アズリルの身を案じ、ノクトとともにグリードアイランドへ向かうことを決めたレオンハルト。
その頃、当のアズリルは、警戒もせずに昼寝をしたせいで肉食蔓に捕まり、植物の養分にされかけていた。
ジンが見守るなか、『妖精王』からまったく優しくない助言を受け、アズリルは新たなオーラの使い方を学ぶ。
輝くような金髪が、波打つように揺れていた。
耳元の青い宝石は、身体が動くたびに小さな弧を描き、朝日を受けて眩しく煌めいている。身に纏った優美な寝衣は胸元の留め具が外れ、片側の肩から大きくずり落ちていた。汗が頬を滑り、顎の先から、下に組み敷かれた男の胸元へ落ちていく。
レオンハルトはイルミの片脚を自身の肩に深く抱え上げ、その上に圧し掛かっていた。
下から見上げるこの光景は、何度目にしても見飽きることがない。イルミは毎度のことながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
やがてレオンハルトは、喉の奥を引き絞るように小さく息を吐いた。しばらくそのまま動きを止め、乱れた呼吸を繰り返していたが、やがて全身から力が抜けたように、イルミの隣へどさりと倒れ込む。その重みを受け、寝台が低く軋んだ。
静まり返った室内には、二人の荒い息遣いだけが残された。
イルミはしばらく天井を見つめたあと、自分の身体へ目を落とした。そこで初めて、自分もいつの間にか果てていたことに気づく。
「レオ」
名を呼ぶと、つい先ほどまで肌を重ねていた相手とは思えないほど鬱陶しそうな目が、横からイルミを睨んだ。
イルミは気にした様子もなく、その顔を見つめ返した。
レオンハルトの意識が、自分に向いていないことくらいは分かっている。
頭の中は、これから会いに向かう弟のことでいっぱいなのだろう。
幼い頃からその手の内に囲い込み、息が詰まるほどの愛を注ぎ続けてきた。大切に守り、手塩にかけて育て上げた、鳥籠の中の小鳥。
イルミが針と恐怖によって弟の意志を直接縛ったのだとすれば、レオンハルトが選んだのは、もっと静かで巧妙なやり方だった。
愛情そのものを、目には見えない檻へと変えたのだ。
決して嫌われぬよう、束縛だとは悟られぬよう、どこまでも慎重に弟の心を絡め取ってきた。優しく微笑み、望むものを惜しみなく与え、傷つけば誰よりも早く手を差し伸べる。
事実、アズリルの心を自分以外へ向けさせかねない者を、レオンハルトが弟の知らぬところで一人ずつ遠ざけてきたことも、イルミは知っていた。
そうして周囲にある選択肢をひそかに奪いながら、自分こそが唯一、何も恐れず頼ることのできる存在なのだと、長い時間をかけて信じ込ませていった。
それなのにアズリルは、兄の手を振りほどき、自らの翼で外の世界へ飛び去ってしまった。
──結局、繋ぎ止めるために選んだ手段こそ違えど、二人が何より傍に置いておきたい人は、どちらも今ここにはいなかった。
もっとも、互いにその寂しさを口にするような性格ではなかった。ただ、よく似た空白を抱えた者同士、時折こうして身体を重ね、その隙間を一時的に埋めている。慰め合っていると呼ぶには、あまりに無愛想な関係。それでもイルミにとっては、さほど居心地の悪いものではなかった。
顔には何ひとつ出さないまま、イルミはレオンハルトの額に張りついた髪を、指先でそっと掻き上げた。
「次は俺にも好きにさせてよ。入れていいよね?」
「駄目だ。もう出発の時間になる」
レオンハルトは間髪を入れずに却下する。腰へ伸びてきた手を無造作に払いのけ、気怠そうに身を起こして寝台の縁へ腰を下ろした。
「お前にさせると、無駄に長引くからな」
「残念」
イルミはそう呟いたが、その表情はやはり少しも変わらない。そのまま、レオンハルトの動きを追うように、寝台の脇に用意された旅装へと目を向けた。
今日、レオンハルトはノクトを伴い、アズリルのもとへ発つ。
ノクトが弟に持たせていた革紐──身に迫る危機を知らせる護符にも似たそれが、今にも切れそうになっているという。その知らせを受け、レオンハルトはこれ以上、宮殿で黙って待っていることができなくなったのだ。
レオンハルトが寝巻きを脱ぎ、旅装へ着替え始めるのを見て、イルミも床に散らばった自分の服を探し始めた。寝台の下に落ちていたシャツを見つけ、身を屈める。
それを拾い上げ、身体を起こしたところで──イルミはふと動きを止めた。
いつの間にか、ノクトがそこにいた。
レオンハルトの足元に片膝をつき、黙々と旅靴の留め具を締めている。
その姿を目にした瞬間、イルミの胸の内で、かすかな警鐘が鳴った。
(いつからいた……? そもそも、どこから入ってきた?)
