HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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ジンはアズリルを連れて謎の場所へ転送してしまい、ガレスはまたしても目の前で主を見失うことに。
一方、王宮ではレオンハルト暗殺未遂とアズリル失踪をめぐる重い会議が始まる。




隊長は休めない

 ジンはゆったりと、ポケットに両手を入れたまま、夕闇の満ちる森の奥へ進んでいく。

 

 その後ろ姿を、アズリルは必死になって追いかけていた。

 

 昨日の転落でさらに痛めた腕は容赦なくズキズキと痛み、心身の疲労と激しい眠気で、一歩を踏み出すたびに視界が揺れる。

 

 けれど、不思議なほどに胸の中は澄んでいた。ついさっきまで、この男に対して抱いていたはずの嫌悪感は、もうどこにもない。

 

 思い返せば、これまでの人生で『恐怖』を感じるたび、自分はいつもそこから目を背け、安全な城の奥へと逃げ込んできた。

 怯えれば、誰かが必ず先回りして守ってくれたからだ。

 

 だが、その生温い檻から自分を無理やり引きずり出し、恐怖の対象と真っ正面から向き合わせたのが、目の前を歩くこの不躾な男だった。

 

 向き合った先には、息をのむほどに鮮やかで生々しい生命の世界が広がっていた。

 自分がずっと、自分の目で見たいと切望していた世界を、彼は見せてくれたのだ。

 

(この人についていけば、僕はもっと、違う世界を見られる。もっと、強くなれる)

 

 たった一度の課題で。

 それでも、アズリルの心には、ジンという男に対する抗いがたい信頼のようなものが芽生え始めていた。

 

 アズリルは前を行く男の背中をしっかりと見据え、置いていかれないよう、力の入らない膝に必死で力を込めて足取りを早めた。

 

「た、隊長……重いっ……です……っ」

 

 二人の後ろでは、マルクがガレスを背負い、苦悶の声を漏らしながら歩いていた。

 極限まで『円』を張り続けたガレスは、もはや自力でまともに歩ける状態ではない。

 

「悪いな、マルク……。俺も少し、焼きが回ったらしい」

 

 ガレスはひどく掠れた声でそう呟いた。

 いつもなら誰よりも大きく見えるその背は、今は若い部下に支えられ、わずかに傾いていた。

 

 それでも視線だけは、前を行くアズリルの背中から片時も離れなかった。

 

 マルクは半ば潰されそうになりながらも、その執念深い眼差しに小さく息を吐き、必死に足を前へ運んだ。

 

 

 

 日が完全に沈んでしばらく経った頃。

 森の開けた場所に、ぽつりと佇む質素な木造の小屋が姿を現した。暗闇の中に不気味に浮かび上がるその建物は、まるでそこだけ世界から切り離されているかのようだ。

 

「今日はここで休む。疲れただろ、特にそこの巨体」

 

 ジンは足を止めると、一回り以上体格の小さいマルクにもたれかかっているガレスに視線を向けた。

「あんだけのオーラを丸一日近く張りっぱなしにしてたんだ。大したもんだぜ」

 

 ガレスは、ふう、と重い息を吐いた。

 マルクの肩からゆっくりと身体を離すと、草の上に力なく腰を下ろす。

 

「飯もある。今晩ぐらいはゆっくり休め」

 

(……オーラ?)

 

 聞き慣れない言葉に、アズリルは小さく首を傾げた。

 

 それにしても、「覚悟しろ」と脅してきた割には、ずいぶんとまともにもてなそうとしているジンの態度に、少しだけ肩透かしを食らった気分になる。

 

 案外、この人は根が優しいのかもしれない。

 

 一同は小屋の前でパチパチと火を起こし、ジンがどこからか調達してきた川魚や山菜、木の実を火に炙って食べた。素朴だが、極限状態の身体にはどんな宮廷料理よりも五臓六腑にしみわたる。

 

「あー、もうお腹いっぱい……。へとへとだし、眠すぎて頭が働かないよ……」

 

 満腹になったアズリルを、猛烈な眠気が襲う。座っているだけで上まぶたと下まぶたがくっつきそうだ。

 隣をみれば、マルクまでもが舟を漕ぎ始めている。

 

