HXH世界を旅する少年王子のお話   作:azuazu000

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二次試験を無事終えて、飛行船に乗る回です。

アズリルは試験に少しずつ慣れてきて、レオリオ、クラピカ、キルアとも関わるようになりました。


二次試験

 アズリルはしばらく、その場に座り込んだまま、次々と到着してくる受験者たちを眺めていた。

 

 息はまだ乱れていた。額の汗を袖で拭い、どうにか呼吸を整えようとしたその時、周囲のざわめきがふっと乱れた。

 

 アズリルが顔を上げると、先ほど見た道化じみた男が、誰かを肩に担いで歩いてくるところだった。

 

 担がれているのは、あの無礼なひょろ長い男──レオリオだった。

 

 男は、広場の端まで来ると、アズリルのすぐそばにあった木の幹へ、レオリオをどさりともたれかけさせた。

 

 一瞬だけ男と目が合った。

 

 彼は、何を考えているのか分からない笑みをにこりと浮かべると、ひらりと身を翻してその場を離れていった。

 

 アズリルは呆気に取られながら、ちらりとレオリオの横顔を見る。

 

「……うわ」

 

 思わず小さな声が漏れた。

 

 レオリオの片頬が、顔の形が変わるほどに腫れている。さっき話しかけてきた時の面影が、半分ほど消えていた。

 

 何があったのだろう。

 

 そう思ったあとで、アズリルはもう一度、男が去っていった方を見る。

 

 倒れていた人を、わざわざここまで運んできたのだ。

 変わった人ではあるけれど、案外、優しいのかもしれない。

 

 人は見かけによらないのだな、とアズリルは少しだけ感心した。

 

 けれど、倒れたまま動かないレオリオを見ているうちに、だんだん不安になってくる。

 

 まさか、死んではいないだろうか。

 

 アズリルはそっと身を屈め、腫れ上がった顔を覗き込んだ。

 

 覗き込んだ拍子に、レオリオの目がぱちりと開いた。

 

「……う……」

 

 低いうめき声が漏れた。

 

 思いがけず目が合って、アズリルは固まった。

 

 生きていると分かった途端、急にその場にいるのが気まずくなってくる。

 

 アズリルは何もなかったような顔をして、そっと立ち去ろうとした。

 

 けれど、その瞬間。

 

「わっ」

 

 手首をぐい、と掴まれた。

 

 怪我人とは思えない力だった。アズリルは少しよろけ、慌てて体勢を立て直す。

 

「……何?」

 

 レオリオは明らかに意識がはっきりしていない顔で、周囲をぼんやり見回した。

 

「ここ……どこだ?」

「二次試験会場だよ」

「二次……?」

 

 レオリオは眉を寄せた。

 どうやら、記憶が途中で抜け落ちているらしい。

 

 それから、ふとアズリルの顔を見る。

 

「あ」

 

 レオリオは急に目を見開き、こちらを指さした。

 

「アズリル!」

 

 アズリルは少し苦笑した。

 

「……レオリオ」

 

 レオリオはしばらく呆然としていた。

 

 それから、ようやく何かを思い出したように、気まずそうに視線を逸らす。

 

「……さっきは悪かったな」

 

 レオリオは頬を掻こうとして、途中でやめた。

 

「何か、気に障ること言ったなら」

 

 その顔が、ほんの少し照れているように見えて、アズリルは毒気を抜かれた。

 

「……いや。こちらこそ悪かった。せっかく話しかけてくれたのに、あんな態度を取って」

「いやいや、俺が悪い。たぶん。よく分かんねえけど」

 

 レオリオは照れ隠しのように笑った。

 

 アズリルはその顔を見て、少しだけ首を傾げる。

 

「それより、顔……大丈夫?」

「顔?」

 

 レオリオは不思議そうに自分の頬へ手をやった。

 

 次の瞬間。

 

「痛っっってえええええ! なんだこれ!?」

 

 広場に声が響いた。

 

 アズリルは思わず肩を跳ねさせる。

 

「覚えてないんだ」

「何をだよ!? 俺、何されたんだ!?」

「聞かれても……」

 

