝。まずはあそこへ飛び移る。そうやって少しずつ下りていけばいい。

 

 幹から手を離し、ゆっくりと立ち上がる。

 

「っ……あ」

 

 だが、直立した瞬間、視界に飛び込んできたのは「雲を見下ろす」という異常すぎる高度だった。

 猛烈な目眩がアズリルを襲う。ガチガチと激しく 震える足は、まるで地面に縫い付けられたように一歩も前へ進まない。

 

 飛び移るどころか、足元が崩れる妄想に取り憑かれ、アズリルは情けなさに涙をこぼしながら、再び幹へと倒れ込んだ。

 

「……っ、なんで」

 

 そのままずるずると座り込み、膝を抱え、額を押しつける。

 こらえようとしていた涙が、またぼろぼろと落ちた。

 

 試験の時のように、身体は奇跡を起こしてはくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──地上・世界樹の根元

 巨大樹の遥か真下では、ジンは木陰で腕を枕にして、のんきに昼寝を決め込んでいた。

 

 そこへ、すさまじい速度で迫る二つの足音が草をなびかせる。

 

 ジンは片目だけを開けた。

 

「おお。思いの外、早かったな」

 

 現れたのは、息を荒くしたガレスとマルクだった。

 ガレスの鋭い眼光が、寝転ぶ男を射抜く。

 

「……どこだ」

 

 ジンは無言のまま、親指でひょいと頭上の巨木を指し示した。

 

 ガレスが視線を真上に向ける。

 気の遠くなるような高さまでそびえ立つ巨木。

 

 遥か上、雲の切れ間のさらに先に、かすかに若き主の気配がある。

 

「チッ……!」

 

 ガレスは盛大に舌打ちをした。普段の冷静沈着な彼からは想像もつかない、怒りの滲んだ音だった。

 

「お前がネテロ殿の言う『引受人』だな。いくらなんでも、やり方が荒すぎるんじゃねえか」

 

 ガレスの全身から、一瞬でオーラが膨れ上がる。

 アズリルを救出するため、巨大な幹へ向かって一歩、力強く足を踏み込んだ。

 

「待て」

 

 低い声が、ガレスの動きをピタリと止める。

 

 ジンは起き上がることもせず、寝転んだまま、ガレスを見据えた。

 

「ここで手ぇ出すってんなら、あいつは今すぐ失格にするぜ」

「……何だと?」

「俺は、あいつの世話係としてここに来たわけじゃねえ」

 

 ジンは面倒くさそうに身体を起こした。

 

「先生や師範になるつもりも、サラサラねえんだ。ただ、あのジジイに頼まれて、あいつにハンターライセンスを受け取るだけの資格があるかどうか、見極めに来た。それだけだ」

 

 くたびれた服についた葉を払いながら、ジンはガレスを冷ややかに見た。

 

「あいつは自分の意志で、自分で下りるって言ったんだ。そこに周りのお付きの連中が茶々を入れるってんなら──その時点で俺の判断は決まる」

 

 そこで、ジンは薄く笑った。

 

「それでもいいんなら、ご自由に。お城へでも箱庭へでも連れて帰りな」

 

 ガレスの拳が、みしりと音を立てて握りしめられる。

 

 沈黙の中、マルクもまた、冷や汗を流しながら二人の決裂しそうな空気を見守るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 日が沈み始めていた。

 

 どこまでも青かった空は、海の向こうからじわじわと赤に染まり、白い雲の端にも夕焼けの色が滲んでいく。

 

 そこでようやく、アズリルは最悪の事態に気づいた。

 

(しまった……)

 

 このまま完全に暗くなってしまったら、すぐ下にある枝すら見えなくなる。そうなれば、明日の朝まで、この逃げ場のない暗闇の中で一人きりで過ごすしかない。

 

 その思考が脳裏をよぎった瞬間、背筋にぞわりと冷たいものが走った。

 

(だめだ、降りなきゃ……! 行ける、行くんだ。お願い、僕の身体、いつもみたいに動いて……!)