──この俺が気づかないなんて、あり得ない。
昔から気配の薄い男ではあった。だが最近のノクトは、明らかにその域を越えつつある。まるで最初からそこにいたかのように、ごく自然に傍らへ溶け込んでいるのだ。
(暗殺者としては、申し分のない資質だけどね……)
主君の身支度を整え終えると、ノクトは一歩下がり、深く頭を下げた。
「出発の準備を確認してまいります」
そう告げると、扉の外に控えていた別の護衛に警護を引き継ぎ、部屋をあとにした。その背中を見送ると、イルミは静かに尋ねた。
「ちなみに……ノクトはいつからこの部屋に?」
「ん? お前が入ってくる前からだが」
レオンハルトは何でもないことのように、あっさりと答えた。
イルミの動きが、ぴたりと止まる。
それはつまり、昨夜から今朝まで、あの男はずっと同じ部屋にいたということだ。
本来、どんな行為の最中であろうと気を緩めることなどない。周囲への警戒を完全に解くことなど、プロの暗殺者としてあり得ない。それなのに、同じ部屋にいた男の存在を、最後まで察知できなかった。
その事実を頭の中で静かに吟味したあと、イルミは小さく息を吐いた。そして、いつもの感情の読めない顔でレオンハルトへ視線を戻す。
「珍しくレオのほうから誘ってきたから、随分その気だと思ったのに。まさか、ノクトに見せつけるためだったとはね」
「くだらん。私にそのような悪趣味などない」
レオンハルトは不機嫌そうに眉を寄せた。
「好きで置いているわけがないだろ。念の仕込まれた封筒が内部の者によって持ち込まれたと分かって以来、父上が一層神経質になってな。私室の中にまで護衛を置くと言って譲らんのだ」
イルミは、ノクトと入れ替わるように室内へ入ってきた護衛へ目を向けた。男は何も見ていないとでもいうように目を伏せ、扉の脇に直立している。
「ふーん……随分と息子思いな父親じゃない」
「馬鹿を言うな」
レオンハルトは鼻で笑うと、姿見の前へと歩を進めた。腰のベルトの位置を確かめ、自身で襟元を整えながら、どこか冷めた調子で続ける。
「あの男が気にしているのは、私の身ではなく帝国の血統だ。私がいつまで経っても妃を迎えず、後継となる子を残そうとしないから、気が気でないだけだろう」
鏡越しにイルミと視線を合わせ、レオンハルトは皮肉げに口元を歪めた。
「私が子を残さぬまま死ねば、皇統を継ぐ者はアズリル一人になってしまうからな」
イルミは何も言わず、鏡越しに問いかけるような視線を向けた。レオンハルトはその意味を察したのか、わずかに眉を寄せる。
「あれに帝位を継がせるつもりはない。まあ、そのうち気が向けば正妃を迎えるさ。子の一人や二人、必要になればすぐにでも儲ければいい」
支度を終えた二人は、連れ立って部屋を出た。静まり返った廊下を並んで歩いていると、やがて一角に差しかかる。ある会議室の前には、重装備の近衛兵が何人も立ち並び、異様なほど厳重な警備が敷かれていた。
レオンハルトは歩調を緩めた。
これほどの警備を敷いているとなれば、中にいるのは父だろう。直感的に悟ったレオンハルトは、何気ない足取りのままその前へと向かう。隣を歩くイルミが何かを言いかけ、口を開きかける。だが、レオンハルトは短く「しっ」と息を漏らし、制した。
重々しい扉の奥から、低くくぐもった会話声が漏れ聞こえてくる。一人は、聞き慣れた父の声。
そして、もう一人は──
「爺ちゃんだ」
「ゼノ殿か……まだ滞在しておられたのか」