 アズリルが困ったように笑った、その時だった。

 

「レオリオ!」

 

 後ろから、明るい声が聞こえた。

 

 振り返ると、先ほど見かけた黒髪の少年が走ってくる。その隣には、金髪の整った顔立ちの青年もいた。

 

 二人とも、レオリオの知り合いらしい。

 

 黒髪の少年は心配そうにレオリオの顔を覗き込んだ。

 

「大丈夫?」

「大丈夫じゃねえ! 顔が痛え!」

 

 金髪の青年はその隣で呆れたように腕を組む。

 

「それだけ騒げるなら問題ないだろう」

「問題しかねえよ!」

 

 三人は、試験会場のただ中にいるとは思えないほど賑やかだった。

 

 その光景を見ているうちに、アズリルの胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

 まるで、兄上と自分を見ているようだった。

 

 冬宮を出てからずっと張り詰めていたものが、そこでようやくほどけた気がした。

 

 それから、ふと思い出したようにレオリオがアズリルの方を向く。

 

「そういや、こいつアズリルっていうんだ」

 

 レオリオはなぜか少し得意げに言った。

 

「俺が目ぇ覚ますまで、そばにいてくれたんだぜ」

 

 レオリオは小声で、誰に向けてなのか分からない自慢をした。

 

 金髪の青年が、少し引いたような目でレオリオを見る。

 

 黒髪の少年は、そんな空気をまったく気にせず、ぱっと笑った。

 

「オレはゴン! よろしくね、アズリル!」

 

 その真っ直ぐな声に、アズリルは少し驚いた。

 

「……よろしく」

 

 アズリルは小さく頷く。

 

 金髪の青年も静かに名乗った。

 

「クラピカだ。よろしく」

「アズリルです」

 

 少し迷ってから、アズリルはそう返した。

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 それからしばらくして、二次試験が始まった。

 

 出された内容を聞いた瞬間、アズリルは思わず瞬きをする。

 

 料理。

 

 正確には、指定された食材を使って試験官を満足させること。

 周囲の受験者たちがざわつく中、アズリルは少しだけ首を傾げた。

 

 父上の試練には、なぜか食に関する課題も多かった。

 

 外へ出たいと言った以上、最低限の知識として必要なのだろう。

 そう思えなくもなかった。

 

 けれど、それだけでは終わらなかった。

 

 料理本を何冊も暗記させられたり、王宮の料理長の指導を受け、父上や兄上に料理を振る舞うという課題まであった。

 

 その時は、父上はとうとう、自分に嫌がらせをしているのではないかとすら思った。

 

 けれど今、目の前で二次試験の内容を聞きながら、アズリルは思う。

 

 あんなことでも、役に立つ日が来るらしい。

 

 

 

 一つだけ残念だったことがある。

 

 寿司を作る課題だ。

 

 北方の島国における独自の食文化として、かつて王宮の外交講義で一度だけその製法を叩き込まれたことがあった。

 

 アズリルは、かなり真剣に作った。

 

 正直、自信作だった。

 

 けれど、丁寧に形を整えているうちに、近くにいた禿げた男が試験官をひどく怒らせた。

 

 そこから先は、あっという間だった。

 

 空気が変わり、怒号が飛び、試験官の機嫌は目に見えて悪くなっていく。

 

 アズリルがようやく皿を持ち上げた時には、すでに試験は終わっていた。

 

 そして発表された結果は、合格者ゼロ。

 

 その言葉を聞いた瞬間、アズリルの顔から血の気が引いた。

 

 合格者、ゼロ。

 

 つまり、自分も。

 

 ようやくここまで来たのに。

 

 終わってしまった。

 

 周囲はしばらく騒然としていた。

 怒号が飛び、試験官へ詰め寄る者がいる。中には、怒りに任せて殴りかかろうとする受験者までいた。

 

 アズリルはその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。

 

 

 その時、広場全体を覆い尽くすほどの巨大な影が上空から差した。

 

 白い飛行船が、試験会場の上空にゆっくりと姿を現す。

 

 その船体を見た受験者の何人かが、息を呑んだ。

 

「審査委員会だ!」

 

