アズリルは、次々と襲いかかるモンスターを相手に、しなやかな蹴りと突きを繰り出していた。
身を翻すたび、ほとんど裸同然の肌から汗の粒が弾け飛ぶ。溶けてしまった服の代わりに、大きな葉と柔らかな枝を組み合わせてどうにか腰回りだけは隠していたが、ひどく心許ない格好だった。
もっとも、そんな格好をしているせいで、旅に出てから少しずつ変わってきた身体つきが、否応なく目についた。
城を出た頃は透けるように白かった肌も、ここ最近の野外生活によってほんのりと健康的な色を帯び始めている。細身で丸みのあった身体にも、ゾルディック家での訓練やジンに課された試練を経て、うっすらと引き締まった筋肉がつき始めていた。
それでも、まだ鍛え上げられた身体と呼ぶにはほど遠い。そこから繰り出されるとは思えないほどの威力を生み出しているのは、拳や脚の一点へ凝縮されたオーラだった。身体の動きに合わせて集められたそれが、ただの突きや蹴りを、肉体そのものの力をはるかに超えた一撃へと変えていた。
そうして倒したモンスターがカードへ姿を変えることも、ここへ来て初めて知ったことだ。
最初にその光景を目にしたとき、アズリルはどう扱えばいいのか分からず、カードをそのまま手に持ち続けていた。すると一分ほど経った頃、カードは突然光を放ち、再び元のモンスターへと戻ってしまったのだ。せっかく倒した相手にもう一度襲われ、半泣きになりながら撃破すると、今度はカードにはならずそのまま跡形もなく消え去ってしまった。
しかし、カードを『ブック』へ収めておけば勝手に現物化することはないらしい。仕組みを理解してからは、倒したモンスターを片っ端からバインダーへ収納していった。そうして身体を温めるついでに戦い続けた結果、空いていたフリーポケットはモンスターのカードですっかり埋め尽くされていた。
「……それにしても、パンダ、遅いな」
アズリルはブックを閉じると、不安そうに森の奥へ目を向けた。メイドパンダが服の材料を集めるために駆け去ってから、まもなく三時間が経とうとしている。
メイドパンダが姿を消すことはこれまでにも何度かあったが、たいていは凄まじい勢いで飛び出していき、さほど時間を置かず同じ勢いで戻ってくる。それなのに、今回はいつまで待っても帰ってこない。
木々の奥をじっと見つめているうちに、じわじわと嫌な胸騒ぎが広がっていく。
これまでは『睡眠少女』を守るのに必死で、パンダの身を案じる余裕などなかった。一人で森の奥へ向かったあのパンダに、自分の身を守れるだけの力があるのだろうか。もし今もどこかでモンスターに襲われ、一人で助けを待っているとしたら──。
迷うように唇を噛んだあと、アズリルは意を決して立ち上がった。
ジンからは「ここを動くな」と言われている。だが、もしパンダの身に何か起きているのなら、このまま放っておくことなどどうしてもできなかった。
近くに何か手がかりがないか、少し探すだけだ。遠くへは行かず、何も見つからなければすぐに戻ればいい。
アズリルは、木の根元で眠る『睡眠少女』へちらりと目を向けた。両腕へオーラを集め、少女の身体を慎重に抱き上げる。念で補強したおかげかさほど重さを感じることもなく、そのまま背中へ負うことができた。
「……すぐ戻るから」
誰にともなく言い訳を呟くと、アズリルは森の奥へと歩き出した。
[newpage]
「ちくしょう、今日も収穫なしかよ……!」
森の道を荒々しく踏みしめながら、男が苛立った声を上げた。隣を歩く連れも疲れ切った様子で低い呻き声を漏らしている。
大人数でパーティを組んで島中を探し回っているというのに、ここ最近は目的のカードがさっぱり手に入らなくなっていた。誰かがカードを使用して空きが生まれない限り、新たに入手することはできない──そんな『カード化限度枚数』というゲームの制約が、目に見えない壁となって彼らの前に立ちはだかっていた。
「それにしても胸糞悪いぜ。せっかく『メイドパンダ』を見つけたってのに、倒してもカードにならなかったしよ」
「一度カード化されたあと、誰かが現物化したやつだったのか?」
「多分な。けど、あんなレアカードをわざわざ現物化するか普通? 観賞用にでも使ったってのか?」
