六歳のアズレイは、久しぶりに帰還した兄レオンハルトとの再会を喜ぶが、待っていたのは冷たい仕打ちだった。その一方で、皇室に代々受け継がれてきた古い盟約をめぐり、彼の運命に関わる恐ろしい計画が密かに進められていた。
──十年前 オルドヴィア帝国・冬宮
「ええ……ヴォロス神は、この国が築かれるよりも遥か昔から、この地を見守ってきたと伝えられております。オルドヴィアにおいて、最も古くから崇められてきた守護神ですな」
広々とした学問室に、年老いた男の細く、いくらか震えを帯びた声が響いていた。
長机の一方に腰かけているのは、長年にわたり皇族の教育に携わってきた老教師のオット。宮廷ではその名で知られているが、代々の幼い皇子たちからは「じいや」と慕われており、呼びかけられるたびに穏やかな笑みを返すのが常だった。
齢はすでに百を優に超え、髪も顎を覆う髭も、降り積もったばかりの雪のように白い。ハンター協会のネテロ会長とも歳が近く、若い頃には軍人として名を馳せたというが、今の姿から往年の勇猛さを窺い知るのは難しかった。教本の頁をめくる指先はゆっくりと震え、ときおり鼻先まで滑り落ちてくる眼鏡を、いかにも慣れた仕草で押し上げている。
節くれ立った指で教本の行をたどり、オットはときおり息を継ぎながら講義を続けた。
「始祖皇帝がこの地に国を興された折、ヴォロス神は皇室と盟約を交わされ……」
そこでひと呼吸置き、眼鏡の奥の目を細めて、次の一節へと視線を移す。
「……末永くオルドヴィアを守護すると約束なされたそうです。それ以来、代々の皇族はその盟約を受け継ぎ、神への敬意を絶やすことなく──」
机の向かい側では、六歳になったばかりの少年が頬杖をつき、教本そっちのけで窓の外を眺めていた。くるんと癖のある蜂蜜色の髪は、朝から侍女たちが何度櫛を通しても思うように整わず、ひと房だけぴょこんと跳ねたままだった。オットの話は耳に入っていないようで、興味はもっぱら中庭で働く使用人たちの方にあるらしい。
昨晩から降り続いていた雪はようやく止み、中庭には陽光を受けた白い景色が広がっていた。使用人たちは箒や雪かきで石畳を掘り出し、道の脇へ雪を寄せている。少年は少しずつ形を変える雪の山を眺めながら、ときおり口元を隠してあくびを噛み殺した。
「……アズレイ殿下。お話は聞いておられますかな?」
「はい、じいや」
返事だけは実に素早かったが、オットは眼鏡の縁越しに少年を眺め、いかにも疑わしげな顔をした。
「では、ヴォロス神と皇室がどのような盟約を交わしたのか、お聞かせくだされ」
そこでようやくアズレイは窓から視線を戻し、少し考える素振りを見せてから、すらすらと答え始めた。
「皇族は代々ヴォロス神に忠誠を誓って、その代わりに神様がオルドヴィアを守ってくださるんでしょ。だから決められたときに神殿へ行って、お祈りしたり、お供え物を捧げたりする。それで、もし約束を破ったら、もう守ってもらえなくなる……合ってる?」
オットはしばらく少年の顔を眺め、それから小さく頷いた。
「……その通りですな」
「じゃあ、もう終わりでいい?」
「ほっほ。授業を始めて、まだ十分も経っておりませんぞ。かつて皇室が盟約を違えた折、この国にどのような災いが降りかかったのか──そこまでお話しせねば、今日の授業は終われません」
「えぇ……」
心底うんざりしたような声を漏らすと、アズレイは再び窓の方へ顔を向けた。オットが苦笑して次の頁を開こうとした、そのときだった。
「あっ!」
少年は勢いよく立ち上がった。窓の向こう、雪の残る回廊を四人の人影が歩いている。その中央にいる人物を見つけた途端、眠たげだった青い瞳が輝き、顔いっぱいに笑みが広がった。
「ごめん、じいや! ちょっと行ってくる! 残りはあとでちゃんと読むから!」
「お待ちくだされ、殿下。まだ授業は──」
言い終わるより早く、扉が勢いよく開かれた。廊下へ飛び出したアズレイの足音が遠ざかり、あとには呆気に取られたオットだけが残された。
「……終わっておりませんぞ」
オットは開いたままの教本と閉ざされた扉を見比べ、やがて深い息を吐いた。
(……やはり、あの子にはまだ早いかのう)
先ほどアズレイが答えたのは、オルドヴィアの民なら誰もが幼い頃から聞かされる、盟約の表向きの内容にすぎなかった。その裏に何が隠され、これまで何を代償としてきたのか、あの子はまだ何も知らなかった。
いずれは、そのすべてを告げねばならない日が来るのだろう。だが、どれほど歳月を重ねようと、容易に受け入れられるような話ではない。それでも、皇族として生まれた以上、避けて通ることはできない。まして、あの子の場合は──。
「……ああ、ヴォロス神よ。どうか、この国に変わらぬ慈悲を」
かすれた声で祈りを捧げ、オットは胸元でゆっくりと聖なる印を結んだ。
