※念を流し込まれる描写など、ややR-15寄りに感じられる表現があります。
「っ……、は、あ……っ」
湿った土の匂いが立ち込める森の中に、アズリルの乱れた呼吸が響いていた。
身体を支える力さえ失い、アズリルはジンの胸元へ倒れ込んでいる。その細い肩を、ジンの大きな手がしっかりと捕らえて離さない。
肌の合わさる部分から、正体の知れない獰猛な熱が、皮膚の内側を無理やり押し広げるように容赦なく流れ込んでいた。
「……っ!」
異物が身体の奥深くを侵食していくたび、アズリルの身体がびくりと強張る。
「力抜けって。拒んだまま俺が無理やりこじ開けりゃ、お前の身体が壊れる」
耳元でジンの声が低く響いた。
その言葉に、アズリルの呼吸がさらに浅くなった。逃れようとしても、身体にはもう力が入らない。縋るようにジンの服を掴み、流れ込んでくる熱に耐えるしかなかった。
なぜ、こんなことになっているのか。
──遡ること、数分前。
ジンとアズリルは、池のほとりに並んで腰を下ろし、二人そろってジンの手元にある
開かれたページには、四枚のカードが並んでいる。どれもどこか愛嬌のある絵柄で、まるで子供向けの絵本か、遊戯用の玩具のようにも見えた。ジンは妙に満足げな顔で、それらを眺めている。
「まあ、こればっかりは実際に試してみねえと、どうなるか分からねえんだけどな」
「試す……って、何を?」
「とりあえず、一回だけ付き合え」
そう言うなり、ジンの手がアズリルの肩へ伸びてきた。
そこで、アズリルははっと我に返る。
「……いやっ!」
反射的に上体を後ろへのけぞらせ、その手を拒むように避けた。
「いやって……」
ジンは伸ばした手を宙に止め、少しばかり心外そうに眉を寄せた。
アズリルは、もううんざりしていた。
まただ、と思う。
またこの男は、ろくな説明もなしに勝手に何かを始めようとしている。世界樹の時も、指輪を嵌められた時も、ここへ連れてこられた時もそうだ。そして今も、きっと同じように。
アズリルは左手の薬指に収まった金色の指輪をちらりと見下ろした。それから、警戒を隠そうともせず、ジンを強い目で見上げる。
「ちゃんと説明して」
「あ?」
「何をするつもりなのか、先に言って。僕はもう、何も分からないまま連れて行かれるのは嫌だ」
ジンはしばらくの間、黙ったままアズリルを見つめていた。
面倒そうに片眉を寄せたまま、伸ばしかけていた手を引き戻す。
「……仕方ねえな。もうどこかへ連れてくつもりはねえよ」
ジンは頭をがりがりと乱暴に掻いた。
「何から話すか……まずは、今いる場所のことからだな」
そう言って、片手を地面へぽんと置く。
「ここは、俺と仲間で作ったゲームの中だ」
一瞬、言葉の意味が脳に結びつかなかった。
「……ゲーム?」
アズリルはゆっくりと周囲を見回す。
すぐ傍には、静かに水を湛えた池がある。澄んだ水面には、周囲の木々と青空が鏡のように映り込んでいた。
風が通り抜けるたび、頭上の枝葉がざわざわと揺れる。濃い緑の匂いと、微かな水の香りが鼻腔をくすぐった。
どこからどう見ても、ここが人の作ったゲームの中だとは思えなかった。
「正確には、島そのものは本物だ。ヨルビアン大陸の東にある実在の島に、俺たちがゲームの仕組みを組み込んだ」
「実在する島に……ゲームを?」
「ああ。だから木も水も空も、全部本物だ」
アズリルはさらに眉をひそめた。
島にゲームの仕組みを組み込む。
それがどういうことなのか、まるで想像がつかなかった。
「……どうやって?」
「念だ」
ジンはあっさりと答えた。
「ねん……?」
聞き慣れない言葉に、アズリルは小さく首を傾げる。
ジンはすぐには続きを口にしなかった。
念は、誰にでも気軽に教えていいものではない。知れば、それまで見えなかった世界へ否応なく足を踏み入れることになる。まして、扱い方を誤れば命に関わる力だ。
ここで教える以上、知識だけ与えて放り出すわけにはいかない。
ジンはアズリルをじっと見つめた。
何も知らない青い瞳が、答えを待っている。
やがて小さく息を吐き、腹を決めたように口を開いた。
「……いいか。今から話すことは、普通に生きてりゃ知らずに終わる類のもんだ。一度知ったら、知らなかった頃には戻れねえ」
アズリルの表情が、わずかに引き締まる。
「それでも聞くか?」
少しの間を置いて、アズリルは頷いた。
