※後半に少しだけR-15寄りの描写があります。
「よし、そこまで。もう解いていいぞ」
その声で、アズリルは力尽きたようにその場へ崩れ落ちた。両手を地面につき、ぜえぜえと荒い息を繰り返す。視界がぐらぐらと揺れ、もはや上も下もよく分からない。
ジンはそんなアズリルを見下ろし、頭をわっさわっさと乱暴に撫でた。
「よく踏ん張ったな、お疲れ」
しばらくアズリルを見やったあと、「飯にするか」と呟いて池の方へ歩き出した。
『睡眠少女』を一週間守り抜く試練を終えてから、ただひたすら、『練』を繰り返す日々が続いていた。
ジン曰く、アズリルはまだオーラの絶対量が心許ないらしい。その底上げのため、限界までオーラを練り上げ、意識が飛ぶ寸前まで『練』を維持するという過酷な修行を、ここ数日、昼夜を問わず何度も繰り返させられていた。
肉体も精神も日に日に消耗していき、三日目を過ぎた頃には、意識がすっかり朦朧とするほど疲れ果てていた。
だが、それもようやく終わりらしい。ジンの「お疲れ」という一言を聞いた瞬間、アズリルは泣きたくなるほど安堵した。
地面に突伏したまましばらく荒い呼吸を整え、アズリルはゆっくりと顔を上げた。
ジンは池のほとりで、すでに静かな寝息を立てて横になっている。
彼が眠るのと同時に、『七人の働く小人』たちがセカセカと動き出し、釣りや果物の採取を始めていた。昼飯の支度をしてくれているのだろう。
その健気に働く小人たちの姿を見るたび、アズリルの胸はちくりと痛んだ。
つい先週までは、こうしたことのすべてを自分の『メイドパンダ』がやってくれていたのだ。
自分のせいで、大切なパンダを死なせてしまった——。
その罪悪感から打ちひしがれるアズリルに、ジンは「どうしても納得がいかねえなら、もう一度『メイドパンダ』を手に入れられるくらい強くなれ」と言い放った。そう言われてしまえば、アズリルも俯いてばかりはいられなかった。
むしろ、もう一度あの子に会えるのなら、どんな地獄だって乗り越えてみせる。そう固く心に誓っていた。
アズリルはまだふらつく身体を起こすと、眠っているジンのそばまでそっと近づいた。起こさないよう気をつけながら、その隣に身体を横たえる。
ここ数日、ジンが眠るときはいつもこうしている。
自分のためにずっと付きっきりで起きていてくれたのだから、眠っている間くらいは安心して休んでほしかったのだ。自分がすぐ隣にいれば、起きたときに余計な心配をさせずに済む。
じんわりと伝わってくるジンのあたたかな体温を感じながら、アズリルは静かに瞼を閉じた。
[newpage]
『七人の働く小人』たちがちょうど飯を作り終えた頃、ジンはゆっくりと目を覚ました。
身体を起こそうとして胸元に微かな重みを感じ、視線を落とす。
見れば、いつの間にかアズリルが自分の懐へと潜り込み、心地よさそうに寝息を立てていた。
ジンはしばらく、その寝顔を眺めた。
よほど疲れていたのだろう。『睡眠少女』のおかげで眠る必要などないはずなのに、ぐっすりと寝入ったまま、起きる気配すらない。
こうして何の疑いもなく人に身体を預けているあたり、いくら信用した相手とはいえ無防備にもほどがある。
——この警戒心のなさ、次の試練では徹底的に叩き直してやらねえとな。
そう思いつつ、ジンは優しい手つきでその肩をゆっくり揺すった。
ほどなくしてアズリルも目を覚まし、二人は出来上がった昼食を囲んだ。
目の前に並んでいるのは、素朴な焼き魚と、大雑把に切られた野菜料理。
かつて『メイドパンダ』が作ってくれていたような豪勢で華やかな料理ではない。『七人の働く小人』は、主人の能力を超えることまでは代わりにこなせないらしい。ということは、目の前に並んだ料理が、そのままジンの料理の腕ということになる。
