そして池で目にした、寄生虫に身体を支配された宿主の末路。
小さな命に向けたアズリルの言葉と涙は、彼の内側に潜む物に対するジンの疑念を、さらに深めることになる。
アズリルはしばらくの間、全身を強張らせたまま、暗い森の奥を睨み続けていた。
自分のシャツを羽織った少女をそっと抱き上げ、太い木の根が作る窪みへと移した。その身体を傷つけないよう慎重に横たえると、アズリルは少女を背に庇うようにして、その前へ立った。
──ウサギみてえな雑魚から、油断すりゃ一撃で首を飛ばされるような奴まで。
先ほどジンが口にした言葉が、頭の中で何度も繰り返される。そんな危険な獣たちが、今まさにこの暗闇のどこかで蠢いているのだ。
アズリルはごくりと唾を呑み込んだ。
周囲はすっかり夜の闇に包まれ、頭上を覆う木々の隙間から、わずかな月明かりが差し込んでいるだけだった。辺りは薄暗く、数歩先の茂みさえ、その奥を見通すことができない。
アズリルは浅く息を潜め、葉擦れの音や枝の軋み、その一つ一つに神経を尖らせていた。
身体については、確かにジンの言ったとおりだった。初めのうちは、立っているだけでも足が震えるほど消耗していたはずなのに、時間が経つにつれ、重かった身体が不思議なほど軽くなっている。
背後で自分の代わりに深い眠りについてくれている『睡眠少女』──その能力のおかげなのだろう。
だが、身体の疲労がリセットされても、精神の摩耗までは防ぎきれないらしい。ここ連日の緊張状態に加え、いつ敵が襲ってくるかわからない極限状態に、アズリルの脳はとうに疲弊し切っていた。
(あと一週間も、こんな状態で耐えなきゃいけないの……?)
休むことも眠ることもなく、常に敵の襲撃に備え続け、戦闘モードのままでいなければならない。どれだけ物理的に身体が休まっていようと、このままでは心が先に焼き切れてしまう。
そう察したアズリルは、意識して深呼吸をし、強張っていた肩の力をふっと抜いた。もう一度周囲の闇を警戒するように見回してから、窪みの中の少女を守るようにして、地面へそっと腰を下ろし、いつでも立ち上がれるよう片膝だけを立てた。
ジンがいるはずの頭上の大枝をちらりと仰ぎ見た。
しかし、暗闇に紛れた枝の上は、いくら目を凝らしても何も見えなかった。
(見ててくれてるのかな、あの人……)
少しだけ不安になりながら、アズリルは自分の両手へ視線を落とした。
その周りには、今もオーラが揺らめいている。
青白い光の中へ、赤いオーラが細い帯のように混ざり込み、互いに絡み合いながら静かに巡っていた。やはり、何度見ても綺麗だった。
ジンは、アズリルが自分のオーラを吸収したのだと言っていた。だとすれば、この赤い光がそうなのだろう。先ほどジンの身体を包んでいたものと、まったく同じ色をしている。
アズリルはしばらく、自分の指先を覆う二色の光を飽きることなく眺めていた。
時折顔を上げて辺りを確認してみるものの、敵らしい気配は一向に現れない。
それから数時間。何も起きないまま時間が過ぎ、アズリルは完全に退屈し始めていた。初めこそ小さな音にも身を固くしていたアズリルだったが、さすがに集中力が続かなくなってくる。
ただ闇を見つめ続けて精神をすり減らすより、別のことをしていたほうがいい。
そう考えたアズリルは、再び手元のオーラへ意識を向けた。
ジンの話では、森のモンスターと戦うためには、念を使わなければならないらしい。けれど、具体的にどう使えばいいのかは、何一つ教えられていなかった。
(やっぱり、こう……ヒーローみたいに、手からビームを出すのかな……)
アズリルは手のひらの上へオーラを集め、細長く伸ばそうとした。オーラを外へ押し出し、先端を尖らせて、いかにも飛び出しそうな形を作ってみた。
もちろん、ビームにはならない。
身体からある程度離れたところで、オーラは煙のように薄れ、空中へ散ってしまう。
それでも、思ったとおりに形が変わっていくのは、思いのほか楽しかった。
いつしかアズリルは周囲への警戒も忘れ、夢中になって手の上のオーラを弄び始めていた。