 

 アズリルは少し下にある、比較的太い枝を見つめた。

 

「……大丈夫」

 

 自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 幹にしがみついたまま、ゆっくりと身体を低くする。

 枝に腹ばいになるようにして、震える足を下へ伸ばした。

 

 足先が、何もない虚空を探る。

 

 届かない。

 

 もう少しだけ身体をずらす。

 幹を掴む指に力を込め、息を止めながら、さらに足を下へ伸ばした。

 

 あと少し。

 

 あと数センチで、下の枝に触れる。

 

 靴先が、かすかに樹皮を掠めた。

 

「……っ」

 

 いける。

 

 そう思った瞬間だった。

 

 支えにしていた靴裏が、湿った苔の上でぬるりと滑った。

 

 視界が、跳ねる。

 

 上下が分からなくなる。

 

 枝に預けていた身体が、完全に足場から外れた。

 

「──ッ!!!」

 

 声にならない悲鳴が喉を裂いた。

 

 落ちる。

 

 重力に引かれ、身体が真っ逆さまに落ちていく。

 

 死の錯覚の中、反射的に両手を伸ばした。

 刹那、左手だけが、辛うじて視界をよぎった細い枝を掴み取る。

 

 だが、その左腕は、ハンゾーとの戦いで折られ、ようやく治りかけていたばかりの腕だった。

 そこへ、アズリルの全体重と落下の衝撃が一気にかかる。

 

「っ、あ……あああああッ!」

 

 骨がきしむような激痛が走り、アズリルは涙と脂汗を散らしながら、その枝へしがみついた。足は虚しく宙を蹴り、呼吸は乱れ狂う。

 

「っ、は……っ、あ……!」

 

 痛みに悲鳴を上げながらも、どうにか身体を引き上げ、枝の上へと命からがら転がり込んだ。

 

 助かった。

 けれど、その短い安堵の後に、底なしの恐怖が全身を完全に呑み込んだ。

 

 今、落ちた。本当に、死にかけた。

 たまたま掴めただけだ。もし手が届かなかったら、もしあの枝が折れていたら──。

 

 アズリルはその場にへたり込み、幹にこれ以上ないほど背中を強く押しつけた。

 

 もう、一歩も動けなかった。

 立ち上がることも、下を見下ろすことも、指一本動かすことすらできない。

 

 震えが、両腕で自分の身体をいくら強く抱きしめても、まったく収まらなかった。

 

 やがて、完全に太陽が視界から消え、世界樹の上に、容赦のない夜が降りてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し前、木の真下では、ガレスが無言で『円』を広げ続けていた。

 

「くそ……さすがに遠いか」

 

 ガレスは本来、『円』を細かく制御するのが得意ではない。糸のように伸ばすことも、歪な形にねじ曲げることもできない。

 できるのはただ、己の内にある莫大なオーラを力任せに押し広げ、自分を中心とした巨大な「球体」として展開することだけだった。

 

 愚直な力技。だが、その規模だけは常軌を逸している。

 高度二千メートル近くにいるアズリルを捉えるためには、地上から半径二千メートルに及ぶ巨大な『円』を展開し続けるしかない。

 

 それを可能にしているのは、底知れない圧倒的なオーラ総量。純粋な広さだけで言うならば、ガレスの『円』は間違いなく世界でも指折りの域にある。

 

 しかし、いかに規格外のオーラ量を誇るガレスといえど、限界まで薄く引き伸ばした『円』では、捉えられる細部の精度が劇的に落ちてしまう。空間を満たすオーラの密度が希薄になればなるほど、雲の上の詳細な情報は、網の目から零れ落ちていく。

 

「……あそこ、か?」

 

 アズリルがまだ上にいることは分かる。生きていることも、かろうじて伝わる。だが、どの枝にいるのか、どんな状況なのかまでは、薄い霧の中を覗いているようで判別がつかない。

 

「マルク」

「……分かってます」

 

 応じるマルクの声には、いつもの軽薄さは微塵もなかった。

 

 ガレスが『円』で大まかに割り出した一点へ向かって、マルクは自身のオーラを「針」のように細く、鋭く伸ばしていく。空間に一本の見えない念の糸を紡ぎ、雲の上へ届かせるような、極限の集中を要する作業だった。

 

 ガレスが広く網を張り、マルクがその中の一点を探る。

 二人の息の合った連携だけが、雲の上の少年の様子を知るための、唯一の命綱だった。

 

 マルクは呼吸すら止め、神経を研ぎ澄ます。

 

 無数の枝。葉の擦れ合い。硬い樹皮。

 

 違う、ここでもない。

 

 さらに奥へ。

 

 細く伸ばした念を滑り込ませる。

 

 ──そして、その先にあった。

 見慣れた、柔らかい質感のオーラ。

 

「……いた。捉えまし──」

 

 マルクが言いかけた、その直後だった。

 上空の気配が、不自然に、そして急激に下層へとブレた。

 

「若様ッ!!!」

 