レオンハルトは足を止め、しばらく扉を見つめた。ヴィクトルとゼノが、これほど厳重な警備の中で何を話しているのか。レオンハルトは進路を変え、会議室へ近づいていった。だが、扉まであと数歩というところで、控えていた護衛が静かにその前へ立ちはだかった。
「申し訳ございません、殿下。現在、何人たりともお通しするなとのご命令です」
レオンハルトの眉がわずかに寄る。
「私もか」
「陛下からの直々のご命令です」
護衛は深く頭を下げたまま、道を譲ろうとはしなかった。レオンハルトは閉ざされた扉をしばらく見据えていた。その向こうでは、ヴィクトルとゼノの低い声が続いている。しかし、話の内容までは聞き取れない。
「……そうか」
やがて短く答えると、レオンハルトは踵を返した。イルミも一度だけ閉ざされた扉へ目を向け、そのあとに続く。歩きながらも、レオンハルトの意識は先ほどの会議室に残されていた。
父は、何かを隠している。
そう疑い始めたのは、今に始まったことではない。レオンハルトはこれまで、人知れず記録を調べ、関係者を探り、わずかな手がかりを一つずつ拾い集めてきた。調べを進めるたび、ばらばらだった断片がつながり、その正体にあと一歩で手が届くように思える。だが、肝心なところへ差しかかると、決まって手がかりは途切れてしまう。結局、何年経っても確かなことは何ひとつ掴めないままだった。
ただ一つ、疑いようがなくなりつつあることがある。
父が隠している秘密には、アズリルが深く関わっている。そして、先ほど目にした密会もまた、その秘密と無関係ではないように思えた。輪郭すら見えない企みが、アズリルの背後でひそかに動いている。しかもそれは、決して軽く見てよいものではない──そんな不穏な予感だけが、日に日に強くなっていた。
その正体は、いずれ必ず突き止めなければならない。
だが、今はまず、弟の無事を確かめるのが先決だった。
ネテロの紹介とはいえ、ほとんど面識のない男と二人きりで過ごしている。しかも宮廷の護衛すら一人も連れずに、だ。
マルクに尋ねても、ジンという男の人となりについては、どうにも要領を得なかった。並外れた実力の持ち主であることは分かる。だが、アズリルを任せて本当に問題のない人物なのか、その肝心な部分がまるで見えてこない。
あの警戒心の薄い弟が、妙な目に遭ってはいないか。
一度、自分の目で確かめなければならなかった。
[newpage]
その頃、遠く離れたグリードアイランドでは。
「ん……ッ……ジン……っ、ひぐ……もうやだよぉ……っ」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、アズリルは宙に吊り下げられていた。
全身には太い
『睡眠少女』が代わりに眠ってくれているというのに、アズリルは愚かにも警戒を解いて昼寝をし、まんまと襲われたのだ。幸い、少女は少し離れた木の根元に寝かせ、枯れ葉や枝を被せて隠してあったため、蔓には見つからずに済んでいる。
捕らえられてから、すでに一時間近くが経っている。最初は必死に暴れて抵抗していたものの、抗う体力も尽き、今はだらりと吊るされて涙をこぼすことしかできていなかった。
その惨状を、ジンは木の上から眺めていた。
肉食植物とはいっても、獲物を一瞬で食い尽くすわけではない。弱酸性の液を浴びせ続け、時間をかけて少しずつ肉を溶かしていく種類だ。小動物や昆虫ならともかく、人間ほどの大型哺乳類を消化するには、相当な時間がかかる。まだしばらく放っておいても死にはしない。そう判断したジンは、枝の上で胡坐をかいたまま頬杖をつき、助けに入ろうとはしなかった。