ジンはその答えを確かめると、自分の胸元を指先で軽く叩いた。
「生き物は誰でも、生命エネルギ──―『オーラ』ってもんを持ってる。ただ、普通の人間はそれを身体の外へ垂れ流してるだけで、自分じゃ気づいてもいねえ」
アズリルは思わず、自分の胸元へ目を落とした。
「念ってのは、身体から流れ出るオーラを周囲に留めたり、自分の意思で操ったりする技術だ。まあ、細かい理屈は端折るが、身体を頑丈にしたり、気配を消したり、攻撃を強くしたりできる。もっと複雑な使い方をすりゃ、物を作ったり、他人を操ったり、遠くへ移動したりすることもできる」
ジンは手元の本を軽く持ち上げた。
「このゲームは、そういう念の使い方をいくつも組み合わせて作ったもんだ。島への移動も、ブックも、カードも、全部な」
アズリルは黙り込んだ。
そんな絵空事のようなものが、本当に存在するのか。最初はそう疑った。
けれど、世界樹の上へ飛ばされた時も、こうして見知らぬ島へ一瞬で連れてこられたことも、折れた腕が突然治った時もそうだ。常識では説明のつかない現象が、確かにこの身に起きている。
ならば、信じるしかなかった。
アズリルは自分の両手を見下ろした。
手のひらを返し、指をいっぱいに開いて、じっと目を凝らす。皮膚の表面から何かが流れ出ていないか、少しでも見逃すまいとしているらしい。
けれど、どれほど睨んでも、見えるのはいつもと変わらない自分の手だけだった。
「……見えない」
しょんぼりと眉を下げて呟くと、ジンが小さく噴き出した。
「そりゃそうだ。聞いた直後に見えるなら、誰も苦労しねえよ」
「でも、そのオーラっていうのは、今も僕の身体から出てるんだよね?」
「ああ。だだ漏れだ」
ジンはにやにやしながら、アズリルの全身を包むオーラへ目を向けた。
薄いオーラが、頭のてっぺんや肩口から、湯気のようにちょろちょろと漏れ出している。
「だだ漏れ……」
自分の命を形作る力が、今この瞬間も身体から漏れ続けている──。
そう理解した途端、アズリルははっと大きく目を見開いた。
それから慌てて両腕を胸元へ回し、自分の身体をぎゅっと抱きしめる。まるで、今にも零れ落ちてしまいそうな何かを、腕の中へ必死に押し留めようとするかのようだった。
その反応に、ジンは一瞬目を丸くした。
本人はいたって真剣なのだろう。だが、小さく身体を丸めて自分を抱え込む姿は、妙に愛嬌のあるものに映った。
ジンはとうとう堪えきれなくなり、喉の奥でくくくと笑い出す。
アズリルはむっと眉を寄せ、頬を膨らませた。
「ま。お前が本気でハンターになるつもりなら、この先、嫌でも覚えることになる」
その言葉に、アズリルは顔を上げた。
自分もいつか、この不思議な力を扱えるようになる。
胸の奥に小さな期待を覚えながら、素直に頷いた。
「で、話を戻すぞ」
ジンは再び手元の本を持ち上げた。
「このブックもカードも、念が使えることを前提に作られてる。本来は、プレイヤーがカードを集めたり、その効果を使ったりしながら進めるゲームだ」
そこで、ジンは本の表紙を指先で軽く叩いた。
「俺は、その仕組みをお前の訓練に使えねえかと思ってる」
アズリルは真剣な眼差しで本を見つめた。
「でも、それって……念が使える人じゃないとできないんだよね?」
「そうだ」
ジンはわずかに口の端を持ち上げる。
「そこに気づくなら上出来だ」
「じゃあ、本来なら僕には使えない。それでも試すってことは……ジンの念を使って、僕にも動かせるようにするつもり?」
ジンの目が、面白そうに細められた。
なんだ。きちんと話についてきている。
それどころか、思った以上に核心を突いてきた。
「お前の言う通りだ。念を使えねえ人間は、本来ならここまで来ることも、ブックを出すことも、カードを使うこともできねえ」
「……でも、僕はここにいる」
「ああ。来る時のこと、覚えてるか? 俺がお前の肩を掴んだだろ」
アズリルは思考を巡らせ、はっと顔を上げた。
「あの時、ジンの念で僕をここまで移動させたってこと?」
「ビンゴ」
「じゃあ、この指輪も……そのための道具?」
「それは、ブックを出したりカードを使ったりするために必要な、ゲームの仕掛けの一部だ。要するに、プレイヤーだってことを島に認識させるための道具だな」
「……本当に?」
「そこだけやけに疑い深いな、お前」
ジンは盛大なため息をついた。