「ゲームの仕組みを何も知らない初心者の仕業じゃねえのか」
「バカ言え。初心者が『メイドパンダ』なんてSランクを手に入れられるわけねえだろ」
「……それもそうだが」
二人が怪訝そうに首を傾げた、そのときだった──。
森の奥から、微かな気配が漂ってきた。片方の男がすぐさま口元へ人差し指を立て、「しっ」と制する。二人は即座に会話を断ち切り、木々の奥へ目を凝らした。
葉を踏みしめる足音に交じって、誰かの話し声が聞こえてくる。それは少しずつ、確実にこちらへ近づいていた。二人は素早く『ブック』を呼び出し、いつでもスペルカードを取り出せるよう身構える。
「だから、出てこなくていいって言ったじゃんか」
若い声だった。続いて、老人のようなしゃがれた声が響く。
「パンダを探すのは結構じゃが、おぬし自身が餌になっては意味がないぞ☆ もう少し周囲へ気を配るのじゃ☆」
「もういいってば。さっきから同じことばっかり……うるさいなぁ」
木々の隙間から、人影がゆっくりと姿を現す。
その姿を視界に捉えた瞬間、男たちは揃って目を疑った。
(な……なんだあの格好……? ほとんど素裸じゃねえか……)
(お、顔はめちゃくちゃ好み──……って、男かよ)
一人が視線を下げ、平坦な胸と申し訳程度に隠された下半身を確認する。男は露骨に肩を落とした。それでもそのあまりに艶めかしい姿から目が離せず、思わず生唾を飲み込んだ。
だが、すぐにそれどころではないことに気づく。
少年の周囲を飛んでいるのは指定ポケットカードの『妖精王の忠告』。そして背中に背負われているのは、ドレスを纏った──『睡眠少女』だ。
(間違いない……ずっと探していたレアカードだ……!)
男たちの視線に気づいて、少年はぴたりと足を止めた。人がいると思っていなかったのか、慌てた様子で後ずさり、小さく拳を構える。ブックを出さないあたり、やはりゲームのルールに疎い初心者なのは間違いなかった。
(いや待て、こんな超レアカードを二個も抱えておいて初心者だと……!?)
二人は互いに顔を見合わせる。
少年は警戒するようにこちらを見つめていたが、二人が襲いかかってこないと分かると、やがておずおずと拳を下ろした。
男の一人が、探るように慎重に声をかける。
「お前……『プレイヤー』なんだよな?」
少年──アズリルは問いかけられ、きょとんとした。左手を持ち上げて指輪をじっと見つめる。ジンの「指輪をつけていればプレイヤーと認識される」という言葉を思い出しながら、「うーん……多分」と自信なさげに呟いた。
「多分って……お前、このゲームを始めてどれくらいだ?」
「げ、ゲーム? ……えっと……」
答えに詰まる少年を見て、二人は確信する。本当に何も知らない初心者だ。
指輪をしている以上プレイヤーには違いないが、ルールも分かっていないのなら恐れる必要はない。いきなり力ずくで奪うより、まずは自分たちのグループへ引き込めるか試したほうが扱いやすいはずだ。
「なあ、お前。見たところ初心者みたいだが、まだ誰とも組んでないんだろ? だったら、俺たちの仲間に入らないか?」
アズリルは少し考えてから、首を傾げる。
「仲間?」
「俺たちは何人かでグループを作って、このゲームを攻略してるんだ。お前みたいな初心者が一人でうろついてたら、そのうちプレイヤー狩りに遭うぞ」
「プレイヤー狩り……」
「カード目当てに他人を襲う連中さ。俺たちと一緒にいれば、そういう奴らに狙われる心配も減る」
それを聞いて、アズリルは困ったように眉を下げた。
確かに、以前一人で行動した際にもカードを狙う者に襲われた。大勢でいたほうが安全だという理屈には納得できる。
けれど、自分はこのゲームを攻略するために来たわけではない。今はジンからの試練の途中で、知らない人たちとカードを集めて回る余裕などなかった。
「すみません。今、やらなきゃいけないことがあるので……」
申し訳なさそうに頭を下げるアズリルに、先ほどから彼をじろじろと見ていた男が踏み込んできた。
「別にいいじゃねえか。一人より大勢のほうが楽だぞ。こっちで面倒見てやるからさ」
一歩距離を詰められ、アズリルはわずかに後ろへ下がる。
「いや、でも……」
「そんな警戒すんなって。悪いようにはしねえから」
