その頃アズリルは、兄の秘密を確かめるためノクトと二人きりになっていた。
※R15
ギィ……、と古びた扉の軋む音が、背後から静かに響いた。
レオンハルトは優雅な所作で立ち上がる。その顔には、すべてが計画通りに終わったと確信しているような、余裕に満ちた笑みが浮かんでいた。
「ガレス。随分と早かったな。さすがは長年、皇族を守ってきた男というべきか」
振り返りもせず、淡々と続ける。
「心配するな、あの男にしたことは私の方でうまく処理する。アズリルにもすべて私から説明しよう。お前が気に病むようなことでは──」
「言っておくが、お前とあの坊主じゃ、似ても似つかねえぞ」
背後から届いたのは、ガレスの重々しい声ではなかった。もっと若く、どこか気だるくて──何より、腹立たしいほど生意気な声。
「!?」
レオンハルトが弾かれたように振り返ると、そこには服の埃を軽く払う、ほぼ無傷のジンの姿があった。
ジンは「いてて」と、ぼやきながら、肩をほぐすように軽く回す。
レオンハルトが小屋を出てから、それほど時間は経っていない。にもかかわらず、ジンはあのオルドヴィアでも最大級のオーラ量を誇るガレスを、これほどの短時間で打ち伏せたというのか。
まともに食事を取れず、多少消耗していたとはいえ、ガレスの実力を誰よりよく知るレオンハルトには、にわかに信じがたいことだった。
レオンハルトは衝撃のあまり、微動だにできなかった。全身の神経を極限まで研ぎ澄ませ、眼前の男の動向を注視する。いつ攻撃を仕掛けられても即座に応じられるよう、深くオーラを練り上げた。
……どうやら、このジンという男を大きく見誤っていたらしい。
そんなレオンハルトの警戒など知ってか知らずか、ジンはずかずかとこちらへ歩いてくる。
「顔立ちがどうとか言ってたがな。確かに似てるところがないとは言わねえけど、俺からすりゃ全然別物だぞ。あいつはすぐ泣くし、世間知らずだし、馬鹿みてえに人を信じる。けど、お前みたいに何でも自分の思い通りにしようとするタチじゃねえ」
ジンはレオンハルトを上から下まで眺め、呆れたように鼻を鳴らした。
「それに、あいつは見た目ほど馬鹿じゃねえぞ。むしろ変なところでやたら頭が回る。……なんなら、お前より賢いんじゃねえか?」
「…………」
「少なくとも、大事な相手を閉じ込めときゃ安心だなんて考えるような馬鹿じゃねえな。……で、そんなお前がどうやってあいつの代わりになるって?」
ジンはそこで一度言葉を切ると、ふと「あ」と声を漏らし、ビシッ、とレオンハルトを指差す。
「これだけは今のうちにはっきりさせとくぞ。俺は、お前ら兄弟に欲情するほど、落ちぶれちゃいねえ。そこだけは絶対に勘違いすんな。マジで勘弁してくれ」
レオンハルトは何も返さなかった。ただ、目の前の男を凝視し続ける。
——まずい。
ガレスは敗れた。おそらく、もう死んでいる。腹心のノクトも、今はアズリルと共にあの島にいる。今、この場所にいるのは第一皇子である自分一人。そして目の前には、底の知れない圧倒的な強者が立っている。完全な絶体絶命の状況だった。もしこの男が敵意を向けてくるのなら、一人で対処するほかない。レオンハルトは奥歯をギリッと噛み締めた。
そんなレオンハルトの凄まじい警戒と葛藤を余所に、ジンはあっけらかんと付け加える。
「ちなみに、あのガレスっつうクマなら生きてるぞ」
「……何?」
「一発ぶん殴って、のしてきただけだ」
(一発……だと……?)
