一次試験
昇降機の扉が開いた瞬間、冷たい空気が流れ込んできた。
『アズリル』は一歩外へ出て、思わず足を止める。
もう、ここではオルドヴィア帝国の第二皇子アズレイ=オルロフではない。
そこは、地下とは思えないほど広い空間だった。
天井は高く、壁には古びた照明が等間隔に並んでいる。薄暗い通路の奥には、すでに多くの人間が集まっていた。
服装も、年齢も、雰囲気もばらばらだった。
大きな武器を背負った者。
壁にもたれて目を閉じている者。
獣のような目で周囲を見回している者。
まだ少年にしか見えない者。
王宮の式典では、絶対に見ないような人間ばかりだった。
アズリルは自分の胸元へ視線を落とす。
服の上には、受け取ったばかりの番号札が留められていた。
四〇七番。
「やあ」
不意に声をかけられ、アズリルは顔を上げる。
そこにいたのは、人のよさそうな笑みを浮かべた男だった。丸い顔に、少し気の抜けたような目。どこにでもいそうな旅人に見える。
「君、新人だろ」
「あ……」
初めて、王宮の外の人間にこうして気安く話しかけられた。
アズリルは一瞬、どう返せばいいのか分からなくなる。
「やっぱり、そう見えますか」
「見える見える。初参加のやつは、だいたいそんな顔してるからさ。緊張してるだろ?」
男は笑いながら、小さな缶を取り出した。
「ほら、これ。俺の分が余ってるんだ。飲んで少し落ち着きなよ」
アズリルはそれを受け取った。
周囲には、見るからに怖そうな者たちが多い。そんな中で、自分を気にかけてくれる相手がいることにほっとした。
「ありがとうございます」
「いいっていいって。俺はトンパ。こういう試験は慣れてるからさ」
「アズ……」
言いかけて、アズリルは一瞬だけ止まる。
「アズリル、です」
慣れない名乗り方に、語尾だけが少し丁寧になった。
トンパはにこにこと頷く。
「よろしくな、アズリル」
アズリルは缶を手にしたまま、口をつけなかった。
王宮では、外部の人間から出されたものをそのまま口にすることはまずない。飲み物も食べ物も、基本的には侍女や毒見役を通してからだった。だから、知らない相手から受け取ったものをその場で飲まないのは、アズリルにとって特別な警戒でも何でもなかった。
そう教えられて育ったし、そうするのが当たり前だった。
トンパはしばらく待っていたが、アズリルが一向に飲む気配を見せないので、ほんの少しだけ目を細めた。
「飲まないのか?」
「あとでいただきます」
アズリルは丁寧に答えた。
「……へえ」
トンパの笑みが、わずかに薄くなる。
アズリルはそれに気づかないまま、周囲へ視線を向けた。
少し離れた場所に、少年がいた。
自分よりずっと小さく見える。黒髪で、丸い目をしていて、周りの異様な受験者たちの中では場違いなほど無邪気な顔をしていた。
子どもまでいるのか。
アズリルは驚いた。
ハンター試験は危険だと聞いていた。父も兄も、あれほど心配していた。なのに、あんな小さな子まで受けに来るのだと思うと、胸の奥がざわついた。
その時、周囲の空気がふっと変わった。
近くにいた受験者たちが、距離を取っていく。
人の流れが、ある一点を避けるように歪んだ。
アズリルはそれに気づかず、空いた場所へ自然と移動した。
「おい」
誰かが小さく言った。
「坊ちゃん、そこはやめとけ」
「え?」
アズリルが振り返る。
自分のすぐ隣に、奇妙な男が立っていた。
派手な道化じみた装い。唇には、何を考えているのか分からない薄い笑みが浮かんでいる。
男は何も言わず、どこか遠くにあるものを見ているようだった。
アズリルは一瞬だけ首を傾げる。
確かに、少し変わった人ではある。
けれど王宮にも、変わった人間ならいくらでもいた。だから、それだけで危ないのかどうかは、アズリルにはよく分からなかった。
しばらく見つめてみたが、こちらを向く気配はない。
とはいえ、わざわざ忠告されたのだから、離れておいた方がいいのだろう。
アズリルはとりあえず、言われた通り数歩だけ距離を取ることにした。
やがて、地下の空間に甲高いベルの音が響く。
ジリリリリ、と、耳障りな音が続いた。
ざわめきが一瞬で引いていく。
前方に、一人の男が現れた。
「ただ今をもって、受付時間を終了いたします」
男の声はよく通った。
「では、これよりハンター試験を開始いたします」
アズリルは息を呑んだ。
ついに始まる。
「私は一次試験を担当するサトツと申します。皆様には、これより二次試験会場までついてきていただきます」
ついていく。
アズリルは瞬きした。
それだけ?