青と赤のオーラを分けてみたり、再び混ぜ合わせてみたり。二つの色を均等に並べ、境目を少しずつ溶かしてグラデーションを作る。右手には青、左手には赤だけを集めてみるなど、思いつくままにさまざまな動かし方を試していった。
その様子を、ジンは木の上の暗がりから、何とも言えない顔で見下ろしていた。
それは、ジンが念の精度を示すために披露する「イボクリ」にも迫る操作だった。概念すらまともに教えていない少年が、わずか数時間で感覚だけでそこに辿り着いている。
(俺の十八番みたいな手遊びを、たった数時間でサラッとやりやがって……)
あまりにもあっさりやってのけるものだから、感心を通り越して、なんだか無性に腹が立ってきた。
(よし。多少危ない目に遭っても、すぐには助けねえ)
それは師としての判断というより、ほとんどジンの意地だった。
「あー……もう駄目。飽きた」
アズリルは念の手遊びを打ち切り、後ろの太い幹へと背中を預けるように倒れ込んだ。
東の空が白み始め、朝方になりかけているというのに、モンスターどころか害のない小動物すら一匹も姿を見せない。
それに、一晩中試してみたものの、手元から伸ばしたオーラはビームにも砲弾にも結局ならなかった。
(こんなので、どうやって攻撃しろっていうんだよ……。やっぱり僕には、念の才能なんてないのかな。少しくらい、コツを教えてくれてもいいのに……)
ジンに対する恨み節を心の中でうじうじと捏ねくり回していた、その時だった。
──カサッ。
初めて、すぐ近くの茂みから物音がした。
「っ!」
アズリルは弾かれたように跳ね起きた。
背後で眠る少女を庇い、両拳を胸の前へ構える。
茂みの中で、何かが動いている。
ガサガサ……と落ち葉を揺らす音が続き、やがて茂みの隙間からぴょんと影が飛び出してきた。
そこにいたのは──愛らしい、小柄な白いウサギだった。丸い身体に、短い尻尾。長い耳をぴんと立て、きょろきょろと辺りを見回している。
「なんだ……」
アズリルは目を丸くし、拍子抜けしたように緊張を解いてその場に脱力した。
安堵の溜め息をつきながら、ウサギの挙動を観察する。
ぴょんぴょんと草から草へ軽やかに飛び移り、小さな口を動かして落ち葉を咀嚼している。そして、警戒感もなく徐々にアズリルたちの方へと近づいてきた。
(随分と、人に慣れたウサギだな……)
危険がないと判断し、ぼんやりと身体の力を抜いて眺めていた。
そしてウサギは、とうとうアズリルの目と鼻の先まで来ると、ちょこんと足を止めた。
「ん……?」
可愛らしい顔を持ち上げ、鼻先をひくひくと動かしながら、じっとこちらを見上げてくる。
──だが、何かおかしい。いくら人懐っこいとはいえ、野生の動物がここまで無防備に近寄るだろうか?
そう違和感を抱いた、次の瞬間だった。
ウサギの口元から、粘ついた唾液がだらりと垂れた。
ぽたり、と地面へ落ちる。
その口角が、ゆっくりと吊り上がった。可愛らしかった顔が、人間のようににんまりと歪む。吊り上がった頬の皮膚から口が裂けるように開き、そこには草食動物にあるはずのない、太く鋭利な肉食獣の牙が隙間なく並んでいた。
「っヒ……!?」
アズリルが青ざめて悲鳴を上げ、立ち上がろうとした時には、すでにその『獣』は弾丸のような勢いで躍りかかっていた。
間に合わない。
体勢が整わないまま、アズリルは咄嗟に前蹴りを繰り出す。
(重っ……!?)
手応えは確かにあった。だが、ウサギほどのサイズしかないはずの身体は、思いのほか硬く重い。わずかに後ろへよろめいた程度で、ダメージを受けた様子もなく、すぐさま血走った目で再び跳びかかってくる。
「わっ、ちょっ……ちょっと待って!」
噛みつかれれば、ただでは済まない。ハンター試験で喰らった毒蛇の激痛がトラウマのように脳裏をよぎる。
背後には無防備に眠る少女。避けることも、逃げ出すことも許されない。
迫る猛獣へ、二度目の蹴りを力任せに叩き込む。
今度は足先が鼻面へ当たり、獣は甲高い悲鳴を上げて地面へ転がる。
だが、それで諦めるどころか、獣はさらに凶暴性を剥き出しにし、バクバクと威嚇するように顎を鳴らし始めた。ジリジリと間合いを詰め、次の跳躍の機会を窺っている。
(だめだ……ただの蹴りじゃどうにもならない! やっぱり、念を使わなきゃダメなんだ……!)