「いやあ、さすがに馬鹿力だったけどな」
「……殺さなかったのか」
「殺すわけねえだろ。さっきから俺をなんだと思ってんだ、まったく」
「私は、お前を殺させるつもりであそこに置いてきたんだぞ」
「ああ、知ってる」
ジンはその敵意をまるで気にした様子もなく、頭を掻いた。そしてその場にどかりと腰を下ろし、胡坐をかく。
「一度、停戦としないか」
「……」
「お前に相談したいことがある。できれば、力を貸してほしい」
ジンはまっすぐな眼差しをレオンハルトへ向けた。
「あいつの……アズレイの命に関わる、大事な話だ」
その言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの身体がぴたりと固まった。
[newpage]
イルミは、困っていた。
いや、本来なら困るようなことではない。
やるべきことは、ただ一つ。
一人の子供を視界から外さず、特定の男と必要以上に近づけないこと。それだけの、あまりにも単純な仕事のはずだった。
それなのに。
「……なんで、こうなるのかな」
高い木の枝に腰掛けながら、イルミは下で唇を重ねている二人を眺めていた。
しかも、軽く触れるだけの可愛らしい口づけではない。遠目に見る限り、アズリルはノクトの唇に夢中で食らいつき、どうにか舌までねじ込もうと必死になっているようだった。
イルミはぼんやりと、この状況をどう処理すればいいのか考え始めた。
ようやく水見式に成功したあと、アズリルは「せっかくだから、他の生き物も念で操れるか試してみたい」と言い出した。
そこでイルミが適当な対象を探して周囲へ目をやった、ほんの僅かな隙だった。
そして振り返ったときには──アズリルもノクトも消えていた。跡形もなく。先ほどまで周囲に漂っていた二人のオーラの気配すら、綺麗さっぱり掻き消えていた。
(針さえ使えれば、こんな面倒な苦労もしなくて済むのに——)
アズリルの頭に針を一本刺してしまえば、簡単だった。
どこへ行くかも、誰に近づくかも──誰を好きになるかさえ、こちらで決められる。必要なら、兄のそばから一歩も離れないようにしてしまえばいい。
本人の意思など、消してしまえば問題も起こらない。単純なことなのにとイルミは思っていた。でも、アズリルの頭に自分の針を刺すなど、レオンハルトが許すはずもない。下手をすれば、針を刺した次の瞬間には自分の首を取りに来るだろう。
そして、レオンハルトの執着心が尋常でないことは、すでに十分すぎるほど証明されていた。
ハンター試験の直後、ノクトがレオンハルトになりすまし、アズリルに馴れ馴れしく接していたという失態を知った際にも、レオンハルトは尋常ではないほど激怒していた。
そしてこの島に来てからというもの、状況はさらに悪化している。
途中、アズリルらしき少年が、ほとんど裸同然の格好で島を歩き回っていたのを見たというプレイヤーに遭遇した。
しかも、その男がアズリルについて語る時の目つきや口ぶりには、明らかに邪な興味が滲んでいた。レオンハルトはそれが余程気に障ったらしく、本来なら先に奪うはずだった『ブック』のカードのことすら忘れ、その場で男を殺してしまったほどだ。結局、手に入ったのは男が嵌めていたゲーム用の指輪だけだった。
だが、それ以上にまずかったのは、その話によってジンという男に対する不信が一気に膨れ上がったことだった。
自分の大切な弟に、まともな服すら与えず裸同然で引き回していた。
その時点でも生半可な怒りではなかったというのに、ようやくアズリル本人と再会してみれば、今度はどう見てもジンの私物と思しき服を身に纏い、あろうことか左手の薬指には指輪が嵌められている。昔のあの一件以来、アズリルが自らの意思でその指に指輪を嵌めるなど、レオンハルトでなくともあり得ないと断言できた。
