そして、長年想い続けたノクトに告白する。
ジンとレオンハルトの話し合いは、結局三日三晩にも及んだ。そのせいで、グリードアイランドへ戻るのも、ジンが当初考えていたよりずっと遅くなってしまった。
ジンは、心底疲れ切っていた。
まさかレオンハルトと腰を据えて話し始めてから、丸三日も費やす羽目になるとは思ってもみなかった。
話そのものが、予想していた以上に入り組んでいたこともある。
アズリルの身体に起きている異変と、王家にまつわる過去。レオンハルトたちが以前から知っていたことと、ジンがこの数週間で目にしたこと。断片を一つずつ照らし合わせていくほどに、事態が軽々しく扱えないものであることは明確になっていった。
だが──時間がかかった最大の要因は、間違いなくレオンハルトだった。
こちらが何か一つ説明するたびに疑い、問い詰めては、食い違いがないか何度も確かめてくる。アズリルに関わる話となればなおさらで、少しでも気に食わない点があれば途端に殺気が跳ね上がった。
この三日で、一体何度話し合いが決裂しかけたことか。
途中でガレスが目を覚ましてからは、むしろ彼がレオンハルトを宥める側に回っていた。そもそも、暴れかねないガレスを抑えるためにレオンハルトを連れてきたはずだったのに、蓋を開けてみれば立場がすっかり逆転している。
一方のガレスはというと、意外なほど話の分かる男だった。
ことの経緯を順を追って説明すれば、いちいち疑って噛みついてくるレオンハルトとは違い、黙って最後まで話を聞いてくれた。
(まあ、考えてみりゃ、あそこまでキレさせたのは俺なんだけどな……)
わざと挑発して冷静さを失わせ、その隙にアズリルを連れ出したのだ。普段からああいう男というわけではないのだろう。
そして、なぜか何より気にしていたのがアズリルに嵌められた指輪だった。
(そういや、あいつも最初そこを気にしてたな……)
理由まできちんと説明すると、ガレスはしばらく考え込んだ末、「そういうことでしたか」と、驚くほどあっさり納得した。
その横で、レオンハルトだけが最後まで疑わしげな目を向けていたのは言うまでもない。
それでも、ガレスが状況を整理し、何度となく間に入ってくれたおかげで、どうにかひとまずの方針だけは決まった。
(ったく……あの王子、疑り深いにもほどがあるだろ)
立場上、慎重になるのは理解できる。だが、レオンハルトの場合はどう考えてもそれだけではない。弟のことになると、明らかに何かが狂うのだ。
(……相当こじらせてんな、こいつ)
一体どんな育ち方をすれば、こんな面倒くさい性格になるのか。
そんなことを考えながら歩くジンの前を、当のレオンハルトは疲れた様子一つ見せずに進んでいく。三日間ろくに休みもせず話し続けていたというのに、その歩みはむしろ普段より速い。一刻も早く弟の顔を確認したいらしい。
ジンはその背中を眺めながら、深いため息を吐いた。
森の奥へ進んでいくと、やがて池のほとりに人影が見えてきた。
二つの影が、重なるように一本の木にもたれている。
レオンハルトは目を細めると、すぐさま歩調を速めた。
近づいてみれば、そこにいたのはイルミとアズリルだった。
イルミは木の根元に座り込み、その脚の間には、両頬をこれでもかというほど膨らませたアズリルが収まっている。不機嫌そうに頬を膨らませたその顔は、まるで餌を限界まで詰め込んだリスのようだった。
そしてイルミ自身は、アズリルが逃げ出さないよう後ろから抱え込んだまま、その肩に頭を預けて眠っていた。
「…………」
気配に気づいたのか、イルミがゆっくりと瞼を開ける。
「……レオ。遅かったじゃないか」
珍しいことに、その顔はどこかげっそりとしていた。
レオンハルトは二人を見下ろし、僅かに眉を寄せた。
「すまない。それより……何をしている?」
イルミは何も答えず、アズリルの腕を取って立ち上がらせると、そのままぐいっと前へ押し出した。
「わっ」
そのままアズリルをレオンハルトの胸元へ押しつける。
レオンハルトは反射的に弟を抱き止める。
「もう嫌だ」
イルミがぽつりと言った。
「……何?」
「こんな子守り、二度としたくない。レオの頼みでも、もうごめんだよ」