冷や汗が吹き出す。どうする、どうやって使う!?
アズリルは荒い呼吸を繰り返しながら、必死に考えを巡らせた。
頭をフル回転させる中で、ジンに命じられた動作が閃光のように思い浮かんだ。
『オーラを消してみろ』『右の拳だけに集めろ』
何をどうすれば攻撃になるのかは分からない。けれど、今のアズリルが知っている念の使い方は、それだけだった。
──樹上のジンは、腕を組みながら冷ややかな眼差しでその攻防を見下ろしていた。
(そうだ、思い出せ。さっき俺の前でやったことだ。攻撃する部位にオーラを集め、そのまま叩き込めばいい。お前なら、一瞬でできるはずだ)
アズリルは荒い呼吸を整えながら、必死に思考を巡らせる。
痺れを切らした猛獣が、鋭い爪を剥き出しにして宙へ跳んだ。
牙を剥き、アズリルの喉元へ飛びかかってくる。
アズリルの瞳が、スッと細くなる。
次の瞬間、全身を覆っていたオーラが、跡形もなく消失する。
「ば、バカ野郎ッ!?」
ジンが思わず枝の上で立ち上がる。
よりにもよってアズリルが選んだのは、『絶』だった。敵の攻撃が迫っている最中に、自らオーラを閉ざし、防御を完全に捨てる者がどこにいる。あの牙をまともに受ければ、五体満足では済まない。
ジンが飛び降りようとした、その刹那。
消えたはずのアズリルの内側から、底知れぬオーラが一気に爆発的な密度で膨れ上がった。
アズリルは跳躍した獣を真正面から睨みつけ、「これ以上近づくな」という強烈な拒絶の意志を、体外へ溢れ出た莫大なオーラへそのまま乗せて叩きつけた。
その意図をダイレクトに浴びせられた猛獣は、まるで不可視の壁に激突したかのように、空中で急ブレーキをかけて地面へ転がった。
全身をガクガクと恐怖で震わせる。そして突然踵を返すと、甲高い鳴き声を上げながら、猛烈な勢いで茂みの中へ逃げ込んでいった。
アズリルはしばらく、荒い息を吐きながら、獣が消えた方角を油断なく見据えていた。やがて完全に気配が遠のいたことを確認すると、張っていたオーラを鎮める。
「た、助かった……」
なぜ急に逃げていったのかは分からない。けれど、今の現象が念によるものなのは明らかだった。
消すことができるのなら、反対に増やすこともできるのではないか。そう思い、身体の奥にあるオーラをすべてかき集め、力任せに外へ押し出してみたのだ。何が起こるのか、自分でもまったく分かっていなかった。それでも、どうにか少女を守れた。その事実に、アズリルは胸を撫で下ろした。
木の上では、ジンもまた長く息を吐いていた。
(……見事な『練』じゃねえか。ったく、冷や冷やさせやがる)
しかも、あんな土壇場で、一度『絶』を挟むことでオーラの溜めを作るとは。
あまりにも無茶苦茶だ。
どうやら、自分は心配しすぎていたらしい。ガレスたちの過保護な心配が移ってしまったのかと自嘲し、ジンは気を引き締めるように胡坐をかき直した。
今度こそ、よほどのことがない限り飛び出さない。
そう自分に言い聞かせ、静かに目を閉じた。
それからさらに数時間。
先ほどとは別の白ウサギや、地面を這う半透明のスライムのような生物、上空から嘴で襲いかかってくる巨大な鳥など、さまざまなモンスターが次々と現れた。
そのたびに、アズリルは全身からオーラを噴き出し、『練』の威圧だけで追い払った。
だが──毎回、全身のオーラを最大出力で解放して威嚇する戦法は、あまりにも燃費が悪すぎた。
どれだけ『睡眠少女』が身体の疲労を肩代わりしてくれていようと、供給されるエネルギー以上に、念の消費量が遥かに上回ってしまっていたのだ。
グゥゥゥゥ……と、情けない音が腹の底から響き渡る。
「……っあー、もう無理……。お願いだから、しばらく何も来ないで。次に襲われたら、戦う前に空腹で倒れちゃいそう……」
アズリルは力なく呟いた。
太陽はすでに高く昇り、時刻は昼頃になっている。考えてみれば、昨日から丸一日近く何も口にしていない。食糧調達へ出かけたいところだが、この無防備な少女を一人残していくわけにもいかない。
八方塞がりのアズリルは、その場にうつ伏せになって地面へ倒れ込んだ。
トン、と。
目の前の地面へ、見慣れた二本の足が降り立った。
見上げると、相変わらずの無精髭を蓄えた男が、気だるげにこちらを見下ろしていた。
「ジン〜……お腹空いたよぉ……」
半日ぶりに姿を現した救世主に縋るように、アズリルは這い上がり、その足元へしがみつこうとする。
だが、ジンはひらりと身をかわし、その手から逃れた。
「ったく、しょうがねえな。まあ、俺もちょうど腹が減ったところだ。こういうときのために、ちゃんと用意してあんだよ」
ジンはそう言うと、片手を上げた。
「ブック」
目の前に本が現れる。
アズリルは重い身体を引きずるように立ち上がると、ジンの隣からブックを覗き込んだ。
ジンの指が、一枚のカードを示す。
[b:No.099 メイドパンダ]
[i:絶滅寸前の珍獣。大変きれい好きで、料理が趣味。個体によっては洋裁やガーデニングもたしなむ。何よりも人間の子供の面倒を見るのが得意。]
「パンダ……?」
アズリルはカードに描かれた、白と黒の丸々とした動物を見つめた。
記載された説明文を目で追う。料理が趣味!