 マルクが絶叫した。

 ガレスの足が、脳が考えるより先に、爆発的な踏み込みで地を蹴りかける。

 

「動くな」

 

 地を這うようなジンの声が、鋭く割って入った。

 

 ガレスは歯を食いしばり、強引に軸足を止めた。

 踏み込みかけた足元で土が爆散し、太い根が軋む。

 

 マルクもまた、今にも飛び上がりそうな身体を必死に押し殺していた。

 

 数秒。いや、一秒にも満たない刹那。

 けれど、地上で待つ二人にとっては、心臓が止まるほど長い沈黙だった。

 

 マルクは目を見開いたまま、細い念の先をたぐり、必死に上空を探り続ける。

 

「……大丈夫です」

 

 絞り出すような声だった。

 

「ちゃんと……枝を掴みました。落ちていません。無事です」

 

 ガレスの口から、熱い息が深く漏れた。

 それでも、険しい表情は一ミリも緩まない。木の上を睨み上げる眼光は、むしろ鋭さを増していく。

 

 今すぐ助けに行きたい。今すぐあの雲を突き抜けて飛び上がり、怯える若き主をこの腕に抱きかかえて下ろしてやりたい。

 

 だが、それをすれば。

 彼がこれまで必死に掴もうとしてきたものを、ガレス自身の手で奪うことになる。

 

「……落ちる途中で枝に当たれば、あの高さじゃ、下で受け止めたところで無事では済みませんよね」

 

 マルクの低く呟いた声には、押し殺した焦燥が滲んでいた。

 

 ただの自由落下なら、まだいい。

 地面に叩きつけられる直前に、ガレスが受け止める準備はできている。

 

 だが、この巨大な木には太い枝が無数に生い茂っていた。

 途中で身体を強打すれば、地面に届く前に命を落としかねない。

 

 それでも、手は出せない。落ちてくるかもしれない主を、ただ見上げて待つことしかできない。

 その無力さが、二人の誇り高い護衛にとって、どうしようもなく歯がゆく、忌々しかった。

 

 ジンは少し離れた巨木の根元で、腕を枕にしたまま、片目だけを開けて彼らを見ていた。

 やがて、つまらなそうに目を閉じる。

 

「過保護だな」

 

 ガレスの目が、明確な殺気を帯びてジンを射抜く。

 

 絶対に死なせない。何が何でも、受け止める。

 その凄絶な思いだけが、地上の二人の間に張り詰めていた。

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 夜の闇が深く濃くなり、巨大な樹海のような枝葉の至る所から、未知の虫たちの不気味な鳴き声が響き始めていた。

 

 アズリルは、あの死にかけた転落の瞬間から、その場から少しも動けずにいた。

 眠るために目を閉じることすらできない。

 

 枝を必死に掴んだ左腕は、ドクドクと拍動するように激しく痛んでいる。

 けれど、その焼けるような痛みだけが、この狂おしいほどの孤独と底なしの恐怖から、わずかに意識を逸らしてくれる唯一の救いだった。痛みが消えてしまえば、そのままこの世界の果てのような闇に溶けて消えてしまいそうだった。

 

 やがてアズリルは、目の前の凄惨な現実から意識を背けるように、膝の間に顔を埋めた。

 

 閉ざされた暗闇の奥で、とりとめのない思考が、濁流のように頭の中を巡り始める。

 

 

 

 ……昔のことを、思い出す。

 

 

 ──……✶……──

 

 まだ六つの頃だった。

 

 あの日も、兄上から酷いいじめを受け、僕は泣きながら城を逃げ出していた。

 

 たしか、あの頃の兄上は、あまり優しくなかった。優しくない、なんて、そんな生易しい言葉では足りないかもしれない。あの頃のレオンハルトは、何かしらの口実を見つけては、執拗に僕を泣かせようとしていた。今の穏やかな兄上からはおよそ想像もできないほど、残酷だった。

 

 その日も、そうだった。

 

 何をされたのか、細かいことまではもう曖昧だ。

 ただ、胸の奥が焼けるほど悔しくて、悲しくて、どうしても同じ城の中にいたくなかったことだけは覚えている。

 

 兄上なんか、大嫌いだ。

 

 そう思って、僕は城を抜け出した。

 

 きらびやかな城下町をこっそり抜け、誰にも見つからないように森の奥へ、奥へと入っていった。どこか行くあてがあるわけじゃない。ただ、あの兄の手の届かない場所なら、どこだってよかった。

 

