聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~   作:kuratn

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32. 差出人が、揃いました

 聖女の座が空いて、王都は思ったより静かだった。

 

 静かなのは、安心したからではない。誰も彼も、東の空を見る回数が増えただけである。市場のおかみさんたちの世間話は、値段の話で始まり、「で、次は誰が受けるんだい」で必ず終わる。夕暮れの物干し場で、洗濯物を取り込む手が、ふと東へ向いて止まる。路地の子供らは「せいじょさまごっこ」の配役で揉めて、誰も聖女役をやりたがらない。あの帳簿の号外は、そういうところまで、ちゃんと届いてしまっている。私の手帳の保留欄、『瘴気の受け皿、代案』の行は、書いた日のまま、まだ白い。白い欄というものは、日を追うごとに重くなる。

 

 北の詰所の数字は、正直だった。魔石の消費が、月を追って増えている。詰所長さんの文には、几帳面な数字の列のあとに、一行だけ人間の字で『数ハ合ッテオリマス。合ッテイルノニ、足リマセン』とあった。結界は保っている。保ってはいるが、それは水位の上がる川の堤を、土嚢で高くし続けるのに似ていた。受け止める人がいなくなった分の理不尽は、消えてなくなりはしない。行き場をなくして、ただ、堤の外に積み上がっていく。

 

 当のセラフィナ様は、灯火亭の台所で、見習いの毎日である。朝は仕込み、昼は店番の手伝い、三時の鐘で味見、五時にはマルタさんの箒で客と一緒に掃き出される。手の甲に小さな火傷をこしらえて、それを妙に誇らしげに見せてくるのだ。勲章の数え方が、もう職人のそれである。あの子のこの毎日が続くかどうかも、たぶん、私の保留欄の埋め方ひとつに掛かっている。

 

 その夜は、五時を過ぎても客が来た。

 

 からん、と鈴が鳴って――音が、薄くなる。行灯の火が、すう、と細くなった。夜気と一緒に、遠い荒野の匂い。黒衣である。

 

「営業時間外です」

 

「知っている。……今夜は、依頼に来た」

 

 彼は卓の上に、官報の写しを置いた。四十年分の帳簿の写し。その中の一冊、アデーレの巻が、開いてある。

 

「差出人が、揃った」

 

 いつかの言葉の、続きである。私は白湯を二つ淹れて、卓に置いた。彼は座らない。立ったまま、開いた頁の一点を、指の背で、そっとなぞる。数字を確かめる指ではなかった。いつかの夜、レナート様が古い頁に触れた、あの触り方――墓碑に触れる指である。

 

「最後の行は、どうなっていた」

 

「……数字が、途中で途切れていました」

 

「そうか」

 

 行灯の芯が、ジジ、と鳴った。

 

「姉は、数字の途中で死んだか」

 

 沈黙が、店の中の音を全部吸っていく。竈の残り火だけが、遠慮がちに爆ぜた。何か言うべきだが、何を言っても軽い。私は結局、白湯の位置を、彼の手元へ半寸だけ寄せた。事務員の弔意は、その程度の形しか知らない。

 

「俺はヴェルン、という。四十年前にそこへ名を書かれた聖女――アデーレの、弟だ」

 

 彼は、ぽつりぽつりと語った。姉が「浄化」で使い潰されて死んだこと。遺された受領記録の写しを掲げて神殿を訴えようとしたこと。訴状は、受理すらされなかったこと――受付で、である。異端の名で追われ、北の荒野で、宛先のない理不尽の声を聞く体質になったこと。理不尽たちを束ねて壁とし、四十年、王国へ押し返し続けてきたこと。淡々とした、天気の話のような語り口だった。四十年かけて、そういう話し方しかできなくなったのだと思う。

 

「……北に、魔王は、いたのですか」

 

 一度だけ、訊いた。彼は首を横に振る。荒野にあったのは、玉座でも城でもない。宛先のない声の海が、あるだけだった。姉の代より、ずっと前からだという。人の世が返しそびれた理不尽は、受取人のいない北へ吹き溜まり、溜まった分だけ、出どころを探して人の世へ滲み戻る。教会は昔から、その灰色に『魔王』の荷札を貼ってきた。

 

「いなかったから――俺が、なった。偽の荷札の、宛先にな」

 

 背筋が、すっと冷えた。偽の差出人を書かれた荷物は、どこへも帰れない。帰れない荷物は、誰かが身体で受け取るしかない。その係の名前が――聖女である。思い出すのは、あの帳簿の摘要だ。『北ノ荒野ヨリ』。『宛先不明』。四十年前の見事な筆は、一度も『魔王ヨリ』とは書いていなかった。書いた側は、最初から知っていたのである。

 

「人はそれを、魔王と呼ぶらしい」

 

「……焼き菓子がお好きだったのは、お姉様ですね」

 

「よく買ってやった。安月給でな。……半分こにする人だった。あれは」

 

 魔王は、白湯には手をつけないまま、本題を口にした。

 

「あんたは帳簿を出させた。役目も宙に浮かせた。見事だ。四十年で初めて、紙で神殿に勝った人間だ。……だが、それで終わりじゃない。制度は、椅子さえ残れば、また誰かを座らせる。あの欄は、また埋まる。五つの子の手を握る爺は、次の五つを探すだけだ。だから、提案に来た」

 

 静かな声のまま、彼は言った。

 

「四十年間打ち返しそこなって北の大地に吹き溜まっているもの全てを一気に注げば、王都は保たん。王都ごと、この制度を終わらせる。それが、いちばん早い」

 

「早いのは、認めます」

 

「なら――」

 

「却下です」

 

 私は白湯を一口飲んでから、理由を申し上げた。

 

「王都が燃えると、書類も燃えます。書類が燃えると――四十年分の精算が、できませんので」

 

 魔王が、初めて、わずかに目を見開いた――。

 

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