[newpage]
冬の日差しが差し込む回廊を、三人の少年が並んで歩いていた。いずれも十五歳前後で、訓練を終えたばかりらしく、互いに言葉を交わしながら宮殿の奥へと向かっている。すれ違う使用人たちは足を止め、中央を歩く少年に恭しく頭を下げていた。
その少年こそ、オルドヴィア帝国の第一皇子レオンハルトだった。訓練着を身につけた彼の右隣には、今よりずっと髪の短いイルミが、涼しい顔で歩いている。左側のノクトは二人のやり取りを横目に、退屈そうにあくびを噛み殺していた。
三人の少し後ろには、ガレスが付き従っていた。この頃はまだ四十代の終わりで、近衛隊長に就任して間もない時期だった。長年の軍務で鍛え抜かれた大柄な身体は今と変わらないが、その立ち居振る舞いには、後年の落ち着いた威厳とはまた違う、若々しい鋭さが残っていた。
「さっきの、もっと早く『絶』に切り替えた方がよかったんじゃない?」
「分かっている。いちいち指摘されなくてもな」
「最後も右に寄りすぎ。あれじゃ、オーラを集めた時点で次の動きが丸分かりだよ」
「イル。お前の方が念の扱いに慣れているからといって、調子に乗るな。分かってると言ってるだろう」
イルミの遠慮のない指摘に、レオンハルトの声が次第に尖っていく。ちょうどそのとき、隣で聞いていたノクトが再び大きなあくびをしたため、皇子の苛立ちはたちまちそちらへ向かった。
「おい、ノクト。お前もだ。なんでお前だけ追加の稽古がないんだよ」
「レオと違って、俺はちゃんとできたからな」
「ノクト」
背後から低い声で名を呼ばれ、ノクトがいかにも面倒そうに振り返る。
「殿下に向かって、何だその口の利き方は。言葉を慎めと、何度言わせるつもりだ」
ノクトが言い返そうと口を開きかけたところで、回廊の向こうから聞き覚えのある高い声が響き渡った。
「兄上──っ!!」
四人が足を止めて振り向くと、遠くの柱の間から、ひときわ小さな人影が飛び出してきた。
短い足を懸命に動かし、片手を頭上でぶんぶん振りながら駆けてくるのだが、勢いがつきすぎるのか、何度も前につんのめっては危ういところで踏みとどまっている。それでも歩調を緩める気配はなく、その顔には隠しようもない喜びが溢れていた。
ようやく主人の姿を見つけた子犬を思わせるその様子に、レオンハルトの顔がみるみる曇っていく。
「……無視しろよ」
隣の二人にだけ聞こえるよう声を落とすと、ノクトは駆け寄ってくるアズレイを眺めながら、あっさりと返した。
「無視しても、あんま意味ないと思うけど」
「いいから」
やがてアズレイは四人のもとへ辿り着き、急には止まれず数歩よろめいてから、どうにか両足で踏ん張った。息を弾ませ、頬を寒さと興奮で赤く染めながら、真っ先に兄の顔を見上げる。
「おかえりなさいませ、兄上! いつお戻りになったんですか? 僕、全然知らなくて……国の外へ行ってたんですよね? ガレス殿も一緒だったの? どこまで行ったんですか?」
矢継ぎ早に問いかける弟へ、レオンハルトは一瞥もくれなかった。何も聞こえなかったかのように前を向き、再び歩き出してしまう。
「あっ、兄上! 待って!」
アズレイも慌てて後を追ったが、九歳も年の離れた兄とは歩幅がまるで違う。数歩進むごとに引き離されては小走りで追いつき、それでも諦めずに隣へ並ぶと、好奇心に満ちた声で話しかけた。
「ねえ兄上、外はどんなだった? 大きなお城とか、見たこともない生き物とか! きっとすごいものがいっぱいあるんだろうなぁ……。いいなぁ、僕も見てみたい」
何を尋ねても返事がないというのに、アズレイにはさして気にならないらしい。ついにはレオンハルトの方が耐えかね、露骨に眉をしかめた。
「……別に遊びに行ってたわけじゃないんだぞ」
「じゃあ、何をしに行ってたの?」
またしても黙り込んだ兄に代わり、後ろを歩くガレスが穏やかに口を開く。
「レオンハルト殿下は、陛下の名代として近隣の国々を視察されていたのですよ。それぞれの国がどのような仕組みで治められているのか、ご自分の目で確かめるためです」
「……しさつ? おさめる?」
聞き慣れない言葉を口の中で繰り返すアズレイに、ガレスは微笑んで言い添えた。
「向こうではちょうど、ご友人のイルミ殿ともお会いできましたので、空いた時間には私が三人の稽古を見ておりました」
「へえ……いいなぁ」
羨望の声を漏らしたアズレイは、そっとイルミを盗み見た。兄の友人だというその少年は、短い黒髪に猫のように大きな目をしているが、先ほどからほとんど表情を変えず、何を考えているのかさっぱり分からない。正直なところ、アズレイは少し怖いと感じていた。それでも、兄にはこうして稽古を共にし、遠慮なく言葉を交わせる相手がいるのだと思うと、何だかひどく羨ましかった。
ふと、その隣にいるノクトと目が合った。アズレイはむっと唇を尖らせ、つんと顔を背けた。