 けれど、夜の森は子供の足にはあまりにも深すぎた。

 気づいた時には足元をすくわれ、悲鳴を上げる暇もなく、身体が崖の斜面を真っ逆さまに転がり落ちていった。

 枝に引っかかり、硬い岩にぶつかり、最後に崖の中ほどにある、狭い窪みへと激しく投げ出された。

 

 右脚に、焼けるような激痛が走る。あまりの痛さと恐怖に、僕はその場で声を上げて泣き出した。

 

 誰も来ない。

 

 ガレスも、兄上も、父上も。自分がこんな奈落の底にいるなんて、誰も知り得ない。

 

 どれだけの時間が経っただろう。

 やがて泣き疲れ、ただ呆然と夜の木々を眺めていた、その時だった。

 

 頭上から、ガサガサと激しい音が響いた。何かが落ちてくる、と思った直後。

 どさり、と鈍い重い音がして、すぐ近くの泥土にひとつの影が転がった。

 

「……あ」

 

 落ちてきた少年が、衣服の土を払いながら、ぽつりと言った。まるで、そこに僕がいることを最初から予想していなかったかのような、拍子抜けする声。

 

 ノクトだった。

 

 よりによって一番見つかりたくなかった相手を前に、僕は完全に硬直した。

 

「げ」

 

 思わず口から漏れた第一声に、ノクトは起き上がると、いつもの無表情でこちらを見つめてくる。

 

「ここにいたのか」

「……わかってて降りて来たんじゃないの」

「いや。崖から足を踏み外して落ちたら、たまたまここに」

「……」

 

 本当に、ただの偶然だった。

 

「ガレスに言われて、僕を捜しに来たの?」

「ああ」

「……僕は、絶対に帰らないよ」

 

 僕は涙を拭いながら、精一杯睨みつけた。

 

「もう兄上なんか見たくもない。酷いことばっかするんだもん」

「そうか」

 

 ノクトは短く答えた。それだけだった。

 怒るでも、説得するでもない。ただ、いつも通りガラス細工のように静かな顔で僕の前に膝をつく。

 そして、そのまま僕を抱き上げようとした。

 

「な、何をするの!?」

「連れて帰る」

「人の話聞いてた!?」

「ああ」

 

 会話が全く噛み合っていない。ノクトが僕の身体を背負い上げるようにして、無理やり持ち上げた──その瞬間だった。

 崖から落ちた時に強打した右脚へ、目の前が真っ白になるほどの激痛が走る。

 

「っ、やだ……!」

 

 僕は叫び、泣きながらノクトの服の胸元をがむしゃらに掴んだ。

 

「無理、無理だよ、痛い……! お願いだから動かさないで!!」

「一瞬だけだ。この崖を上がれば、あとは楽な姿勢で運べる」

「無理だって言ってるでしょ!!」

 

 僕はわんわんと声を上げて泣きながら、激しく首を振った。

 

「ノクトには分からないんだ! 痛いのがどれだけ怖いか、どれだけ辛いか……っ。ノクトは強いから、僕の気持ちなんて分からないんだ!!」

 

「……分かれば、一緒に帰ってくれるか?」

 

 ノクトは、じっと僕を見つめていた。

 その言葉の意味を理解し、答えるよりも前に、ノクトは僕の身体をそっと地面に下ろした。

 それから、おもむろに自身の右脚へと両手を伸ばした。

 

「えっ」

 

 次の瞬間、嫌な音がした。

 生木をへし折るような、乾いた、鈍い、絶対にあってはならない音。

 

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 

 ノクトの顔色は少しも変わらない。悲鳴どころか、眉一つ動かさなかった。

 

 彼はただ、自分の手でへし折ったばかりの自分の脚を見下ろし、他人事のように小さく瞬きをした。

 

「確かに」

 

 ノクトはいつもと変わらない口調で、淡々と言った。

 

「これは、痛いね」

「な……なにしてるの!?」

 

 さっきまでの痛みが、衝撃のあまり一瞬で引っ込んだ。

 

「なんで!? なんで自分の脚を折ったの!? 馬鹿なの!? ねえ、馬鹿なの!?」

「痛みが分からない、って言われたから」

「そんなことで!?!?」

 

 僕は半泣きで叫んだ。ノクトは不思議そうに、首を傾げる。

 

「でも、これで条件は同じだ」

「っ!!!」

「痛いけど、一緒に頑張ろう」

「が、頑張れないよ!!」

 