アズリルは焼き魚を一口かじり、もぐもぐと咀嚼した。
なんというか、「普通」としか言いようのない味だった。
良く言えば素材の味を生かしている。悪く言えば、ただ火を通しただけだ。
「ジンって、なんでハンターになろうと思ったの?」
魚をつつきながら、アズリルがふと思いついたように尋ねる。
ジンは考えてから、適当な調子で答えた。
「欲しいもんを追ってたらそうなっただけだ」
「欲しいもの?」
「まあ、いろいろだよ」
「……またそれ」
アズリルは不満そうに口を尖らせた。
ジンは相変わらず、自分のことをほとんど話そうとしない。普段何をしているのかも、年齢も、考えてみれば苗字すら知らないままだ。
それが、アズリルにはどうしても寂しかった。これほど長い時間を共に過ごし、深く関わった相手なんて、これまでの人生でも片手で数えるほどしかいない。それなのに、自分はまだジンのことをほとんど何も知らないのだ。
だからこそ、少しでも心を開いてほしくて、アズリルは自分の方からいろんな話をした。
城でどんな暮らしをしていたのか、なぜ外の世界へ出たかったのか、ハンター試験で何があったのか。そこで出会った、ゴンやキルア、クラピカ、レオリオのこと。そして、兄のこと。
アズリルは、自分の知るすべてをジンに語った。
ノクトの話も、何度かしようとはした。けれど、その名前を口にしようとするだけで胸の奥が妙にむず痒くなり、途端に恥ずかしさが込み上げてくる。結局、いつも最後まで言い出せないまま、話をやめてしまっていた。
「ジンの家族は?」
何気なく聞くと、ジンは特に気にした様子もなく、あっさりと答えた。
「息子が一人いる」
「へえー……えええっ!?」
アズリルはギョッとしてジンを見つめた。まさかこの男が父親だったとは。
「何歳なの?」
「もうすぐ十二だ」
思っていたより、ずっと大きい。十二歳なら、自分ともそう歳は離れていない。この人は、僕の父親でもおかしくない年齢なのかと驚いた。
結局、それ以上ジンが家族について話すことはなかった。それでも、彼の知らない一面を垣間見られた気がして、アズリルはそれなりに満足していた。
食事を終えた頃、ジンがふと森の方へ目を向けた。「さて、と」、と立ち上がりながら腰を伸ばす。
「あいつらも、ようやくこっちの居場所を掴んだみてえだし。次の段階に進むか」
「あいつら? 次の段階?」
ジンは答えず、自分の荷物をごそごそと漁り始めた。
相変わらず説明する気はないらしい。アズリルはムッとしたものの、ずっと行動を共にする中でそれにも慣れてしまっていた。
今ではジンのことも十分信用している。必要なことなら、そのうちちゃんと教えてくれるだろう。そう思うと、まあいいか、とすぐに気持ちを切り替えられた。
ジンはコップのような器を取り出すと、近くの池からそのまま水をすくい、アズリルの目の前に置いた。
「……それ、ちゃんと濾過してから沸かさないと──」
衛生的にどうなの、と言いかけたところで、ジンが足元の葉を一枚拾い、そのまま水へ浮かべた。
「…………」
水の中を漂う微生物と、葉の表面にびっしり付着しているであろう雑菌。その惨状を勝手に想像してしまい、アズリルの眉間に深い皺が寄った。
……もう絶対に飲みたくない。
あからさまに嫌そうな顔で口を尖らせるアズリルを余所に、ジンは足元から枝を一本拾い上げると、地面へせわしなく図を描き始めた。
「……『
ジンはちらりと見上げ、「読めんのか?」と尋ねる。中心に大きく書かれていた「発」の文字は、一般的なハンター文字ではない特殊な字体だった。アズリルが「え? うん」と頷く間に、図はセカセカと完成されていく。