ノクトのことは、以前からあまり好きではなかった。数年前、レオンハルトの稽古相手として城にやって来た訓練兵で、今ではすっかり兄のそばにいるのが当たり前になっている。何かにつけて兄の肩を持ち、口ぶりまで真似するうえ、アズレイに対しても妙に偉そうなのだ。後からやって来たくせに、兄を当たり前のように「レオ」と呼び、まるで対等な友人のように接しているのが、どうにも気に入らなかった。
やがて兄へ視線を戻したアズレイは、しばらく迷った末、思い切って手を伸ばし、袖の端を指先でそっと摘まんだ。
「ねえ……僕も、いつか行ってみたいな」
その途端、レオンハルトはぴたりと足を止め、袖に触れた小さな手を乱暴に振り払った。
「お前みたいなどんくさい奴が行ったところで、すぐに死ぬだけだ」
「でも、兄上が一緒なら大丈夫でしょ? 守ってくれるもん」
アズレイは振り払われた手をさすりながら、しょんぼりと目を伏せていたが、何かを思いついたらしく、ぱっと顔を上げると、懲りずに兄のそばへ近づいていった。
「兄上からも父上にお願いしてくれたら、許してくれるかもしれない! 僕なんて、庭に出ただけでも怒られることがあるんだよ? だから……ね、お願い!」
「触るな。しつこい」
「兄上、でも──」
なおも側へ寄ろうとした弟の身体を、レオンハルトは苛立ちに任せて押しのけた。
「わっ……!」
六歳の小さな身体ではその勢いを受け止めきれず、数歩後ずさった末に足をもつれさせ、そのまま回廊の脇へ積み上げられていた雪の山に、ぼすんと埋まってしまった。
突然のことに辺りは静まり返り、白い雪の中から蜂蜜色の髪だけが、頼りなげに覗いている。雪山の一角がもぞもぞと動き、アズレイが顔を出したときには、髪から頬まで雪がびっしりと張りついていた。
「い、いたた……」
「アズレイ殿下! お怪我はありませんか」
心配したガレスが助け起こそうと身を屈めた、その背後から、レオンハルトの低い声が降ってきた。
「……アズレイ、か」
妙に含みのある呼び方に、ガレスに助け起こされていたアズレイは、不思議そうに首を傾げた。ガレスもその声音に嫌な予感を覚え、レオンハルトへ視線を向けた。
「『人々を導く光』だなんて、ずいぶん大層な名前をもらったものだよな。母上も、お前がこんな鈍くさい甘ったれになると知っていたら、考え直しただろうな」
言葉の意味をすぐには呑み込めない弟を見下ろし、レオンハルトは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「……アズリル。その程度の名前で十分だろ。なあ、ノクト?」
突然話を振られたノクトは、雪まみれのアズレイにちらりと目をやり、少し考えてから口を開いた。
「アズリル……古いオルドヴィア語で、『小さな光』だったか」
「こんなチビに、いったい誰が導けるっていうんだ」
ノクトは改めてアズレイを眺めた。むっと頬を膨らませたその小さな姿は、くるんと跳ねた蜂蜜色の髪も相まって、どこか小動物を思わせる。
「……まあ、確かにそっちの方が似合ってるな」
ノクトが納得したようにうなずくのを見て、ガレスもとうとう口を挟んだ。
「レオンハルト殿下、もうその辺りでおやめください。ノクト、お前も少しは立場をわきまえろ」
レオンハルトは、不満げに見上げてくる弟の顔に、ふと目を留めた。
柔らかく癖のある髪も、深い海を思わせる濃い青の瞳も、丸みを帯びた顔立ちも、亡き母レイカによく似ていた。成長するにつれて、その面影はいっそう色濃くなっている。
しかし、弟の顔に亡き母の面影を重ねているうちに、レオンハルトの口元から薄笑いが失われ、目の奥には次第に暗い感情が宿り始めていた。
「……母上じゃなくて」
独り言にも似た、小さな呟きだった。
「お前が死ねばよかったのに」
その言葉にアズレイが瞬きをするより早く、ガレスの声が鋭く響いた。
「殿下」
今度ばかりは、ガレスの声にもはっきりと咎める響きが混じっていた。それでもレオンハルトはその叱責など意にも介さず、ふいと視線を逸らし、隣にいた少年の名を呼んだ。
「ノクト」
アズレイの方へ顎をわずかにしゃくっただけだったが、ノクトにはそれで十分だったらしい。一歩前に出ると、まだ幼い皇子の正面に立った。
十五歳にしては背が高く、肩幅も身体つきもレオンハルトより一回り大きい。まだ後年のような逞しさはないものの、六歳のアズレイには恐ろしく大きく見えた。
「え……なに? ちょっと、やめ──」
不安を覚えて後ずさろうとしたが、逃げる間もなく、ノクトの大きな掌が額に当てられた。ノクトは軽く押しただけのつもりだったのだろうが、アズレイの小さな身体ではその力に抗えるはずもなかった。
「わっ!」