「とにかく、次はその指輪とカードを使う。問題は、念を使えねえお前に、どうやってゲームを動かさせるかだ」
そこで、ジンは何か企んでいるように、にんまりと笑った。
「で、ひとつ思いついた。俺の念をお前の中に通すんだ。お前の身体を借りて、こっちからゲームに命令を出す」
「ここへ来た時も、そうしたの?」
「いや。あの時は、俺の念でお前を一瞬包んだだけだ。転送そのものは、こっちの仕組みに任せりゃよかったからな」
ジンは手元の本をぱたんと閉じた。
「だが、ブックを出したりカードを使ったりするには、お前自身がゲームを操作してるって形にしなきゃならねえ。だから今回は、俺の念をもう少し深くお前の中へ入れる」
「……僕が念を覚えればいいだけの話では?」
当然のように言うと、ジンは呆れ果てたように片眉を上げた。
「簡単に言うな。普通に覚えようとすりゃ、まともに使えるようになるまで何か月もかかる。才能があったって、今日明日でどうにかなるもんじゃねえよ」
「……なんだ」
アズリルは目に見えて肩を落とした。
──まあ、このやり方で、結果的には無理やり目覚めさせることになるかもしれねえけどな。
そんなことは口に出さず、ジンは再びアズリルの肩へ手を伸ばした。
今度は、アズリルも避けなかった。
「俺の念をお前の身体に通して、内側からゲームを動かす。上手くいけば、お前自身がブックやカードを使ってる形にできるはずだ」
実際のところ、ジンにとっては半分以上が興味本位だった。
念の存在すら知らず、オーラで身を守る術も持たない、いわば無防備な身体へ自分の念を通す。その身体を介して、どこまで正確にゲームの仕組みへ干渉できるのか。
さらに、他人の内側へ流し込んだ念を、外からどこまで細かく操れるのか。
どちらも、ジンがこれまで一度も試したことのない方法だった。機会があれば、いつかやってみたいと思っていた。もちろん、進んで実験台になってくれるような都合のいい相手など、これまでいるはずもなかった。
ジンの瞳の奥に、子供のように無邪気で、それゆえにひどく危うい好奇心が灯った。
伸びてくる無骨な手を見つめながら、アズリルはわずかに身を強張らせる。
「じゃあ、試すぞ。来る時より長く念を当て続ける。気持ち悪くなるかもしれねえが、騒ぐんじゃねえぞ」
ジンの手が、アズリルの肩に置かれた。
次の瞬間、外側から全身を強く締めつけられるような、凄まじい圧迫感が襲ってきた。
「っ……」
息が詰まる。
転送された時にも感じた、あの根源的な不快感。けれど今度は、一瞬では終わらない。
肩に置かれたジンの手を起点に、見えない圧がじわじわと全身へ広がっていく。
肩から胸へ、胸から腹へ。
まるで目に見えない濃密な膜が皮膚の上にぴたりと張りつき、外側から身体を締めつけながら、無理やり内側へ入り込もうとしていた。ただ座っているだけなのに、身体の芯から熱が浮き上がり、平衡感覚がとろけていく。視界が揺れ、胃の奥がひっくり返るような吐き気と、どこか痺れるような感覚が背筋を駆け上がった。
「外から押されてるのが分かるか?」
耳元で響くジンの声が、妙に鼓膜を震わせる。アズリルはかろうじて頷いた。
「それが俺のオーラだ。少しずつ中に入れろ。力を抜いて、押し返すのをやめろ」
「……っ」
「拒んだまま俺が無理やりこじ開けりゃ、お前の身体が壊れる」
壊れる。
その言葉を聞いた途端、アズリルの身体は恐怖でさらに強張った。
「だから固まるな。力を抜け。押し返そうとすんな」
入れてはいけない。
これは、自分の中へ入れてはいけないものだ。
本能が、全力でそう訴えている。
それでも、ジンの手から伝わる熱は容赦なくアズリルの境界を押し広げようとしていた。頭の奥がぐるぐると回り、呼吸が浅くなる。
アズリルは必死に理性を繋ぎ止めた。短く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
少しずつ。指先から緊張をほどいていくように、肩の力を抜いていった。
すると、外から身体を押し潰していた圧が、わずかに形を変えた。
押し返していた力を失った隙間へ、どろりとした熱を帯びた質量が、一気に体内へ滑り込んでくる。
「……っ、ふ、あ……」
異物が皮膚を越え、身体の内側へ入り込んでくる。血管を、神経を、隅々まで侵食し、満たしていく。
気持ち悪い。
「そうだ。そのまま」