「お待ちかね。お前のオーラがどの系統か調べるぞ」
「系統って──」
アズリルが尋ねかける声を遮るように、パチパチパチ☆と威勢よく手を叩く音が響いた。
「おっ☆ ようやくじゃな☆」そう言いながら、妖精王が愉快そうにくるくると宙を舞う。
最近は特に用事も助言もないのに出てくることが多いな……と苦々しく思いながらも、アズリルはジンの説明に意識を戻した。
ジンは地面に描いた図を指さしながら、六つの系統──強化、変化、具現化、操作、放出、特質について順に説明していった。それぞれに異なる性質があり、互いに得意・不得意の相性があること。人は生まれ持ったオーラの系統によって、習得しやすい能力とそうでない能力があること。
そして、まずは自分がどの系統に属するのかを見極め、そのうえで今後どんな能力を身につけていくか決めるのだという。
気づけば、アズリルはすっかり話に引き込まれていた。知れば知るほど、念というものの奥深さが見えてくる。まだ知らないことがいくらでもあると思うと、胸が高鳴った。
「ま、口で説明するよりやった方が早い」
ジンが器の縁を軽く叩く。
「こいつに手を近づけて『練』をしてみろ。水や葉に起きた変化を見れば、お前がどの系統か分かる」
「へえ……」
アズリルは期待に目を輝かせた。
できれば放出系がいい。手からオーラをビームのように勢いよく飛ばせたりしたら、きっと格好いい。
強化系も捨てがたいな。自分より何倍も大きな岩を軽々と持ち上げたり、大木を力任せに引き抜いたり──そんな途方もない怪力を手に入れた自分を想像するだけで、わくわくしてくる。
妄想を膨らませながら、アズリルは両手を器へ近づけた。
深く息を吸う。
ゆっくりと『練』へ移ると、身体を包むオーラが大きく膨れ上がった。
そして、コップの中をじっと凝視する。
何が起こるのだろう。
「……」
何も起きない。
「…………」
一分ほどが経過した。
アズリルは恐る恐るジンを見る。
「……これ、まだ時間かかるの?」
「いや」
ジンも首を傾げた。指先で水をすくい、ぺろりと舐めてみる。
「変わってねえな」
「……もしかして、僕のオーラが足りない……?」
ここ数日ずっと『練』をし続けていたというのに、それでも足りないなどと言われたら、本気で泣くかもしれない。
だが、ジンはすぐ首を振った。
「いや。『練』には何の問題もねえよ。むしろ十分すぎるくらいだ。おかしいな……何も起きないってことはあり得ねえんだが」
「ううぅ……やっぱり僕、念の才能ないんじゃ……」
「そう卑屈になるな☆ 無能には無能なりの生き方というものがあるぞ☆」
妖精王にさらに追い打ちをかけられ、アズリルはますます項垂れた。それを見かねたのか、ジンが手をパッパと振ると、妖精王は煙のように姿を消した。
「そう落ち込むなって。大体どの辺か、俺なりに当たりはつけてるんだ」
「ほんと?」
「ああ。むしろ俺の予想通りなら、かなり分かりやすい反応が出ると思ってたんだけどな」
ジンはそう言ってから、ふとアズリルの背後へ視線をやった。
「……いつまでそこで突っ立ってんだ。何か意見くらいねえのか?」
「え?」
アズリルはきょとんとしてジンの視線を追った。
恐る恐る頭を後ろへ仰ぎ見る。
頭上には、見慣れた、懐かしくて優しい、深い青色の瞳が見つめ返していた。
「やあ、アズリル」
レオンハルトが、柔らかく微笑んでいた。
アズリルは上を向いたまま固まった。
何が起きているのか理解できない。これは現実なのだろうか。
兄上が、レオンハルトが、今、自分のすぐ後ろに立っている……?