 そう叫んだあと、僕は自分が泣いていたことも忘れて、呆然とノクトを見つめていた。

 いや、さっきまでとは全く違う、その圧倒的な歪さに脳が追いつかず、別の意味の涙がボロボロとさらに溢れ出して止まらなかった。

 

 僕があんなことを言ったから。同じ痛みを味わうためだけに。本当に、それだけのために。この人は、躊躇なく己の肉体を破壊したのだ。

 

 怖かった。おかしかった。どう考えても普通ではなかった。

 けれど、その普通ではなさの奥底に、ひたすらに純粋で、嘘のない真剣さがあった。

 

 ノクトはもう一度、僕を抱き上げようとして、そこで初めて、ほんのわずかに動きを止めた。

 

 がくり、と不自然に身体が傾く。ノクトは自分の折れた脚を見下ろした。

 

「……あ」

「……」

「すまない。アズリルを抱えたまま登るのは、無理かもしれない」

 

 結局、僕たちはその夜、崖の狭い窪みで並んで朝を待つことになった。

 

 ノクトは何も言わず、僕の隣に静かに座っていた。

 

 狭い足場に、二人で並んで脚を投げ出す。

 ノクトの右脚は、自分の手でへし折ったせいで、異様な方向にねじ曲がっていた。

 

 それに比べて、僕の脚は──後になってから知ったことだけど、折れてすらいなかった。

 ただの捻挫だったらしい。

 

 それなのにノクトは、まるで痛みなどこの世に存在しないかのような平然とした顔で、ただ暗い森を見つめていた。

 

 けれど時折、僕の肩が小さく震えるたびに、彼は音もなく視線をこちらへ向け、その大きな手で優しく頭を撫で続けた。そして、僕の目から涙がこぼれ落ちると、真顔のまま、不器用なほど静かに親指で拭い取ってくれた。

 

 やがて夜が明け、血相を変えたガレスたちが僕たちを発見した。

 その時の大騒ぎは、今でもよく覚えている。ガレスが聞いたこともないような声で本気でノクトを怒鳴り散らし、ノクトは直立不動のまま淡々と謝罪していた。

 

 そして、兄上は──その日は僕と目すら合わせてくれなかった。

 

 でも、たしかそうだった。

 あの日を境に、兄上は急に優しくなった。

 

 けれど、僕が何よりも深く胸に刻みつけているのは、その後の変化ではなかった。

 

 あの夜。

 僕の痛みを知るためだけに、自らの骨を平然とへし折った少年。

 痛みを完全に共有することこそが、最大の慰めになると本気で信じ込んでいた、あの壊れた優しさ。

 

 たぶん。たぶん、あの日からだ。

 ノクトを見るたびに、胸の奥が、切ないような、妙なふうに痛むようになったのは──。

 

 あの時のノクトは、本気で僕の痛みを分かろうとしてくれた。

 

 なのに。

 僕は今、自分ひとりの痛みすら恐れて、この樹の上から一歩も動けずにいる。

 

 恥ずかしい。

 どうしようもなく、悔しい。

 

(強くなりたい)

 

 心の底から、そう思った。

 ノクトに守られるだけの存在でいたくない。

 自分の痛みくらい、誰かに分け与えるのではなく、自分で抱えて進めるようになりたい。

 

 ──……✶……──

 

 

 アズリルは震える左手を見下ろした。

 包帯の下で、傷が、生きている証明のようにドクドクと脈打っている。

 

 その激痛を、今度は逃げ場にするのではなく、前に進むための「支え」にするように。

 

 アズリルはゆっくりと、力強く、世界樹の幹にその手を押し当てた。

 

 海の向こうから、眩い朝日が、少しずつ顔を出し始めていた。

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 朝日は、容赦なく世界樹の枝葉を照らし出していった。

 

 まばゆい光の中で改めて見下ろす垂直の世界は、昨日と変わらず足をすくませる。

 それでも、アズリルの瞳から、昨日までのただ怯えるだけの光は消えていた。

 

 動くんだ。

 

 下りるために、使えるものは何でも使う。

 

 アズリルは、じっと自分の左腕を見つめた。

 

 ハンゾーとの戦いで折られ、まだ完全には治りきっていない腕。

 そこにきつく巻きつけられていた、長い、長い包帯。

 

 これを、命綱代わりにする。

 

 厚手の固定用包帯だ。

 体重を完全に預けるのは無理でも、滑った時に身体を引き止める補助にはなるはずだった。

 

 アズリルは右手を使って、左腕の包帯をゆっくりと解き始めた。

 