ジンは、目の前の少年の身体へ自分のオーラがゆっくりと行き渡っていく感覚に意識を集中させた。
「外から押される感じが少し弱くなったら、俺が『ブック』と唱える。お前はそのまま力を抜いてろ」
アズリルは返事をしようとしたが、喉の奥から嗚咽まじりの吐息が漏れただけだった。身体が傾くたび、ジンの手が肩を強く押さえ、崩れ落ちるのを支える。
どれほどの間、他人の熱が身体の中へ流れ込んでくる感覚に耐えていただろう。
やがて、アズリルの内側が満たされきった、その時。
外側から身体を締めつけていた圧が、ふっと緩んだ。
ジンの目が鋭く細められる。今だ。
「ブック」
ぽん、と軽い音が響いた。
次の瞬間、アズリルの手元に、先ほどジンが出したものと同じ本が現れていた。
「お。いけた、いけた。すげえな」
ジンは思いがけず実験が成功したことに、素直に感心したようだった。
アズリルは肩を上下させながら、荒い息を吐き出す。外からの圧迫感はいくらかマシになったものの、今度は自分のものではない獰猛な何かが、身体の内側をぐるぐると巡っている。胃の奥が波打ち、強烈な吐き気が込み上げていた。
涙の滲んだ目で、アズリルはジンを見上げた。次はどうすればいいのか。声を出す余裕もなく、視線だけで問いかける。
しかしジンは答えず、何かを確かめるように、アズリルの反応をじっと見つめていた。
「……ジン?」
「あ、悪い」
呼びかけられ、ジンは我に返ったように瞬きをした。
「次は、俺がお前にカードを渡す。それを自分のブックに入れろ」
ジンはもう一度「ブック」と唱えた。
現れた自分の本を開き、そこから二枚のカードを抜き取る。
「使いたいのは、この二つだ」
アズリルは震える手でカードを受け取った。
一枚には、眠たげな顔をした少女。
もう一枚には、妖精のようなものが描かれている。
アズリルは言われるまま、二枚のカードを自分のブックへ収めた。
「次は、そのうち一枚を持て。俺が『ゲイン』と唱える」
ジンの手は、まだアズリルの肩に置かれたままだった。
そこから流れ込んでくる念は、途切れていない。
もう、限界に近かった。
吐き気が止まらない。視界が上下に揺れ、身体に力が入らなくなる。
ふいに上体が傾き、アズリルの額がジンの胸元へこつんと当たった。
ジンは、自分にもたれかかった少年を見下ろした。
ふわりとした蜂蜜色の髪が胸元に触れている。その下では、細い肩が息をするたびに苦しげに上下していた。
「限界か……? さすがに、他人の念を身体に通すのはきついか」
ジンが低く呟く。
アズリルは荒い息を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……できる」
滲んだ視界の向こうで、アズリルはまっすぐにジンを見つめた。
それから、自分の肩に置かれたジンの手へ、そっと自分の手を重ねる。
その思いがけない仕草に、ジンは重ねられた手へ意外そうに視線を落とした。
アズリルはそのまま意識を集中させ、重ねた手の下から流れ込んでくるものを探った。
力を抜けば、流れは一気に速くなる。すると、体内へ入り込んだ異物が行き場を失ったように暴れ回り、意識まで引きずられそうになった。反対に身体を強張らせれば、今度は外から押し込まれる圧が増し、吐き気もひどくなる。
ならば、ただ受け入れているだけでは駄目だ。
身体の内側を巡る道筋を変える。
中で暴れている物を、少しでも苦しくない場所へ逃がすように、意識を向ける。
「……お前」
ジンの目が、わずかに見開かれた。
「念も使えねえのに、ずいぶん器用なことするじゃねえか」
けれど、その声はアズリルの耳にはほとんど届いていなかった。
まだ速すぎる。
強すぎる。
逃がすだけでは、追いつかない。
もっと静かに。
自分の思う通りに、動かしたい。
そう願った瞬間、何かが変わった。
ただ押し込まれるだけだったジンの念が、アズリルの意識へ絡みつくように動きを変えた。
それまでジンが握っていた流れの主導権が、わずかにアズリルの側へ傾く。
次の瞬間、肩に触れた手を通じて、ジンの念が一気に引き込まれた。
「待て」
異変を察したジンの声が、鋭く響いた。
「おい、ちょっと待て。何して──」
その制止よりも早く、アズリルの指が動いた。
二枚のうち、眠たげな少女の描かれたカードを選び取る。
「……ゲイン」
カードが眩く光った。
次の瞬間、目の前に、眠たげな顔をした少女が現れた。