聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~ 作:kuratn
父君の書状そのものなら、返品できる。
署名も封蝋も揃った、一方的な押し付けの立派な見本である。宣言ひとつで、あの緋色の封蝋ごと、侯爵家の文机へお返しできるだろう。……できるけれど、今回は、使わない。
紙を返しても、家は残る。親の期待というものは、書状になっていない部分が本体で、そちらには荷札の出しようがないのだ。それに、私が代わりに突き返せば、あの子は次に来る紙のときも、私を頼るしかなくなる。要るのは代返ではない。断る練習である。九年間の社会人生活でも、これだけは書式で肩代わりできなかった。
「あたし、お父様に逆らったこと、ないの」
閉店後の卓で、セラフィナ様は書状を膝に置いたまま言った。行灯の火が、俯いた横顔に揺れている。声が、猫かぶりの敬語にも下町言葉にもなりきらず、ただの十七の子の声をしていた。
「なら、初めてのやり方をお教えします。逆らうのではありません。――お断りするんです。書面で」
「手紙で断るなんて、卑怯じゃない?」
「卑怯ではなく、正式です。口は震えますが、字は推敲できます。感情ではなく、理由を書けます。それに――」
私は紙を三枚、卓に揃えた。
「書いたものは、残ります。なかったことに、されませんので」
偉そうに言いながら、白状すれば、断り方を、私は九年間知らなかった。頼まれた伝票は断れずに積み、頼まれた残業は断れずに受け、気づけば終電のホームで、まだ頷いている――そういう九年である。断り方は、席を立ってから、この世界で覚えたのである。だからこれは、先輩面の講釈ではない。元・断れない人からの、引き継ぎ書である。
断りの理由は三つあれば足りる。一、選定は本人五歳時になされ、同意が存在しないこと。二、宣誓は「ただの儀礼」との説明の下に行われた錯誤であること。三、本人には菓子職人という進路の希望があること。
「三つ目、書いていいの……?」
「三つ目が、いちばん大事です。断り状は、嫌ですと言うだけの書類ではありません。私はこちらへ行きます、という書類です」
セラフィナ様は、何度も書き損じた。丸めた紙が三つ、卓の隅に転がる。行灯の芯が一度鳴って、マルタさんが黙って白湯を換えていった。インクの染みた指で四枚目に向かい、今度は最後まで書き切る。署名の手は震えていたけれど、字は、震えていない。あの査問会の日の、指先は震えて声は震えなかった彼女と、同じである。震える場所を選べるのは、強さのうちだと思う。控えを二部。一部は本人、一部はうちの金庫、原本は侯爵家へ。
それから私は、全文を声に出して読み上げた。聖女の役目の返品に関する、委任の一切。行灯二つぶんの灯りの下、読み終えるまで、たっぷりかかった。それから、ペンを渡す。
「……読み上げて、くれるんだ」
「読み上げられなかった書類に、あなたは一度、署名させられていますので」
二度と、この子の署名を騙し取らせない。うちの店の署名は、全文承知の上でしていただく。それが、あの帳簿への、私なりの返答である。セラフィナ様は丁寧に自分の名前を書いた。書き終えて、ふう、と大人みたいな息をひとつ。
「長いね、書類仕事って」
「長い分だけ、逃げ道の少ない味方です」
◇
夜、レナート様が定例で来た。私は無効の申立ての束を卓に載せる。次記載者欄の写し。それから式次第――宣誓式の当日、記念にと本人へ渡されたものが、乳母の家に残っていた。宣誓の口上のどこにも、「浄化の受領」の文言はない。読み上げられなかった義務は、承知のしようがないのである。
読み比べているうちに、胸の棘が、すとんと抜けた。宣誓をし直させたい理由は、これだ。既存の宣誓では、あの子に「受領」を負わせられない。だから祈りを新しくしたことにして、書かせ直すのである。御身を損なわぬための新式ではない。損なう根拠を、揃えるための新式だ。
「宣誓の無効。相手は神事だぞ。王国の裁きは届かない」
「裁いていただかなくて、結構です。錯誤の証明さえ揃えば、あとは私の管轄ですので」
「……なるほど。返品か」
「規定ですので」
レナート様は書類を一枚ずつ検分し、頁の隅に赤で小さく『疎明、十分』と書いた。行灯の光の中で、白湯の湯気が二筋、静かに立っている。彼はめずらしく、自分から付け足した。
「三日後の儀、監査院も立ち会う。奉賛金の使途確認の名目だ。……名目は、俺が作った」
「定例外の残業ですね」
「……悪いか」
「いいえ。監査は、届く先へ行くものですので」
翌日、神殿から返答が来た。乳白色の封蝋である。曰く、再宣誓の儀は予定どおり執り行う。曰く、神事は王国の関知にあらず。曰く、聖女セラフィナの出頭を命ず。――断り状には、一行も触れていなかった。読まなかったのではない。読めなかったのだと思う。あの組織の書式には、「断られる」という欄が、最初から存在しないのである。
ならば。欄ごと、作らせるまでだ。
その晩、裏口の戸が控えめに鳴った。書記さんである。差し出された風呂敷包みの中身は、文書庫に納められたばかりの『新式祈祷』の式次第――の、写本。読める字も読めない字も書き写して食べてきた人の写しは、句読点ひとつまで正確である。私は旧式の式次第と二冊並べて、行灯をひとつ増やした。照合が済んだのは、夜半である。……なるほど。これは、検収のし甲斐がある。
三日後、大聖堂。香の匂いのあの広間に、また出頭である。前回は被告として。今度は――検収人として――。