 布が肌から離れるたび、傷の奥がじくじくと疼く。

 

 それでも手を止めずに解いていくと、包帯の奥に隠されていたものが、朝日の光を浴びて顔を出した。

 

 ──柔らかな質感の、一本の革紐。

 

 アズリルは息を呑んだ。

 

 それは、どんな宝石よりも大切な、特別な意味を持つものだった。

 

 震える指で革紐に触れる。

 そして、そのままぎゅっと胸元へ抱き寄せた。

 

 ノクトだけじゃない。

 

 ガレスも、マルクも。

 きっと今、この木の下で、待ってくれている。

 

 ひとりではない。

 

 胸の奥から、じんわりと温かい力が湧き上がってくる。

 恐怖で凍りついていた心臓が、確かに熱を持って動き出す。

 

 アズリルは深く息を吐き、目を開けた。

 

「……よし」

 

 小さく、けれど明確に呟く。

 

 アズリルは解いた長い包帯を手に取った。

 

 まず、今いる太い枝の根元に、包帯の片端を巻きつける。

 一度。

 二度。

 ほどけないように、これ以上ないほどきつく結ぶ。

 

 もう片方の端は、自分の手首にしっかりと巻きつけ、握りしめた。

 

 そして、ゆっくりと腰を落とした。

 

 昨日は恐怖のあまり、足元をろくに見もしないで感覚だけで下りようとして滑った。その反省を生かし、アズリルは今度はしっかりと自分の目で、下にある枝を観察した。

 

(あっちの枝は、太さは十分だけど、表面に朝露を吸った青い苔がびっしり生えてる。踏んだらまた滑る。……あっち、少し右にある、あの茶色い枝だ)

 

 目の焦点をしっかりと合わせ、狙いを定める。

 その枝は、苔が生えておらず、大人が数人乗ってもびくともしないほどの強固な太さを持っていた。

 

「ふう……、吸って、吐いて……」

 

 呼吸を整え、包帯を握る手にぐっと力を込める。

 アズリルは意を決して、大樹の幹から足を離し、狙いを定めた右側の枝へと、慎重に、だが確実に足を伸ばした。

 

 トン、と静かな音がして、靴の裏に硬い樹皮の手応えが伝わる。

 

「……!」

 

 滑らない。

 しっかりと足元が固定されている。体重を預けても、大きな枝は微動だにしなかった。

 

「いけた……っ!」

 

 喉の奥から、自然と歓喜の息が漏れた。

 自分の足で、自分の意志で、一段下へ下りることができたのだ。全身を心地よい安堵感が駆け抜けていく。

 

 けれど、アズリルはすぐに気を引き締めた。

 結びつけていた包帯を丁寧にほどき、今いる新しい枝へと結び直す。

 

 アズリルはそれを、何度も、何度も、狂ったような集中力で繰り返していった。

 

 最初は恐怖で心臓が潰れそうだった。だが、十回、二十回と繰り返して慣れてくるうちに、不思議とこの過酷な作業が楽しくなってきた。

 一段下りるたびに得られる確かな達成感。そして何より、凍りついていた視野が広がり、今まで見る余裕のなかった雲の上の絶景が、鮮やかに目に飛び込んでくるようになった。世界の屋根から見下ろす景色は、恐ろしくも、息をのむほど美しかった。

 

 朝だった空は、いつの間にか高く澄んだ昼の色へ変わっていた。

 

 それでも、地上はまだ遠い。

 次の足場を探すため、木の幹や枝の表面をじっと凝視していたアズリルは、あることに気がつき、ふと目を丸くした。

 

(……これは……?)

 

 樹皮の隙間にびっしりと生えた、淡く発光する奇妙な苔。傘の裏側が複雑な幾何学模様になっている紫色のキノコ。見たこともない色彩の極小の虫や、おかしな形の鳥の巣。さらには、どんな猛獣のものとも判別のつかない、鋭い爪の痕跡。

 

 気づけば、足場を探すための視線が、別のものを追い始めていた。

 

 ここ最近は、城を出ることや、ハンター試験を越えることに必死で、こんなふうに目の前の生き物へ心を奪われる余裕などなかった。

 

 アズリルは、幼い頃から生き物が大好きだった。

 

 友達の少なかったアズリルにとって、城の図書室と標本室は、数少ない逃げ場所だった。

 図書室にこもっては、生物学の本をぼろぼろになるまで読み漁り、標本室では、ガラス瓶に収められた虫や、乾燥した植物、遠い場所から運ばれてきた奇妙な骨を、飽きもせず眺めていた。

 

 その中には、今目の前にあるものとよく似た標本もあった。

 

(すごい……!)