「おい」
隣の男が呆れたように割り込んだ。
「お前、目的変わってねえか?」
「変わってねえよ。初心者を親切に勧誘してるだけだろ」
「さっきから露骨すぎんだよ」
「うるせえな」
二人のやり取りを聞きながら、アズリルはますます困惑した。何の話をしているのかよく分からないが、このまま話を続けても埒が明きそうになかった。
「あの、本当に大丈夫です。誘ってくれてありがとうございます。でも、一緒には行けません」
今度ははっきりと言い、ぺこりと頭を下げる。そこまで丁寧に拒絶されてはこれ以上押すのも難しい。男は残念そうに舌打ちしたが、それ以上は寄ってこなかった。
代わりにもう一人の男が話を切り替える。
「なら、カードの交換だけでもどうだ? お前、結構いいの持ってるみたいだし──」
「あの……それより、パンダを探してるんですけど、見ませんでしたか?」
男の話をやんわりと遮り、アズリルは先を急ぐように尋ねた。
「パンダ?」
「はい。丸くて、毛がもこもこしてて……多分、ものすごい勢いで走ってたと思うんですけど」
男たちは顔を見合わせた。
「ああ、それなら……ちょっと前に鉢合わせたが」
アズリルの表情がぱっと華やぐ。だが、男が続けた言葉がその希望を残酷に叩き割った。
「もしかして、お前のペットか何かだったのか? 悪いが、すでにカード化されてたとは知らずに倒しちまったよ」
「…………え?」
アズリルの中で、時間がぴたりと止まった。
──倒した。
その言葉が頭の中で重く反響する。
カードから一度現物化されたものは、もう一度倒してもカードには戻らず、そのまま消えてしまう。先ほどモンスターとの戦闘で、実際に目にしたばかりだった。
ならば──あのパンダは倒され、跡形もなく消えてしまったのだ。もう二度と戻ってはこない。
残酷な現実が胸の奥へ落ちた瞬間、アズリルの呼吸が止まった。
どうして……?
あんなに優しくて、誰かの世話をすることしか頭にない、何の害もない存在なのに。
それを、たかがカードのために。
少年の指先が、かたかたと激しく震え始める。
男たちは、そこでようやく目の前の少年の異変に気づいた。
「……おい」
互いに視線を交わす。どうやら、まずいことを言ったらしい。
俯いたアズリルの顔から、一切の感情が抜け落ちていく。
次の瞬間──押し殺しきれなかった怒りが、高密度のオーラとなって全身から一気に噴出した。
『びり』と空間そのものが震えるような圧が周囲を包み込む。
(やる気か……!?)
男たちは弾かれたように身構え、いつでもスペルを使えるようカードへ手をかけた。
そのときだった。アズリルの足元で、何かがちょこちょこと動いた。
視線を落とすと、いつの間に現れたのか、掌ほどの大きさしかない小人が数人、アズリルの足元に集まっている。そのうちの一人がちょこんと顔を上げた。
『──坊主』
アズリルの肩が大きく跳ねる。
「ジン……?」
弾かれたように辺りを見回すが、ジンの姿はどこにもない。再び足元へ視線を落とすと、小人がこちらを見上げたまま口を開いた。
『落ち着け』
間違いない。ジンの声だ。仕組みは分からないが、また何かゲームのカードを使ってこちらの様子を監視しているのだろう。
だが、今の彼にそれを考察する余裕はなかった。
アズリルは血が滲むほど強く唇を噛み締めた。今にも爆発しそうだったオーラを必死で身体の内側へ押し戻していく。しばらくすると、周囲を圧迫していた気配が嘘のように静まっていった。
男たちは警戒を解かないままその様子を見つめている。
(……なんなんだ、こいつは……)
短い沈黙ののち、アズリルがゆっくりと男たちへ顔を向けた。激しい怒りは、すでに表には出ていなかった。
ただカードが欲しいという、それだけの理由でパンダを殺した者たち。アズリルは、そんな二人を『人』として認識していないかのような、冷えきった瞳で見つめた。
「……カードが欲しいんだな?」
「あ、ああ」
「やるよ」
「……は?」
アズリルは『ブック』を呼び出し、機械的な手つきでページをめくり始めた。
「欲しいのがあったら、持っていって」
あまりにあっさりとした申し出に、二人は呆気に取られながらバインダーを覗き込む。収められていたのは、ここ数時間で集めた低級モンスターのカードばかりだったが、使い道がありそうなものをいくつか手に取った。
