旅立ちの朝、皇帝ヴィクトル=オルロフは執務室にいた。
夜は明けていたが、卓上の燭台にはまだ火が残っている。窓の外では、冬宮の庭に薄い朝靄が降り、遠くの尖塔が白く霞んで見えた。
ヴィクトルは一睡もしていなかった。
机の上には、さまざまな書類が散らかっている。
南部街道の補修費、国境沿いの治安報告、遠方の領地で起きた小競り合いの処理、次の収穫期に備えた穀物税の調整。
いつもの朝と変わらない。
帝国を治める者に、片づけるべき仕事が尽きることはない。
だが、そのどれもが、城の外というものを嫌でも思い出させた。街道は荒れ、国境では揉め事が起こり、遠い土地では誰かが傷つく。冬宮の中だけを見ていれば、世界は美しく整っているように見える。けれど実際の国は、いつもどこかで綻びかけている。
扉の外で、控えめな声がした。
「陛下。そろそろお時間でございます」
ヴィクトルはしばらく返事をしなかった。
書類の端に置かれていた一通の書簡へ視線を落とす。宛名には、ハンター協会会長、アイザック=ネテロの名が記されていた。
数日前、ネテロは相変わらず飄々とした声で言った。
『心配せんでも、試験中に無用な死に方をするようなことは、そうそうないじゃろう』
ヴィクトルは低く唸った。
電話の向こうで、ネテロが愉快そうに笑う。
『ほっほ。まあ、骨の一本二本は覚悟してもらわんとな』
分かっている。
それでも、アズレイのことだけは、皇帝としての矜持だけで黙って見送れるほど、簡単な話ではなかった。
そして、そんな弱音にも似た頼みを口にできる相手は、多くなかった。
ネテロは、かつてヴィクトルにとって師のような存在だった。戦場で剣を振るっていた若い頃から、その底知れない強さと、掴みどころのない振る舞いを目にしてきた。
そしてネテロは、アズレイのことも幼い頃から知っている。冬宮を訪れた時には、まだ小さかったアズレイを膝に乗せ、わけの分からない昔話を聞かせて笑わせていたこともある。
あの老人なら、本当に危うい時には見誤らない。
ヴィクトルはそう信じるしかなかった。
ようやく書簡から目を離し、ゆっくりと立ち上がった。
その少し前、アズレイの部屋では、侍女たちが最後の支度に追われていた。
昨夜、兄と暴れて乱れきっていた寝台も今は跡形もない。部屋はいつも通り整えられ、窓から差し込む朝の光を受けて、何事もなかったかのように静かだった。
侍女の一人が旅装の襟を整え、別の侍女が外套の留め具を確かめる。飾り気は少ないが、動きやすく、丈夫な仕立てだった。昨日の祝宴の正装とはまるで違う。
「殿下、お苦しくはございませんか」
「大丈夫」
アズレイは答えながら、鏡の中の自分を見た。
旅装を着ると、少しだけ外へ出る人間らしく見える気がした。
そう思った時、扉が勢いよく開いた。
「おはよう、我が帝国の小さき光!」
聞き慣れた明るすぎる声が、朝の静けさを容赦なく破った。
アズレイはぎょっとして振り返る。
「わっ、兄上!」
次の瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。
レオンハルトはまるで幼い子どもでも扱うように弟を抱え上げ、その場でくるりと回る。
侍女たちが小さく息を呑んだ。
「兄上、やめて! 今、みんなが整えてくれたばかりなのに!」
ようやく下ろされたアズレイは、慌てて襟元を押さえた。
レオンハルトは満面の笑みで、アズレイの頭をぽんぽんと叩いた。
「これから旅に出るんだぞ。少しくらい乱れていた方がちょうどいい」
レオンハルトは部屋の隅に置かれた荷物へ歩み寄ると、当然のようにそれを持ち上げた。
侍女たちが慌てて進み出る。
「殿下、それは私どもが」
「いい」
レオンハルトは軽く片手を振った。