だが、それらすべてより厄介だったのが、アズリルのオーラだった。なぜかそこには、ごく僅かながらも、はっきりとジンのオーラが混じっていた。
あの異変を一目で見抜いた瞬間、レオンハルトがその場でジンを殺しにかからなかったことに対して、イルミは内心本気で舌を巻いていた。よくぞあの場で理性を保ったものだと思う。
こうしてこの島に来てからというもの、レオンハルトの静かな怒りは収まるどころか、事あるごとに新たな火種を与えられ、その苛立ちは今や完全に限界寸前まで膨れ上がっていた。
すでに何度爆発していてもおかしくない状態のところへ、さらに何か問題でも起きたとなれば——。
「…………」
さすがにもう、笑い事ではない。
ここでさらに何か一つでも想定外が重なれば、今度こそあの王子の堪忍袋の緒が完全に切れ、手が付けられない惨劇が引き起こされるだろう。
木の上から、アズリルがノクトの口元に夢中で食らいついている様子を眺めながら、イルミは静かに今後の戦略を練っていた。
最優先事項は、今後この二人を決して二人きりにしないこと。
そのうえで、いずれ訪れるであろう惨劇の巻き添えを食わないよう、あらかじめ防波堤を築いておくことだった。
[newpage]
少し前──
「はぁ……やっと撒けた」
アズリルは何度も後ろを振り返りながら、森の細い獣道を歩いていた。
「まったく、今日はやけに監視が厳しいんだから……。イルミって、こんなに人の世話を焼くタイプだったっけ?」
どう考えても、普段のイルミらしくない。
『絶』を使ってどうにか撒くことはできたものの、あのイルミがガレスやノクトばりに自分の動向を監視してくるなんて異常だ。明らかに彼らしくないその振る舞いからして、間違いなく兄上に何か言いつけられたのだろう。
そして、アズリルがそこまでして逃げ出したかった理由は、もちろん一つしかない。
ノクトと二人きりで話したかったのだ。
どうしても、本人に確かめたいことがあった。
それなのに——。
「……いない」
アズリルは立ち止まり、周囲の茂みに視線を走らせた。
「こういう時に限って、姿を見せないんだから」
さっきまで近くに漂っていた気配すら、今や完全に途絶えている。必要な時に姿を現さないのは、実にノクトらしい。
そこまで考えて、アズリルはふと足を止めた。
「……待てよ」
ノクトは兄上から、自分を見守るよう命じられていたはずだ。
だとしたら——。
アズリルはゆっくりと横へ視線をやった。
獣道のすぐ脇は急な崖になっている。
「…………」
一度、深く呼吸を整える。
そして、一切の迷いなく、そのまま宙へ足を踏み出した。
足元から地面が消え、身体がふわりと前傾し、浮遊感とともに重力に引かれて落ちていく——
ガシッ。
次の瞬間、力強い手がアズリルの腕を捉えた。
宙ぶらりんの姿勢のまま、アズリルの口元がゆっくりと弧を描く。
——やっぱり。
腕を掴むその手からゆっくりと視線を辿り、上を見上げる。
そこにあったのは、見慣れた黒髪。どこか険しさを孕んだ、整った男の顔だった。
「ノクト、みっけ」
満面の笑みを浮かべるアズリルとは対照的に、ノクトの表情は苦々しく歪んでいた。眉間には深い皺が刻まれている。
「……私を、嵌めたのですか」
「そんな言い方しないでよ」
アズリルは悪びれる様子もなく笑ってみせた。
「だって、こうでもしないと出てきてくれないじゃないか」
ノクトは複雑な苦悶を浮かべたまま、アズリルの身体を片腕だけで軽々と引き上げた。
足が再び確かな地面を踏みしめる。それを確認するや否や、ノクトは素早く手を離し、背を向けようとした。
「あ、駄目!」
アズリルは咄嗟にその腰へ飛びついた。