 やがて、飛行船の上から何かが落ちた。

 

 その影は地面に軽やかに降り立ち、何事もなかったかのように顔を上げる。

 

 アズリルは目を見開いた。

 

 ネテロだ。

 

 ハンター協会会長、アイザック=ネテロ。

 

 ネテロは、父上のかつての師のような存在だった。

 あのヴィクトル=オルロフでさえ頭が上がらない相手で、師弟としての関係を離れた後も、幾度か冬宮へ招かれていた。そのたびに、幼いアズリルともよく遊んでくれた。

 

 アズリルが外の世界に興味を持ったのは、あの老人のおかげでもある。

 

 そのネテロが、今、目の前にいる。

 

 会場の混乱は、ネテロが数言話しただけで不思議なほど収まっていった。

 試験官も、受験者たちも、先ほどまでの怒号が嘘のように老人へ意識を向ける。

 

 そして、二次試験はやり直しとなった。

 

 アズリルは、知らず詰めていた息を吐いた。

 

 

 

 再試験の会場へ移動する時、アズリルは人の流れに混じりながら、ちらりとネテロの方を見た。

 

 その瞬間、目が合った。

 

 ネテロはにやりと笑った。その顔を見た途端、胸の奥がふっと軽くなる。誰も自分を知らないこの試験場で、知っている顔に会えたことが、それだけでひどく懐かしかった。

 

 けれど、ここで親しげにするわけにはいかなかった。

 

 ネテロと知り合いだと知られれば、余計な注目を集めてしまう。今の自分は、ただの受験者アズリルでなければならない。

 

 アズリルは唇を結び、何も言わずに目を伏せた。

 

 ネテロも、それ以上は何もしなかった。

 

 

 

 それからの二次試験は、拍子抜けするほど滑らかに進んだ。

 

 再試験の内容は、崖の下にあるクモワシの卵を取ってくること。

 

 結果として、合格者の中にアズリルも残っていた。

 

 ただし、周囲を見回せば、最初にいた受験者の数は明らかに減っている。

 

 一次試験を越え、二次試験を越えた時点で、残った者は十分の一にも満たないらしい。

 

 次はどんな試験なのだろう。

 

 あと何回、越えなければならないのだろう。

 

 そう考えた時、アズリルの胸にあったのは、不安よりも、知らない場所へ進んでいく高揚だった。

 

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 二次試験を終えた受験者たちは、そのまま次の会場へ向かう飛行船へ乗せられた。

 

 船内には、試験をひとつ越えた者たち特有の妙な熱が残っていた。緊張を解く者、次に備えて身体を休める者、周囲を探る者。それぞれが思い思いに時間を潰している。

 

 その中で、アイザック=ネテロは一人の少年を見ていた。

 

 アズリル。

 

 いや、本来の名で呼ぶなら、アズレイ=オルロフ。

 

 少年は飛行船の壁際で、すっかり床に横たわっていた。

 

 よほど疲れたのだろう。

 左手を胸元に抱えるようにして、子どものような無邪気な寝息を立てている。

 

 ネテロはしばらく、その寝顔を眺めていた。

 

 最後に会ったのは、もう十年ほど前になる。

 

 あの頃のアズレイは、まだ本当に幼かった。肩車をしてやると声を上げて笑い、実話なのか夢物語なのか分からない話を聞かせると、目を輝かせて身を乗り出した。

 

 あの少年が、まさか本当にハンター試験を受けに来るとは。

 

 ヴィクトルから話は聞いていた。

 

 城を出たいと願った末の皇子。

 それを止めるために課された、数々の試練。

 そして最後の障壁として提示された、ハンター試験。

 

 あのヴィクトルが出した条件を、すべて越えてきたというのだ。

 

 ならば、どれほど鍛え上げられた青年に育っているのかと思っていた。

 

 だが、実際に目の前にいる少年は、ネテロの想像とはずいぶん違っていた。

 

 背は伸びた。

 けれど、十六歳を迎えた青年とは思えないほど幼く、無防備だった。

 