そんなことがあり得るのか。
視界が急速に滲んでいく。
「はは。やっと泣いてくれた」
「…………」
「城を出るときは驚くくらいあっさりしてたからな。もう兄上のことなんてどうでもよくなったのかと思ったよ」
「あ……あ……あにうえぇぇぇっ!」
次の瞬間、アズリルは勢いよく飛びついていた。
レオンハルトは難なくその身体を受け止め、その勢いのまま一度くるりと回ると、しっかりと腕の中へ抱き込んだ。
「久しぶり、アズリル」
ジンは胡座をかいたまま、兄弟の再会を眺めていた。
レオンハルトは飛びついてきたアズリルを当然のように受け止め、そのまま離す気配もない。泣きながらしがみつく弟の背を何度も撫で、時折その顔を覗き込んでは、安心させるように笑いかけている。
アズリルはしばらく兄との再会に浸ったあと、その隣にいる長い黒髪の男に気づき、驚いたように目を丸くした。さらにその後ろに、がっしりとした男の姿を見つけると、今度こそ大騒ぎした。
先ほどアズリルから聞いた話でも思ったが、本当にガレスといいこの兄といい、アズリルが昔から相当大事にされて育ったことは、嫌でも分かる。
兄の方は見るからに厄介そうだが、連れの二人もどうやら一筋縄ではいかなそうだ。ガレスの時みたいに面倒な連中でなければいいが……と、ジンは胸の内でぼやいた。
[newpage]
「それにしても、本当に何も起きないね」
イルミがコップを覗き込みながら言った。
「ここまで水見式に苦戦する人、初めて見た。ちゃんとやってる?」
「やってるよ!!」
「ふうん」
悪気がないぶん、余計に酷い。
アズリルはやけになったようにオーラを膨らませ、コップに必死で手をかざした。それでも、いくら待っても何も起こらない。
結局、水見式はいったん打ち切りとなり、時間を置いてもう一度試すことになった。
夕方──。
ジンとノクトが近くへ食料を調達しに行っているあいだ、アズリルとレオンハルトは池のほとりで、久しぶりに二人でゆっくりと言葉を交わしていた。
「それにしても、兄上がここにいるなんていまだに信じられないよ。よく場所がわかったね?」
「ノクトが渡していた革紐のおかげさ。大まかな居場所なら、あれを辿って分かるようになっている」
——もっとも、この島に入ってからは妙な妨害が重なり、正確な居場所を特定するまでに随分と無駄な時間を割かされたのだが。
「そうだったんだ……これにそんな機能があったなんて」
アズリルは自分の左手首に巻かれた紐へ目を落とし──ぎょっとした。
「…………えっ」
以前はどれだけ擦っても傷一つつかなかったはずなのに、今では見る影もない。あちこちが擦り切れ、表面はぼろぼろになり、一部など今にも切れてしまいそうなほど細くなっていた。
アズリルがオロオロしていると、レオンハルトは「ノクトが新しいものを用意しているから大丈夫だよ」と優しく宥めた。
革紐の傷み具合から、もっとひどい状態も覚悟していた。それだけに、思いのほか元気そうなアズリルの姿を見て、レオンハルトは心の底から安堵していた。
だが生命力を反映するこの革紐に亀裂が入っているということは、何かしらの命の危険に晒されていたことは間違いない。
何があったのかは、あの男から必ず聞き出す必要がある。
もちろん、アズリルのいないところで。
それにしても、城を出てから三ヶ月。アズリルは目に見えて成長していた。逞しくなった身体も、以前より力強くなったオーラも、少し伸びた髪も。けれど何より大きいのは、その内面の変化だった。誰よりも弟をよく知るレオンハルトには、それが一目で分かった。
「怖い目には遭っていないかい? 嫌になったらいつでも城に帰っていいんだぞ」
「ん? 大丈夫だよ。毎日すごく楽しいよ」
レオンハルトは一瞬の間を置き、「そうか」と静かに頷いた。
アズリルはちらりと兄の顔を見上げる。
相変わらず堂々としていて、目が合えばいつもの優しい笑みを返してくれる。
けれど──なぜだろう。
暗殺一家のイルミと当たり前のように行動を共にしていることや、旅に出てからふとした拍子に覚えたいくつかの違和感が、今になって頭をよぎった。