「ぐすっ……うぅ……っ」
アズリルは涙で霞む目を開き、身体に力を込めた。もう一度、これまでと同じようにオーラを外へ押し出そうとする。けれど、どれほど絞り出しても蔓はびくともしなかった。
(なんで……効かないの……っ)
アズリルのオーラは、すでに限界を迎えつつあったのだ。ここ数日、体内のオーラを限界まで放出する『練』を繰り返したせいで、残されたオーラは著しく消耗している。かつてジンから吸い上げた赤いオーラも、ほとんど底を突いていた。そのため、以前のようにただオーラを撒き散らすだけでは、威嚇してモンスターを退けることができなくなっていた。
何より恐ろしいのは、蔓から滲む液体が触れている箇所が、だんだんと熱を持ち始めていることだ。じわじわと皮膚がヒリつき始めていた。
本当に、少しずつ身体を溶かされている。
──自分を食べるために。
植物に食べられて終わるなんて、そんな最期だけは絶対に、嫌だ!
「ジンっ……お願い……助け、て……ッ! 痛いよぉ……っ、ジンーっ!」
その切羽詰まった呼びかけにも、ジンはやれやれと眉を下げただけだった。世界樹から下りてきた頃には、少しは泣き虫も治ったかと思っていたのだが、どうやらまだ先は長いらしい。
ジンが大きく息を吐き、枝の上でゆっくりと立ち上がると、ようやくアズリルからもその姿が見えた。ようやく現れた救世主の姿に、アズリルの顔がぱっと明るくなる。だが、ジンは助けに飛び降りるでもなく、胸の前で両手を開き、本を広げるような仕草をしてみせる。
「……なに?」
涙で濡れた顔で、アズリルはぽかんと首を傾げた。
本を開く仕草。
その意味に気づくまで、しばらくかかった。
「あ……ブック?」
半信半疑のまま唱えると、ぽん、と軽い音を立てて、目の前に一冊の本が現れた。こんな絶体絶命の状況だというのに、何もない空間から本を呼び出せたことに、アズリルは涙目のままほんの少しだけ得意げな顔をする。
両腕を蔓に固く縛られているため、浮かんだバインダーはアズリルの意志に応じるように、自動でパラパラとページをめくっていく。やがてピタリと止まったページには、一枚のカードが収められていた。
[b:No.016 妖精王の忠告]
[i:あなたに足りないもの、直したほうがいいところなどを優しく論じて的確なアドバイスを与えてくれる。たまに呼んでもいないのに現れることがあるのが、少しうっとうしい。]
「妖精王……」
説明を読む限り、今の状況を切り抜ける方法を教えてくれるらしい。
しかも『優しく』とある。その一文を目にした瞬間、アズリルは心底ほっと胸を撫で下ろした。
だが、両腕を固く縛られているため、指でカードを取り出すことができない。アズリルは必死に首を伸ばし、カードの端をなんとか歯で咥え込んだ。そのまま、落とさないように慎重に口を動かす。
「……げ、げいんっ」
カードが眩い光へ変わる。
次の瞬間、アズリルの目の前に、小さな人影が現れた。背中には蝶のような羽。頭には立派な冠。白く長い髭を蓄えた、いかにも慈悲深そうな老人だった。
アズリルは期待に満ちた目で見つめたが、すぐに不安になった。その大きさは、大きめの蝶とほとんど変わらない。どう見ても、蔓を引き千切れるような戦闘力はなさそうだ。
「よ、妖精さん……お願い、助けて」
妖精王は羽を優雅にひらつかせ、宙づりになったアズリルを下から上までじっくりと眺めた。
そして、慈愛に満ちた極上の笑みを浮かべた。
「嫌じゃ☆」
アズリルは瞬きをした。
(ん……? 今、なんと言った……?)