(そっか、このパンダに料理を作らせればいいんだ! なんだかメルヘンでワクワクするな……ん?)
説明文の最後の文面で、アズリルの思考が止まった。
『何よりも人間の子供の面倒を見るのが得意』。
「こいつ、ガキの世話しか焼かねえから、普段はあんまり使い道がなくてな。けど今回は、ちょうどうってつけだ。久々に使ってみるか」
「子供って……どこに?」
アズリルが辺りを見回す。少女の方をチラリと見る。
ジンは、何を当たり前のことを聞いているのだ、とでも言いたげな目で、じっとアズリルを見下ろした。
数秒の沈黙。
そこでようやく意味を悟り、アズリルの顔が引きつる。
「ぼ、僕は子供じゃないよ!」
そんな必死の訴えなどハナから耳に届いていない様子で、ジンは事もなげに口を開いた。
カードを指に挟み、迷いなく告げる。
「ゲイン」
次の瞬間、カードが柔らかな光の粒子となって弾け、アズリルの目の前にモヤモヤとした煙のようなものが形作られていく。
カードからの具現化を見るのは、これで三度目だ。
少しずつ見慣れてきた光景ではあったが、やはり魔法のようで、何度見ても胸が躍るほど格好よかった。
やがて、丸々とした白黒の身体を持つ一頭のパンダが、二人の前に姿を現した。
[newpage]
目の前には、魚や果物、木の実、山菜など、この森で採れたものをふんだんに使った料理が、所狭しと並べられていた。どれも野外で作られたとは思えないほど手が込んでおり、彩りまで美しい。
その料理を、ジンは何の疑問も抱いていない様子で、先ほどから勢いよく口へ運び続けている。
カードから姿を現して以来、メイドパンダはアズリルを一目見るなり、せかせかと料理や身の回りの世話に取りかかっていた。
どうやら無事に「お世話が必要な子供」として認定されたらしい。アズリルは苦々しい顔で呻いた。
気になって近くの池を覗き込み、水面に映る自分の顔をじっと見つめる。試しに少し顎を上げてみたが、当然ながら急に大人びて見えるわけもない。
歳の近いクラピカでも、きっとこんな扱いは受けなかっただろう。
そう思うと、なんだか無性に悔しくなった。アズリルは不満を紛らわせるように、目の前の料理を口へ運んだ。
信じられないほど美味しい。ほどよく焼かれた魚は身が柔らかく、木の実を使ったソースにはほんのりと甘みがある。採れたばかりらしい山菜も、苦みが残らないよう丁寧に調理されていた。
アズリルは空腹も相まって、夢中になって料理を口へ運んだ。
きれいに平らげ、「ごちそうさま」と満足げに息をついた、そのときだった。
「……くしゅんっ」
不意に小さなくしゃみが漏れ、アズリルは身を縮めた。
着ていた長袖のシャツを『睡眠少女』に着せてあげて以来、彼は下のタンクトップ一枚で過ごしていたのだ。故郷であるオルドヴィアの厳しい寒さには慣れているつもりだったが、まだ三月にもなっていないこの時期の森の冷気は、さすがに肌に刺さる。
露わになった両腕をさすっていると、ふいに肩へ、ふんわりと柔らかな布の重みが落ちてきた。
「ん……?」
手を止め、後ろを振り返ろうとして顔を上げる。
首をかしげながら上を仰ぎ見ると、いつの間にかどこかへ行っていたパンダが、真上から満面の笑みで見下ろしていた。巨体に似合わないキュートな笑顔と、フワフワとした柔らかそうな毛並み。
肩にかけられた布を外し、広げて確認してみる。
そこに現れたのは──鮮やかなピンク色のフリルがたっぷりとあしらわれた……ドレスだった。寒くないようにと考えたのか、長袖で、生地もしっかりと厚い。
「…………」
アズリルは、しばらく瞬きすらできなかった。
隣でそれを見ていたジンが、盛大に噴き出した。
「ぶっ……!」
堪えようとはしたらしい。
しかし次の瞬間には、腹を抱えて地面へ倒れ込み、拳で芝生を叩きながら笑い始めた。
「ははははっ! お、お前、それ……っ、女のガキだと思われてんじゃねえか!?」