それだけ吐き捨てると、イルミはふらふらとその場を離れていった。少し歩いたところで立ち止まると、鋭く伸びた爪を地面へ突き立てる。ザザザザッ、と凄まじい勢いで土を掻き出し、ものの数秒で人一人が入るほどの穴を掘り上げた。
そしてそのまま、すぽん、と穴の中へ潜り込み、完全に姿を消した。
(……モグラか)
そんな感想が一瞬頭をよぎったものの、レオンハルトはすぐに腕の中の弟へ視線を戻す。
「アズリル。イルはどうしたんだ?」
アズリルの肩がぴくっと跳ねた。
「ど、どうしたんだろうねぇ……?」
白々しく首を傾げながらも、心当たりはありすぎるほどあった。
『睡眠少女』の効果で眠らずに済むアズリルに付き合わされ、イルミは夜になってもろくに休めなかった。
少しでも監視を緩めれば、その隙を狙ったようにアズリルがノクトのもとへ抜け出そうとするからだ。
何度捕まえても懲りずに抜け出そうとするため、とうとう昨夜、イルミはアズリルを腕の中に抱え込んだまま眠るという強硬手段に出た。
つまり、あの有様の原因はほぼ自分である。アズリルはそっと視線を泳がせた。
レオンハルトはそんな弟を訝しげに見つめたが、アズリルは追及される前に慌てて話題を変えた。
「それより! ガレスは?」
「ああ。無事だったよ」
「ほんと!?」
ぱっと顔が明るくなる。
「色々あってね。今はもう城へ戻っている」
「そっか……」
ほっとしたように息を吐いたあと、アズリルは残念そうに眉を下げた。
「でも、会いたかったな」
「ガレスも同じことを言っていたよ」
アズリルが嬉しそうに笑うのを見て、レオンハルトの表情も自然と柔らかくなった。
──元気そうだ。
だが、その安堵の奥底には、重苦しい懸念が沈んでいた。
この三日間で、あまりにも多くのことが判明したのだ。
もはや、「旅を続けていいかどうか」などという程度の話では済まない。アズリル自身の人生を根底から揺るがしかねない問題だった。
だからこそガレスには一足先に城へ戻り、ある件について確認を取らせている。
そしてアズリルも──。
一度、国へ連れ帰らなければならない。
もはや、それ以外の選択肢は残されていなかった。
問題は、どうやってこの子を納得させるか。
「あ、ジン!」
兄の腕の中でアズリルが声を上げた。離れたところに立っていたジンへ向かって、嬉しそうに手を振る。
「よう」
「ねえ、聞いて! 水見式、できたんだよ!」
「お。やっとか」
「うん! でも、すっごく変なんだ。最初は何も起きなかったのに、蜘蛛を乗せたら──」
アズリルはレオンハルトの腕からするりと抜け出すと、ジンの前まで駆け寄っていった。身振り手振りを交えながら、興奮した様子で説明を始める。手をぶんぶん振り回すものだから、何度かジンの顔に当たりそうになり、そのたびジンが面倒そうに顔を逸らしていた。
「だから、それでね──」
「分かった分かった、近えっての」
口ではそう言いながらも、ジンはきちんと話を聞いている。その口元には、わずかな笑みすら浮かんでいた。
その光景を、レオンハルトは黙って見つめていた。
──随分と懐いているな……
ジンの方も、どうやらアズリルをかなり気に入っているらしい。
ガレスとマルクと離れてからおよそ二週間。その間、ずっと二人きりで過ごしていたのだ。
この三日間、ジンには何度も当時の状況を吐き出させた。それでも完全に信用したわけではない。だが、これほどアズリル自身が懐いているところを見る限り、少なくとも本人が酷い扱いを受けていたわけではないのだろう。
その事実だけは、ひとまず受け入れるしかなかった。
今はジンへの不信を掘り下げている場合ではない。それより先に、アズリルの中に潜む問題へ対処しなければならなかった。
[newpage]
翌朝、全員で朝食を囲んでいた時。
「アズレイ。お前は一度オルドヴィアに帰れ」
珍しく真面目な顔をしたジンが、唐突に切り出した。
ぽろっ。
アズリルの口元から、齧りかけの果物がこぼれ落ちた。今朝、ノクトが皆のために採ってきたものだ。
「………………え?」
「念の基礎は一通り叩き込んだ。残りは城でも続けられるだろ。兄貴もいるし、ガレスのオッサンもいる。教えられる奴なら、十分すぎるほど揃ってる」