 

 胸の奥が、恐怖とは別の熱で震えた。

 

(瓶の中でしか知らなかったものが、ここではちゃんと生きてる……!)

 

 高所の恐怖は、消えたわけではなかった。

 それでも、その恐怖の奥で、未知の生態系への純粋な好奇心が少しずつ息を吹き返していた。

 

 アズリルは目を輝かせ、風変わりな虫の動きや奇妙な植物を一つ一つ観察しながら、夢中になって枝を下りていった。

 

 

 

 

 

 遥か真下の地上では。

 

 ガレスとマルクの二人が、徹夜でひたすら上空へ意識を向け続けていた。

 ガレスの顔には深い疲弊の影が刻まれ、その身体からは、一晩中限界まで広げ続けていた膨大なオーラが陽炎のように揺らめいている。

 

 マルクの念がアズリルの居場所を正確に捉えているにもかかわらず、ガレスが頑なに『円』を解こうとしないのには、明確な理由があった。

 

 それは、アズリルがあの高さから落下した瞬間に備えるためだ。

 

 マルクの放つ念は、細く鋭い。

 一点を探り当てる精度こそ極限まで洗練されているが、その反面、空間の急激な変化を追うことには向いていなかった。

 

 もしアズリルが足を滑らせ、無数に生い茂る枝に身体を激突させながら、予想外の軌道へ弾かれて落ちてきたら──その凄惨な一瞬の動きを、細い念の糸では確実に見失う。

 

 だが、ガレスの『円』が上空一帯の空間を丸ごと包み込んでいれば話は別だ。落下の軌道も、気配のわずかな揺らぎも、網の目に引っかかるように即座に感知できる。

 

 落ちた瞬間に動くため。

 地面に叩きつけられるより先に、その身体がどこへ向かっているのかを知るため。

 

 そのためにガレスは、夜通し巨大な『円』を広げ続けていた。

 

「順調です、下りてきています……! ゆっくりですが、ちょっとずつ、確実に近づいてきています!」

 

 張り詰めたマルクの声に、ガレスの厳格な横顔が一瞬だけ小さく綻んだ。

 凄まじい安堵が胸を去来する。それでも彼は、奥歯を噛みしめて気を引き締め直す。

 

 そんな二人から少し離れた巨木の根元で、ジンは相変わらず暇そうに地面に横たわっていた。

 悪びれる様子もなく、自分の手を眺めながら、指先で小さな念の塊を転がしたり、退屈しのぎの遊びをのんきに続けている。

 

 張り詰めた静寂を破ったのは、マルクの弾けたような叫び声だった。

 

「あ! 若様……!! ガレス隊長、見てください!」

 

 マルクが指さす遥か上空、夕霧の向こう。

 まだ距離はあるものの、枝葉の隙間に、はっきりと小さな人影が見えた。

 

 影はゆっくりと、けれど確実な足取りで近づいてきていた。

 枝から次の枝へと、ぴょんと身軽に飛び降りる。するとその足元で、何やら屈み込んでしばらくゴソゴソと熱心に作業をはじめ、それが終わると、また次の下の枝へと楽しげに飛び移っていく。

 

「ああ……、殿下……」

 

 一晩中、片時も切らすことなく案じ続けていた若き主の姿。

 それを確かに目にした瞬間、ガレスの口から、本気で心の底から安堵した掠れた声が漏れた。

 張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れる。

 

 ガレスは限界を迎えていた『円』をようやく解くと、片膝をついた。

 全身から力が抜け、肩で荒く息をする。

 

 二人は息を整えながら、アズリルがちょっとずつ、ちょっとずつ大樹の階層を下りてくるのを、祈るような思いでじっと見つめていた。

 

 珍しい生き物たちの観察に夢中になりながら下りていたアズリルだったが、気づけば太陽は再び大きく傾き、あたりには夕闇が迫り始めていた。丸一日の時間をかけ、ひたすらに枝を渡り続けて──ついに、その時が来る。

 

 ふと下を見下ろしたアズリルが、地上にいるガレスたちの姿をはっきりとその目に捉えた。もう、十分に声が届く距離。あとほんの十メートルというところまで下りてきていたのだ。

 

「ガレス!! マルク!!」

 