唾を飛ばしながら、ジンは息もまともにできないほど笑い転げている。
「──っ!!」
アズリルの顔が、一瞬で耳まで真っ赤に染まった。
勢いよく立ち上がる。もう限界だった。ただでさえ子供扱いされて傷ついているのに、女の子と間違われるなんて屈辱以外の何物でもない。
パンダの前に仁王立ちし、このありがた迷惑な厚意に抗議しようと、勢いよく口を開きかけた。
──だが。
目の前のパンダは、大きな黒い瞳をきらきらと輝かせ、期待に満ちた顔でアズリルを見下ろしていた。
まるで、
一生懸命作りました。気に入っていただけませんでしたか?
とでも訴えているようだった。
「うっ……」
アズリルの勢いが、一瞬で萎んだ。
ドレスへ視線を落とす。
縫い目はどこも丁寧で、生地も柔らかい。袖口には小さな花の刺繍まで施されている。
自分のために作ってくれたのだと思うと、強く拒絶することなどできなかった。
「ははっ、着てやれよ」
地面に転がったまま、ジンが笑い混じりに言う。
「せっかく作ってくれたんだ。かわいそうだろ」
アズリルは、未だに肩を震わせているジンを鋭く睨みつけた。
そして、手に持ったピンク色のドレスへ視線を落とすと、今日一番の重い溜め息を深く吐き出すのだった。
[newpage]
さすがに、あのドレスを自分で着ることだけは丁重に断った。
せっかく作ってくれたものを無駄にするのも忍びなく、代わりに睡眠少女へ着せてみると、その姿は驚くほど可憐だった。鮮やかなピンク色のフリルは少女によく似合っていて、どこか浮世離れした美しさに、見ているこちらが少し照れてしまうほどだった。やっぱり、こういう可愛い女の子に着てもらった方がドレスも報われるというものだ。
メイドパンダは自分が仕立てた服をアズリルに着てもらえず、少し不満げな様子だった。だが、元々着ていたシャツを見せてあげると、一転して目を輝かせた。
それは、城を出る日の朝、侍女たちが用意してくれた白い長袖のシャツだった。
襟元や袖口には金糸と銀糸の繊細な刺繍が施され、元はひと目で上等なものと分かる衣服だった。けれど、ハンター試験やゾルディック家への旅の間も着続けたせいで、今ではあちこちが擦れ、すっかり薄汚れてしまっている。
メイドパンダはその有様を見るなり、まるで一刻も放置しておけないとでもいうように、裁縫道具を抱えて慌ただしく離れていった。
その間に、アズリルは近くの池で軽く身体を清めることにした。王宮で暮らしていた頃から毎日湯浴みをするのが習慣で、身体を洗わずにいると、どうにも落ち着かなかった。
すぐ近くでドレスを纏って眠る少女を横目に確認しながら、アズリルは周囲へ注意を払い、服を脱いだ。そして冷たい水に足を踏み入れた。冬が明けたばかりの水は、刺すように冷たい。足先が触れた瞬間、思わず全身が震えた。
「つめた……っ」
それでも少しずつ奥へ進み、腰ほどの深さまで浸かると、手ですくった水を肩や腕へ掛け、肌にこびりついた泥や汗を洗い流していく。
初めのうちは息が詰まるほど寒かったが、しばらくすると冷たさにも慣れたような気がして、不思議と心地よくさえ思えてきた。アズリルは腰まで水に浸かったまま身を屈め、岸辺へ目を向けた。
睡眠少女はまだ穏やかな顔で眠っている。周囲にモンスターが近づいてくる様子もない。ジンは食事を終えて満腹になったからか、草の上へ仰向けに寝転がり、豪快ないびきをかいていた。その傍らでは、メイドパンダが裁縫道具を広げ、せかせかとシャツの修繕に取りかかっている。
その光景を眺めていると、急に不思議な気持ちになった。
城から遠く離れた、名前も知らない島の森の中。カードから少女や動物が現れ、自分はつい昨日まで存在すら知らなかった、魔法のような力を使えるようになっている。
ジンの試練は、これまでにないほど過酷だった。
父上から課されたどの試練よりも容赦がなく、窮地に陥っても、誰かがすぐに手を差し伸べてくれることはない。けれど、限界ぎりぎりまで追い込まれるからこそ、自分が確かに成長していることを実感できた。