 ジンに促されるまま、アズリルたちは薄暗い小屋の中へと足を踏み入れた。

 

 外見はただの古びた掘っ立て小屋に見えたが、一歩中に入ると、不思議なほどに広く、奥へと空間が伸びている。奇妙な感覚を覚えながら玄関を抜けると、ちょっとした広間があり、そこから奥の廊下へと続いていた。

 

 案内されたのは、廊下に入ってすぐ手前の部屋だった。

 中はシンプルで、木製のタンスが一つと、ベッドが二つ並んでいるだけの簡素な作りだ。

 

「……マルク、お前は殿下と共にここで休め。俺は外で見張りをする」

 

 座るのもやっとな状態のガレスが、壁に手を突きながら頑なに言い張った。

 

「いやいやいや、隊長! 今の状態で見張りとか言い出すの、本気でやめてください! 私はまだまだピンピンしてますから、見張りなら私がやります!」

 

 今にも白目を剥いて倒れ込みそうな隊長を見て、マルクは焦ってベッドへ誘導しようとするが、ガレスは頑として聞く耳を持たない。

 

 二人が押し問答を始めた、その時だった。

 

「何をごちゃごちゃ騒いでんだ。おい、坊主、お前はこっちだ」

 

 ジンが部屋の中にひょいと顔を覗かせ、めんどくさそうに廊下の奥を指差した。

 

「え?」

「お前は俺と同じ部屋だ。ついてこい」

 

 ジンのその言葉に、部屋の中の空気が一瞬で凍りついた。

 

 ガレスとマルクの目が点になる。

 

 次の瞬間、死に体だったはずのガレスの身体から、ドス黒い、凄まじい密度の殺気が爆発した。

 

「……おい。貴様がハンターの世界でどれほどの傑物かは知らんが、今、自分がどこの誰を相手にしているのか、その無礼な脳髄に叩き込んでやる必要があるようだな」

 

 ガレスは部屋の床がみしりと軋むほどの威圧感を放ち、ジンを睨みつけた。

 

 オルドヴィアの第二皇子たるアズレイを、素性の知れない男と二人きりで同じ部屋に寝かせるなど、近衛護衛隊長として万に一つも容認できるはずがなかった。

 しかし、凄まじい殺気を放ってはいるものの、今のガレスにはそれ以上身体を動かす体力など残されていないのは一目瞭然だった。

 

「あぁ? 知らねえよ、そんなの」

 

 ジンはガレスの殺気を受け流し、心底面倒くさそうに首を振った。

 

「めんどくせえな……。おい、坊主。お前が決めろ。来るのか、来ねえのか」

 

 アズリルは、濁りのない目でジンを見つめた。

 そして、迷うことなく立ち上がった。

 

「ガレス。ここでマルクと大人しく休みなよ」

「殿下!?」

「ガレス」

 

 アズリルは、廊下へ向かいながら、冷徹とも言えるあっけらかんとした口調で忠臣を突き放した。

 

「もうここは城じゃないんだ。僕も、皇子としてここに来ているわけじゃない。邪魔をするなら、二人とも今すぐ国へ帰らせるよ」

「……っ!!」

 

 ガレスは言葉を失い、絶句した。

 アズリルはそのまま振り返ることもなく部屋を出て、ジンの後を追って廊下を歩いていく。

 

 ガタガタと小刻みに震えているガレスの広い肩を、マルクは後ろから憐れみの目で見つめる。

 

「あーあ……隊長、かわいそーに」

 

 

 

 

 

 

 アズリルが案内されたのは、廊下の突き当たりにある最奥の部屋だった。

 

 さっきの部屋に比べて、こちらはひどく散らかっている。ジンが普段から使っている部屋なのだろう、脱ぎ散らかされた衣服や、出所不明のガラクタ、ゴミが床に散乱していた。

 

 部屋には二つのベッドがあったが、そのうちの一つの上には、雑に置かれたブラウン管のモニターと、配線が剥き出しになった機械仕掛けの重そうな箱が鎮座している。

 

(他に置く場所はなかったのかな……?)