アズリルは戸惑ったようにジンを見る。
「ど、どうしたの急に? 変だよジン、なんでそんなこと言うの?」
ジンは何でもない顔をしている。
レオンハルトも、ノクトも。
そして、今朝になって例の穴から何事もなかったように這い出てきたイルミも。
誰一人として驚いていなかった。
その反応が、ジンの言葉そのものよりもアズリルを不安にさせた。
自分にとっては、こんなにも天地がひっくり返るようなことなのに。
みんなはまるで、最初から知っていたかのような顔をしている。自分のいないところですでに話し合い、すべて決めてしまって、最後に結果だけを告げられたような──。
「…………」
アズリルの肩が、小刻みに震え始めた。
「な……」
顔が徐々に赤くなっていく。
「なんで……」
「なんで!!!!」
アズリルは森中に響き渡るほどの声を上げた。
そして、俯いた。
泣くか? ──そう思って四人が様子を窺っていると、次の瞬間、ばっと顔を上げた。
その瞳が真っ直ぐレオンハルトへ向く。
「兄上」
「アズリル……」
「ジンに何をしたの?」
レオンハルトの目が僅かに見開かれる。
「私は何も──」
「もう、しらばくれるのはやめて!」
鋭い声が飛ぶ。
イルミやノクトが兄の命令で裏で動いていたことは、もう知っていた。
けれど、まさかジンまで──この人まで兄の言うことを聞いて、自分を城へ戻そうとするなんて。
胸の奥から、抑えきれない怒りと、裏切られたような痛みが込み上げてくる。
「また……また、僕のことを勝手に決めようとしてる!」
「アズリル」
「結局、兄上は昔から何も変わってないじゃないか!」
レオンハルトの顔から一切の表情が消えた。けれど、感情の歯止めが効かないアズリルにはもう止められなかった。
「今まで優しくしてくれてたのだって……結局、僕を兄上の言う通りにさせるためだったんでしょ!」
「違う」
「違わない!」
頭では分かっていた。こんな言い方をしたいわけじゃない。兄が自分をどれほど大切にしてくれていたかくらい、本当は誰より知っている。
それでも、今まで積み重なっていた疑念も、不安も、憤りも、全てが一気に破裂してしまった。
「みんなのこと、念で操ってるんじゃないの!? 僕のことだって……!」
「…………」
「僕の気持ちまで……操ってるの? 僕が兄上を好きなのも、ずっと憧れてたのも……兄上がそう思わせたからなの!?」
アズリルの喉がひどく震えた。
「もし、全部僕の本当の気持ちじゃなかったなら……だったら僕──」
本当は、言いたくない。けれど、昂った感情がもう止まらない。
「兄上なんて嫌い……! 大嫌いだ!」
「アズレイ」
低い声が割って入った。
ジンだった。
その一言で、アズリルはハッとした。
荒い息を繰り返しながら、恐る恐るレオンハルトを見る。
そして、言葉を失った。
ほとんど無表情なのに、その静かな眼差しの奥には、言葉にできないほど深い傷と、絶望にも似た何かが沈んでいた。こんな兄の顔を、アズリルは見たことがなかった。
「──っ……」
アズリルはぎゅっと拳を握りしめた。
今さら何を言えばいいのか分からない。言ってしまった言葉を、どうやって取り消せばいいのかも分からなかった。
「……とにかく、僕、城には帰らないから」
それだけ言い残すと、くるりと背を向け、そのまま森の奥へ向かって歩いていく。
レオンハルトは黙って、その背中が遠ざかっていくのを見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「ノクト」
「……はい。承知しました」
ノクトは一礼すると、アズリルのあとを追った。
残されたレオンハルトは、何事もなかったかのように再び朝食へ手を伸ばした。黙々と、機械的に食べ続ける。
ジンは横目でその姿を眺めた。
この三日間、嫌というほど対話した。そのおかげで、レオンハルトという人間がだいぶ見えてきた気がする。一見すれば、何が起きても眉一つ動かさない冷徹な男に見える。
だが、実際は違った。むしろ逆だ。
こいつは、見た目ほど何でも平然とこなせる人間ではない。強がっているくせに、妙なところで人一倍脆く、傷つきやすい。だから先回りして手を打つ。最悪の事態になる前に、全てを自分の支配下に置こうとする。