当然ながら、期待していたようなレアカードは見当たらない。『睡眠少女』も『妖精王の忠告』も、すでに現物化されているためブック内には存在しなかった。二人は失望を隠せず、肩を落とす。
だが、アズリルにはもう、そんな反応すら心底どうでもよかった。
ブックを消し、背中の少女を軽く背負い直す。
「じゃあ」
それだけ言い残すと、静かに背を向けた。振り返ることもなく、葉と枝だけで腰を覆った奇妙な姿のまま、どこか虚ろな足取りで森の奥へ歩き出す。
背中には眠り続ける少女。頭上では小さな妖精王がくるくると宙返りを繰り返し、足元では七人の小人たちが列を作ってついていく。
男たちは立ち尽くしたまま、遠ざかっていく異様な一行を見送った。木々の向こうへ完全に姿が消えてから、ようやく一人が掠れた声を漏らす。
「……なあ」
「なんだよ」
「今の、本当にプレイヤーだったよな?」
「指輪は……してたが……」
「いや、そういうことじゃなくて……」
男は言葉に詰まり、少年が消えていった薄暗い森の奥を呆然と見つめた。二人は狐につままれたような顔のまま、しばらくその場から動くことができなかった。
[newpage]
ジンが目を覚ましたのは、眠りについてから五時間ほど経った頃だった。
木の幹に背を預けたまま、大きく伸びをする。
「……ちょっと寝すぎたか」
とはいえ、久しぶりにまとまった睡眠を取れたおかげで頭はすっきりしていた。これならあと三日ほどは持ちそうだ。
起き抜けに真っ先に行うのは、念の気配でアズリルの居場所を確かめることだった。指定した場所に留まっているのを感じ取り、ジンは小さく安堵の息を吐く。
なにせ、少しでも目を離すとすぐにロクでもない事態を引き起こす奴なのだ。
この島に足を踏み入れた途端に怪しいプレイヤーに絡まれ、ジンが眠っている隙に池で溺れかけたり凍死しかけたりする。かといって、すぐ傍で休もうものなら、あの大音量の泣き声が響いて到底熟睡どころではない。だからこそ、わざわざ少し離れた場所へ移動していたのだ。
(早くこいつの妙な行動の原因を突き止めて、この面倒くさい役目から解放されたいぜ……)
ジンは欠伸を噛み殺し、アズリルの元へ向かった。
しばらく森を歩くと、見覚えのある木の根元には、ちゃんとアズリルの姿があった。少年の後ろにはしっかりと『睡眠少女』が隠されている。周囲には、『七人の働く小人』も全員揃っていた。主人が眠っている間だけ、その代わりに働いてくれる小人たちだ。ジンが目を覚ました今は役目を終え、地面に転がってすっかり眠りこけている。
「お、いるいる……」
胸を撫で下ろしかけたジンだったが、すぐに違和感を覚えて眉をひそめた。
(……なんで裸なんだ?)
近くへ寄ってみれば、案の定すっぽんぽんだった。腰には申し訳程度の即席の覆いを身につけているだけで、なんとも情けない格好だ。
ジンが目の前まで歩み寄っても、アズリルは一向に目を合わせようとしない。心ここにあらずといった様子で、虚ろに地面の一点を見つめている。
影を落とすように一歩踏み込むと、少年はようやく顔を上げた。また号泣したあとかと思ったが泣いた形跡はない。ただ、周囲には妙に張り詰めた空気が残っていた。
「……どうかしたか?」
ジンが尋ねると、少年はしばらくジンの目を見つめたあと、気まずそうに顔を伏せた。答える気がないのかと思いジンが追及しようとした、その時──
「……他のプレイヤーに会ったんだ」
「は?」
「ジンの言いつけを破って、ここを離れちゃった。……ごめん」
ジンは「やっぱりか」と呆れたように肩をすくめた。目を離した隙に何かやるだろうとは思っていたので、想定の範囲内ではある。
「で? そいつらと何かあったのか?」
アズリルは黙り込んだ。思い出すのも嫌だと言わんばかりに横を向いてしまう。よく見ると、片方の手で反対の腕をきつく掴んでいた。指先には白くなるほど力がこもり、食い込んだ爪の跡からは、うっすらと血まで滲んでいる。
ジンは眉をひそめた。
(待て……こいつ、こんな格好で出歩いてたのか? そもそも何で服を着てねえ? あのメイドパンダはどうした……?)