 

 アズリルは不思議そうに部屋を見回した。

 

 ジンは入るなり、タンスからゴソゴソと衣服を引っ張り出し、背後へ放り投げながら何かを探している。

 

 アズリルは辛うじて空いている方のベッドの端に腰掛けた。

 

 本当に、限界だった。気がつけばもう四十時間以上起きているのではないだろうか。これほど長い時間眠らなかったことなど、これまでの人生で一度もない。

 

「ジン、僕、先に寝てていい……?」

「ああ、別にいいぜ」

 

 同じ部屋に連れてこられたからには、また何か理不尽な課題でも言い渡されるのではないかと身構えていたが、流石に今夜はそれはないらしい。

 アズリルは心底安堵すると、泥のように寝台へパタリと横たわった。

 

 ジンは相変わらず背を向けたまま、「あったあった」と独りごちていたが、アズリルはそれにかまう余裕もなく、またたく間に深い意識の底へと沈みかけていた。

 

 どれくらい時間が経っただろうか。

 目の前で、何かがゴソゴソと動く気配がした。

 アズリルが重い瞼をうっすらと開けると、ジンがもう一つのベッドの上で、モニターに向かって背中を丸め、カタカタと何か機械をいじっている姿が見えた。

 

(……何をしてるんだろう……)

 

 深く考える気力もなく、再び目を閉じようとした、その時。

 

 ちり、と肌を刺すような、妙な視線を感じて再び薄目をあけた。

 

 ジンはいつの間にか、アズリルのベッドに腰掛けていた。

 月明かりを背負った男の影が、覆いかぶさるようにして、アズリルへ手を伸ばしてきている。

 

「……何、?」

「わりぃわりぃ、起こしちまったか。ちょっと手だけ貸してくれりゃいいからよ」

「……ん」

 

 寝ぼけ眼のアズリルは、あまりの睡魔に抵抗する気も起きず、言われるがままに素直に左手を差し出した。

 

 あまりにも無防備な反応に、ジンはアズリルの顔を一瞥した。

 それから、差し出された手を見下ろし、眉をひそめる。

 

「……ずいぶん腫れてんな」

 

 ジンの無骨な掌の上に載せられたアズリルの左腕は赤黒く変色し、丸く膨れ上がっていた。

 

 ジンはそれを見ながら、聞こえるか聞こえないかの声でぶつぶつと呟いた。

 

「……この腕のままじゃ、向こうで保たねえか……? いや、でも条件が……」

「ジン……?」

「まあ、いいや」

 

 ジンはあっさりと結論づけた。

 

「あっちで治してやる。そんな腕のままじゃ、これからやることの邪魔になるしな」

「あっち……? やること……?」

 

 アズリルがぼんやり聞き返す。

 

 ジンは少年の左手を下から支えると、ポケットから、ずいぶんと装飾の派手な指輪を取り出した。黄金の台座の中心に、大粒の青い宝石が埋め込まれている。

 

 ジンはその指輪をアズリルの人差し指に嵌め込もうとしたが、関節までパンパンに腫れ上がった指には途中で引っかかってしまう。

 

「あー、腫れてて入んねえな」

 ジンは一度指輪を抜くと、頭をガリガリと掻いた。

「まあいいか。変な意味に取んなよ」

 

 そう言ってジンは、アズリルの左手の中で比較的腫れの少ない薬指に、指輪を滑り込ませた。

 

 意識が半分微睡(まどろ)みの中にあったアズリルは、枕に後頭部を埋めたまま、痛む左腕を動かされるたびに不快そうに小さく眉をひそめていた。

 

 そして、ぼんやりとこんな疑問だけが頭に浮かぶ。

 

(……右手じゃ、駄目だったのかな)

 

 それでも、かろうじて別の問いだけが唇からこぼれる。

 

「これ、なに?」

 

 完全に指輪が収まったのを見届けると、ジンはにやりと唇の端を上げた。

 

 次の瞬間、ジンはアズリルの肩をがしりと掴んだ。

 

「!」

 