 張り詰めていた緊張が完全に消え去り、見知った二人の顔を見た安心感とあまりの嬉しさから、アズリルはそれまでの慎重さをどこかへ置き忘れて、太い枝の上で子供のようにぴょんぴょんと激しく飛び跳ねた。

 

「わ、若様──っ!?」

「ちょっと殿下! 落ち着いてください、危ないっ……!!」

 

 地上で見上げていたガレスとマルクは、心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けて盛大に焦り散らした。慌てて手を振り、落ち着くように必死にジェスチャーを送る。

 

 しかし、その制止の叫びも虚しく。

 

 ──ツルッ。

 

「あ」

 

 飛び跳ねたアズリルの足元が、夕露に濡れた樹皮の上で見事に滑った。

 完全にバランスを崩した身体が、ふわりと虚空に浮く。

 

 そのまま真っ逆さまに落ちていく。

 

「ッ!!!」

 

 片膝をついていたはずのガレスが、弾かれたように地を蹴った。驚異的な反射速度で、アズリルが落ちていく軌道の真下へと目掛けて猛烈な勢いで跳ぶ。

 

 だが。

 一晩中疲れ果てていたガレスの身体よりも、さらに圧倒的に速く、その「影」は動いていた。

 

 ガレスが到達するよりも一瞬早く、アズリルの落下の真下に滑り込んでいたのは、さっきまでのんきに寝そべっていたはずのジンだった。

 

 ドサリ、と重い肉体の衝突音が響く。

 

 ジンは何でもない荷物を受け止めるかのように、落ちてきたアズリルの身体を両腕でしっかりと、危なげなく抱きとめていた。

 

 それを見届けたガレスは、空中で完全に全身の力が抜け、着地と同時に今度こそピクリとも動けなくなって倒れ込んだ。

 

「……寿命が、縮んだ……」

 

 心臓が口から飛び出しそうな衝撃に、アズリルはジンの腕の中で目を白黒させていた。

 

「い、生きてる……?」

 

 震える声で、ようやくそれだけを呟く。

 

 そんな少年を見下ろし、ジンは心底面倒くさそうに片眉を上げる。

 

「おせーよ。木の上で暮らし始めたのかと思ったぜ」

 

 ぶっきらぼうにそう吐き捨てると、アズリルの身体を地面へと大雑把に下ろした。

 

 足の裏に、硬い大地の感触が戻ってくる。

 

 その瞬間、アズリルの膝は完全に笑っていた。

 

 丸一日以上、狂気的な高さの木の上で神経を研ぎ澄まし、最後には生きた心地のしない転落劇まで味わったのだ。足の裏に感じる大地の確かな感触に安堵したのも束の間、全身の力が一気に抜け、その場へへなへなと情けなく(くずお)れてしまう。

 

 呼吸は浅く乱れ、指先一つ動かすのすら億劫なほど、心身ともにヘロヘロの限界状態だった。

 

 そんな少年の惨状を目の前にしながら、ジンは親指で自分の鼻先をくいと擦り、信じられないほどあっけらかんとした口調で言い放った。

 

「ま、これでようやくスタート地点だな。次は本気で行くから覚悟しな」

「……へ?」

 

 アズリルは、泥にまみれた顔をのろのろと上げた。

 今、この男は何と言ったのだろう。耳がバカになってしまったのかもしれない。

 

 あれほどの高さから死ぬ思いで下りてきたというのに、それでもまだ、この男の言う“スタート地点”に立っただけなのか。

 

「おーい、マルクだっけか? そこの大男(ガレス)担いで、ついてこいよ。あんまモタモタしてると置いてくからな」

 

 ジンはそれだけを言い残すと、返事すら待たずに、夕闇が静かに満ちていく森の奥の小道へと、まるで近所の散歩にでも出かけるかのような軽い足取りでスタスタと歩き始めてしまう。

 

「ま……待っ、て……」

 

 置いていかれるわけにはいかない。

 アズリルは震える手で地面を押し、どうにか泥を払って立ち上がった。

 

「ったく、どこまでも無茶苦茶な人ですね、あの野良ハンター……」

 マルクが盛大にため息をつきながら、地面に沈んでいたガレスの巨体をどうにか肩に担ぎ上げる。

 

 遠ざかっていくジンの背中は、恐ろしく身勝手で、理不尽で、けれどやっぱり、底が知れないほどに大きかった。これから始まる本物の『地獄』への予感に、アズリルはヘロヘロの身体で冷や汗を流しながらも、必死にその背中を追いかけるべく足を踏み出した。

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