アズレイは再び後ろへひっくり返り、今度は頭から雪山に突っ込んだ。上半身はすっぽりと雪に埋まり、外に突き出た二本の足だけが、何とか抜け出そうとばたばた宙を蹴っていた。
「ノクト!!」
ガレスの怒声が回廊の柱に反響した。
「貴様、殿下になんという真似を!」
慌てて雪山へ駆け寄るガレスを尻目に、レオンハルトはもはや興味を失ったように「行くぞ」と踵を返した。
イルミは白い雪から突き出た二本の足に一度だけ目をやったが、レオンハルトやノクトのこうした振る舞いを見慣れているのか、驚く様子もなくその後を追った。ノクトも隣に並び、三人の足音が次第に遠ざかっていった。
「まったく……あの二人ときたら」
呆れと怒りの入り混じった声でぼやきながら、ガレスは両腕を雪の中に突っ込み、小さな身体を慎重に引っ張り上げた。
「申し訳ございません、殿下。ノクトには私から厳しく言って聞かせますので……お怪我は?」
ようやく石畳に足がついた途端、それまで必死に堪えていたものが切れたのか、アズレイの顔がくしゃりと歪んだ。
「う、うわあぁん……!」
声を上げて泣き出した少年は、そのままガレスの胸元へ飛び込んできた。広い胸に顔を押しつけ、しゃくり上げるたびに細い肩を震わせている。ガレスは片腕でその身体を支えながら、空いた手で髪や背中についた雪をそっと払い落としてやったが、アズレイはなかなか泣きやもうとしなかった。
「……兄上は、僕のことなんて……嫌いなんだ……」
ようやく聞き取れた言葉に、ガレスの手が止まる。
「そのようなことは──」
「だって……死ねばよかったって……」
ガレスは返す言葉を失った。実の兄からあれほど残酷な言葉を浴びせられた幼い皇子に、いったい何と言ってやればよいのだろう。本心ではないのだと慰めてやりたかったが、先ほどのレオンハルトの様子を思い返すと、それさえ安易には口にできなかった。
アズレイはなおもガレスの上着を握りしめ、胸元に顔を埋めていた。その小さな身体を思いきり抱きしめて、安心するまでそばにいてやれたなら、どれほどよかっただろう。だが、相手は皇子であり、自分はあくまで臣下にすぎない。どれほど不憫に思っても、越えられぬ一線があった。
結局、ガレスは少年の背をそっと支えてやることしかできなかった。
やがてアズレイは涙に濡れた顔を上げ、何かを確かめるようにガレスを見つめた。
「……母上が死んだのって、僕のせいなの?」
「いいえ」
ガレスは間髪を入れず、きっぱりと否定した。身を屈めて少年と目の高さを合わせ、潤んだ瞳をまっすぐに見つめる。
「レイカ様がお亡くなりになったのは、決して殿下のせいではございません。殿下は何も悪くないのです。どうか、それだけは信じてください」
「……ほんと?」
「ええ。本当ですとも」
それでも、アズレイの表情が晴れることはなかった。涙がようやく収まっても、少年は兄が去っていった回廊の奥へ目を向けたままで、その小さな背中にこれ以上なんと声をかければよいのか、ガレスには分からなかった。
やがて濡れた上着から滴る雪解け水に気づくと、ガレスは少年の肩に手を添え、できるだけ普段どおりの声で話しかけた。
「さあ、このままでは風邪を引いてしまいます。まずはお部屋へ戻って、身体を温めなければ」
近くを通りかかった侍女を二人呼び止めると、アズレイを部屋へ連れ帰り、濡れた衣服を着替えさせるよう命じた。少年はまだ何か言いたげだったが、結局は侍女たちに手を引かれ、何度かこちらを振り返りながら回廊の角へ消えていった。
ガレスはその後ろ姿を見届け、深いため息をついた。帰ってきた早々、またこの騒ぎである。あの兄弟が顔を合わせれば何かしら揉めるのはいつものことだが、今日のレオンハルトはさすがに度が過ぎていた。
とはいえ、第二皇子という立場にある以上、アズレイもいつまでも守られるばかりではいられない。いずれは自分の意志で立ち、理不尽な仕打ちにも負けぬ強さを身につけなければならないだろう。そう思う一方で、まだ六歳の子供にそれを求めるのは酷なことだとも感じていた。
「……お戻りになったのですな」
背後から声がして振り向くと、少し離れた柱の傍らに、杖をついたオットが立っていた。先ほどまでアズレイの授業を受け持っていた老教師は、どうやら廊下の騒ぎを聞きつけて出てきたらしい。
「オット殿。ええ、つい先ほど戻りました。お騒がせして申し訳ありません」
「ほっほ。あのご兄弟は相変わらずですな。それにしても、今回はずいぶん長いご不在で」
「念の稽古に熱が入りまして、思いのほか滞在が延びてしまいました」
オットは小さく笑った。ガレスの念の腕前は昔からよく知っているが、稽古となると人一倍熱が入り、相手が皇子であろうと容赦しない男だった。今回もさぞ厳しく鍛えたのだろう。
「それと……今回の旅では、流星街にも立ち寄っておりまして……」
「……ええ。その件は陛下から伺っております」