両腕を回しても、ようやく手が届く程度だった。服越しにも分かるほど、ノクトの身体は硬く逞しい。二人の体格差は歴然としていた。アズリルがどれほど力一杯しがみつこうと、ノクトの身体は微動だにしない。
それでも、二度と逃がすまいと、アズリルは必死に腕へ力を込めた。
「行かないで……。お願い。少しだけでいいから、話を聞いて」
先ほどまでの悪戯っぽいトーンが消え、急に小さく弱々しい声になる。
「…………」
ノクトはただ、立ち尽くした。振り払おうと思えば造作もない。その気になれば、簡単に振りほどけるはずだった。けれど、その手を強引に引き剥がすことだけは、どうしてもできなかった。
「あの……分かりましたから。とりあえず、離していただけませんか」
ノクトが困り果てたように吐き出した声に、アズリルはすぐには従わなかった。本当に逃げるつもりがないのか、じっとその顔を見上げて慎重に確かめる。しばらく見つめた末、ようやく大丈夫そうだと判断すると、腰に回していた腕をそろそろと解いた。
けれど、やっぱり、万が一ということもある。
アズリルは離したばかりの手をそのまま伸ばし、ノクトの大きな手へ逃げられないよう指を絡めた。
(これは念のため。ノクトがまた逃げたら困るから、仕方なくこうしてるだけで……。べ、別に手を繋ぎたいとか、そういうんじゃない。うん、絶対に違う)
そう自分に言い聞かせながらも、重なる手のひらから伝わる体温に、アズリルの鼓動は速くなった。
……どこから話そう。
一瞬だけ言葉を探したあと、アズリルは意を決して口を開いた。
「……兄上のことなんだ」
ノクトの表情が、微かに引き締まる。
「どうしても、ノクトに聞きたくて。イルミに聞いたって、どうせまともに教えてくれないだろうし……僕には、ノクトしか頼れる人がいないんだ」
縋るようにその大きな手を握りしめながら、まっすぐにノクトを見上げる。
それからアズリルは、胸の内に溜め込んでいた疑問や不安を、一つずつ言葉にしていった。
兄に対して抱き始めた、いくつもの違和感。イルミに暗殺を依頼していたこと。自分には何も知らせないまま、ノクトをハンター試験へ送り込んでいたこと。そして、わざわざこの島まで追ってきたこと。
途中で手に入れたという指輪にしても、兄は「親切な旅人に譲ってもらった」と言っていた。けれど、今のアズリルには、それを言葉通り受け取るほどの世間知らずさはもう残っていない。きっと、穏便な手段で手に入れたわけではないのだろう。
どれも、自分がずっと知っていた優しい兄の姿とは、どこか噛み合わないものばかりだった。
けれど——。
「……そういうことは、もういいんだ」
アズリルはぽつりと呟いた。
自分の知らない顔があったことは、もちろん少し怖い。何も知らされていなかったことには、寂しさもある。けれど、どれほど影を抱えていようと、レオンハルトが大切な兄であることに変わりはないのだ。どんな一面を隠していたとしても、それだけで嫌いになれるはずがなかった。
問題は、そこではない。
念を覚えてから、アズリルは以前よりずっと精密にオーラを感じ取れるようになった。自分の周囲を流れるオーラだけでなく、身体の内側を巡る感覚までもが、少しずつ手にとるように分かってきたのだ。
だからこそ、気づいてしまった。
自分の奥深くに、自分ではない「何か」が存在することに。
それ自体には、以前から薄々勘づいていた。どうしてかは分からなかったが、自分の中に異物のようなものが潜んでいる感覚が、ずっと消えずに残っていたのだ。
けれど、念を知った今なら、もう一つはっきりと分かる。あの異物めいた気配とは別に、自分の内側には、覚えのあるオーラが存在している。
何度も触れ、何度も抱きしめられ、幼い頃からずっとそばで感じてきた温もり。
間違えるはずがない。兄のオーラだ。