アズリルは、眠っているジンへ視線を移した。
「……すごいいびき」
ゴォーッ、と大きな音を響かせながら、ジンは無防備に眠り込んでいる。
昨夜は、ずっと木の上からこちらを見張っていたのだろうか。睡眠少女の加護を受けていないジンは、一体どれほど長い間、眠らずにいたのだろう。そう思うと申し訳ない気持ちになると同時に、胸の奥が温かくなった。
最初はあんなに冷たく突き放されたけれど──いや、今だって優しく手を引いてもらっているとは、とても言えない。相変わらず何も教えてくれず、無茶ばかりさせられている。
それでも、ジンは決して目を離してはいなかった。
終始鬱陶しそうな顔をしながらも、真っ直ぐに自分と向き合ってくれているのだ。
その確かな温もりが、アズリルの胸をじんわりと満たしていった。
小さく息を吐くと、顔を水の中へ沈めた。
ふと、すぐ目の前の水面が、細かな波紋を描いていることに気づいた。
小さな羽音が、ぱたぱたと頼りなく響いている。
顔を上げて目を凝らすと、虫のような生き物が水に浮かび、懸命にもがいていた。
「……溺れてる?」
アズリルは両手を水の中へ差し入れ、下から掬い上げるようにして、その虫を手のひらへ乗せた。
青緑色の身体に、細長い脚と透き通った羽を持つ、綺麗な虫だった。誤って水に落ちてしまったのだろうか──そう思い、陸地へ逃がしてやろうとした、その瞬間だった。
虫の腹の先から、黒く細長いものが覗いていた。針金のように細いそれは、ぬるりと身体をくねらせながら、少しずつ虫の中から這い出してくる。
アズリルは息を呑んだ。
小さな虫の中に収まっていたとは到底思えないほどの長さと質量が、次から次へとアズリルの手の上へ溢れ出していく。
黒い異物は、細長い身体を激しくうねらせながら、ついに元々いた虫の中から完全に抜け落ちた。
それと同時に、先ほどまで必死に羽を動かしていた青緑色の虫が、ぴたりと動かなくなる。
動かなくなった宿主とは対照的に、抜け出した黒いモノだけが、アズリルの手のひらの上で激しく身をよじっていた。
水へ還りたがっているのだと悟ったアズリルは、もう片方の手でそれをそっと掬い、池へ下ろした。手を離した途端、細長い身体はするりと水中へ潜り込み、波打ちながら底へと沈んでいく。そのまま泥の中へ潜り、ほどなく姿を消した。
あとに残ったのは、鮮やかな体色を残したまま、手のひらの上で息絶えた虫だけだった。
アズリルは、動かなくなったその小さな身体を、静かに見つめていた。
どれほどそうしていたのか、自分でも分からない。
「おい」
不意に頭上から低い声が降りかかり、アズリルはハッと我に返ってゆっくりと顔を上げた。
いつの間に目を覚ましたのか、池の縁にはジンが立っていた。腕を組み、呆れたような顔でこちらを見下ろしている。
「そろそろ出たらどうだ」
その声で、アズリルは初めて自分の異変に気づいた。長いこと冷水に浸かりすぎたせいで肌は青白く変色し、歯がガチガチと鳴るほど身体が激しく震えていたのだ。
岸辺では、メイドパンダも心配そうな顔で控えていた。その手には、綺麗に修繕を終えたばかりのアズリルのシャツが握られている。
アズリルは小さく頷き、手に乗っていた動かない虫を、そっと陸の苔の上に置いてやった。
ジンは首を傾げ、その手元に視線を落とす。
「虫か?」
「溺れてたんだ」
「ふーん。羽あんのに溺れんのか。間抜けな虫だな」
「……寄生されてたみたい」
「寄生?」
アズリルが池から上がると、ジンはバサッとタオルを放り投げてきた。
アズリルはそれを受け取ったものの、体を拭くのも忘れてポツリポツリと語り始めた。
「虫に寄生する寄生虫なんだ。もともとは水の中で生きているんだけど、卵や幼虫の頃にほかの生き物に食べられて、その腹の中で成長する」
アズリルは岸辺に横たわる虫へ目を落とした。