すごく優しそうな笑顔と慈悲深い声で、とんでもなく絶望的な拒絶をされた気がする。き、気のせいだろうか。
「え? あ、あの……抜け出す方法を、何か……」
「それは自分で考えるのじゃ☆」
「え……」
「答えまで教えてもらえると思ったか? 甘えるでない☆」
あまりにも晴れやかに言い切られ、アズリルの唇がわなわなと震えた。
「じゃ、じゃあ……助言を……」
妖精王は満足げに頷き、人差し指を立てた。
「まず、泣き止むことじゃ☆」
「…………」
「泣いても蔓は緩まんぞ☆」
正しい。腹が立つほど、正しい。
でも、それができないから泣いているのだ。
「このままだと……ひぐっ、植物の……ぐすっ、養分になっちゃうよぉ!」
アズリルはとうとう大声を上げて号泣した。
「そんなに泣いておると、じきに身体の水分がなくなるぞ☆ 弱って動けなくなれば、蔓もおぬしを溶かしやすくなるじゃろうな☆」
「いやああぁぁっ!」
妖精王は困ったように腕を組みながらも、相変わらず満面の笑みを浮かべている。
木の上からその様子を見ていたジンは、深く、長いため息を吐いた。久しぶりに見るアズリルの本格的な号泣に、眉間を指で揉む。そして大きな欠伸を噛み殺しながら、ジンはぼんやりと思った。
──そろそろ寝てえな。
[newpage]
それから、しばらくして。
「おえっ……げほっ、おえぇぇ……っ」
池のほとりに膝をつき、アズリルは何度も口の中を水ですすいでいた。どうにか肉食蔓から逃れたものの、口の中には今も独特の苦みと、ぬるぬるとした不快な感触が残っている。
顔をしかめながら水を吐き出し、再び両手で池の水をすくう。
結局、妖精王から延々と遠回しな助言を受けた末、アズリルはようやく、全身に散らしていたオーラを一か所へ集中させるという発想に辿り着いた。とはいえ、両手も両脚も蔓に封じられていたため、使えたのは口だけだった。歯と顎にオーラを集め、身体を縛る蔓を一本ずつ、ひたすら噛み切ったのである。
その結果、口の中は蔓の破片と粘液だらけになった。
「ん……苦っ。ぬめぬめしてるし……最悪……」
「ずいぶん時間かかったな」
背後から聞こえた声に、アズリルの肩がぴくりと揺れた。振り返ると、ジンが木々の間から歩いてくるところだった。その隣には、いつの間にか姿を消していた『メイドパンダ』もいる。
「もう少し早く気づくと思ってたんだけどな。あれだけ分かりやすく──」
アズリルはジンの言葉を無視して立ち上がると、真っすぐメイドパンダのもとへ駆け寄った。
「パンダ……!」
アズリルはその柔らかな腹へ顔を埋め、ぐすぐすと鼻を鳴らした。メイドパンダは幼い子供をあやすように、その背中をゆっくりと撫でている。
「怖かったよぉ……植物に食べられるところだった……」
「自業自得だろ」
「ジンには言ってない」
「そうかよ」
アズリルはメイドパンダへしがみついたまま、ぷいっと顔を背ける。
ジンは冷たい。そして、あの妖精王もだ。
カードの説明文には『優しく助言する』なんて書かれていたくせに、実物は少しも優しくなかった。語尾に☆をつければ、何を言っても優しく聞こえるとでも思っているのだろうか。あのカードを作った人は、きっと相当性格が悪い。
妖精王は、アズリルが蔓から抜け出した頃には、いつの間にか姿を消していた。また何か困ったことが起きれば、呼んでもいないのに勝手に現れるのだろうか。できれば、しばらくは会いたくなかった。