 現に今も、屈強な受験者たちに囲まれた飛行船の中で、何の警戒もなく横になっている。

 その姿を、よからぬ目でちらちらと見ている者がいることにも気づいていない。

 

「やれやれ」

 

 放っておくわけにもいくまい、と一歩踏み出しかけたところで、別の二人が先に動いた。

 

 スーツ姿の背の高い男と、金髪の青年が何かを話しながら、アズリルのそばへやって来る。

 

 先ほどの試験でも目立っていた二人だ。

 

 スーツの男は眠っているアズリルを見下ろすと、少しだけ顔を緩めた。

 

「ったく、こんなところで寝てたら風邪引くぞ」

 

 そう言って、毛布らしきものをアズリルにかける。

 

 その顔には、いくらか下心の混じったような笑みが浮かんでいたが、動作そのものは存外に優しかった。

 

 金髪の青年が冷ややかな目でそれを見る。

 

「その顔をやめろ、レオリオ」

「なんだよ、親切だろうが」

「親切に見えないと言っている」

 

 二人のやり取りに、ネテロは笑った。

 

 何にせよ、悪いことではない。

 

 この試験場で、あの少年を気にかける者がいる。

 

 ネテロは眠るアズリルへもう一度視線を向けた。

 

 正直なところ、過度な期待はしていない。

 

 いくつもの試練を越えてきたとはいえ、温室で育った皇子であることに変わりはない。ここまで残っただけでも十分に上出来だ。

 

 あとは、死なずに帰ること。

 できれば、大きな怪我のひとつも負わずに済めば上々だ。

 

 ネテロは小さく息を吐いた。

 

 あの皇帝に頼まれごとをされるのは、いくつになっても少々気が重い。

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 アズリルは、かすかな香りで目を覚ました。

 

 香水とも整髪料ともつかない、少し大人びた匂いだった。

 

 ぼんやりと目を開けると、目の前の床に、黒い靴が見えた。

 誰かの足が、自分のすぐ横から伸びている。

 

 少しだけ顔を上げる。

 

 レオリオが、壁にもたれたまま豪快に眠っていた。

 腕を組み、首を傾け、口元を少し開けている。あれだけ騒いでいたのに、今はすっかり静かだった。

 

 アズリルはそこで、自分の体に何かがかかっていることに気づいた。

 

 毛布だった。

 

「……」

 

 かけてくれたのだろうか。

 

 アズリルはしばらくそれを見下ろしていたが、やがてそっと身を起こした。

 レオリオを起こさないように気をつけながら、肩から毛布を外す。

 

 そして、眠っているレオリオの方へ静かにかけ直した。

 

 その隣には、クラピカも同じように壁にもたれて目を閉じていた。

 

 わざわざ、隣まで来てくれたのだ。

 

 そのことが、思っていた以上に嬉しかった。

 

 アズリルは二人を起こさないように立ち上がり、静かにその場を離れた。

 

 その背中を、クラピカが薄く開けた目で見ていたことには気づかなかった。

 

 

 手洗いを済ませ、洗面台に向かうと、扉が開いた。

 

 鏡越しに、クラピカが入ってくるのが見える。

 

「あ。起きたんだ」

「ああ」

 

 クラピカは洗面台のそばまで来ると、なぜか軽く縁に腰を預けた。

 

 何か話したいことがあるのだろうか。

 

 アズリルはそう思い、その場を動かずにいた。

 

 それきり、少しの間、沈黙が落ちた。

 

 先に口を開いたのは、クラピカだった。

 

「レオリオは、君を女性だと思っているようだな」

「……あ」

 

 アズリルはそこで、ようやく思い出した。

 

 訂正していない。

 

 というより、まさかまだ誤解しているとは思わなかった。

 

「……言うのを忘れてた」

「だろうな」

 

 クラピカは少しだけ笑った。

 

 また、少し沈黙が流れた。

 

 クラピカは何気ない調子で尋ねる。

 

「君は、いくつなんだ」

「十六だよ」

 

 クラピカの手が、ほんの少し止まった。

 

「私と一つしか違わないのか」

 

 アズリルは目を瞬かせる。

 

「十七? もっと上だと思ってた」

「そう見えるか?」

「うん。随分、落ち着いているから」

 