「それで、十分に大きくなると──宿主の脳を乗っ取るんだ」
「脳を?」
「うん。本当なら水を避けるはずの虫を操って、自分から池や川に飛び込ませる。宿主が何を望んでいるかなんて関係なく、身体を勝手に動かして、水の中まで連れていくんだよ」
声を落とし、静かに続ける。
「そして水へ戻ったら、寄生虫は宿主の身体を内側から破って出てくる。そこでまた卵を産んで、同じことを繰り返す。そうやって命を繋いでいくんだ」
ジンは「ふーん」と気のない相槌を打ちながら、少年へ目を向けた。
アズリルは冷え切って震えているというのに、タオルを手にしたまま、虫を見つめている。いつまで経っても身体を拭こうとしない様子を見かね、ジンは仕方なさそうに近寄ると、タオルをその肩へ掛けた。そのまま冷え切った身体を包み込み、乱暴な手つきで濡れた肌の水気を拭ってやった。
「で、そいつはどうなるんだ。寄生されてた虫」
「死ぬよ。溺れるか……寄生虫が出てくるときの衝撃で」
「……そりゃひどい話だ。せっかく腹の中で育ててやったのに、最後は殺されるなんてな」
アズリルはようやく寒さを実感したのか、ブルブルと震えながらタオルの上から自分の体を抱え込んだ。
「……ひどいことなのかな」
「あ?」
「寄生虫が宿るとね、宿主は自分の子供を残せなくなるんだよ。……だから、もしかしたら……その虫は、自分のお腹にいた寄生虫のことを、自分の子供みたいに思ってたんじゃないかな。無事に旅立っていったことを、喜んでたんじゃないのかな……」
「そんなわけ──」
ジンは言いかけて、言葉を詰まらせた。
アズリルの頬を、一筋の涙が伝っていた。
いつものように、痛みや恐怖に耐えきれず、声を上げて泣いているのではない。本人さえ気づいていないような、静かな涙だった。
アズリルは泣いている理由も分からないまま、動かなくなった虫を見つめ続けていた。
ジンは何も言わず、その横顔をしばらく眺める。
そこへ、メイドパンダがずかずかと力強い足取りで割り込んできた。そして、ジンを脇へ押し退けるようにして、仕上がったばかりのシャツをアズリルへと差し出す。
アズリルは驚いたようにパチクリと目を瞬かせ、それを受け取った。
擦り切れていた箇所は綺麗に繕われ、襟元や袖口の刺繍も、元の輝きを取り戻していた。
「ありがと……っ、ぶ!?」
礼を言い終えるより先に、アズリルはメイドパンダの大きな腕にすっぽりと抱き締められた。柔らかな毛皮の温もりが、冷え切った身体へじんわりと染み込んでくる。
その圧倒的な暖かさに包まれた途端、胸の奥から妙に切なく、寂しいような、変な感情がこみ上げてきた。アズリルはぎゅっとパンダの毛皮を掴み返す。
素肌に触れる毛皮の感触が、少しだけくすぐったい。
アズリルはクスクスと小さな声を漏らし、溢れ出そうになる感情を覆い隠すように、パンダのふかふかな胸元へ深く顔をうずめた。
ジンはその光景を黙って横目で見届けると、何とも言えない複雑な余韻を胸に抱えたまま、ゆっくりと元の場所へ歩き去っていくのだった。
[newpage]
「よう、ジジイ」
『ようやく連絡をよこしおったか。まったく、おぬしがアズレイを連れ去ったと聞いたときは、さすがのワシも肝を冷やしたぞ。ヴィクトルを宥めるのに、どれほど骨が折れたことか』
ジンは新しく調達した携帯電話を耳に当て、木の幹に背を預けていた。位置は先ほどと同じ、アズリルを一望できる大樹の上だ。視線は常に下方の少年へと向けられている。
アズリルはしばらくメイドパンダに抱き締められて身体を温めてもらい、服まで着せられたあと、再び『睡眠少女』の前へ腰を下ろして警戒に戻っていた。時折モンスターが現れるものの、相変わらず全身から『練』を放ち、威圧するだけで追い払っていた。
(そろそろ、少し変化をつけてもいい頃か)
そんな思考を頭の片隅で巡らせながら、ジンは電話の相手──ネテロとの会話を続けた。
「それより、あいつのことで少し気になることがある」