外の世界へ出て、アズリルも知り始めていた。人には、自分に見せている顔だけがすべてではない。ずっと誰よりも近くにいたはずの兄にも、きっと自分の知らない一面がある。
そう思った途端、すぐ隣にいるはずのレオンハルトが、どこか遠く感じられた。
ふと兄の手元に目をやったアズリルは、右手の人差し指に自分と同じ指輪がはめられていることに気づいた。
「兄上、その指輪どうしたの?」
「ああ。島に入ってアズリルを探している途中、親切な旅人に譲ってもらったんだよ」
譲ってもらった……ねぇ。
引っかかったものの、それ以上は追及しなかった。
そのとき、レオンハルトの視線がアズリルの左手薬指に止まった。
「……」
レオンハルトはアズリルの手をそっと取り上げた。親指で左手の薬指を愛おしむようになぞり、そのまま指輪へと指をかける。慎重に指輪を抜き取ると、今度は反対の手の人差し指へとゆっくり嵌め直した。
それで、ようやく気が済んだのだろう。レオンハルトはどこか満足げに目元を緩めると、名残惜しそうにアズリルの手を離した。
アズリルは頭の中を疑問符だらけにしながら、その一連の動作をぽかんと見つめていた。
しばらくして食事の準備が整い、全員で火を囲んだ。
「そういえば、アズリルと離れて以来、ガレスと連絡が取れなくてね。マルクから聞いた場所まで兵を向かわせたんだが、そこにあるはずの小屋だけが、どうしても見つからないそうだ」
レオンハルトはそう言いながら、優雅な所作で果物を口へ運ぶ。
「げ……あいつ、まだあそこにいるのか?」
ジンが大きくかぶりつこうとしていた兎肉を前に、ピタリと手を止めた。参ったな、という表情で思案し始める。
その様子を見て、アズリルは何か問題でもあるのかと尋ねた。
「いや……あの家は俺のアジトの一つでな。外からじゃ絶対に見つからねえようになってる」
「念で?」
「まあな。正確に言や、俺の能力じゃねえけど」
話を聞いていたイルミが首を傾げる。
「そうなると、ガレスは二週間近く一人でその家に閉じこもってるってこと?」
「えーっ、水や食料は大丈夫なのかな……」
アズリルが心配そうに呟くと、ジンはあっけらかんと言い放った。
「ねえよ、そんなもん」
「えっ!?」
アズリルがギョッとして顔を青くすると、ジンは頭を掻いた。
「いや、少し歩けば川はあるし、食えるもんだって森にいくらでもあるぞ。ただ、あの小屋は一度外へ出ると、俺がいない限り入り直せないようになってる。一定以上離れれば、建物自体見えなくなる」
ジンはそこで考え込んだ。
「……となると、迎えに行った連中がガレス本人すら見つけられなかったってんなら、あいつ、まだ中にいる可能性が高えな」
「つまり、ガレスは今もあの家の中にいて、すでに力尽きている可能性があると?」
レオンハルトは、じっとジンを見据えた。
「閉じ込めちゃいねえんだ。大の大人だ、流石にそうなる前に一人で出ると思いたいんだが」
ジンは、勝手に自分の家で暮らされた挙句、のたれ死んでいるかもしれない巨漢の姿を想像し嫌な顔をした。
イルミとレオンハルトは顔を見合わせる。あのガレスなら、アズリルを見失った罪悪感と使命感から、餓死するまでその場を動かず待ち続けていても、まったく不思議ではないと思った。
ジンはやれやれと溜息をつく。
「さすがに、俺の貴重なアジトで死体が出ちゃ寝覚めが悪い。……坊主の見張り役も増えたことだし、ちょっくら様子見てくるわ」
残っていた肉を口へ放り込みながら立ち上がる。そして軽やかな調子で告げる。
「レオンハルトと言ったか。お前もついてこい」
ジンの言葉に、レオンハルトは視線だけを向ける。ノクトがすっと前に出ようとしたが、レオンハルトは手でそれを制した。
「理由は?」
「俺だけ行っても大揉めになるだろ。あいつ、俺のことを完全に仇扱いしてるからな。いちいち相手をするのも面倒だ。あれを抑え込めるのは、お前くらいしかいねえだろ」
レオンハルトはしばし無言でジンの目を見つめた後、小さく息を吐き出して立ち上がった。
