最後の方少しだけR15です。
次回からいよいよ旅立ちに近づいていきます。
アズレイは、その場で固まっていた。
ノクトと二人きりで話す。
そんなことは、今までほとんどなかった。少なくとも、こうして自分の部屋で向かい合うことなど一度もない。最初の、あの頃を除いては。
ノクトは静かに部屋へ入った。ただし、扉は完全には閉めずに、ほんの少しだけ隙間を残していた。
それから、アズレイと正面から向き合った。
「……えっと」
何か言わなければと思うのに、うまく言葉が出てこない。
いつも兄の斜め後ろにいる黒衣の騎士が、今は自分の部屋で、自分だけを見ている。そのことに気づいた途端、心臓がさっきの取っ組み合いよりずっと激しく脈打ち始めた。
「お茶……」
アズレイは慌てて茶器の方へ手を伸ばした。けれど、茶はとうの昔に冷めきっている。
「あ」
「お構いなく」
ノクトは淡々と言った。
その声に、アズレイは余計にどうしていいか分からなくなる。
椅子に座らせるべきか。立たせたままでは失礼か。けれど、改めて向かい合うのも妙に緊張する。
迷った末に、アズレイは寝台の縁へ腰かけた。
「……ここ、どうぞ」
言ってから、すぐに後悔した。
さっき兄と散々暴れたせいで、寝台はぐしゃぐしゃだった。掛け布も乱れ、枕も斜めになっている。王族の寝台とは思えない有様だ。
そのうえ、今さら気づく。
ノクトを、自分の寝台の隣へ招いてしまったのだ。
頬が熱くなる。
ノクトは乱れた寝台へ一瞬だけ目を落とした。ほんのわずかに、指先が止まる。
その脳裏に、先ほどレオンハルトが耳元で囁いた言葉がよみがえった。
けれどノクトは何も言わず、静かに頭を下げる。
「失礼します」
そして、本当に隣へ座った。
寝台がわずかに沈む。
アズレイは息を止めそうになった。
肩が触れるほど近いわけではない。それなのに、隣にある気配がはっきりと分かる。黒衣からは、かすかに革と鉄の匂いがした。祝宴の香水や花の匂いとは違う、外の空気に近い匂いだった。
ノクトは膝の上に両手を置き、まっすぐ前を見ている。
沈黙に耐えきれなくなったのは、やはりアズレイの方だった。
「あの……渡したいものって?」
ノクトはそこで、ゆっくりと懐へ手を入れた。
取り出したのは、細い黒革の紐だった。
派手な飾りはない。ただ、よくなめされた黒い革紐が、丁寧に巻かれている。
アズレイはそれを見つめた。
「……これ?」
「はい」
ノクトは短く答えて、アズレイの左手へ視線を落とした。
「失礼しても?」
アズレイは素直に手を差し出した。
ノクトの指が、アズレイの手首に触れる。
その瞬間、アズレイは思わず肩を強張らせた。ノクトの手は冷たくはなかった。むしろ、思っていたより温かい。けれど節ばった指の硬さや、皮膚の下にある力が、はっきりと伝わってくる。
ノクトは丁寧に革紐を巻き、結び目を作った。
一度。
二度。
最後に、ほどけないよう指先で形を整える。
「結び目が解けたら、帰る合図だと思ってください」
アズレイは手首の革紐を見下ろした。
「どういうこと?」
「……おまじないのようなものです」
「おまじない?」
アズレイが顔を上げる。
ノクトは表情を変えないまま、小さく首を縦に振った。
「あなたに危険が迫ったとき、その紐が切れるようにしてあります」
アズレイは目を瞬かせた。
「そんなこと、できるの?」
ノクトは少しだけ頷いた。
アズレイはもう一度、手首の革紐を見下ろした。
「……切れたら、帰る?」
「はい」
ノクトは迷いなく答えた。
「切れたら、それ以上は進まず、戻ってきてください」
アズレイは革紐にそっと触れた。
黒い革が、白い手首に細く巻きついている。宝石をあしらった飾り紐や腕輪よりもずっと地味なのに、不思議と目が離せなかった。
「……嬉しい」
その言葉は、考えるより先に零れていた。
ノクトの表情がほんの少しだけ動いた。