 クラピカは少しだけ困ったように微笑んだ。

 

 アズリルは鏡の中のクラピカをちらりと見る。

 年が近い相手と、こうして普通に話すことはあまりなかった。王宮では、同年代の者よりも、教師や侍従、年上の者に囲まれていることの方がずっと多かった。

 

 どうすれば、人と自然に親しくなれるのだろう。

 

 普通の人は、どうやって友人を作るのだろう。

 

 考えた末に、アズリルはくるりとクラピカの方を向いた。

 

 そして、自らの右手を真っ直ぐに差し出した。

 

 クラピカが目を瞬かせる。

 

「……何だ」

「握手」

 

 アズリルは少しだけ背筋を伸ばした。

 

「友人……になってくれると嬉しい」

 

 他にどう言えばいいのか分からなかった。

 だから、正直に言うことにした。

 

 クラピカは一瞬、呆然とした。

 

 それから、ふっと笑う。

 

「ずいぶん唐突だな」

 

 やはり、こういう時に言うことではなかったのだ。

 

 アズリルは焦って手を引っ込めようとした。

 けれど、その前にクラピカが差し出された手を取った。

 

「よろしく、アズリル」

 

 アズリルの表情が、ぱっと明るくなる。

 

 少し照れたような、けれど隠しきれないほど嬉しそうな、子どもじみた笑みだった。

 

 クラピカはその顔を見て、目元を和らげる。

 

 だが、すぐに何かに気づいたように視線を下げた。

 

「ところで」

「うん?」

「手は洗ったのか」

 

 アズリルは固まった。

 

「……あ」

 

 クラピカは、握った手を見下ろしたまま、静かに目を細めた。

 

 

 

 

 

 [newpage]

 

 アズリルはクラピカより先に手洗い場を出た。

 

 廊下へ戻ると、飛行船の窓から外の景色が見えた。

 

 雲の切れ間から、夜の空と地上の灯りが遠くに広がっている。

 自分は今、本当に知らない場所へ向かっている。

 

 アズリルはしばらく、窓の前で足を止めた。

 

 この一日だけで、一生分の経験をしているような気がした。

 

 ハンター試験に来てから、知らない場所を走り、いろんな人と出会った。

 

 二年の旅どころか、もしかするとハンター試験だけで十分なのではないか。

 

 そんなことを、ほんの一瞬だけ思いかけた時だった。

 

 胸の奥に、鋭い痛みが走った。

 

「……!!」

 

 鳩尾から胸門にかけて、何かが内側から激しく引き攣れるような感覚が響く。

 

 アズリルは驚いて、窓の縁に手をついた。

 

 息を吸う。

 痛い。

 

 もう一度、浅く息を吸う。

 

 けれど、痛みはすぐに引いていった。まるで最初から何もなかったかのように、胸の奥は静かになる。

 

「……何だったんだろう」

 

 アズリルは小さく呟いた。

 

 やはり、疲れているのかもしれない。

 

 そう思うことにして、ゆっくり体を起こした。

 

 その時、廊下の奥から妙な気配がした。

 

 殺気、というものをアズリルはよく知らない。

 少なくとも、それが何なのかを正しく感じ取れるほど、外の世界に慣れてはいなかった。

 

 ただ、空気が変わったのは分かった。

 

 冷たいものが、廊下の奥からこちらへ近づいてくる。

 

 顔を向けると、銀色の髪の少年が歩いてきていた。

 

 たしか、ゴンと一緒にいた少年だ。

 彼らの会話の中で、キルアと呼ばれていた気がする。

 

 キルアは上着を片手に持ち、上半身を少しだるそうに揺らしながら歩いていた。けれど、その顔はだるそうというより、どこか苛立っているようにも見える。口元には笑みに似たものが浮かんでいるのに、目だけが妙に冷たい。

 

 アズリルは窓際に手をついたまま、動かなかった。

 

 廊下はそれほど広くない。

 キルアは中央を歩いている。アズリルが壁際に寄らなければ、すれ違えそうになかった。

 

 けれど、アズリルはそれに気づくのが少し遅れた。

 