そして先ほどイルミから、レオンハルトの系統が自分と同じ「操作系」だと聞いたことで、その疑念は確信へと変わった。
アズリルは一度深く息を吐き、ノクトの手をぎゅっと握り直す。
「……兄上、僕に念をかけてるよね」
深い青の瞳で、逃げ場を塞ぐようにノクトをまっすぐ見つめた。
「お願い、ノクト。知ってること、全部教えて」
[newpage]
──綺麗な目だ……
不意に脳裏へ浮かんだその言葉は、あまりにも自然すぎて、ノクト自身すら自覚していなかった。
アズリルが、きらきらと輝く青い瞳でこちらを真っ直ぐに見上げている。
同じ青でも、レオンハルトの瞳とはまるで違う。レオンハルトのそれが、陽光を受けて煌めく南国の海だとするなら、アズリルの瞳はもっと深い。光の届かぬ深海をそのまま切り取って閉じ込めたような、静かで濃い青だった。
ノクトは昔から、その瞳に潜む暗い色に惹かれていた。光の差し込む角度が僅かに変わるたび、その瞳はまた違った表情を見せる。見つめれば見つめるほど、視線を外すことすら難しくなる。
ふと、ノクトの胸に妙な考えが芽生えた。
——もっと近くで見れば、この瞳はどんなふうに見えるのだろう。
……いや。
自分は何を聞かれていたのだったか。
ようやく我に返り、途切れかけていた思考を強引に引き戻す。
「……レオンハルト様の念について、ですか」
アズリルはこくりと頷いた。
ノクトはまた黙り込んだ。
今度は、握られたままの手が、やけに気になる。
緊張しているのか、アズリルの掌にはわずかに汗が滲んでいた。その湿った温もりが、妙に意識に残った。
それでもアズリルは離す気などまるでないらしく、時折確かめるように指先へ力を込めてくる。逃がさないための、本人なりの必死な策なのだろう。
そんなことをしなくとも、もう逃げるつもりなどないのだが──。
「…………」
「……ねえ」
アズリルの声で、ノクトは再び我に返った。
「そんなに……言えないことなの?」
不安を滲ませ、眉を小さく下げている。
どうやら黙り込んでいた時間が長すぎたらしい。返答を躊躇っているのだと勘違いさせてしまったようだった。
「……いえ。申し訳ありません。少し……考え事をしていました」
「考え事?」
アズリルが不思議そうに首を傾げる。
さらりと揺れた柔らかな髪に思わず目を奪われ、ノクトはかろうじて保っていた息を再び詰まらせかける。
「…………」
「ノクトってば」
強めに名前を呼ばれると、今度こそ意識を切り替えるように、ノクトは静かに息を吐き出した。
「レオンハルト様の念について、私が知っている範囲でよろしければ、すべてお話しします」
「……え? 本当に……いいの?」
アズリルは驚いたように、ぱちぱちと何度か瞬きをした。
今度はノクトの方が、不思議そうに首を傾げる。
「いや、だって……駄目もとで聞いてみただけなんだ。イルミの様子を見ていたら、兄上のことは何があっても隠したがってるみたいだったから。てっきりノクトも、固く口止めされているんだと思って……」
ようやくアズリルが何を気に病んでいたのかを理解したらしく、ノクトは小さく首を振った。
「少なくとも、アズリル様に話してはならないと、明確に命じられたことはありません」
「そうなの?」
「はい。ただ……私が勝手にお話ししたと知れば、レオンハルト様はあまり良い顔はなさらないでしょうね」
その言葉に、アズリルの表情が瞬時に曇った。
「それって……ノクトが怒られるってことじゃないの?」
「おそらくは。確実にお叱りを受けるかと」
「…………」
「ですが、私は昔から慣れていますので。どうぞお気になさらず」
あまりにも淡々と平然と言い切るノクトの顔を、アズリルはしばらく固まったまま見つめた。それから視線を落とし、未だ離さずに絡めたままの互いの指先へと落とす。