オットがゆっくりとうなずくのを見て、ガレスは少しばかり迷った。
幼い頃にこの城へやって来て以来、オットには何かと面倒を見てもらってきた。軍人としても多くを教わった相手であり、近衛隊長となった今でも、ガレスにとっては変わらぬ師だった。
宮中で最も古くから皇室に仕え、陛下の信頼も厚い。何より、その穏やかな人柄に甘えて、他の者には決して口にできないことまで、つい尋ねてしまうのだった。
ガレスは周囲を見回し、近くに誰もいないことを確かめてから、声を潜めた。
「オット殿。陛下が、あの場所まで殿下に見せ始めたということは……やはり、本当にあの計画を進めるおつもりなのでしょうか……」
問いかけを受けた老人の顔から、先ほどまでの柔和な表情が消えていく。
「……もはや、ほかに道は残されておりません。陛下とて、容易にお決めになったわけではないのです」
「ですが……あのような残酷な習わしをまた始めるなど……」
「ガレス殿。あの日のことを、お忘れではありますまい」
ガレスは言いかけた言葉を飲み込んだ。オットに諭されるまでもなく、あの日のことは忘れようがなかった。二度と同じ悲劇を繰り返してはならないという思いは、ガレスも同じだった。それだけに、これ以上は何も言えなかった。
「……レイカ様」
ようやくその名を呟くと、オットもまた目を伏せた。
「あの方がお亡くなりになって、もう六年になりますな」
「……ええ。つい昨日のことのように思えます」
ガレスは、先ほどアズレイが姿を消した回廊の角へ目をやった。
「あの殿下が、今では誰より元気に走り回っておられる。まったく、時の経つのは早いものです」
「大きな病もなく、あれほど健やかにお育ちになったのは何よりですな」
「レイカ様も、きっとお喜びになったでしょう……」
そう口にしたときだけ、ガレスの頬にわずかな笑みが浮かんだ。しかし、先ほど雪の中で弟を見下ろしていたレオンハルトの目を思い出した途端、その表情は再び険しくなる。
「……それにしても、最近はレオンハルト殿下のことが心配でなりません」
「先ほどの一件ですかな」
「ええ。あの方が王妃様をどれほど慕っておられたかは、私もよく存じております。今も深い悲しみを抱えておられるのでしょう。ですが、それをアズレイ殿下にぶつけてよい理由にはなりません」
幼い頃から聡明で、自分にも周囲にも厳しかったレオンハルトも、母レイカの前でだけは気を張らずにいられた。年相応に甘え、些細なことで声を上げて笑うこともあったのに、彼女が亡くなって以来、ガレスはそんな姿をほとんど目にしなくなっていた。
悲しみを紛らわせるためなのか、あるいは立ち止まることを自分に許さないのか。レオンハルトは以前にも増して学問と鍛錬に打ち込み、ときには傍で見ているガレスの方が不安になるほど、己を追い詰めているように見えた。
「アズレイ殿下は、たった一人の弟君です。もう少し、あの子のことを大切にしていただきたいのですが……」
「レオンハルト殿下も、まだ十五歳です。お気持ちの整理がつくまでには、時間が必要なのかもしれませんな」
「……それは分かっております。ですが、その間もアズレイ殿下は傷ついておられる。せめて我々が、うまく間に入れればよいのですが……」
そう口にしながら、ガレスは胸の奥に苦いものを覚えた。先ほどもレオンハルトを諫めはしたものの、結局は弟への仕打ちを止められず、泣きじゃくるアズレイを十分に慰めてやることさえできなかった。
自分はあくまで皇子に仕える臣下であり、父や兄の代わりになれるわけではない。どれほど大切に思っていても、あの子が本当に求めている愛情を与えてやれないことが、何より歯がゆかった。
ガレスは唇を結び、ためらいがちにオットの顔を見た。
「……陛下も陛下です」
「ガレス殿」
咎めるように名を呼ばれ、ガレスははっと言葉を切った。さすがに言い過ぎたと気づいたものの、胸の内に溜まっていた不満は、そう簡単には収まりそうになかった。
「分かっております。口が過ぎました。しかし……陛下はレオンハルト殿下の教育には、幼い頃からずいぶん熱心でいらっしゃる。念はもちろん、軍学や政務にも目を配り、今ではこうして国外へまでお連れになっている。それに比べてアズレイ殿下は、城の敷地から出ることさえ滅多に許されません。陛下が自らお声をかけられることも、まして親子で過ごされることも、ほとんどないのです」
「……第一皇子と第二皇子では、置かれたお立場が違いますからな。レオンハルト殿下はいずれ皇位を継がれるお方。早くから身につけておかねばならぬことも多く、陛下のお目があちらへ向くのは、ある意味では当然でしょう」
「それは私も理解しております。ただ……時折、それだけでは説明がつかないように思えてならないのです」