 反応する間もなく、ジンはもう片方の手を、隣のベッドの上にある機械──怪しく脈動するような光を放ち始めた金属の箱へとかざした。

 

 次の瞬間、アズリルの全身を、強烈に押し潰されるような、あるいは上下の感覚を失って虚空に浮き上がるような、凄まじい圧迫感が襲った。

 

 部屋の輪郭が歪み、万華鏡のように反転したかと思うと、世界が一瞬で激しく弾け飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 一方、アズリルが部屋を出ていってからしばらく経った、玄関付近の寝室。

 

 マルクは両手を大の字に広げ、ベッドに仰向けになって目を閉じていた。肉体は悲鳴を上げていたが、隣から聞こえてくるあまりにも荒く、張り詰めた呼吸の音に、ちらりと片目を開ける。

 

 すぐ横のベッドで、ガレスは休むどころか、ベッドの上で端座して胡坐をかき、今もなお己のオーラを必死に周囲へ広げ続けていた。出し切ったはずのオーラをさらに絞り出しているその姿は、痛々しいほどに悲壮だ。

 

「……隊長ー、それ以上やると本当に死にますよ?」

「うるさい。手伝う気がないのなら、黙って寝ていろ」

 

「ネテロ殿が直々に選んだ人ですよ? 流石に、何か間違いが起こるようなことはないでしょう。それに、向こうは大人で、若様は子供です。男同士ですし、何をそんなにピリピリして──」

 

「馬鹿者が!! そんな下世話なことを心配しているわけではない!」

 

 ガレスは盛大に咳き込み、激しく息を吐いた。やはり命の根源であるオーラの使いすぎだ。端から見ても、自身の寿命をゴリゴリと削っているようにしか見えない。

 

 マルクは(この人も結局、あのノクトと本質的にはあまり変わらないな……)と、呆れ半分の諦めを感じていた。主への忠誠が、どこか狂気じみているのだ。

 

「あの男……ジンは、今夜中に殿下を連れてトンズラする気だ」

 

「はぁ!?」

 マルクはガバッと跳ね起きた。

 

「そ、そんなこと、しますかね? 一国の皇子を連れ去るなんて、下手をすれば国家間の大問題ですよ……あ、いや、さっき世界樹の上でやられたことも、十分それに匹敵しますけど……」

 

 自分で言っているうちにだんだん虚しくなってきたマルクを、ガレスは冷え切った眼光で射抜いた。

 

「あの男が、法や国家の枠組みを気にする人間に見えるか」

「見えませんね」

 

 マルクは思わず即答してから、げんなりと肩を落とした。

 

「でも、なんでそんな面倒なことをわざわざ……」

「知るか」

 

 疲れと焦燥が限界を超えているせいか、ガレスの声にはいつになく刺々しい響きがあった。

 

「ハンターなどという人種は、揃いも揃って変人ばかりだ。あのネテロをトップに頂く集団だぞ? 我々のような誇り高い忠誠心を持ち合わせぬ、低俗で、狂った奴らの思考なんぞ、まともな人間の物差しで理解できるわけがない」

 

 毒々しい暴言を吐き散らすガレス。

 

 マルクは流石にその猛毒ぶりに若干引き気味になりながらも、ふとガレスの額を伝う尋常ではない量の汗と、かすかに震える指先に目を留めた。

 

 毒づいてはいるものの、限界は明らかだった。

 周囲へ広げているオーラは確実に細り、今にも途切れそうなほど弱々しく揺らいでいる。

 

 このまま続けさせれば、本当に倒れる。

 下手をすれば、倒れるだけでは済まない。

 

 マルクはため息をつき、重い腰を上げるようにしてベッドからトントンと足を下ろした。

 

「でも、やっぱりこのままだと隊長が持ちません。ちょっと私が様子を見てきますよ。下っ端の私が行くくらいなら、若様もそこまで本気では怒らないでしょうし。たぶん」

 

 なおも気を張り詰めたままのガレスを横目に、マルクはやれやれと首を振ってドアへ向かった。

 

 その間も、ガレスの『円』は最奥の部屋の光景を克明に脳内に描き出し続けている。

 