目立った外傷こそない。だが、この格好で他のプレイヤーと遭遇し、しかもこの様子だ。
まさか──。
嫌な可能性が頭をよぎり、ジンの顔がわずかに引きつった。
「パンダが、死んだ」
予想もしなかった言葉に、ジンは一瞬きょとんとした。
「……あ?」
「その人たち、カードにしたかったみたいで……パンダを襲ったんだって」
アズリルは俯いたまま、か細い声で続ける。
「倒してもカードにならなかったって言ってた。だから、もう……パンダはいないんだ」
最後まで言い切った途端、その顔が泣き出す寸前のように歪んだ。「ごめんなさい、ジン……」と縋り付くようにジンの服にしがみついてくる。
ジンは腕の中へ飛び込んできた少年を見下ろし、困ったように頭を掻いた。
なるほど、様子がおかしかった理由はそれか。
「いや、あのな……」
何から説明すべきか迷いながら、ジンは口を開く。
「そのパンダは、もともとゲーム内のアイテムだ。カードをもう一度手に入れりゃ、また呼び出せる」
アズリルの肩が、ぴくりと揺れた。
「それに、同じプレイヤーが発動すればそれまでの記録もある程度は残る。記憶って呼んでいいのかは微妙だが、少なくとも完全に別の個体になるわけじゃ──」
「本当!?」
説明を遮り、アズリルが至近距離でジンの顔を覗き込んできた。ウルウルと揺れる大きな瞳が鼻先に迫り、ジンは思わず顔を引く。
「あ、ああ……そう重く受け止めるようなもんじゃねえよ」
その返答を聞いた瞬間、アズリルの表情に一気に安堵が広がった。「よかった、本当によかった」と呟きながら、堰を切ったように大粒の涙を流し始める。
「……結局、泣くのかよ」
ジンは呆れたような声を漏らした。けれど、「ったく」と大きく息を吐き出すと、乱れた髪へ手を伸ばし、軽く整えてやるついでのように、何度か少年の頭を撫でた。
[newpage]
あの日以来、アズリルは今までにないほど真面目に特訓へ取り組んでいた。危ない目に遭っても泣きべそをかかず、自分で考えながら一つずつ突破していった。
最初は「メイドパンダのカードをもう一度手に入れたい」とせがんでいたが、今の少年にあのレアカードを狙わせるのは流石に時期尚早だ。野放しにして島の中を彷徨わせるわけにもいかないため、ジンはとりあえず出された試練に集中するよう伝えていたのだった。
しばらくはしょんぼりとしていたアズリルだったが、それでもきちんと試練に向き合う姿にジンも内心感心していた。
そうこうしているうちに、約束の一週間が過ぎた。
結局、池で起きた出来事以来、あの妙な癖につながるような兆候は何も見つからなかった。ネテロから指摘された「死に急ぐ癖」の原因を未だ解明できていないジンは、密かに頭を悩ませていた。
──まあ、それにしても強くなったとは思う。
強さの面では順調そのもので、念の基礎を改める必要すらなかった。ハンターとして見れば、まあ落第点ではないといったところか。体内に残っていたジンのオーラを使い果たしてからは、総オーラ量も年相応の平凡なものに戻っていた。それでも、その不足を補って余りあるほど、念の扱いは目に見えて上達していた。
問題は精神面だ。
スタート地点があんな泣き虫だったことを考えれば、幾分マシになったとも言える。パンダがいなくなって毎日泣き喚くかと思いきや、思い詰めたような顔でひたすら突き進んでいた。
ただ、強いて言うなら──パンダがいなくなって以来、妙にジンのそばを離れなくなった。本人に自覚があるのかは分からないが、気づけばすぐ真横にぴたりと寄り添っている。
今もそうだった。
池で釣った魚を二人で食べ終えたあと、アズリルは「ジンは少し休んだ方がいい」としきりに気遣い、しまいには自分の膝を叩いて、ここで寝てもいいと言い出す始末だった。