「……やっぱり、いい」
「アズリル様?」
「聞かない。やっぱり、ノクトには聞かないよ」
ノクトが僅かに目を見開いた。そんな彼の反応を遮るように、アズリルはゆっくりと、けれど意志を込めて首を振った。
「ノクトが僕のために怒られるって分かってるのに、無理に話してもらうなんて嫌だ」
「ですが——」
「自分で直接、兄上に聞いてみる」
言葉にして口に出すと、不思議と胸の奥に渦巻いていた重苦しい迷いが晴れていく感覚があった。
「……むしろ、最初からそうするべきだったんだ」
ノクトからこっそり裏の事情を聞き出せば、自分は傷つかずに済むし、楽だ。けれど、その身勝手な選択のせいでノクトがレオンハルトから激しい叱責を受けるかもしれないなんて、さっきまで考えもしなかった。自分が傷つかないことばかり考えて、ノクトのことを全然考えていなかった。それが急に恥ずかしくなった。
本当は、レオンハルト本人に直接尋ねるのが怖かった。
兄を疑っていると思われたくなかった。大切な関係が壊れてしまうのが怖かった。兄が自分からずっと隠し通してきた影の部分を、自分の手で暴いてしまうのが恐ろしかったのだ。だからこそ、ノクトから先に「答え」だけを教えてもらおうと逃げていた。
けれど——もう、逃げるのはやめよう。
ちゃんと兄と正面から向き合って、自分の言葉で尋ねる。たとえどれほど恐ろしい事実が待っていたとしても。
アズリルがそう決意を固めて顔を上げると、ノクトは一切の言葉を挟まず、ただ深く静かな瞳でじっと自分を見つめていた。
「…………」
「…………」
……それにしても。
ふと、アズリルは妙な違和感に気づく。
今日のノクトは、やけに頻繁に目を合わせてくれる。いつもならこちらからまっすぐ見つめても、ノクトは立場を気にしてか視線を逸らすことの方が多かったはずだ。なのに今はずっと、逃げ場もないほどまっすぐに自分を見つめ返してきている。
しかも——まだ手まで繋いだままだ。
「…………」
一度気になり始めると、触れ合っている手のひらの熱までが急激に存在感を増してくる。トックン、と胸の鼓動が速いリズムを刻み始めた。
(いやいや……今は兄上の大事な話をしてたところで……)
動揺を打ち消そうとした瞬間、アズリルの思考がピタリと止まった。
待てよ。
ノクトと最後にちゃんと顔を合わせた時って——。
「…………」
当時の記憶が、鮮烈な映像となって脳裏に蘇る。
あの時。
ゾルディック家を出て、別れ際に。
自分はノクトに——。
「——っ!?」
次の瞬間、全身の産毛が一斉に逆立った。
ドッと一気に血が上り、顔面が沸騰したかのように熱くなる。
そうだ、キスをした。
いくら頬とはいえ、確かに自分からノクトへ唇を寄せたのだ。
(——う、うわあああああっ)
どうして今の今まで、こんな重大なことを忘れて普通に接していられたのか。
いや、それよりも——。
アズリルは恐る恐る、盗み見るようにノクトの表情を伺った。
まだこっちを見てる……。かつてないほど真剣な眼差しで。
まさか。いや、でも。
これって——もしかして。
ほんの少しくらいは……脈があったり、するんだろうか。
(…………!)
その可能性に思い至った瞬間、つい数秒前まで頭の大半を占めていた兄の念のことなど、綺麗さっぱりどこかへ吹き飛んでしまっていた。
アズリルの鼻息が熱を帯びて荒くなる。
チラッとノクトを見ればバッチリ目が合い、慌てて視線を逸らす。数秒後、もう一度チラッと伺うと、やっぱりノクトもじっと自分を見つめてきている。
どうしよう。こういう時って、一体どうすればいいんだ?
何かそれっぽいこと言う?
もう一度手を強く握る? いや、もう十分固く握りしめてるか……。
じゃあ、もっと身体を近づける……?