 アズリルはベッドの上。

 そのすぐ傍らに、ジンが腰を下ろしている。

 

「……」

 

 ガレスの目が、すっと細くなった。

 

 何をしている、あの男は。

 

 まさか。

 いや、まさかとは思うが。

 

 先ほどマルクが口にした下世話な可能性が、脳裏を嫌な形でよぎった。

 

 次の瞬間、ジンの手の中に、小さな輪のようなものが現れる。

 

「……指輪?」

 

 掠れた声が、思わず漏れた。

 

 マルクが振り返る。

 

「はい?」

 

 ジンはその輪を、アズリルの指へと滑らせていく。

 

 しかも。

 

 左手の。

 

 薬指に。

 

「…………」

 

 ガレスの顔から、音を立てるように血の気が引いた。

 

「隊長?」

 

 その時だった。

 

 ──バチンッ。

 

 家の最奥から、一瞬だけ、空間そのものが激しく弾け飛んだかのような強烈な念の波動が押し寄せてきた。

 

「「!!!」」

 

 二人の思考が完全に同期した。

 その一瞬の衝撃が収まるよりも早く、ガレスとマルクは部屋を飛び出し、廊下を猛烈な勢いで駆け抜けていた。

 

 ガレスの巨体を置き去りにし、一足早く最奥の部屋の扉を叩き割るようにして突入するマルク。

 

「!!?」

 

 マルクは、その敷居に足を踏み入れた瞬間、完全に石のように立ち尽くした。

 あとから、今にも倒れそうなほどフラつきながらも、凄まじい形相でガレスが滑り込んでくる。

 

「……なっ、に、……ッ!?」

 

 暗闇に包まれた部屋の中には、ただ散乱した衣服やゴミが転がっているだけだった。

 ベッドの上にぽつんと残された古いモニターだけが、淡い青白い光を放ちながら部屋の輪郭を冷たく映し出している。

 

 ジー……

 ウィィ……ン……

 

 不気味な機械の駆動音だけが、虚しく響く空間。

 

 ベッドの上にも、部屋のどこの死角にも。

 そこにいるはずの、ジンと王子の姿は、文字通り跡形もなく消え去っていた。

 

「……また、か」

 

 ガレスの低い声が、暗い部屋に落ちた。

 

 また、目の前から奪われたのだ。己の無力さゆえに、また。

 

「あ”あ”あ”あ”ッ、畜生がっ!!!!」

 

 ガレスは渾身の力で壁を殴りつけた。凄まじい衝撃に小屋全体が激しく揺れ、殴られた壁には蜘蛛の巣状の亀裂が深く刻み込まれる。

 

 ガレスの怒号と機械の駆動音だけが、二人のいなくなった暗い部屋に、どこまでも虚しく響き渡っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 ぱち。

 

 アズリルが瞼を開いた瞬間、視界が眩しく弾けた。

 

 思わず目を細める。

 

 ほんの一瞬の後、滲んだ光が少しずつ形を取り戻していく。

 そこはもう、さっきまでいたはずの、ゴミの散乱する薄暗い寝室の景色ではなかった。

 

 目に飛び込んできたのは、世界の果てまで続いているかのような広大な草原。

 夜だったはずの時間なのに、頭上からは容赦ない太陽の光が降り注いでいる。遥か遠くには険しい山脈が霞み、肌に触れる空気の温度も、吹き抜ける風の匂いも、先ほどまでいた森とはまるで違っていた。

 

 普通なら狂いそうなほどの異常事態だが、不思議と「またか」という奇妙なデジャヴが胸をよぎる。

 

 それからようやく、自分が両腕で何かにしがみつき、顔を押しつけるようにしていることに気がついた。

 

「……おい。そろそろ離せよ」

 

 上から降ってきたぶっきらぼうな声に、顔を上げる。

 すぐ目の前で、ジンが心底めんどくさそうにアズリルを見ていた。

 

 視界が爆発するようなあの感覚に襲われた瞬間、アズリルは恐怖のあまり、目の前にいたこの男の身体に全力でしがみついていたのだ。

 

「あ……ごめん」

 