ジンの声から軽快さが消え、プロのハンターとしての低いトーンに変わる。電話越しに、胸の内に燻っていた疑念を、淡々と伝えていった。
昨日、少年に自分の念を流し込んだとき、ジンはその内側に、確かな違和感を覚えていた。
それが何なのかまでは分からない。肉体の中に実体を持って潜んでいるものなのか、それとも異質なオーラの塊なのか。それすら判別できなかった。
ただ、アズリル自身のものとは明らかに異なる何かが、少年の奥深くで、生き物のように静かに蠢いていた。
異常は、それだけではなかった。
その正体不明の異物を取り囲むように、アズリルの体内には幾重もの念が施されていた。
弱いものから、尋常ではない強度を持つものまで、性質の異なる念が幾十にも折り重なっている。まるで、少年の内側に潜む何かを決して外へ出さぬよう、何重もの枷を掛け、厳重に封じ込めているかのようだった。
華奢な身体の奥で、本人のものではない無数の念と、正体すら分からない異物がひしめき合っている。
その異様さを思い返すだけで、ジンの肌が粟立ち、背筋を冷たいものが這い上がった。
ジンは、そのとき感じ取った二つの異変について、電話越しにネテロへ伝えた。
もっとも、自分のオーラを少年の体内へ直接流し込んだことも、その結果として二人揃って死にかけたことも、さすがに伏せておいたが。
『ふむ……。正直に言えば、ワシにも、その異物が何なのかまでは見当がつかん。掛けられている念の一部は、おそらく兄のレオンハルトによるものじゃろう。アズレイがハンター試験へ向かう前にも、身を守るための念を施しておったようじゃからな』
ネテロはしばし考え込むように言葉を切った。
『じゃが、幾十にも重なり合い、それぞれ強度まで異なるというのは気になる。ほかの何者かが掛けた念も混ざっておると考えたほうがよさそうじゃ』
受話器の向こうで、ネテロが珍しく重々しく息を吐く音が聞こえた。
『ワシの方でも少し探りを入れてみるとしよう。なにせあのオルドヴィアじゃからのう……どんな禁忌や闇が絡んでおっても不思議ではない。少々時間はかかるじゃろうがな』
「ああ、頼む」
ジンが短く返すと、ネテロは思い出したように「そういえば」と軽いトーンで付け加えた。
『アズレイの兄と、その護衛がそちらに向かっておるぞ』
「……はあ?」
思わず素の声が出たジンに、ネテロは愉しそうに言葉を続ける。
『いやはや、ワシも一応は止めたんじゃがな。「革紐がどうのこうの」と、まったく話を聞いてくれんくてのう。まあ、そう遠くないうちにどうにかしてそちらへ辿り着くじゃろう。なにせ弟のことが心配でたまらんのじゃ。ジン、その辺りの対応も、うまく頼むぞ』
「おい待て、ジジイ──」
何か文句を言おうと何度も口をパクパクと開閉させたジンだったが、何を言っても無駄だと悟り、盛大な溜め息と共に言葉を飲み込んだ。
『ではな』
その一言を最後に、通話は一方的に切れた。
ジンはしばらく携帯電話を睨んでいたが、やがて諦めたようにポケットへ放り込んだ。
苛立たしげに頭をぼりぼりと掻きむしり、深い溜め息とともに空を仰いだ。
レオンハルトの突然の来訪も頭痛の種ではあった。
だが、それ以上にジンの胸へ重くのしかかっていたのは、先ほど池のほとりで見せたアズリルの言動と、あの静かな涙だった。
命を奪われた宿主に対して、寄生虫を無事に旅立たせたことを喜んでいるのかもしれない──そう語った少年の発想は、単なる幼さや感傷などで片づけられるものではない。
自らの命を奪われることさえ、誰かのためなら幸福になり得る。
まるで本気でそう信じているかのような、根深い歪み。
少年と出会ってから、まだ数日しか経っていない。
それでも、いつの間にかジンの中には、この危うい少年を放っておけないという思いが生まれていた。
その感情は今、本人すら知らない何かに囚われたアズリルを、どうにかして救い出してやりたいという願いへ、静かに変わり始めていた。