オットが静かに顔を上げる。ガレスは言うべきかどうか迷いながら、ようやく胸の内に引っかかっていたことを口にした。
「陛下は、意図してアズレイ殿下を遠ざけておられるのではないかと……まさか陛下まで、六年前の出来事を、あの子のせいだと──」
「ガレス殿」
今度は、先ほどよりもはっきりと遮られた。
「その先は、お口になさらぬ方がよろしい」
老人の声には、有無を言わせぬ重みがあった。ガレスが黙り込むと、オットはしばし杖の柄へ視線を落とし、それから慎重に言葉を選ぶ。
「陛下には、我々の知らぬお考えもあるのでしょう。……ガレス殿、長く宮中に仕えているからこそ、わきまえねばならぬこともありますぞ」
ガレスは返しかけた言葉を飲み込んだ。オットの口調は穏やかだったものの、それ以上の詮索を許すつもりがないことは伝わっていた。
しばらく沈黙したのち、ガレスは小さく息を吐いた。
「……承知しております」
そう答えたものの、胸の内に残る疑念まで消えたわけではなかった。
それきり会話は途切れた。ほどなく、回廊の奥から慌ただしい足音が近づいてきた。
「ガレス様っ!」
切羽詰まった声に二人が振り返ると、アズレイを部屋へ送り届けたはずの侍女が、顔を真っ青にして駆け寄ってきた。息を切らしながら深々と頭を下げる様子に、ガレスの顔つきがたちまち引き締まる。
「どうした。何があった」
「も、申し訳ございません……っ」
「落ち着いて話せ」
「ア、アズレイ殿下が……お召し替えの途中で、お姿が見えなくなってしまって……っ!」
「……何だと?」
「新しいお召し物を取りに、ほんの少し目を離しただけなのですが……振り返ったときには、もうお姿がなくて……! お部屋も近くの廊下もくまなく捜したのですが、どこにもいらっしゃらなくて……!」
「まったく……今日は次から次へと」
ガレスは呆れたようにぼやき、額を押さえた。
どうせ宮殿のどこかに身を隠しているだけだろう。だが、この寒さの中、雪の積もった外へ出てしまったとなれば話は別だった。まだ六歳の子供を、そう長く放っておくわけにはいかない。
「すぐ近衛に知らせろ。宮内だけでなく、庭園も徹底して捜させるんだ。各門にも連絡して、殿下が外へ出ていないか確認させろ」
ガレスは一瞬目を閉じ、周囲の気配を探った。しかし、ほどなく眉をひそめ、小さく舌打ちすると、再び侍女に向き直った。
「すぐにノクトを呼べ。あいつなら人探しには多少役に立つはずだ」
「それが、先ほどノクト様にも事情をお伝えしたのですが……そのままレオンハルト殿下について行ってしまわれて──」
「あんの阿呆……っ、何かにつけてレオンハルト殿下の肩ばかり持ちおって! いいから、首根っこをつかんででも連れてこい!」
「か、かしこまりました!」
侍女が慌てて走り去るのを見送り、ガレスはオットに一礼すると、大股で回廊を進み始めた。
ガレスの姿が回廊の角に消えてからも、オットはしばらくその場を動かなかった。先ほど彼が口にしかけた、陛下への疑念がどうにも気にかかっていた。
皇室への忠誠を誰よりも重んじてきたあの男が、アズレイの置かれた境遇を案じるあまり、これまでなら決して踏み込まなかったところにまで目を向け始めている。このままでは、あの子をめぐる事情に気づくのも時間の問題かもしれない。
オットは杖を握る手に、知らず力を込めた。
[newpage]
第二皇子が姿を消したという報せが皇帝のもとへ届いたのは、それから間もなくのことだった。
「……城の外へ出た可能性があるというのか?」
執務机から響いた低い声に、報告に来た近衛兵たちは揃って身を固くした。皇帝ヴィクトルは椅子に深く腰かけたまま、眉間に深い皺を刻んでいる。
「申し訳ございません、陛下。現時点では、まだ確証がございません。宮内と庭園の捜索を続けるとともに、各門にも通達を──」
「ガレスの『円』は」
「すでに調べております。しかし……半径二キロの範囲に、アズレイ殿下のお姿は見当たらないとのことです」
ヴィクトルはしばし沈黙したのち、短く命じた。
「ただちに捜索範囲を城外へ広げろ。使える者はすべて動員して構わん」
「はっ!」
近衛兵たちが足早に退出すると、重い扉が音を立てて閉まり、執務室には再び静けさが戻った。窓の外では、冬の日差しを受けた庭園の樹々が雪の上に淡い影を落としていたが、その穏やかな眺めとは裏腹に、ヴィクトルの顔から険しさが消えることはなかった。
「……とんだ騒ぎになったものじゃな」
そう呟いたのは、窓際の長椅子に腰を下ろしていたゼノだった。ククルーマウンテンから久しぶりに旧友のヴィクトルを訪ね、今日この宮殿に着いたばかりだったが、思いがけず第二皇子の捜索騒ぎに居合わせることとなった。
「まったくだ。レオンハルトが戻った途端にこれだ。また何か揉めたのだろう」
「レオンハルトも変わらんのう。昔から、アズレイが後を追いかけるたびに泣かせておったが……今も相変わらずか」
