聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~ 作:kuratn
祝いの翌朝、下町がまだ樽の名残でぼんやりしているうちに、私は監査院の門をくぐった。
市場筋はまだ眠たげで、荷車の音もまばらだった。角を曲がるとき、癖で東の空を見る。低い靄が今日は一段と低い。昨日より確実に近づいている。……大照合の、初日である。
通された書庫は、神殿のそれとは似ても似つかなかった。高窓は大きく、朝の光がまっすぐ床まで届く。書架には棚番号の札が振られ、索引の棚が生きていて、目当ての綴りが三手で出てくる。漂うのは古い紙と、インクと、蝋引き紐の匂い。光の柱の中を埃が静かに昇っていくのは神殿の書庫と同じなのに、ここの埃は、嘘の匂いがしない。……良い書庫である。九年目の目利きに、狂いはない。
閲覧机には、封印を解かれた例の七冊。両脇に、監査院の記録の山。官報の綴り、査問録、追徴の台帳、判決の写し。覚書のとおり、照合の主体は私、記録の支援は監査院である。若い筆生さんたちが遠巻きに、ひそひそやっていた。「あれが例の、返品屋?」……聖女様と呼ばれないあたり、さすがは官庁、呼称が正確で助かる。
七冊のうち、いちばん古い巻だけは、机の端にそっと別置きにした。アデーレの巻である。頁を繰る順番が来るまで、背表紙をこちらへ向けない。弟さんの念のこもった巻は、無造作に開いていい帳簿ではないのだ。
「手順を確認する」
レナート様の黒手袋が、帳簿の一行を押さえた。
「帳簿にあるのは、受領の日付と、量と、素っ気ない摘要だけだ。差出人の名は、どこにもない」
「はい。ですから、山を探します」
受領量が跳ね上がった月は、大きな理不尽がまとめて生まれた月である。その時期の監査院の記録を浚えば、誰が、どんな決裁で、誰に何を押し付けたか――差出人の名前は、こちら側の台帳に残っている。帳簿は日付の索引、監査院は名前の台帳。二冊を重ねて、初めて宛名が読めるのだ。
「差出人が割れても、まだ足りないだろう。返品には宛先――押し付けられた側の委任が要る。四十年前の宛先が、存命とは限らない」
「宛先が亡くなっても、理不尽は消えません。残されたご家族に、そのまま転送されています。転送先も、宛先です」
「……相続か」
「はい。負の遺産ほど、律儀に相続されますので」
昼過ぎ、閲覧室の空気が、ふっと薄くなった。
入口に、黒衣が立っている。筆生さんの小さな悲鳴。衛士が槍を構えかけ、レナート様が片手でそれを制した。魔王は、官庁にも来るらしい。
「閲覧証は?」
「ない」
「発行を申請します。……関係者ですので」
申請の様式の職業欄で、ペンが止まった。ご本人に伺うと、少し考えてから答えが返る。
「……弟、と書いておけ」
台帳の件名『魔王案件』の、依頼人様である。報酬の欄には『算定不能ニ付、上限適用』と書いてある。史上最大の案件が、規定の上限、金貨五枚。安いな、と依頼人様は言うけれど、うちは適正価格です。
ヴェルン様の職分は、荷札読みである。壁の中のどの筋が、いつの、誰の理不尽なのか。外からは誰にも分からないそれを、この人だけが聞き分けられる。
「荷札は、俺が読む。四十年、そればかり聞かされてきた声だ」
付き合いの長さがそのまま強みになるのは、どこの職場も同じらしい。
方針も立てた。新しい巻から、遡る。差出人の存命率が高い順――回収は、回収できる債権から。事務の鉄則である。行数を数え終えた筆生さんが、青い顔で報告に来た。摘要のある行、およそ一万一千。納期は、空模様。誰も口にしないが、皆、時おり東の窓を見る。
夕暮れの書庫で、レナート様が湯呑みを差し出してきた。白湯である。この人に白湯を出されたのは、初めてだ。謹厳な白磁の湯呑みは、持つと指先がじんわり温かい。この温度は、どこの職場でも同じである。
「長丁場だ。……倒れるなよ」
「定時は、守ります」
冬めいた夕方の書庫は、灯りの外がもう青い。頁をめくる音だけが、高い天井に規則正しく吸われていく。そして三日目の夕方――エリーゼの巻で、指が止まった。
十一年前の冬。受領量が、ひと月だけ倍に跳ねている。摘要『王都南ヨリ』。市政庁の綴りを引けば、同じ冬に『祝祭御用金 宿方割当 決裁・祭事局長グレル』。割当先の宿の名簿が、几帳面に添えてある。上から指でなぞって、その中程で、息が止まった。
灯火亭。
この宿の帳場の字を、私は毎晩、見ている――。