「弟の荷物くらい、最後に持たせろ」
その声はいつも通り軽かった。
けれど、アズレイは一瞬だけ言葉に詰まる。
昨夜、ノクトから聞いた話が胸をよぎった。
兄は、誰よりも反対していた。
それでも最後には、自分の味方をしてくれたのだと。
レオンハルトは、アズレイが何か言う前に、にっと笑った。
「さあ、行くぞ。主役が遅れるとまずい」
部屋を出ると、廊下にはノクトが控えていた。
黒衣の騎士は背筋を伸ばし、二人に静かに頭を下げる。
「おはようございます」
その声を聞いた瞬間、アズレイの胸が妙に跳ね、眠る前の出来事が、一気に蘇る。
反射的に顔を背けるアズレイとは対照的に、ノクトは何も言わず、いつもと同じようにレオンハルトの斜め後ろへ控えている。
レオンハルトは弟と騎士を一瞥したが、それには触れなかった。
アズレイはノクトの方を見ないようにしながら、わざと別のことを口にする。
「父上、来てるの?」
「さあな。起きてはいるだろうが、素直に見送りに来るかは別だな」
レオンハルトは曖昧に笑った。
冬宮の正門前には、すでに馬車が用意されていた。
重厚な紋章入りの馬車ではない。身分を隠すため、装飾を抑えた簡素なものだ。それでも、車輪や車体の造りは丈夫で、長旅に耐えるよう整えられている。
その前に、数人の兵が並んでいた。
先頭に立っていた大柄な男が、アズレイを見るなり豪快に笑う。
「おお、殿下。ずいぶん大きくなられましたな!」
「ガレス」
アズレイの顔が明るくなる。
ガレス=ヴァルト。
かつて、アズレイに剣術を教えていた師範の一人だった。年は重ねているが、背筋はまだ真っ直ぐで、腕は太く、声は朝の空気を震わせるほど大きい。
「昔は一太刀受けるたびに、よく尻餅をついておられた」
アズレイは苦笑した。
レオンハルトが横で吹き出す。
ガレスは愉快そうに笑ったあと、すぐに表情を改める。
「試験会場までは、我々が同行いたします。ただし、会場に入られた後は離れます。中まではお供できません」
アズレイは頷いた。すでに聞かされている情報だった。
「また、城を出ている間は、皇子としての身分は伏せていただきます。名もこちらで用意したものをお使いください。アズレイ=オルロフの名は、少々目立ちますので」
ガレスは続けた。
「試験が終わり次第、指定の場所に帰還のための人員を待機させております。そのまま冬宮へお戻りいただく手筈です」
ガレスは当然のように次の説明へ移ろうとした。
アズレイはそこで首を傾げた。
「待って」
ガレスが口を閉じた。
「冬宮へ戻るって、不合格だった場合は、でしょ」
「はい」
「合格したら?」
「ああ、失礼いたしました」
ガレスは本当に今思い出したように、軽く頷いた。
「合格された場合は、もちろん約束通りです。二年の期限付きで、城外での行動が許可されます」
その言い方が、あまりにもついでのようだったので、アズレイは一瞬、信じられないものを見るような顔をした。
それから、助けを求めるように兄を見る。
レオンハルトは笑った。
「安心しろ。合格したら、ちゃんと旅には出られる。父上もそこまでは約束を破らない」
その一言に、アズレイは黙った。
兄がそう言うなら、大丈夫だと思えた。
けれど同時に、誰もが不合格になった時の手順ばかりを念入りに用意している気がして、胸の奥に小さな不満が残った。
レオンハルトは荷物を馬車へ載せると、何でもない顔でアズレイの頬をつねる。
「泣くなよ、アズリル」
「泣かないよ」
「俺は泣くかもなぁ」
兄は冗談めかして笑っていた。
いつもよりずっと明るい笑顔だった。
だからこそ、アズレイには少しだけ分かってしまった。
兄はたぶん、無理をしている。
「兄上……」
呼びかけようとした瞬間だった。