 アズリルはゆっくりと手を離した。

 

 改めてぐるりと周囲を見渡すが、前も後ろも、見渡す限りの草の海だった。

 急激な気温の変化に、じわりと汗が滲み始める。

 

 ふと自分の左手を見ると、先ほど嵌められた金色の指輪が、薬指の根元に重たく収まっていた。

 

 そして、左腕の奥からどくどくと伝わってくる鈍い痛みが、これが夢でも幻覚でもない現実なのだと、はっきり教えてくれた。

 

「ねえ、ジンって……」

「あ?」

「瞬間移動とかができる、魔法使いか何かなの?」

「はあ?」

「だって、あの木のときもそうだったし……。どうやってこんなことしてるの?」

 

「……まぁ、今のお前に理解できるわけねえよ。今話したところで分かりっこねえ。それはまた、のちのちの話だ」

 

 ジンはそれきり説明を打ち切ると、背を向けて大股で草原を歩き始めた。

 

 さすがに、何もかもが分からなさすぎる。

 置いていかれまいと必死にその後を追いながら、アズリルは矢継ぎ早に問いかけた。

 

「でも、なんでわざわざこんなところに来たの?」

「……」

「ここで、また僕に何かさせるつもり?」

「……」

「でもね、さすがに少し休ませてくれないと、たぶんこれ以上は身体が動かないよ?」

「……」

「あ、でもこんなカンカン照りの場所で寝たら、さすがに干からびちゃうか。今からあっちの、どこか日陰になってるところに行くの?」

 

 ジンの足が、ぴたりと止まった。

 そして──。

 

「ああ──もう、うるっせーな!」

 

 限界を迎えたジンの怒号が草原に響き渡る。

 アズリルは心臓が跳ね上がるほど驚き、身体をびくつかせて一歩後ずさったまま固まった。

 

 ジンは苛立ちを隠そうともせず、乱暴に腕を振って、はるか遠くに見える鬱蒼とした森の入口を指差した。

 

「お前はあそこの日陰で、好きなだけ寝てろ!」

 

 それだけ言い放つと、ジンは森とは全く逆の方向へと、踵を返してスタスタと歩き出してしまう。

 

「えっ、ちょっと待ってよ……! どこに行くの!?」

 

 アズリルは慌ててジンの後を追いかけ、その衣服の袖を必死に掴んだ。

 

 ジンは深い溜め息を必死に噛み殺すようにして、天を仰いでから振り返る。

 

「すぐ戻ってくる。いいからお前は、あっちで大人しく待ってろ」

「……すぐ?」

 

 捨てられた仔犬のように潤んだ瞳で見上げられ、ジンは余計に苛立ちを募らせて頭をガリガリと掻いた。

 

「すぐだよ!」

「本当に……?」

「ああ!!」

 

 凄まじい剣幕に、アズリルはしゅんと肩を落としながらも、渋々といった様子でジンの袖から手を離した。

 そして未練がましそうに、ちらり、ちらりと悲しげな視線をジンに投げかけながら、教えられた森の方へとトボトボと歩き始める。

 

 その後ろ姿を完全に見送ってから、ジンは肺の空気をすべて吐き出すような、特大のため息を漏らした。

 

(本当にとんでもねえ厄介事を、あのクソジジイは俺に押し付けやがったな……)

 

 ネテロのニヤけた顔が脳裏に浮かび、ジンは内心悪態をつく。

 どれほど手がかかろうとも、ネテロから言われた『あの事』がある以上、この少年を途中で放り出すわけにはいかない。

 しかも、このアズリルという少年が背負っている巨大な立場と権力は、彼の現在の未熟な実力にはあまりにも不釣り合いで、この世界ではどうしても大きな障害になってしまう。

 

(確かにこれじゃあ、普通のハンターじゃ荷が重すぎて、関わった瞬間ハジき出されるな……)

 

 国家や国際問題、世界の理不尽なパワーバランスに巻き込まれてもビクともしない、それらを「知ったことか」と踏み倒せるほどの規格外な肝の据わり方をしているジンだからこそ、ネテロは白羽の矢を立てたのだろう。

 