 キルアは目の前まで来て、ようやくそこに人がいることに気づいたように足を止める。

 

 二人の目が合った。

 

 怒っているような目だった。

 

 よく見ると、キルアが手にしている服には、血の跡のような暗い染みがついている。

 

 アズリルは思わず口を開いた。

 

「キルア……だっけ。大丈夫? 怪我したの?」

 

 キルアは答えなかった。

 

 ただ、じっとアズリルを睨む。

 

 それから面倒くさそうに視線を外し、横をすり抜けようとした。

 

 けれど、その横顔を間近で見た瞬間、アズリルの頭の中で何かが繋がった。

 

「あ!!!!」

 

 思わず声を上げた。

 

 キルアはびくっと肩を跳ねさせ、猫さながらの俊敏さで背後へ飛び退いた。

 

「なっ、なんなんだよ!」

 

 アズリルは少し申し訳なくなりながらも、思わず笑ってしまった。

 

「ごめん、ごめん」

「何笑ってんだよ」

「いや、急に思い出したから」

 

 アズリルはキルアの顔をまじまじと見る。

 

 そして確信した。

 

「君、イルミの弟でしょ?」

 

 キルアの顔から、すっと表情が抜けた。

 

「……は?」

 

 

 

 しばらくして、二人は廊下の窓際に並んで座っていた。

 

 キルアは片膝を立て、だるそうに頬杖をついている。さっきまでの鋭い空気は少し薄れていた。

 

「それで?」

 

 キルアは半眼でアズリルを見る。

 

「お前の兄貴が、俺の兄貴と知り合いっていうの?」

「うん。兄上が、たまにイルミに仕事を頼むことがあるみたいで」

 

 アズリルは少しだけ言葉を濁した。

 

 家の事情を、どこまで話していいのか分からなかったからだ。

 

 キルアはじっとアズリルを見る。

 

「ふーん。お前、どっかいいとこの坊ちゃんなんだ」

「……まあ」

 

 アズリルは曖昧に笑って誤魔化した。

 

 キルアはそれ以上追及しなかった。興味があるのかないのか、分からない顔をしている。

 

「でも、なんで俺がイルミの弟だって分かったんだよ」

「顔かな」

「顔?」

「うん。イルミ、兄上と話す時によく君の写真を持っていたから」

 

 キルアの眉がぴくりと動いた。

 

「写真?」

「うん。たぶん、お互いに弟の話をしていたんだと思う。兄上も僕のことをよく話していたみたいだし、イルミも君の写真を見せてた。弟自慢みたいなものじゃないかな」

 

 キルアは本気で嫌そうな顔をした。

 

「何それ。気色悪りぃ」

 

 そのあまりにも正直な反応に、アズリルは小さく笑った。

 

「そうかな」

「そうだろ」

 

 キルアは吐き捨てるように言ってから、窓の外へ目を向けた。

 

 それからしばらく、キルアはぽつぽつと話した。

 

 家を出てきたこと。

 ハンター試験を受けに来た理由。

 ゴンという少年のこと。

 今、そのゴンがネテロとボール遊びのような勝負をしていること。

 

 アズリルは相槌を打ちながら聞いていた。

 

 キルアの話し方は少し乱暴で、時々何を考えているのか分からない。けれど、不思議と嫌ではなかった。

 

 ただ、疲れは思ったより深かったらしい。

 

 キルアが何かを話している途中で、アズリルの瞼が少しずつ重くなっていく。

 

「それでさ、ゴンのやつが──」

 

 キルアの声が、少しずつ遠くなる。

 

 返事をしようとしたはずなのに、声になる前に眠気に沈んでいた。

 

 窓際に座ったまま、アズリルの頭がこくりと傾く。

 

 キルアはそこで、ふっと言葉を切った。

 

「……寝たのかよ」

 

 返事はない。

 

 キルアはしばらく呆れたようにその不用心すぎる横顔を見ていたが、起こすことはしなかった。

 

 窓の外では、飛行船が雲の上を静かに進んでいる。

 

 キルアは何も言わず、アズリルの隣に座ったまま、夜が明けるのを待った。

 

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