「分かった、同行しよう。ガレスの性格を私がよく知っているのは確かだ。ノクト、お前はここでアズリルを見ていろ」
「あ、僕も行く!」
アズリルも慌てて立ち上がろうとする。
「お前は駄目だ」
ジンの一言で、ぴたりと止まった。
「なんで!」
「修行」
「えぇ……」
「水見式一つまともに反応させられねえ奴が遊び歩いてどうすんだ」
アズリルはぷくっと頬を膨らませた。
それを見て、レオンハルトが笑いながら頭を撫でる。「すぐ戻ってくるから、その時にゆっくり話そう」と言い残す。渋々ながら、アズリルは座り直した。
ジンが先立って歩き出し、レオンハルトがそれに続いた。イルミも立ち上がり、レオンハルトの隣に並んで歩く。レオンハルトはイルミへ静かに耳打ちした。
「イル、ノクトのことを見張っていてくれ」
イルミが目だけを動かす。
「まだ疑ってるんだ」
「念には念を、だ」
「レオこそ、大丈夫なの? あんな見ず知らずの男と二人きりで。信用してるわけじゃないんでしょ?」
「ああ」
レオンハルトは迷いなく答えた。
「だからこそ都合がいい」
「?」
「この機会にどんな男かじっくり見極めてやるさ」
「ふーん……怖いねぇ」
ジンとレオンハルトが「ブック」を開いて何かを話したかと思うと、次の瞬間には、二人の姿は跡形もなく消えていた。
イルミはそれを見届けた後、ちらりとアズリルとノクトの方へ視線を送る。
ノクトはいつも通り無表情のまま、アズリルのすぐ近くに佇んでいた。
そしてアズリルはというと——
水見式の器を前に座りながら、ちら。
少し時間を置いて、また、ちら。
先ほどから妙に頻繁にノクトを盗み見ている。しかもそのたび、ほんのりと頬まで赤く染めていた。
イルミはしばらく無言で、その分かりやすすぎる様子を眺めていた。
なるほど。
「……これは大変そうだね」
[newpage]
「イルミの系統は何なの?」
「操作系だよ。レオも同じ」
「へえ……。ノクトは?」
「放出系です」
ノクトの答えを聞いた瞬間、アズリルの顔がパッと華やいだ。
「ねえ、どうやったら放出系になれるかな!?」
いそいそとノクトに詰め寄ろうとしたアズリルだったが、イルミによってぐいと肩を後ろへ引かれた。
「何さ」
ムッとして振り向くアズリルに、イルミは淡々と告げる。
「生まれ持った系統は選べないよ。そんなことより、おとなしく水見式に集中しなよ」
「う……」
アズリルはがっくりと肩を落としたその時、パチ☆と優雅に手を叩く音が響く。
「くっくっく……悩み多き迷える子羊よ☆ 水も葉も沈黙したままか☆ ならば次は、自ら動くものに聞いてみるがよい☆」
宙を舞う妖精王が意地悪そうな笑みを浮かべつつ、妙な提案をしてきた。イルミは「なんだこれ」と胡散臭そうな目を妖精王に向ける。
「気にしないで。あいつのことは無視、無視」
アズリルは面倒くさそうに手を振った。
一方、ノクトはしばらく顎に手を当てて考え込んでいたが、やがて無言で立ち上がると、近くの草むらへ屈み込んだ。何かを優しくつまみ上げると、歩み寄ってコップに浮かぶ葉の上へそっとそれを置く。
アズリルとイルミが覗き込むと、そこには小さな蜘蛛が乗せられていた。
二人は顔を見合わせ、同時にノクトへと視線を戻す。
「ノクト、これ……何?」
「一度、これで試してみてください」
葉の上の蜘蛛は、行き場を失ったようにせわしなく動き回っていた。
「動物に『練』をぶつけるなんて、可哀想だよ……」
アズリルはぶつぶつと文句を言いつつも、大好きなノクトの提案を無駄にしたくなくて、恐る恐るコップへ手をかざした。オーラを当てすぎて死なせてしまったらどうしよう──そんな不安を抱えながら、慎重に『練』を強めていく。
手をかざし、蜘蛛を包むようにオーラを向けた瞬間──
ぴたっ。
蜘蛛の動きが完全に止まった。
次の瞬間、蜘蛛はワタワタと八本の足を激しくバタつかせ、葉の上でクルクルと駒のように回り始めたのだ。
「うわあっ!?」
思わぬ怪現象にびっくりしたアズリルは、慌てて「練」を解いた。
オーラが消えると、蜘蛛は何事もなかったかのようにバタつきをやめ、また葉の上を歩き始めた。