「先が思いやられるな……」

 

 ぼそりと本音を漏らしたあと、ジンが何かを短く呟く。

 

 すると、彼の手元に、ぽん、と一冊の本が出現した。

 

 ジンは慣れた手つきでページをめくり、その中から一枚のカードを抜き取る。

 

 さらに短く何かを口にした次の瞬間、男の身体が眩い光に包まれた。

 

 光は尾を引き、草原の風を切って、遥か彼方の空へと一直線に飛んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 光の届かない、冷え切った石造りの地下空間。

 

「起きろ、ノクト。誰が寝ていいと言った」

 

 品格をまとった、ひどく冷徹な声が耳を打つ。

 その響きに引き上げられるように、泥の底に沈んでいた意識が、じわじわと這い上がってきた。

 

 ノクトがわずかに身じろぎするたび、重々しい鉄鎖がじゃらりと陰鬱な音を立てた。

 

「ガレスたちがアズリルを見失ったらしい。今の状況、お前の『革紐』でどこまで把握できる」

 

 レオンハルトは、足元に這いつくばる男を傲然と見下ろした。

 整えられた美しい金髪と、耳元で青く神秘的な光を放つ魔石の耳飾り。その眩いばかりの気高さは、この薄汚れた拷問室にはあまりにも不釣り合いで、残虐なほどに輝かしかった。

 

 対照的に、衣服を剥がされたノクトの上半身には、彫刻のように無駄なく鍛え上げられた筋肉が露わになっていた。

 その肌には無数の凄惨な傷跡が刻まれている。

 鞭で引き裂かれ、肉が爆ぜたような赤黒い筋が幾重にも走り、古い傷跡の上からさらに新しい裂傷が重なっていた。冷たい石床の上に跪かされたまま、両腕は頑丈な鎖で背後に固く縛り上げられていた。

 

 ノクトは、ゆっくりと顔を上げた。

 滲み出た脂汗が、額から顎のラインを伝って床へとたらりと落ちる。

 しばしの沈黙の後、ひび割れた乾いた唇が、幽かに開いた。

 

「……異常は……ない」

 

 掠れた声が石室に落ちた、まさにその瞬間だった。

 

 ガツッ、と鈍く重い音が響く。

 

 レオンハルトの靴先が、ノクトの頬を容赦なく打ち抜いていた。

 

 首が強く弾かれ、ノクトの身体が横ざまに石床へ倒れ込む。

 

「なんだ、その言い方は」

 

 ノクトは床に倒れたまま、しばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと身体を起こし、頭を伏せた。

 

「申し訳ございません」

 

 血の滲んだ唇から、低い声が漏れる。

 

「異常は、ございません。アズ……レイ様は、ご無事のようです」

 

 間髪入れず、容赦のない蹴りが叩き込まれた。

 

 今度は、腹だった。

 

 防御する気がないのか、ノクトは力を抜いたまま、その蹴りをまともに受ける。靴先が深く急所へ入り、身体が前のめりに折れた。

 

 それでも、ノクトは声を漏らさなかった。

 

「名前でつまずくようでは、まだ懲りていないらしいな」

 

 レオンハルトは、床に崩れた男を冷ややかに見下ろした。

 

 しばしの沈黙。

 

 やがて、彼は小さく息を吐く。

 

「まぁいい。この続きはまた後だ。とりあえず今は、アズリルの安全確保を最優先とする」

 

 レオンハルトはそれきり興味を失ったように踵を返すと、部屋の出口付近に控えていた衛兵たちに向かって冷たく言い放った。

 

「解放してやれ」

「はっ」

 

 兵たちは一斉に直立不動の敬礼を捧げると、手際よくノクトの元へと駆け寄り、身体を縛り付けていた数々の重い鉄鎖を外し始めた。手際よく水を飲ませ、最低限の応急処置を施していく。

 

 レオンハルトがそのまま重々しい鉄扉を開けて部屋を出ると、すぐ脇の壁に、長い黒髪の男がもたれかかっていた。

 

 イルミだった。

 

「なんか、俺のせいでノクトに悪いことしたみたいだね」

 