レオンハルトの表情から、ふっと笑みが消え、いつもの柔らかさは影を潜めた。
代わりに浮かんだのは、身体の芯まで突き刺すような、重い眼差しだった。
レオンハルトは両手でアズレイの頬を包み、額と額を合わせるようにして、強く押し当てた。
あまりに近い距離に、アズレイは目を見開き、思わず息を止める。
「アズリル」
低い声と、逃げ場をなくすほどまっすぐな蒼い目が、アズレイをその場に縫い止めた。
「無茶をするな」
拒む余地のない、命令に近いものがそこにはあった。
聞いたことのない響きに、心臓が小さく跳ねる。
「……うん」
アズレイは、それだけ答えた。
レオンハルトはすぐに、いつものような笑みを取り戻した。
「よし。いい子だ」
そう言って、もう一度だけアズレイの髪を撫でてから離れる。
アズレイはしばらく、その場に立ったまま兄を見上げていた。
やがて、御者が馬車の扉を開ける音がした。
旅立ちの時間だった。
アズレイは一度だけ息を吸い、馬車へ向かう。
そして乗り込む直前、ふとノクトの方を見ようとしたが、目が合う前に視線を逸らしてしまう。
ノクトはただ、少し離れた場所で頭を下げた。
アズレイはその姿を、視界の端で見ながら口にした。
「行ってきます」
その声が誰に向けたものだったのか、自分でも分からなかった。
馬車が動き出す。
車輪が石畳をゆっくりと鳴らし、冬宮の門へ向かって進んでいく。
アズレイは窓から身を乗り出し、手を振った。
レオンハルトは大きく腕を振って応え、ガレスの部下たちも深く頭を下げている。
その少し後ろで、ノクトだけが静かに立っていた。
見送りの列とは別に、冬宮の高い露台にひとりの影があった。
皇帝ヴィクトル=オルロフだった。
遠ざかっていく馬車を手を振ることなく、じっと見下ろしている。
馬車が見えなくなるまで、その場を動かなかった。
アズレイは最後まで、それに気づかなかった。
馬車が完全に見えなくなったあと、正門前に残ったレオンハルトは、ゆっくりと手を下ろした。
笑みが消える。
「ノクト」
「はい」
呼ばれた騎士は、すでに主の背後に控えていた。
レオンハルトは馬車の消えた方角を見たまま、低く言う。
「頼んだぞ」
「承知しました」
「手を出すのは、命に関わる時だけでいい。試験の結果も、あいつの選択も、お前が肩代わりするな」
「はい」
レオンハルトは小さく息を吐く。
「まったく。手のかかる弟だ」
その声は呆れているようで、少しだけ震えていた。
馬車の中では、ガレスが上機嫌に話し続けていた。
「この先しばらくは西街道を進みます。途中、三度ほど宿を取る予定ですな。いやあ、殿下とこうして旅をする日が来るとは。昔、木剣を握っておられた頃を思えば──」
「だから、それはもういいって」
アズレイは苦笑しながら答える。
けれど、半分ほどしか聞いていなかった。
窓の外を、冬宮の白い城壁が遠ざかっていく。
自分は今、本当に外へ出ている。
その事実を噛みしめようとした。
けれど、不思議と胸は晴れなかった。
もっと嬉しいはずだった。
ずっと夢見ていた景色なのだから、胸が躍って、何もかもが輝いて見えると思っていた。
けれど、馬車の揺れに身を任せているうちに、ふとハンター試験のことが頭をよぎった。
あんなに願って、あんなに父を困らせて、兄にも侍女たちにも心配をかけて、ようやくここまで来た。
もし、試験に落ちてすぐに帰ることになったら。
その時、自分はどんな顔で冬宮へ戻ればいいのだろう。
もしかしたら、誰も本気で自分が合格するとは思っていないのかもしれない。
アズレイは袖の下の革紐にそっと触れた。
指先に、ノクトが結んだ固い結び目が触れる。
それだけで、ほんの少し呼吸が楽になった。
馬車は冬宮から伸びる街道を、ゆっくりと西へ進んでいった。