「これって……」
アズリルが固まっていると、イルミが抑揚のない声で告げた。
「操作系、だね」
「………………操作系……かぁ」
「何? なんかすごく残念そうだね」
「い、いや! 全然そんなことないよ!」
アズリルは慌ててぶんぶんと首を振った。だが、憧れの放出系ではなかったショックは隠しきれておらず、声のトーンは露骨に低くなっている。
「でも、どうして葉っぱじゃなくて、蜘蛛だと変化が起きたんだろう?」
三人はコップの中の蜘蛛を見つめながら、揃って首を傾げた。
[newpage]
光が弾けた次の瞬間、レオンハルトの足元から地面が消えた。
反射的に身構えたものの、すぐに自分が巨大な樹の上に立っていることに気づく。
眼下に広がるのは、果てしなく続く深い森。遥か下方には雲がたなびき、視線を巡らせれば、右手には青い海まで見渡せた。
あまりにも唐突に開けた景色に、さすがのレオンハルトも言葉を失う。
「どうだ。いい眺めだろ」
少し先に立つジンが、得意げでもなく言った。
レオンハルトは返事をせず、しばらく眼下へ目を向けていた。
「ちなみに」
ジンがにやりと笑った。
「お前もあの坊主みてえに『怖くて降りられません』ってんなら、抱えて下まで連れてってやってもいいぜ」
そう言って、わざとらしく両腕を広げる。
だが、レオンハルトはその挑発を一切意に介さなかった。感情の抜け落ちた静かな瞳で、視線だけをジンへと据えた。
すっ、と音もなく足を進め、ジンとの距離を詰めた。
そのままジンの背後にある世界樹の巨大な幹へと、ドンと容赦なく片手を突く。逃げ場を完全に塞ぐように、ジンの股間へ自身の膝を強引に割り込ませた。
「お?」
気づけば、ジンは幹とレオンハルトの身体との間に挟み込まれていた。至近距離から、冷たい青の瞳がじっとジンを見下ろす。
「お前はアズリルの前でも……そんな軽薄な
「……あん?」
ジンの眉が跳ね上がる。
「私が気づかないとでも思っていたのか? あの子のオーラに、お前のものがわずかに混じっていることを」
レオンハルトの冷徹な声がジンの耳元を打つ。
「ただ一緒にいるだけで、ああはならない。そうだろう、ジン? まさか、何もしていないとは言わないだろうな」
「ずいぶんな言い草だな」
「なんなら、代わりに私が相手をしてやろうか」
レオンハルトは妖艶で冷酷な笑みを深め、ジンとの距離をさらに縮める。
「…………」
「第一皇子直々の申し出だ。生涯に二度とない機会だと思うが?」
レオンハルトの指先が、ジンの腰元からズボンの前へと滑り落ちていく。
厚手の生地越しにその形を確かめるように、わざとらしく指を押し当て、焦らすようにゆっくりとなぞった。
ジンは露骨に嫌そうな顔をした。
「さすがにアズリルほど初々しくはないが……顔立ちは、どことなく似ているだろう?」
レオンハルトは自分の頬を軽く示すと、そのままジンの耳元へ口を寄せた。
「その代わりと言っては何だが……もう二度と、アズリルには——」
「お前、操作系だろ」
ジンはレオンハルトの顔をじっと見たまま、わずかに身体を引く。
「危ねえ危ねえ。言葉で誘導するタイプか? それとも接触条件か? どっちにしろ厄介な能力に違いねえ。それ以上近づくなよ」
ジンはレオンハルトの腕を力任せに跳ね除け、距離を取った。
「あと、お前。何か盛大に勘違いしてるぞ」
レオンハルトの眉が動いた。
「勘違い?」
「ああなったのは、俺がどうこうしたっていうより、あいつ自身の能力によるもんだ」
「……能力?」
「あいつ──アズレイは、おそらく操作系だ。それも、普通の操作じゃない」
「……」
「他人のオーラそのものを操るタイプだ」
沈黙が落ちた。風の音だけが世界樹の頂を吹き抜けていく。
「オーラを操る……? なぜそれが分かる。あの子はまだ、水見式すら成功させていないはずだ」
「俺のオーラを勝手に操作して吸い上げたんだよ」
ジンはレオンハルトの顔をちらりと見てから、わざと一拍置いた。
「……あいつの中に、俺のオーラを捩じ込んだ時にな」
ドカッ!!