もちろん、ジンはその申し出をあっさり断り、そのまま地面へ寝転がっている。
(……俺を何だと思ってんだ、こいつ)
呆れ半分で頭の後ろに腕を組む。
けれど、どうやら単に世話を焼きたいだけでもないらしい。アズリルはジンと、未だ眠り続ける少女の二人を、片時も目を離すまいとするように見守っている。その眼差しには、これ以上は何も失いたくないとでも言いたげな、妙な切実さがあった。
少年を横目で眺める。ジンのブカブカの服に身を包んだアズリルは、ジンと『睡眠少女』の間に座り込み、何かあればすぐに跳び起きられるよう片膝を立てている。
まあ、静かに見張ってくれるなら都合がいい。寝られるうちに寝ておくに越したことはないだろう。
そう思い直すと、ジンはゆっくりとまぶたを閉じた。
[newpage]
その日──。
水平線の彼方に、一隻の船影がゆっくりと姿を現した。
頑丈な船体が波を押し分けながら岸へ近づくにつれ、船上から漂う異様な圧もまた、じわじわとその存在感を増していった。
船から降り立ったのは、三人。
先頭を歩くのは、深く帽子を被った、すらりとした男。その半歩後ろには、体格のいい男が影のように付き従っている。そして二人からやや離れたところを、長い黒髪の男が歩いていた。風に髪を揺らしながら、感情の読み取れない大きな目で島の景色をぼんやりと眺め、緊張感のない足取りで二人の後をついていく。
レイザーは岸辺に佇み、腕を組んだままその様子をじっと見つめていた。
(……ジンから聞いていた話じゃ、来るのは二人のはずだったんだがな)
目の前の不穏すぎる面々を見て嫌な予感を覚えながら、レイザーはゆっくりと三人の元へ歩み寄った。
「君たちが、ジンの言っていた客人か。俺はこの島のゲーム制作者の一人、レイザーと言う」
声をかけると、降り立った三人の視線が一斉にレイザーへと向けられた。どの男からも、ただ者ではないと分かるほどの圧が漂っている。
「単刀直入に聞こう」
男の一人から、冷ややかな声が落ちた。深く被った帽子の影からは、冷徹な光を宿した青い目だけが覗いている。
「ジンという男はどこにいる? ここにいるはずだろう」
その立ち振る舞いには、長く人の上に立ってきた者ならではの気品があった。だが、当然のように居場所を尋ねるその男に対し、レイザーは肩をすくめて首を振った。
「さあな。申し訳ないが、俺はあいつの居場所を知らない」
「知らない……?」
「ああ。俺がジンから頼まれたのは、お前たちの入島許可を出すことだけだ。『客が行くから通してやってくれ』としか聞いていない。それ以外のことは、何一つ知らされていないんだよ」
レイザーの淡々とした返答を聞き、三人は静かに顔を見合わせた。ジンという男が意図的に情報を伏せているらしいことは察せられた。
「なるほど……。そう簡単には、しっぽを掴ませてくれないというわけか」
どうやら、ここで粘ったところで欲しい情報は出てきそうにない。男はそう判断したのか、やがて興味を失ったように視線を外す。
「分かった。なら、自分たちで探すまでだ」
少なくとも、アズリルがこの島にいる。それだけ分かっていれば十分だった。
レオンハルトは迷いなく踵を返した。ノクトも何も言わず、その半歩後ろへ続く。イルミは少し間を空けながら、いつもの掴みどころのない足取りで二人の後を追った。そうして三人は、レイザーを振り返ることもなく、そのまま森の奥──ゲームの世界へと足を踏み入れていった。
遠ざかっていく三人の背中を静かに見送りながら、レイザーは頭をポリポリと掻き、ぽつりと呟いた。
「……随分と濃い客を寄越したもんだな、ジン」