偽名を用意していたのに、結局アズリルで登録してしまうあたりがアズリルです。
次回でやっと試験スタートです!
冬宮を発ってから三日、アズレイの不安とは裏腹に、旅路は驚くほど穏やかに進んでいた。
街道はよく整えられており、途中で立ち寄った宿も、ガレスが言うには「少々質素だが悪くない」程度のものだった。盗賊に襲われることも、馬車が壊れることも、怪しい旅人に絡まれることもない。アズレイが密かに想像していたような出来事は、何ひとつ起きなかった。
ただ、向かいに座るガレスだけは相変わらずよく喋った。
「この先の街道を抜ければ、夕刻にはザバン市が見えてまいります。そこから先は徒歩ですな。なに、指定の場所まではそう遠くありません」
ガレス=ヴァルトは、馬車の揺れに合わせて器用に地図を広げながら言った。
その隣には、護衛の一人である若い兵が座っている。名はマルクと言った。まだ二十歳を少し過ぎたばかりで、真面目そうな顔つきをしている。初日からずっと緊張していたが、三日目の昼を過ぎた頃には、ようやく少し肩の力が抜けてきたらしい。
マルクはしばらく迷ったあと、控えめに口を開いた。
「ガレス隊長」
「なんだ」
「その……お聞きしてもよろしいでしょうか」
「構わん。道中は長い。黙っているよりはましだ」
ガレスは地図から顔を上げずに答える。
マルクは一度、アズレイの方を見た。
アズレイは窓の外を眺めている。
聞こえていないと思ったのか、マルクはさらに声を落とした。
「どうして、陛下はアズレイ殿下にだけ、ここまで厳しくなさるのでしょうか」
アズレイは外の見慣れない景色に釘付けになっていて、二人の会話はほとんど耳に入っていなかった。
それでも、自分の名前が出た瞬間だけ、意識がそちらへ向いた。
ガレスは少しだけ目を細めた
「厳しい、か」
ガレスは地図に目を落としたまま、すぐには答えなかった。
殿下の前でするには、ずいぶん踏み込んだ問いだった。
だが、ガレスは咎めなかった。
「失礼を承知で申し上げます。殿下は、文武ともに十分な才を示しておられます。それなのに、外へ出るためにハンター試験まで受けねばならないとは……」
もっともな疑問だ、とガレスは思った。
だが、ガレスにもそれをはっきりと言葉にすることはできなかった。
マルクはそこで一度言葉を切り、さらに続けた。
「それに、王宮にはハンターライセンスを持つ者がいないと聞きました。でしたら今回、騎士団や軍から精鋭を殿下と一緒に受験させる、という手はなかったのでしょうか」
マルクは遠慮がちに続ける。
「試験中は殿下のお力になれますし、もし合格できれば、帝国にとっても得るものは大きいはずです」
ガレスはそこで、短く笑った。
「なるほど。一石二鳥に見えるな」
「違うのですか」
「そう簡単な話ではない」
「と、言いますと?」
「ハンターライセンスは、持つ者に与えられる権限が大きすぎる。動ける範囲も広い。そんなものを王宮の内側に置けば、便利であると同時に、厄介な火種にもなる」
「火種、ですか」
「誰がその者を動かすのか。王宮か、協会か。あるいは、本人か。そういう話になる」
ガレスは畳んだ地図を膝の上に置いた。
「オルドヴィアには、オルドヴィアの軍がある。騎士団もある。陛下の耳となり目となる者たちもいる。わざわざ外の団体から札をもらわんでも、国を守る力は足りている。むしろ外の組織と深く関われば、知られたくないものまで知られる」
ガレスは、珍しく冗談を交えずに言った。
「我が国は、外から見れば閉じている。古いとも言われる。だがな、その古さで守ってきたものもある」
もっとも、今回に限っては例外もある。
ガレスは胸の内だけで、そう付け加えた。
マルクはようやく腑に落ちたように、小さく頷いた。
アズレイは窓の外を見つめたまま、二人の会話を聞くともなしに聞いていた。
けれど、最初の問いだけが頭から離れない。
どうして、父上は自分にだけ、ここまで厳しいのだろう。
それから馬車はさらに進み、夕刻が近づく頃、ザバン市へ入った。
ザバン市は、アズレイが想像していたよりずっと騒がしい街だった。
石畳の通りには荷馬車が行き交い、露店の前では商人たちが声を張り上げている。焼いた肉の匂い、油の匂い、酒の匂い、海に近い湿った風の匂い。冬宮の清潔で静かな空気とは、何もかもが違っていた。
馬車は街の中心から少し離れた場所で止められた。そこから先は徒歩だった。ガレスは護衛の数を減らし、目立つ装備をすべて外させた。
「ここからは、殿下ではなく、用意された名でお通りください」
ガレスが低い声で言う。
「分かった」
アズレイは答えたが、視線はすでに街のあちこちへ向いていた。
ガレスたちに囲まれながら、アズレイはザバン市の通りを歩いた。
途中、酒場の前で酔った男がふらつきながら近づいてきた時には、アズレイの肩が小さく跳ねた。
「おい、ずいぶん綺麗な兄ちゃんだな」
男がにやつきながら手を伸ばしかける。
だが、その手がアズレイに届くより早く、ガレスが何気ない動きで間に入った。
「悪いな。連れが急いでいる」
声は穏やかだった。
けれど、酔漢はガレスの顔を見た瞬間、何かを察したように口を閉じた。
「……ちっ」
男は小さく舌打ちし、別の通りへふらふらと消えていく。