特に、弟に関しては。
嫌われないために、失わないために。そして何より、アズリルが傷つかないために。
必死になって何重にも予防線を張っている。それが結果的に、一番大切な相手を自分から遠ざけていることにも気づかずに。
何がここまでレオンハルトを駆り立てているのか、ジンにはまだ分からない。
「……反抗期ってやつだろ。あの歳なら、頭に血が上がって思ってもねえことの一つや二つ言う。いちいち真に受けんな」
「…………」
「ちょっと放っときゃ頭も冷えるさ」
ジンはそう吐き捨てると、残っていた果物を口へ放り込んだ。
「一回国に帰ったからって、それで全部終わりってわけじゃねえだろ。面倒事が片づいたら、また旅に出りゃいい。あいつはまだ若いんだ。時間なんて、いくらでもある」
レオンハルトの表情は変わらない。
それでも、ほんの僅かに肩の緊張が抜けたようにも見えた。
しばらくして、ぽつりと呟く。
「……アズリルが、あんなふうに私へ怒ったのは何年ぶりだろうな」
その横顔を、イルミが黒い瞳でじっと見つめている。
やがて視線を、森の奥へ向ける。アズリルとノクトが消えていった方向へ。
「……レオ」
「何だ」
「あの」
珍しく、イルミが言葉を選ぶように間を置いた。
「非常に言いにくいんだけど」
レオンハルトが顔を上げた。ジンも何となくイルミを見る。
イルミはもう一度、森の奥へ視線をやった。そして、淡々と言った。
「……あの二人、このまま一緒にしておくのはまずいと思うんだけど」
レオンハルトの眉が寄った。
[newpage]
──このまま、どこか遠くへ行ってしまいたい。
誰も自分を知らない場所へ。
兄も、城も、何もかも届かないくらい遠くへ。
(……この感じ、前にもあったな。……そうだ、ノクトが足を折った時だ。懐かしいな)
ぼんやりとそんなことを考えながら、アズリルは森を歩き続けていた。
気づけば、もう何時間も彷徨っていたらしい。
木々の切れ間を抜けると、開けた高台へ出た。眼下には広大な森がどこまでも続き、その向こうには、夕日に照らされた島の景色がかすんで見える。
太陽はすでに大きく傾き始めていた。
アズリルは立ち止まり、しばらくその景色を眺める。
「……ねえ、ノクト」
ぽつりと言った。
「ノクトも、知ってたんでしょ。僕が城に帰らされること」
当然、どこか近くについて来ているものだと思っていた。
「…………」
返事がない。
「……いないの?」
振り返ってみる。
風が枝葉を揺らす音だけが、静かな森に響いていた。
アズリルは肩を落とした。
考えてみれば当然かもしれない。兄が戻ってきたのだ。ノクトはもともとレオンハルトの護衛なのだから、いつまでも自分についているわけにはいかない。
「……兄上の騎士だもんね」
はあ、とため息をつく。
せっかく人生で初めてと言っていいほど一人になれたというのに、こんな最悪な気分では何の意味もない。
もうちょっと遠くまで行ったら戻ろう。そう思って再び歩き出した。
「あまり遠くまで行かれますと、日没までに戻れませんよ」
アズリルの足がぴたりと止まった。
ゆっくり振り返ると、木々の影から、背の高い男が静かに姿を現した。
「……いるじゃん」
アズリルは頬を膨らませた。
薄暗い森の奥から歩いてくるノクトを、しばらく眺める。
……やっぱり、格好いい。
黙って立っているだけで妙な存在感がある。
こうして暗い森の中から現れる姿など、どこか物語の悪役のようだ。無口で、冷静で、近寄りがたい。それでいて、何か人には言えない暗い過去でも抱えていそうな雰囲気まである。
──そういうところが、昔から好きだった。
実際には皇族を守る近衛なのだから、悪役とは正反対なのだけれど。
沈んでいた気分が、少しだけ持ち直す。
そのままノクトへ歩み寄り、抱きつこうと両腕を広げる。
が。
一歩近づくと、ノクトが一歩下がった。
「…………」
もう一歩踏み込むと、また一歩下がる。
「……なんで逃げるの」
「いえ、その……」
ノクトは明らかに困った顔をした。
「また先日のようなことをなさるおつもりでは……」
「先日のようなことって?」