言葉が終わるか終わらないかの瞬間、レオンハルトの拳がジンの顔面を叩きつけた。そのままジンの胸ぐらを強く掴み上げ、レオンハルトは刃物のような視線でジンを睨みつけた。
「貴様……ッ!」
凄まじい殺意とドス黒いオーラが、レオンハルトの全身から噴き出す。
それを受け止めながら、ジンは痛がる風もなく、ニッと口端を上げた。
「へっ、やっと素の顔が出たな」
ジンはレオンハルトの怒りなど気にも留めず、さらに煽るような言葉を重ねる。
「テレビで見るお綺麗な皇子様とは、ずいぶん違うじゃねえか。よくまあ、あんな澄ました顔で世間を騙せるもんだ。とんだ食わせ者──」
「黙れ」
「……」
「アズリルには二度と近づくな。ネテロ殿の試練は、こちらで引き継ぐ。お前の役目はここまでだ」
レオンハルトは胸ぐらを掴む手にさらに力を込める。
「面倒事から解放されるのなら、お前にとっても都合がいいだろう?」
「勝手に決めるなよ」
ジンはレオンハルトの手を平然と振り払うと、鋭い眼光で振り返った。
「譲らねえよ。あいつはもう俺の弟子だ。一度受け入れた以上、途中でほうり出すようなマネはしねえ」
しばし、二人の視線が真っ向からぶつかり合う。どちらの瞳からも、一切折れる気配はなかった。
[newpage]
結局、二人は一言も交わさないまま世界樹を降り、そのまま森の奥へと向かった。
しばらく歩き、ジンの案内で目的の小屋へたどり着く。
扉を開けると、むっとした空気が流れ出した。
ジンは反射的に眉を寄せる。
腐臭はない。少なくとも、中で誰かが死んでいる気配はなさそうだ。だが、室内は見る影もなく荒れ果てていた。家具は破壊され、壁や床にはまるで巨大な野獣が暴れ回ったかのようにボロボロの亀裂や爪痕が刻まれている。
ジンのこめかみに青筋が浮かぶ。
「……あの野郎」
足元の壊れた家具を跨ぎながら、二人は家の後方へ進んだ。
奥の部屋、暗闇の中で青白い光を放つモニターが一台浮き上がっていた。
その画面の前で、巨大な体躯を丸めて座り込んでいる大男の姿があった。服は破れて乱れ、足元には大量の食品ラップのクズや空のペットボトルが乱雑に散乱している。どうやら何かしらの備蓄を漁って食いつないでいたらしい。
「あーあ……人のアジトを好き放題荒らしやがって……」
その声に、大男の肩が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと、ガレスが振り返る。目が合った。
「…………ジン」
「よお」
「ジィィィンッ!!」
ガレスは狂乱した猛獣のような咆哮を上げ、ジンへ飛びかかった。全身から爆発的なオーラを噴き上げ、凄まじい勢いで拳を叩き込む。ジンは紙一重でそれをかわしながら、とっさにレオンハルトへ視線を送った。
——が、なんとレオンハルトは振り返りざまに冷ややかな一瞥をくれただけで、悠々と部屋をあとにしようとしていた。
「あ、こらッ!! 待てお前、裏切る気か!?」
ジンの抗議も虚しく、レオンハルトは振り返りもしないまま部屋を出た。
ほどなく背後で凄まじい衝撃音が響き、壁がびりびりと震える。それでも足を止めることなく外へ出ると、日の当たる場所まで歩いていき、ようやくそこで腰を下ろした。
──あのガレスと至近距離でまともにやり合って、無事で済むはずもない。
ジンはおそらく、ここで死ぬだろう。
アズリルには気の毒だが、説明のしようはいくらでもある。
……やはり、外部の人間になど任せるべきではなかったのだ。これからは、自分の手元で面倒を見ればいい。
最悪の場合はもう一度念をかけ、城に連れ戻せばいい。
時間ならある。
今度こそ、二度と外へ出たいなどと思わないように、ゆっくりと「育て直して」やればいい。
レオンハルトは風に金の髪をなびかせ、耳元の青い宝石を揺らしながら、悠然と空を仰いだ。