そんなアズリルの不満げな様子を眺めながら、ジンはおかしそうに、ふっと鼻を鳴らした。まさか、この性格の悪いカードを考案したのが、ほかならぬジン本人だとはアズリルは知らない。
「まあ、形はどうあれ、オーラを一か所に集めて攻撃する感覚は掴めたみたいだな」
ジンはアズリルに歩み寄ると、その顎をつかんで、ぐいと顔を上向かせた。そのまま親指で唇の端を押し下げ、半ば強引に口を開かせる。
「んがっ」
アズリルの口から、間の抜けた声が漏れた。
ジンは構わず、その口内を覗き込んだ。念で強化していたとはいえ、生身の歯で硬質の蔓を何本も噛みちぎったのだ。一歩間違えれば歯根ごと粉砕していてもおかしくはない。
「よし、大丈夫そうだな。……んじゃ、俺はしばらく離れるから」
「え……どこに行くの?」
「寝る。さすがに限界だ」
改めてジンの顔を見つめる。いつもと変わらず平然としているように見えたが、よく見ると目の下にはうっすらと隈が浮かんでいた。
アズリルと共に死にかけた、あの一件以来──ジンは、この少年を完全に一人にしておくのは危険だと悟り、何日ものあいだ、まともに眠らず見張り続けていた。少し目を離しただけで、何をしでかすか分からない。本人にその気がなくとも、勝手に危険へ足を踏み込んでいく。現に今日も、警戒もなしに昼寝などをかまして肉食植物に捕まっている始末だ。
『睡眠少女』のカードを自分ではなくアズリルに使ってしまったのは、今になって少し悔やまれた。もう一枚手に入れようにも、現在は限度枚数に達しているらしい。わざわざ所持者を探し出して奪うか交渉するのも、今のジンには少々面倒だった。
だが、少なくとも今は、オーラを一箇所に集中させて危機を切り抜ける感覚を覚えた。以前よりは自力で持ちこたえる可能性も上がったはずだ。
それに──自分が眠っている間、代わりに見張る存在もいる。
「とにかく、お前はここを離れるなよ」
ジンはそう言って背を向け、数歩進んだところで、ふと思い出したように振り返った。
「ああ、それと。その服、とっとと脱いで、身体も洗っとけ」
「……え、なんで?」
「さっきの蔓の酸だ。じわじわ染みてきてるぞ。放置して皮膚ごと爛れても知らんからな」
それだけ告げると、肩越しに片手をひらひらと上げ、今度こそ森の奥へ歩いていった。
アズリルはしばらく呆然とその背中を見送っていたが、やがて恐る恐る自分の身体へ視線を落とした。
衣服のあちこちが、どろりと溶け始めていた。肉食蔓の粘液が染み込んだ部分は変色し、布地が肌へ張りつくように崩れている。
「ひっ……!?」
このままでは、本当に皮膚まで溶かされる。
アズリルはパニックになりながら慌てて服を脱ぎ捨てた。シャツもインナーも剥ぎ取り、張りついたズボンにも手をかける。そうして、すべてを脱ぎ終えたところで──
「…………」
冷たい森の風が、何も身につけていない身体を容赦なく撫でていく。アズリルは小さく「ひゃん」と声を上げ、両手で大事なところを隠すように抱えて震えた。
「ど、どうしよう……寒い……」
その惨状を目にしたメイドパンダが、はっと目を見開く。次の瞬間、お世話係としての使命感に燃えた目つきで力強く頷くと、凄まじい勢いで森の奥へ駆け出していった。おそらく、服を作るための材料を探しに行ったのだろう。
「えっ……待って、パンダまで行かないで……!?」
呼び止める声も届かない。唯一の拠り所だったパンダの背中は、爆音のような足音とともにあっという間に木々の向こうへ消えていった。
静まり返った森の中で一人、すっぽんぽんのまま立ち尽くすアズリルだった。