目元が緩んだのか、あるいは灯りの加減だったのか、アズレイには分からない。
しばらく、アズレイは手首の革紐を見つめていた。
何か話したい。
せっかく、こうして二人で向かい合っているのだから。
旅のことでも、昔のことでもいい。
ノクトの声を、もう少し聞いていたかった。
けれど、いざ言葉を探そうとすると、胸の奥ばかりが忙しくなって、何を言えばいいのか分からなくなる。
先に沈黙を破ったのは、ノクトの方だった。
「……城の外へ出られても、どうか無茶はなさらないでください」
ノクトはまっすぐにこちらを見ていた。いつものように表情は静かだったが、その声には重みがあった。
「レオンハルト様が心配なさいます」
アズレイの眉が、ぴくりと動いた。
そして拗ねたように視線を落とした。
「ノクトも、父上と同じことを言うんだね」
ノクトはすぐには答えなかった。
「皆様が同じことを仰るのは、それだけ案じておられるからです」
それから、少しだけ声を落とす。
「七日間、お部屋から出てこられなかった時のことを、覚えておいでですか」
アズレイの指先が、革紐の上で止まった。
「……うん」
「知らせが届いたのは、遠方の領地でのご公務の最中でした。アズレイ様が誰とも口を聞かず、お食事にも手をつけておられないと聞き、レオンハルト様はためらうことなく冬宮への帰還をお決めになりました」
アズレイは視線を落とし、手首の革紐を指先でなぞった。
責められているわけではないと分かっているのに、胸の奥が少し痛む。
「表では、いつも通りに振る舞っておられました。侍女たちを安心させ、師範たちを下がらせ、典医には必要な指示を出していました」
ノクトの声は淡々としていた。
けれど、その静けさの奥に、当時の記憶の重さが沈んでいるようだった。
「ですが、夜になると何度も典医を呼び、食事がどれほど残っていたか、水は減っていたかを確かめておられました。部屋へ戻ってもほとんどお休みにならず、侍女長の報告を待っておられた。しまいには、あなたに嫌われることになっても、力ずくで典医の処置を受けさせるべきかと、真剣に悩んでおられました」
アズレイは息を呑んだ。
「……そう、だったんだ」
ノクトは小さく頷く。
アズレイは何も言えなかった。
兄は、あの時も笑っていた。
扉の向こうから聞こえた声も、いつも通り軽かった気がする。
拗ねるなよ、と。
喉が渇いただろ、と。
出てきたら、今日は何も聞かずに隣にいてやる、と。
そんなふうに。
「レオンハルト様は、あなたが城の外へ出ることを、最初から快く受け入れておられたわけではありません」
ノクトは静かに言った。
「むしろ、反対しておられました。おそらく誰よりも」
アズレイは目を見開いた。
その言葉は、思っていたより深く胸に刺さった。
「兄上が……?」
「はい」
ノクトの目元に、当時を思い出すような静かな色が浮かぶ。
「ですが、最後にはあなたの味方をなさいました。皇帝陛下を説得し、条件を明確にし、約束として残させた。あなたがただ閉じ込められたままにならないように」
アズレイは唇を結ぶ。
兄は賛成してくれているのだと思っていた。
少なくとも、父よりはずっと軽く送り出してくれているのだと。
「……兄上、そんなこと一言も言わなかった」
「言えば、あなたが迷うと思われたのでしょう」
ノクトの声が、少しだけ柔らかくなる。
「アズレイ様。あなたが思っている以上に、皆、あなたを心配しています」
ノクトは視線を落とし、アズレイの手首に巻かれた革紐を見た。
「ですから、その紐が切れた時は、どうか戻ってきてください」
アズレイは革紐にそっと触れた。
「……うん。わかった」
小さく頷くと、ノクトも静かに目を伏せた。
それきり、しばらく沈黙が落ちる。
兄上に、ずいぶん心配をかけていたのだと、今さら胸の奥が痛くなった。