 まったく悪びれていない、平坦な声だった。

 

 レオンハルトは足を止め、幼馴染の横顔を見る。先ほどまでの冷え切った表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「イルは悪くないよ」

 

 穏やかにそう言う。

 

「どっちにしろ、遅かれ早かれバレていたさ。あいつには、隠し事をする知恵も度胸もないからな」

「そう?」

 

 イルミは首を傾げながら、レオンハルトの隣に並んだ。

 

 二人は、煌びやかな王宮の廊下を歩き始める。磨き抜かれた床に、規則正しい足音が静かに響いた。

 

「それにしても、ハンター試験のあとにあいつを見た時は驚いたよ」

 

 イルミが、何気ない調子で言う。

 

「あんなこともできちゃうんだ。新しい能力か何か?」

「いや」

 

 レオンハルトは即答した。

 

「あれは、ただ素でやっているだけだろう。あいつの念で、あれほど器用なことができるとは思えない」

「……マジ?」

 

 イルミが、珍しくきょとんとした顔でレオンハルトを見た。

 

「だって、あの時のノクト、完全にレオそのものだったよ。俺に対しての話し方や、アズレイに対する態度まで、信じられないくらいそっくりだった。ただの振る舞いだけで、人間ってあそこまで他人に化けられるものなのかな」

 

 レオンハルトはその言葉を聞いた瞬間、何かを思い出したように、チッと低く不快そうに舌打ちをした。

 

 イルミが目だけを向ける。

 

「……すまない。別に、お前に怒っているわけではない」

 

 そう言ったものの、レオンハルトの目は冷え切っていた。

 それ以上の追及を避けるように、イルミは自然な口調で話題を切り替える。

 

「それよりレオ、大丈夫なの?」

「何が」

「こんな時に、ノクトをあんな状態にして。暗殺されかけたんでしょ? それに犯人もまだ──」

「平気だ」

 

 レオンハルトは淡々と言った。

 

「あいつは、あのような状態に叩き落とされていようとも、与えられた仕事だけは完璧にこなす。そういう風に仕込んである」

「……まあ、それもそうか」

 

 イルミは納得したように頷いた。

 

「それよりも、今は犯人の特定と、王宮内への侵入ルートを早急に解明せねばならん。あのような不祥事が再び起こるなど、オルドヴィアの威信にかけて、絶対に、二度とあってはならない」

 

 レオンハルトはある重厚な二重扉の前でピタリと足を止めると、イルミの方へと向き直った。

 

「そのためにこそ──あなた方、ゾルディック一家を招集したのだからな」

 

 そう言い残すと、レオンハルトは迷いなく目の前の大扉を左右に押し開いた。

 イルミは「そうだったね」と小さく呟きながら、彼の影に従うようにして部屋の中へと足を踏み入れた。

 

 広大な最高会議室の中央には、贅を尽くした大理石の長テーブルが鎮座していた。

 

 それを囲むように腰掛けているのは、いずれも一国の命運を左右し、あるいは世界の裏側にまで名を轟かせる怪物たちだった。

 

 入口に近い席には、オルドヴィア帝国の各部隊を率いる将官たちが、重苦しい顔で並んでいた。

 

 その奥には、シルバ=ゾルディック。

 隣には、ゼノ=ゾルディック。

 さらに、アイザック=ネテロ。

 

 そして、長いテーブルの最奥。

 上座に座していたのは、皇帝ヴィクトル=オルロフだった。

 

 レオンハルトは入り口付近、すなわちヴィクトルのちょうど真向かいに位置するテーブルの端に腰を下ろした。イルミは流れるような動作で奥へと進み、父であるシルバの隣の席へと収まる。

 

「待たせてすまなかった」

 

 レオンハルトは、錚々(そうそう)たる面々を前にしても、少しも揺らがない口調で言った。

 

「少々、どうしても済ませねばならない所用があってね」

 

 何をしていたかなど、分かりきっているくせによく言う。

 ヴィクトルは内心でそう思いながらも、表情には出さなかった。

 

 代わりに、重く低い声で告げる。

 

「よい。時間は惜しい。本題に入る」

 

 

 

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