「レオンハルトには、次期皇帝として学ぶべきことが山ほどある。いちいちあいつに構っている暇などない」
ヴィクトルは煩わしげに息を吐く。その口ぶりには、行方の知れない幼い息子を案じる様子よりも、余計な騒ぎを起こされたことへの苛立ちが色濃く滲んでいた。ゼノはそんな旧友の横顔をしばらく眺め、やがてぽつりと口を開いた。
「……あの子にはずいぶん冷たいのう」
「冷たい? お前とて、四番目の孫については同じ考えだろう。聞く限り、あの子の置かれた事情は第二皇子とさほど変わらんのだからな」
ゼノは否定しなかった。生まれて間もない孫の周囲で起きている異常を思えば、血を分けた家族だからといって、ほかの子供たちと同じように扱うことができないのは事実だった。かといって、妻を失ったヴィクトルのように、その警戒心に複雑な私情が絡んでいるわけでもなかった。
しばし沈黙が続いたところへ、執務室の扉を控えめに叩く音がした。ヴィクトルが短く入室を許すと、扉の向こうから聞き慣れた声が返ってきた。
「失礼いたします」
姿を現したのはオットだった。老人は部屋へ入るなり丁寧に頭を下げ、遅れたことを詫びる。
「遅くなりまして申し訳ございません。少々、騒ぎに巻き込まれておりまして」
「構わん、じい──」
ヴィクトルはそこで言葉を飲み込み、こほん、と小さく咳払いをした。それから空いている椅子を指し示した。
「……オット。座れ」
オットはかすかに目元を和らげ、ゼノと軽く会釈を交わして腰かけた。
「ご無沙汰しておりますな、ゼノ殿」
「息災そうで何よりじゃ」
「ほっほ。ネテロにはとてもかないませんがな。あの男はこの二十年、ほとんど変わっておらぬようで……わしの方は、どうにも年には勝てません」
「年に勝てる者など、そうそうおるまい」
ゼノは軽く肩をすくめ、オットも小さく笑った。旧知の者同士らしい短いやり取りがひと段落するのを待って、ヴィクトルが再び口を開く。
「では、本題に入ろう。先ほどまで、ゾルディック家に生まれた第四子の件を話していたところだ」
「……アルカ、でしたな?」
オットが確かめると、ゼノは短く頷いた。
「まだ生まれたばかりだというのに、身の回りで妙なことが続いておる。レイカ殿とアズレイの一件だけでも厄介な話だったというのに、まさか自分の家にまで似たようなことが起こるとは思わなんだ」
「とはいえ、お前の話していた現象は、アズレイに起きたこととはずいぶん違うのだろう?」
ヴィクトルの問いに、ゼノは難しい顔で頷いた。
「ああ。起こっていること自体はまるで違う。だが、根にあるものは同じ類ではないかと、わしは睨んでおる」
その言葉を聞いたオットの顔から、わずかな笑みも消え失せた。
「……では、あちらの世界から来たものが、また」
「オルドヴィアの外では、そうしたものをまとめて『五大厄災』と呼ぶようになったそうだな」
椅子の背へ身を預けたヴィクトルが呟くと、ゼノは肯定するように小さく顎を引いた。
五大厄災とは、V5の各国が過去の暗黒大陸遠征で持ち帰った、五つの災いの総称だった。正確には、案内人によって戒めとして持ち帰らされたものであり、現在もその被害者や標本の一部は、国際環境許可庁の地下施設に極秘裏に保管されているという。
「ヴォロスにも、近年になって呼び名がついたらしい」
「人飼いの獣──『パプ』、ですな」
オットがその名を口にした途端、ヴィクトルの唇に皮肉な笑みが浮かんだ。
「人飼い、とはよく言ったものだ」
幾百年にもわたり、皇室はその機嫌を損ねぬよう顔色を窺い、望むものを差し出すことで国を保ってきた。神の加護によって守られているつもりが、実のところ、この国そのものが得体の知れぬ獣に飼われていたのかもしれない。
もっとも、そう考えたところで、何かが変わるわけではなかった。長きにわたって受け継がれてきた盟約は、もはや皇室の意思だけで断ち切れるものではないのだ。
「外の者があれをどう呼ぼうと、その本質を理解しているとは限りませんからな」
オットはそう言うと、膝の上に重ねた手へ目を落とした。普段は柔和な笑みで皇子たちに歴史を説いている老人も、この話になると表情を曇らせる。盟約の重みを、彼は教本の知識としてだけでなく、自らの経験を通して知っていた。
「……そもそも、最初に盟約を破ったのはこちら側なのですからな」
その言葉に、ゼノは老教師へ目を向けた。オットが軍人として皇室に仕えていたのは、もう幾十年も前のことになる。今では杖を頼りに歩いているが、かつては皇帝に従って危険な任務にも赴いた男だった。
「……先々代の皇帝がネテロらと『門』へ向かわれた際、オット殿も同行しておったな」