あの時は、自分の願いで頭がいっぱいだった。扉の外にいる人たちがどんな顔をしているのか、考えようともしなかった。
けれど、いつまでも俯いているわけにもいかない。
少しずつ気持ちが落ち着いてくると、今度は別のことが気になり始めた。
ノクトが、すぐ隣にいる。
ちらりと横を見る。
黒衣の騎士は、相変わらず感情の読めない横顔をしていた。
もう少し、話したい。
そう思った、ちょうどその時だった。
ノクトが静かに立ち上がった。
「夜分に長居をいたしました。そろそろ失礼いたします」
「あ……」
思わず声が漏れる。
立ち上がったノクトの影が、アズレイの視界を一瞬覆った。
広い肩と、黒い外套。さっきまで隣にあった気配が、急に遠くなる。
胸が、どきりと跳ねた。
「お休みなさいませ、アズレイ様」
ノクトはいつものように静かに頭を下げる。
そのまま扉へ向かおうとする背中を、アズレイは目で追った。
言いたいことはあった。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
このまま扉が閉まれば、明日の朝にはもう城を出る。
そう思った瞬間、身体の方が先に動いていた。
「待って」
ノクトの足が止まる。
アズレイは寝台から立ち上がり、思わず黒衣の袖を掴んでいた。
自分でも驚くほど、強く。
ノクトが振り返る。
その視線を受けて、アズレイは急に恥ずかしくなった。けれど、手を離すことはできなかった。
「……もう少しだけ、いて」
声は小さかった。
それでも、部屋の静けさの中では十分すぎるほどはっきり響いた。
ノクトは答えるまでに、一拍だけ遅れた。
ノクトの視線が、アズレイの手元へ落ちた。
小さい指が、黒い袖をぎゅっと掴んでいる。
その手首には、先ほど自分が結んだ黒い紐が巻かれていた。
白い肌の上で、それだけがやけに目立って見える。
まるで……自分がそこに痕を残したようだった。
ノクトは一瞬だけ息を止める。
「……アズレイ様」
「少しだけでいいから」
アズレイは俯いたまま言った。
袖を掴んだ手を離さないまま、ほんの少し身を寄せる。
それだけでは足りなかったのか、アズレイはもう一歩だけ近づいた。
そして、黒い外套の端に額をそっと寄せる。
警告のように、レオンハルトの声がノクトの脳裏をよぎった。
『距離を見誤るな』
ノクトはそのまま動かず、立っている。
しばらくして、アズレイの口から零れたのは、息苦しそうな小さな声だけだった。
「……おやすみ、ノクト」
ノクトの足が、ほんのわずかに動く。
「……はい」
アズレイは袖を離した。
俯いたまま、身を引く。
ノクトはしばらく、その姿を見ていた。
何かを言いかけたようにも見えた。けれど結局、言葉にはしなかった。
扉へ向かいかけて、彼は一度だけ振り返る。
そして、低く答えた。
「良い夢を」
扉が音もなく開き、そして閉まる。
部屋に残されたアズレイは、しばらく動けなかった。
胸が、変に苦しい。
走ったわけでもないのに、息が上がっている。
こんな感覚は、初めてだった。
アズレイは俯いたまま、のろのろと寝台へ戻った。
そのまま倒れ込むように身を沈め、深く息を吐いた。
そっと手首を持ち上げる。
夢ではなかったと確かめるように、指先で結び目を探った。
アズレイはそれを愛おしむように撫で、そっと唇を寄せた。
それからしばらく、身体の奥に残った熱をどうにか逃がすように、布団の中で小さく身を縮めた。
目を閉じれば、ノクトの低い声が耳の奥に戻ってくる。
袖の感触も、黒衣に染みついた外の夜の匂いも、まだすぐそばにあるようだった。
声が漏れそうになるたびに、アズレイは唇を強く噛んだ。
呼吸は乱れ、身体の奥に残った熱は、逃がそうとするほど強くなっていく。
「……っ」
やがて身体が小さく震えた。
アズレイはしばらく動けずにいたが、ゆっくりと手首を胸元に寄せる。
黒い革紐を抱えたまま、いつの間にか眠りへ落ちていった。