聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~   作:kuratn

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35. 断った人は、悪くありません

 その晩、宿の帳場を借りて、マルタさんに綴りを見せた。

 

 行灯がひとつ。竈の残り火が、時おり思い出したように爆ぜる。十一年前の冬。祝祭御用金、宿方割当、銀貨二百枚。決裁、祭事局長グレル。読み上げるうちに、マルタさんの顔から、いつもの熱気が消えていった。こんなに静かなマルタさんを、私は知らない。

 

「……ちょっと、待ってな」

 

 奥へ立って、古い文箱を抱えて戻ってくる。蓋を開けると、樟脳の匂いがした。色の変わった紙の束。督促状が三通と――同じ手の、断り状の控えが、三通。

 

「うちの人はね、判子を押さなかったんだよ。三度来て、三度、突っ返した。祭りの金を、なんで宿だけが持つんだって。……その冬に、倒れた」

 

 控えの字は、太くて、四角くて、生真面目だった。『払ワヌノデハナイ。払ウ謂レガナイ』。書いたものは、残る。十一年経っても、灰にならずに、こうして残る。毎晩見ている帳場の字と、同じ癖の払いである。

 

 ぽつり、ぽつりと、マルタさんは思い出を落としていく。客の膳は自分で運ぶ人だった。雨の日は決まって、扉の蝶番に油を差す。祭りが好きで、祭りの話になると誰より景気よく笑った――だから余計に、祭りの名前で宿だけを狙った紙が、赦せなかったのだという。

 

「督促だけは、あの人が死んでからもしばらく来てたんだ。宛名が消えて、ようやく来なくなった。……ねえ、リカちゃん。うちの人は、間違ってたのかい? あれを呑んでりゃ、もう少し長生きしたんじゃないかって……あたしは十一年、どこかで思っちまってたんだよ」

 

「間違っていません」

 

 即答できる質問は、即答する主義である。

 

「断った人は、悪くありません。断られた紙は、書いた側が引き取る。それが規定です。引き取らずに宙へ捨てたから、あの空の灰色になりました。悪いのは、断らせた紙のほうです」

 

 委任状の第一号は、マルタさんになった。うちの書式でいちばん大きい枠が、あの手には、それでも狭かったらしい。働き者の大きな手がペンを窮屈そうに握り、枠からはみ出す字で署名する。泣くもんかね、と言った人の判子は、少しだけ滲んで押された。

 

       ◇

 

 五時過ぎ、鈴が鳴って――音が、薄くなった。

 

「営業時間外です」

 

「知っている。配達だ」

 

 黒衣の腕に、灰色の小さな束が抱えられていた。紐で、十字に掛けてある。魔王の職種に、配達人が加わった瞬間である。卓に置かれたそれは煙のようで綿のようで、近づけた指先だけが、すっと冬になった。

 

「壁から、該当の一筋を抜いてきた。合っているか、確かめろ」

 

「どうやって、ですか?」

 

「聞かせる」

 

 ヴェルン様が結び目に指を置くと、行灯の火が、すう、と細くなる。低い、掠れた声が、どこからともなく響いた。

 

『――払ワヌノデハナイ。払ウ謂レガナイ』

 

 マルタさんが、両手で口を押さえた。

 

「うちの人だ。……うちの人の、言い草だよ」

 

「理不尽は、突き返された言葉を覚えている。壁の中は四十年、こういう声だらけだ」

 

「……あんた、ずっとそんな声を聞いてきたのかい?」

 

「慣れた」

 

「慣れるもんじゃないよ、そんなもの」

 

 マルタさんは何も言わずに立って、温めた雑炊を魔王の前に置いた。この宿の弔意と歓待は、いつも丼の形をしている。魔王は少し黙って、それから、匙を取った。

 

 検収、合格である。私は委任状と、断り状の控えと、綴りの写しを卓に揃え、静かに宣言した。

 

「灯火亭先代への祝祭御用金の割当、その支払義務と督促の一切。返り先は決裁者、元祭事局長グレル様。――これは、受け取りません」

 

 ぽん。

 

 灰色の束が、内側から朱に灯る。差戻印。荷札がひるがえり、光の粒が窓の隙間を抜けて、東ではなく市中へ飛んでいった。十一年遅れの、渡り鳥である。

 

       ◇

 

 翌朝、庭に鯉を飼う隠居所で、商会顧問グレル氏が朝餉の膳に着こうとしたところ、机に古い書式の紙が一枚、朱の印とともに載っていたという。同じ刻限に市政庁は十一年前の祝祭費の遡及査問を沙汰し、商会は昼までに顧問の看板を外した。私は何もしていない。書類がそうさせた。

 

 夕方、北の詰所から文が届く。『本日未明、靄、僅カニ後退。理由不明ナレド、数ハ合ッテオリマス』。物見の兄さんも、縁が一筋薄くなったと言っていた。

 

 マルタさんは店じまいのあと、箒を握ったまま、長いこと東の空を見ていた。

 

「あの灰色ん中に、うちの人の分が、あったんだねえ」

 

「もう、ありません。――送り主の机の上です」

 

 箒を握り直す音がして、それきり、その話は終わりになった。泣くもんかね、の人である。

 

「一件で、これだ」

 

 夜、レナート様が帳簿を睨んで言った。

 

「残り、およそ一万一千行。……人手は?」

 

「要ります。あてなら――」

 

 答えを取ったのは、帳場の雷声である。

 

「下町を、なめるんじゃないよ」

 

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