聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~ 作:kuratn
号外の鐘は、夜明けとともに鳴った。
「号外、号外ーっ! 『浄化』は聖女さまの命を削る受領だった! 官報に、四十年分の帳簿ーっ!」
鐘の余韻がまだ空に残っているうちに、刷り屋の小僧たちが路地を駆け抜けていく。朝の王都は、静かに沸騰した。パンを焼く匂いの中を、刷りたてのインクの匂いが走り抜けていく。井戸端で、市場で、鐘楼の下で、人々は同じ紙を囲み、同じ場所で黙り込んだ。歴代の聖女の名前と、膨らんでいく数字。読み方の分からない『受領量』の三文字を、誰もが自分の暮らしのどこかと引き比べて読んだらしい。花売りの台では、ネリちゃんのお母さんが号外を胸に当てたまま、長いこと動かなかったという。字の読めない人にも、あの紙の重さは伝わるのだ。
「……あたしらの厄を、あの子たちが呑んでたのかい?」
八百屋のおかみさんが、ぽつりと言った。祭りには、ならない。返品祭りの夜のような歓声は、どこからも上がらなかった。取り返した安堵ではなく、知ってしまった重さが、朝の市場に低く垂れ込めている。
店の前には、いつもの倍の人が並んだ。そして初めて、依頼ではない人たちが交ざった。
「聖女さまの店なんだろ。教えてくれ。……あの帳簿は、本当かい?」
「本物です。監査院の封印付きで」
「なら聞くがよ、返品屋さん」
列の途中から、革前掛けの鍛冶屋のご主人が一歩前に出た。火傷の痕の残る分厚い手が、帽子の縁を固く握っている。悪意のない、まっすぐな目である。こういう目が、いちばん重い。
「聖女さまってのが、あんなふうに瘴気を呑むお役目なら――やめさせてやりたいさ、俺だって。だがよ。やめたら次の瘴気は、誰が受けるんだい?」
朝の往来が、静かになった。
誰も彼を責めない。誰もが、同じことを考えていたからだ。私は口を開き――いつもの言葉が、出てこなかった。規定ですので、は使えない。検収不合格です、も違う。手帳の論点欄に、この問いに合う書式が、一つも見当たらないのである。
「……検討中です。期日は、切らせてください」
絞り出した答えは、それだけだった。ご主人は「そうかい」とだけ言って、帽子を軽く上げて帰っていく。宿題という荷物は、返品できない。私が、自分で受領してしまったからである。手帳の保留欄に、一行増やす。『瘴気の受け皿、代案』。書いてはみたものの、我ながら、途方もない品名だと思う。
◇
昼過ぎ、大聖堂の前で、ゲオルクが説法台に立ったという。
『この帳簿の慣習は、先代までの過ちなり。儂もまた、長くこれを憂い、心を痛めてきた。――我が代にて、必ずや正さん』
目撃した屋台のおじさん曰く、涙まで流していたそうだ。額に金の紋章を貼り付けたまま祈るその姿は、皮肉にも殉教者のように見えたという。広場の人垣の半分は白けた顔で、もう半分は、手を合わせていたらしい。荷運びの兄さんたちまで、「あの爺さんも苦労してたんだな」「騙されんな、判ひとつ押してねえんだぞ」と、樽を挟んで二派に割れていた。
……あの人は、切り札を切ったのだ。四十年の帳簿を「先代までの過ち」と呼んで、自分だけ、しれっと岸に上がった。判はどこにも押していないのだから、書類の上では、それが通ってしまう。
「往生際が悪いにも、ほどがあるよ!」
マルタさんが竈の灰を掻きながら吠え、おばあちゃんは長椅子で飴玉を転がしながら、のんびりと言った。
「あの手の狸はね、追い詰められた時ほど、いい顔をするもんさ。……ところでリカちゃんや。あたしの六十年、そろそろ返品できないかい?」
「加齢が神様との合意なき押し付けかどうか、検討します」
「おや。望みが出てきたね」
台所では、フードのお嬢さんが黙って型を抜いていた。焼きたての甘い匂いが、重たい話を少しずつ薄めていく。マルタさんは盆いっぱいの焼き菓子を、店先の列に配って回った。難しい話は腹が減る、というのが女将の持論である。
◇
夕方の鐘のあと、二度目の号外が来た。
「号外ーっ! 神殿、『新式の祈り』を発表! 聖女さまの御身を損なわぬ新しき御祈祷、当代聖女さまが宣誓し直すーっ! 『瘴気は待ってくれぬ』と大神官さまーっ!」
……手が早い。朝の問いに、「誰も傷つかない祈り」という答えを、制度のほうが先に出しに来たのだ。けれど、引っかかる。宣誓は済んでおる――あちらの言い分は、ずっとそれだったはずである。し直しが要るということは、元の宣誓に、し直しが要るだけの穴があるということだ。台所を振り向くと、型を抜くセラフィナ様の手が、止まっていた。彼女は何も言わず、私も、何も聞かない。ただ、次の一枚の型が、少しだけズレた。
閉店後の卓で、開示請求人に交付された写しの、最終頁をもう一度開く。アデーレの巻の、途切れた数字。その下に――罫線だけが、もう一行分、几帳面に引いてある。行灯の火が、その罫線の影を細く揺らしている。指先でなぞると、紙の冷たさだけが返事をした。四十年前から、次の誰かを書き込むための行が、ずっと空いたまま待っているのだ。
空欄の宛名ほど、嫌なものはない――。