「ええ。先々代の陛下はヴォロスとの盟約を破られ、そのうえ、門を越えるために定められた儀式さえ行わず、禁を犯して向こう側へ渡ってしまわれたのです。……あの場に居合わせながら、陛下をお止めできなかったことは、今も悔やんでおります」
ヴィクトルは苦々しげに目を伏せた。何も知らずに同行したネテロはともかく、祖父はヴォロスとの盟約の重みを十分に承知していたはずだ。それでも禁を犯し、門の向こうへ渡った。その軽率な決断が後の世代に何をもたらしたのかを思えば、すでにこの世を去った祖父への怒りは、今も消えることがなかった。
「禁忌を重ねたのは先祖だというのに、その報いを受けたのは我々だ。レイカには何の関係もなかった……それなのに、代償を払わされたのは彼女だった」
ひどく抑えた声には、怒りとも悔恨ともつかない響きがかすかに混じっていたが、ヴィクトルはそれきり口を閉ざした。
ゼノはそんな旧友の横顔をしばらく見つめていた。妻を失ってから六年が過ぎた今も、その死を悔やみ続けている男に何と言うべきか迷いながら、慎重に言葉を選んだ。
「こう言っては酷かもしれんが、ヴォロスの力を考えれば……よく一人の犠牲で済んだものじゃ」
「……罰であると同時に、警告でもあったのでしょうな。次に盟約を違えれば、同じ慈悲を受けられるとは限らぬ──そう思い知らせるための」
「その気になれば、いつでも人類を滅ぼせるほどの力を持っておるのだからな。ネテロがあれほど躍起になって、暗黒大陸に人を近づけまいとするのも無理はないのう」
ゼノの言うことは、ヴィクトルにも分かっていた。ヴォロスの力を考えれば、犠牲が一人で済んだのは幸運だったと言えるのかもしれない。だが、その一人は、ヴィクトルが誰よりも愛し、何よりも大切にしていた妻だった。たとえ理屈では理解できても、それを幸いだと思うことなどできなかった。
ヴィクトルは執務机の端に置かれた古い帳簿を引き寄せ、頁を開いた。そこに記された数字へ目を走らせてから、口を開く。
「だからこそ、次の盟約だけは絶対に違えられん。そのための準備は、すでに進めている」
「約束の日まで、あと十二年。定められた人数を揃えるには、決して長い猶予ではありませんな」
オットの言葉を受け、ゼノがヴィクトルへ目を向けた。
「……それで、数の方はどれほど集まっておる?」
「三万を少し超えたところだ。各地から集め続けてはいるが、なかでも流星街は昔から都合がいい。あそこでは人が消えても、そうそう騒ぎにはならんからな。……それでも、二十万には程遠い」
「……残りは十七万近くか」
ゼノは難しい顔をした。
「最近はハンター協会もこうした動きに目を光らせておる。今後さらにそれだけの人数を集めるとなれば、いつまでも気づかれずに済むとは思えんぞ」
「……ネテロは何か察しているのか?」
「どうじゃろうな。あやつは昔から勘の鋭い男じゃ。すでに何かを嗅ぎつけておっても不思議ではない。だが、相手は一国じゃ。協会長といえど、そう簡単には手を出せまい」
ヴィクトルはしばし考え込み、それから帳簿を閉じた。
「それに、もう一つ厄介な問題がある。近頃、我々の手の者の動きを嗅ぎ回り、邪魔をする連中が出始めた」
「流星街の盗賊どものことか?」
「ああ。まだ若い連中で、今すぐ脅威になるほどではない。だが、このまま放置すれば、いずれ面倒なことになるだろう」
「ならば、排除すべきでしょうな」
オットの声には、朝に幼い皇子へ守護神の教えを説いていたときと変わらぬ穏やかさがあり、その揺るぎない確信が、かえって底知れぬ冷酷さを感じさせた。
「手段を選んでいる場合ではありますまい。たとえ残酷でも、最後に救われる命の方が遥かに多いのですから」
ヴィクトルはオットの言うことがもっともだと分かっていながらも、どこか疲れたように息を吐いた。
手段さえ選ばなければ、二十万人という数を揃えることなど、帝国の力をもってすれば決して難しくはない。だが、これまでは罪人を中心に、身寄りがなく、姿を消しても捜す者の少ない人間を選んできた。誰かを犠牲にすることに変わりはないが、それでも、残される者の悲しみだけは少しでも減らしたかった。妻を失った自分には、その苦しみが分かるつもりだった。
しかし、これまでに集まったのは、まだ三万を少し超えたところにすぎない。今のやり方を続けていては、約束の日までに必要な人数を揃えられる保証はなかった。オットの言うとおり、そろそろ手段を選んでいる場合ではないのかもしれない。
ヴィクトルは窓の外へ目を向けた。その視線の先では、雪に覆われた庭園を近衛兵や使用人たちが今なお忙しく行き交い、姿を消した第二皇子の手がかりを探していた。
「……それにしても、あれには困ったものだ。今日のように勝手な真似をされては」
今度こそ、何があろうと約束を違えるわけにはいかない。
その日が来るまで、あの子には何としても生きていてもらわねばならない。
残された猶予は、あと十二年。