アズレイは少しだけ息を吐いた。
ガレスは何事もなかったように歩き出す。
「殿……いえ、そちらばかり見ていると、足元を取られますぞ」
「分かってる」
そう答えながらも、アズレイはもう一度だけ、男が消えた路地の方を振り返った。
やがて、ガレスが足を止めた。
目の前にあったのは、古びた食堂だった。
「ここです」
ガレスが低く言う。
アズレイは扉を見つめた。
「ここが?」
看板は少し傾き、窓ガラスは曇っている。扉の横には本日の料理らしきものが雑に書かれていたが、どこにもハンター試験の文字などない。
中からは食器の音と、人の話し声が聞こえた。
ただの店にしか見えなかった。
「今年の試験会場への入口です」
アズレイはもう一度、建物を見上げた。
ガレスは店の扉を押し開けると、迷いなく中へ入った。
アズレイもその後に続く。
店内には、数人の客がまばらに座っていた。昼時を過ぎているせいか、どの卓にも気だるい空気が漂っている。
ガレスは真っ直ぐ店主のもとへ向かった。
「少し確認を」
低い声でそう告げると、店主は一瞬だけ目を上げた。
それから、ガレスの差し出した紙片に視線を落とす。
二人は、アズレイには聞こえないほど小さな声で何かを話した。
店主がちらりとこちらを見る。
アズレイは思わず背筋を伸ばした。
だが店主はすぐに視線を外し、近くにいた給仕へ顎で合図する。
「奥へ」
短い一言だった。
マルクはそこで足を止めた。
「私は外で待機しております」
アズレイが頷くと、マルクは少し緊張した顔で敬礼した。
「ご武運を」
その真面目すぎる声に、アズレイは少しだけ笑った。
「ありがとう」
ガレスとアズレイは、給仕に案内されて店の奥へ進んだ。
厨房の横を抜け、薄暗い廊下を通る。やがて小さな扉の前で給仕が足を止めた。
「こちらです」
中は、控え室のような狭い部屋だった。
机が一つ。椅子が数脚。壁際には古びた棚が置かれている。
しばらく待っていると、奥の扉が開いた。
現れたのは、小柄な男だった。
丸い頭に、どこか愛嬌のある顔。きっちりとした服を着ているが、雰囲気は妙に柔らかい。
「よくおいでくださいました」
男は丁寧に頭を下げた。
「私はビーンズと申します。本日の受付を担当しております」
ガレスも軽く頭を下げる。
「ご案内、感謝します」
「いえいえ。ネテロ会長より、丁重にお迎えするよう申しつけられております」
その名前に、アズレイは少しだけ目を瞬かせた。
ビーンズはにこやかな顔のまま、机の上に書類を広げた。
「では、簡単に確認を。これより先は、受験者ご本人のみのご案内となります。試験開始までの説明は、下でまとめて行われますので、こちらでは登録のみ済ませていただきます」
「登録?」
「はい。受験番号札をお渡しします。それから、お名前を確認させていただきます」
アズレイは頷いた。
ビーンズが羽ペンを持ち上げる。
「では、お名前を」
「アズ──」
言いかけて、アズレイは止まった。
横でガレスが、こほん、と咳をした。
アズレイの背筋が冷える。
しまった。
偽名。
偽名を言わなければならない。
けれど、焦れば焦るほど、用意された名前が頭の中からするりと抜け落ちていく。
ビーンズはにこにこと待っている。
ガレスは横で、何とも言えない顔をしている。
アズレイは数秒の沈黙のあと、苦し紛れに口を開いた。
「……アズリル、です」
ガレスの顔から血の気が引いた。
ビーンズの羽ペンが、紙の上で止まる。
「アズリル様、でございますね」
「……はい」
アズレイは小さく頷いた。
ガレスはたまらず片手で額を押さえた。
ビーンズは穏やかな顔で書類に名前を書き込んでいく。
「では、アズリル様。こちらが番号札です。試験中は紛失なさらないよう、ご注意ください」
差し出された札には、番号が刻まれていた。
アズレイはそれを受け取る。
手の中の札は、思っていたより軽かった。
ビーンズは奥の扉を開けた。
そこには、小さな昇降機があった。
「こちらから下へ降りていただきます」
ガレスは覆っていた手をのろのろと下ろし、アズレイを見た。
いつもの豪快な笑みは、そこにはなかった。
一人の兵として、そして幼いアズレイの成長を誰よりも知る師範としての、冷徹なまでに真剣な眼差しがそこにあった。
「ここから先は、受験者ご本人のみ。私が同行できるのはここまでです」
その言葉で、アズレイの胸が小さく鳴った。
ここから先は、本当に一人だ。
ガレスは胸に手を当て、深く頭を下げる。
「ご武運を」
アズレイは少しだけ息を吸った。
「うん」
それから、昇降機へ向き直る。
アズレイは番号札を握りしめた。
ただの受験者として、彼は昇降機の中へ足を踏み入れた。
その頃、別の場所で、ひとりの老人が湯呑みを片手に書類を受け取っていた。
アイザック=ネテロは、差し出された受験者名簿へ目を落とす。
そこに記されていたのは、事前に聞いていた偽名とは違う名前だった。
だが、聞き覚えはある。
アズリル。
ネテロは一瞬だけ目を細め、それからおかしそうに笑った。
「来たか」
小さく呟き、湯呑みを机の上に置く。
少しくらいは、顔を見に行ってもよいかもしれない。
「さて」
ネテロは愉快そうに腰を上げた。