サトツはそう告げると、ゆっくりと歩き始めた。
その先には、地下の奥へどこまでも続いているような、長い通路が伸びていた。
最初は、本当に歩く程度の速さだった。
受験者たちがぞろぞろと後に続く。アズリルも列に加わった。
しばらくすると、歩く速度が少しずつ上がっていく。
前方は人で埋まり、サトツの姿はほとんど見えない。
やがて、列は小走りになった。
アズリルは人の流れに合わせて走っていた。
王宮の訓練場に比べれば、息が乱れるほどではない。
その時、隣から声をかけられた。
「やあ。君、一人かい?」
アズリルは横を見る。
背の高い、細身の男だった。きちんとしたスーツ姿だが、この場では逆に浮いている。
「……はい」
「そうか。俺はレオリオって言うんだ。君は?」
「アズリルです」
「アズリル? 綺麗でいい名前だな!」
その言葉に、アズリルの表情がぱっと明るくなった。
兄がつけてくれた、大切な名前だ。知らない相手にそう言ってもらえただけで、胸の奥が少しくすぐったくなる。
「ありがとうござ……」
礼を言いかけた、その瞬間だった。
「お嬢ちゃんにぴったりな名前だ」
本人に悪気はなかったのかもしれない。
けれど、その一言が、アズリルの逆鱗に触れた。
アズリルは無言で前を向いた。
その横顔は澄ましているようで、よく見れば唇が少しだけ尖っている。
「あれ? アズリルちゃん?」
返事はしなかった。
アズリルは速度を上げ、前を走る受験者たちの間を縫うように進む。
この無礼な男から離れることにした。
後ろで何か叫んでいる声が聞こえたが、聞こえなかったことにした。
かつて、どこぞの王から姫君の代わりに妃として迎えたいなどと言われて以来、こういう扱いはアズリルにとって、ちょっとしたコンプレックスになっていた。
自分でも子どもっぽいとは思う。
けれど、嫌なものは嫌だった。
しばらく走るうちに、いろいろな考えが頭をよぎる。
ここに来て分かったことがある。
自分から話しかけてくる人間は、思ったより少ない。
王宮では、自分が何も言わなくても、誰かが必ず声をかけてきた。侍女も、臣下も、教師も、客人も。誰もがアズリルに気を配り、いつも先に尋ねてくれた。
けれど、ここでは違う。
最初に話しかけてきたのは、飲み物を分けてくれた親切な男。
少し申し訳ない気もしたが、結局あれは口にしないまま、通路の隅にそっと置いてきた。
そして次に話しかけてきたのは、無礼なひょろ長い男。
名前を褒めてくれたところまでは、いい人だと思ったのに。
王宮の外での人付き合いは、思っていたよりずっと難しい。
アズリルは前方の人混みを抜けるように、速度を上げた。
やがて、長い通路の先に階段が見えてくる。
後ろの方から、すでに苦しそうな息遣いが聞こえ始めていた。
気づけば、アズリルはかなり前方に出ていた。
サトツの姿も、今でははっきり見える。
王宮では、広い訓練場を何周も走らされた。時には、ほとんど眠らずに王宮の敷地の山道を走らされたこともある。師範たちは容赦がなかったし、父が出した条件を越えるために、アズリルは何度も息が切れるまで走った。
あの時は、もう走りたくないと何度も泣いたけれど、今になって初めて、頑張っておいてよかったと思えた。
前方には、先ほど見かけた黒髪の少年と、銀色の髪の少年がいた。
二人は走りながら、ずっと何かを話している。
その足取りには、試験中とは思えないほど余裕があった。
ふいに、銀色の少年が振り返った。
目が合う。
銀色の少年は、値踏みするようにアズリルを見た。
あまり、いい感じはしない。
アズリルはどうすればいいのか分からず、思わず目を伏せた。
それから、ふん、と鼻を鳴らしたように口元を動かし、何事もなかったように前を向く。
アズリルは少しだけ目線を上げ、もう見られていないことを確認してから、再び階段の先へ視線を向けた。
やがて長い階段を抜けると、視界が急に開けた。
湿った風が頬を撫でる。
目の前に広がっていたのは、深い霧に覆われた湿原だった。
ぬかるんだ地面。背の高い草。どこからともなく聞こえる、獣とも鳥ともつかない鳴き声。
アズリルは思わず足を緩めた。
胸の奥が弾む。
こんな場所に来たことは、一度もなかった。
王宮の庭も、狩猟場も、整えられた森も、ここにはまるで及ばない。
本物の外だ。
そう思ったのも束の間、アズリルはすぐに試験官の背中を追うだけで精一杯になった。
後方の霧の向こうから、悲鳴が上がる。
獣とも人ともつかない声、草むらを何かが這う音、ぬかるみに足を取られた誰かの罵声。
けれど、振り返る余裕はなかった。
霧と泥と、サトツの背中。
それだけを見て走っているうちに、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていく。
どれくらい走ったのか分からない。
足が重いと思った時には、もう霧は薄れていた。
視界の先に、石造りの建物と開けた広場がある。
二次試験会場だった。
たどり着いた瞬間、アズリルはようやく足を止めた。
思っていた以上に息が上がっている。
額から汗が落ち、濡れた前髪が頬に張りついていた。
「……ついた」
アズリルはその場に座り込み、胸に手を当てながら大きく息を吐いた。
その頃、ザバン市ではガレスとマルクがまだ待機していた。
マルクは通りを行き交う荒っぽい男たちを見るたびに、眉を寄せていた。
「……本当に大丈夫でしょうか」
「何がだ」
ガレスは珈琲を啜りながら答えた。
「殿下です。あのように華奢なお姿で、少しでも危ない相手に出くわしたら……」
「案外、大丈夫なんじゃねえか」
ガレスは実に雑な調子で答えた。
「隊長、さすがに楽観が過ぎます」
「あのなあ」
ガレスは面倒くさそうに息を吐いた。
「お前は知らんだろうが、殿下はあれで、なかなか妙なものをお持ちだ」
「妙なもの、ですか」
「腕力勝負なら勝ち目はない。見ての通り、華奢な方だ。だが、そう思っていると、いつの間にかどうにかしている」
「どうにか、とは」
「どうにかは、どうにかだ」
ガレスは説明するのが面倒になったように、新聞を広げた。
「陛下の無茶な条件を越えてきた時もそうだった。……まあ、天が味方しておられるのだろう」
「ええ……なんですか、それ」
マルクは納得のいかない顔をした。
ガレスは新聞の陰で、小さく笑った。