「……距離が近すぎます、殿下」
「まだそんなこと気にしてるの?」
アズリルはむっとした。
「この前は、あんなことまでしたのに」
「殿下……」
ノクトの眉間に深い皺が寄る。
やっぱり一筋縄ではいかないな、とアズリルは思った。王子と護衛、その立場をノクトは必要以上に気にしている。好きになった相手同士なら、そんなもの気にしなくていいのに。
──だったら。
ここは王子である自分が、強引に引っ張ってやるしかない。
アズリルは名案を思いついたように顔を上げた。
「ねえ、ノクト。僕、城に帰らされるみたいだけど……兄上に頼んでみるのはどうかな」
「……何をでしょう」
「ノクトと一緒なら旅を続けてもいいか、って」
ノクトの表情がさらに固まる。
「ノクトなら強いし、兄上だって安心するでしょ? 兄上にはガレスとマルクがいるんだから、僕にはノクトがついてくればいい」
少し考えて、それから嬉しそうに笑った。
「そしたら、一緒にいろんなところへ行けるよ。ね? いい考えだと思わない?」
アズリルが一歩詰め、ノクトが一歩下がった。
「……アズレイ様」
「ん?」
「まずは一度お戻りになり、レオンハルト様のお話をお聞きください。そのうえで──」
アズリルの顔から、すっと笑みが消えた。
「……何、その呼び方」
「はい?」
「この前まで『アズリル様』って呼んでたじゃないか。なんで急に戻ってるの?」
「…………」
ノクトは答えず、ほんの一瞬だけ木々の上へ視線を向けた。
それだけで、アズリルには何を気にしているのか分かってしまう。
また兄上だ。そのことが、無性に腹立たしかった。
二人の間では、近づいては下がる妙な攻防が、しばらく繰り返された。
とうとうアズリルの堪忍袋の緒が切れる。
「あー、もう! 逃げないで! 」
その瞬間、ノクトの身体が、不自然なほどぴたりと止まった。胸の奥を、何かが無理やり引き絞るような奇妙な感覚が走る。
逃げてはいけない。
いや──逃げたくない。
なぜか突然、その強い感情が湧き上がってきた。自分の意思では振り払えないほど、異様に強い。
(何だ……これは……?)
アズリルはようやく立ち止まってくれたことが嬉しくて、ノクトの胸へすっぽりと身体を預けた。
「……アズ──」
昔の呼び名が、咄嗟に口から漏れかける。ノクトはすぐに飲み込んだ。
「……殿下。これ以上は、本当に困ります」
「じゃあ、どうしてこの前は止めなかったの?」
アズリルは胸元から顔を上げ、自分の唇を人差し指でちょん、と示した。
「キス。嫌なら、いつでも僕を押し退けられたでしょ。止めなかったってことは、ノクトだって本当は嫌じゃなかったんじゃないの?」
「それは……」
ノクトの表情が苦しげに歪む。
「私のような者が、そのようなことを望むこと自体……おこがましいのです」
「またそれ?」
アズリルは呆れた。
「昔はそんなに何でもかんでも気にしてなかったじゃないか。まあ……それだけちゃんとした護衛になったってことなのかもしれないけど」
寂しそうに笑い、アズリルはノクトの頬へそっと手を伸ばした。
「ねえ、ノクト……。僕の護衛になってよ」
ノクトの目を見つめる。
「兄上じゃなくて、僕の騎士になって?」
「殿下」
「一緒に旅をして、いろんな場所に行って、いろんなものを見て……二人で、いろんなことしようよ」
アズリルの笑顔にどこか必死な色が滲んでいた。
「ずっと、一緒にいてほしい」
「…………」
「今度は……ノクトからキスして?」
ただでさえ密着していた身体を、さらにすり寄せる。
「っ……」
ノクトの息が止まる。
してはいけないことなど、痛いほど分かっていた。そんな不敬を犯すことなど考えたこともなかったし、本来なら絶対に選ぶはずのない選択だった。
それなのに──なぜか、無性に、抗いようのない衝動が胸を突き上げてくる。
ノクトは胸元から上目遣いで自分を見つめてくるアズリルへ、吸い寄せられるようにそっと顔を近づけた。
「……ノクトの好きにしていいよ」
アズリルは期待を込めて目を閉じる。
お互いの吐息が触れ合うほど間近に迫り、唇が重なる一歩手前で、ノクトは必死に理性の糸を繋ぎ止めた。
「……アズレイ様。出来ません」