それはさすがに——。
ぽんっ☆
「——げっ!!?」
この世で今、最も聞きたくなかった音が、よりにもよって最悪のタイミングで、耳元に炸裂した。
アズリルはものすごい勢いで振り返る。
「今だけは絶対やめて!! 本当にお願いだから!!」
「くっくっく……☆」
空間の歪みから現れた妖精王は、すべてをお見通しだと言わんばかりの意地悪な笑みを浮かべていた。
「恋に迷える、悩める子羊よ☆」
「迷ってないし、悩んでもないっ!」
「好機というものは、ただ待っているだけでは指の隙間から逃げてゆくものなのだよ☆」
「話を聞いてよ!!」
妖精王はアズリルの必死の抗議など意に介さず、大袈裟で芝居がかった仕草で胸元に手を当てる。
「恋の成就に必要なのは、一歩を踏み出す勇気☆ そして何より……積極性☆ 表面をなぞるだけでは駄目、時には勇気を出して、もっと奥まで踏み込むのだよ☆」
「だから喋らないでってば──ーっ!!」
顔を熟しきったトマトのように真っ赤にしたアズリルは、両腕をブンブンと振り回した。
ぼふんっ☆
妖精王は煙に包まれながらも、
「健闘を祈るぞ、恋する若者たちよ——☆」
と、最後まで余計すぎる捨て台詞を残して消え去った。
「…………」
森の中に静寂が戻る。どこか遠くで、能天気な鳥の鳴き声だけが響いていた。
アズリルは両腕を振り上げた姿勢のまま、固まっていた。
「…………」
恐る恐る、ノクトの方へと視線を戻す。
ノクトもまた、無言のままこちらを見つめていた。
「…………」
「…………」
先ほどまでの切迫した空気とは打って変わって、耐え難いほど気まずい沈黙が、二人の間に落ちた。
アズリルは今すぐ地面に深い穴を掘って、そのまま頭から埋まってしまいたい気分だった。
(そもそも「積極性」って何だよ……!)
真っ赤な顔のまま、アズリルは心の中で妖精王に悪態をついた。人の目の前であんなことを盛大に暴露しておいて、「積極的になれ☆」だけ残して消えるなんて、何の助言にもなっていない。
むしろ状況を百倍くらいややこしくしただけではないか。
(あの役立たず……次に出てきたら絶対締め上げてやる……)
そう固く決意しながらも、アズリルの意識はどうしても目の前のノクトへ戻ってしまう。
……何か言わなきゃ。
でも、何を?
今さら何を口にしても、自分の気持ちが丸分かりになりそうで恥ずかしい。アズリルはますます顔を上げられなくなった。
ノクトは変わらぬ平然とした佇まいのまま考えていた。先ほど現れたあの奇妙な妖精が、何やら変なことを言っていたが……恋がどうだとか、積極性だとか。
(アズリル様も年頃だ……胸に秘めた相手の一人や二人、おられても不思議ではないか)
ふとそう思い至った瞬間、胸の奥に小さな針で突かれたような、ピリッとしたものが走った。
(何だ、今のは?)