アズリルが目を開ける。その瞳には、隠しきれない傷つきが浮かんでいた。
「それは……護衛として言ってるの? それとも、ノクトとして?」
ノクトは固く口を閉ざす。
「もう、はっきり言うね」
アズリルはまっすぐ彼を見つめた。
「僕、ノクトのことが好き」
ノクトの瞳が揺れる。
「兄上やジンを好きなのとも、レオリオたちを好きなのとも違う」
胸の前で、アズリルはぎゅっと拳を握った。
「昔からずっと好きだった。ノクトのことを考えると胸が苦しくなるし、会えないと寂しい。ずっと近くにいたいし……触れていたい」
恥ずかしさで顔が熱い。それでも目だけは逸らさなかった。
「だから、ちゃんと聞かせて。兄上の護衛としてじゃなくて」
アズリルは一歩、後ろへ下がる。
今度は、自分から距離を空けた。ノクトが答えられるように。
逃げ道を塞がないため、選んでもらうために。
「昔みたいに……ノクト自身の言葉で話してほしい」
静かな風が二人の間を通り抜け、木々がさわさわと揺れる。
ノクトは長い間、何も言わなかった。アズリルもじっと待った。
やがて、ノクトが静かに口を開いた。
「やはり…… 私は、護衛です」
「だから、そうじゃなくて──」
「私には、それしかないのです」
アズリルが黙った。
ノクトはどこまでもまっすぐに続ける。
「捨てられたものばかりが集まる、ゴミ溜めのような場所で育ちました。人も物も、そこでは等しく捨てられていた。私も、その一つに過ぎませんでした」
「…………」
「……家族も、帰る場所も、自分が何のために生きているのかさえ分からなかった」
ノクトは静かに息を吐く。
「そんな私を拾い上げ、一人の兵士として育ててくださったのが、オルドヴィアです」
少し間を置く。
「レオンハルト様と出会ったのは……十二の頃でした。生まれも、育ちも、立場も何もかも違う私に、あの方は初めて、一人の人間として接してくださいました」
声がほんの僅かに柔らかくなっていた。
人生で初めてできた友人だった。
その言葉だけは、胸の中にしまったままにした。
「その頃のアズレイ様は、まだとても幼く……私たちがどれだけ酷く接しても、あなたはいつもレオンハルト様の後を追っておられました。私たちから離れようとはなさらなかった」
「…………」
「……その頃、私は誓ったのです」
ノクトの瞳に、遠い日の記憶がよぎった。
「レオンハルト様を。そして、アズレイ様を。この命のある限り、お二人をお守りすると」
「ノクト……」
「だから私は、どこまでいっても護衛なのです。兵士として、レオンハルト様とアズレイ様のお側にいる。それ以上の何かになるつもりはありません」
ノクトはゆっくり膝をついた。
片手を胸元へ当て、深く頭を垂れる。主君へ永久の忠誠を捧げる騎士のように。
「アズレイ様。あなたには、これから先、素晴らしい未来があります。その未来を、あなたの隣に立ち、ともに歩んでくださる方が、いつか必ず現れます」
ほんの僅かな間。
「ですが、その人は……私ではありません」
「…………」
「私などではなく、もっとあなたに相応しい方が、必ず」
──ああ。
そこでようやく、アズリルは理解した。
これは、言い逃れでも照れ隠しでもない。
本気なんだと。
自分は今──はっきりと、振られている。
喉の奥が痛いほど締まった。
目の奥まで熱くなる。
十年近く。
考えてみれば、随分長い間好きだった。
幼い頃からずっと、そばにいたくて、目が合うだけで嬉しくて。いつか自分が大きくなれば、二人の関係も何か変わるのだと。どこかで、勝手にそう思っていた。
けれど。
こんなにも揺るぎない声で拒まれてしまえば。
もう、何を言えばいいのか分からなかった。
「…………そっか」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
「……分かった」
アズリルは静かに視線を落とす。
左手首に巻かれた、数ヶ月前にノクトからもらった革紐。
大切にしてきたはずのそれは、いつの間にか随分と擦り切れ、痛んでいた。
──まるで、今の自分みたいだ。
ずっと繋がっていられると信じていたものが、今にも切れてしまいそうで。
アズリルはしばらく、その革紐から目を離せなかった。