ほんの一瞬だった、痛みと呼ぶほどでもない。ノクトは深く考えることもなく、気のせいだと片づけた。
「……そろそろ戻りましょう。イルミ殿も心配されているでしょうから」
そう言われた瞬間、アズリルは何やら重大な決意を固めたように「……よし」と小さく呟いた。
意を決して顔を上げると、突然ノクトの腕を掴む。
だが次の瞬間、困り果てたように視線を落とした。
「……しまった、届かないじゃないか」
ギリギリ聞こえないほどの蚊の鳴くような声で、ボソボソと喋る。
「ノクト」
「はい」
「ちょ、ちょっと……しゃがんで」
「……?」
ノクトが言われた通りに身体を低くすると、目の前にアズリルの澄んだ瞳が迫った。
幼い頃から、幾度となく目を奪われてはレオンハルトに冷ややかな視線を向けられていた、あの深い青。だが今のその瞳は、やけに真剣で、どこか悲壮感すら漂わせている。一体どうしたというのだろう。そう首を傾げかけたノクトの耳に、震える声が届いた。
「もし嫌だったら……ちょっとでも嫌だったら、突き飛ばしていいからね」
一体何の話をして——、そう問いかける暇すら与えられなかった。
目の前に、一気に青い世界が接近してくる。視界のすべてがアズリルの瞳で満たされていた。
(……そうか。こんな景色だったのか)
中心へ向かうほど深く沈んでいく青。その表面を、細かな光が微かに揺れている。まるで、暗い深海を絶え間なく漂うマリンスノーのようだった。
やがて、その瞼がふっと閉じられ、長いまつ毛が触れ合いそうなほど近くに迫った。あまりにも唐突で不思議な景色の移り変わりに、ノクトはただ圧倒され、固まることしかできない。
次の瞬間、唇に柔らかく温かな感触が押し当てられた。
(……なんだ、これは)
息が苦しいのか、アズリルは必死に鼻だけで呼吸をしている。そのかすかで熱い吐息が、くすぐったいほど肌を撫でる。
そして少し遅れて、ようやく理解が追いついた。
(ああ……私は今、アズリル様に口づけられているのか)
不慣れな手つきで、アズリルはただひたすらに自身の唇を押し当ててきている。背の低いアズリルは、立ち尽くしたまま屈むノクトへと全体重を預けるように、必死で圧をかけた。
不思議と、離れたいとは思わなかった。
むしろ、胸の奥が妙に静かだった。先ほどまで感じていたあの小さな痛みも、いつの間にか消え去っている。
……心地いい。
いっそこのまま時が止まってしまえばいいと、そう願ってしまうほどに。
(レオンハルト様に知られれば……今度こそ確実に殺されるな)
けれど、それでも構わないとすら思えてしまうほど、その温もりはあまりにも愛おしく、甘やかだった。
ふと、押し当てられていた圧力が一瞬だけ緩んだ。アズリルがそっと離れ、嫌がられていないかを確かめるように、怯えた瞳でこちらの様子を伺ってくる。
ノクトが拒絶の素振りを見せないと知るや、アズリルは安堵したように再び唇を重ね——今度は、ちろりと舌を覗かせた。こちらの唇の隙間を割って入ろうと、必死に試みている。おずおずと触れてくる小さな舌は、つたない動きでノクトの唇を突き、内側へと割り込もうと不器用に這い回った。
半端な知識を頼りに、一生懸命見よう見まねで真似しているような、不器用な真剣さがあった。
(どこで、そんな真似を覚えたんだ……)
思考を巡らせ、ノクトはハッと気づいた。
あの男か……。
洞窟で、レオリオにされた動きをなぞっているのだ。
理由に思い当たった瞬間、胸の奥に冷たく複雑な感情が広がった。なぜこんなにも胸が苦しく、嫉妬に似た感情が渦巻くのか、ノクトにはまだ分からない。
アズリルは熱に浮かされたように、何度も、何度もノクトの唇へ吸い付いた。そこには技術など一切なく、ただ温かく湿った感触が幾度も重なるだけだった。自分が何をしているのかすらろくに分かっていないくせに、ただ衝動に突き動かされるまま、さらに奥へと届かせたくて必死にノクトの唇を割ろうとしていた。
(……まずい)
甘美な熱に眩みかけていたノクトの理性が、遅まきながら警鐘を鳴らし始めた。
これは、明らかに一線を越えていた。主従として許される境界を、とうに踏み越えている。これ以上、一時の感情や衝動に流されれば、二度と取り返しのつかないことになる。
そろそろ、止めなければ——。
そう決意し、ノクトがアズリルの肩へ手を伸ばそうとした、まさにその時だった。
「ねえ。……何やってるの?」
頭上から、一切の感情を排した無機質な声が降ってきた。
「ひっ——!?」
氷水を浴びせられたかのように、アズリルが飛び退いた。
樹上の枝に、イルミが腰掛けていた。黒く底のない大きな瞳で二人を見下ろしている。
「少し目を離した隙に、ずいぶんとんでもないことをしてるね」