聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~ 作:kuratn
納期の朝の東門は、妙に静かだった。
明け方の空は、東の端だけが薄く赤い。外壁の内側に、荷車が七台。委任状、二千四百十七枚。疎明の綴りの箱が、番号順に並んでいる。監査院は総出、保管箱を抱えた筆生の列が続き、物見台には国王陛下と殿下の姿。下の広場は、夜明け前から詰めかけた下町で埋まっている。遠く大聖堂の鐘楼に、白と金の点がひとつ、じっと動かない。
外壁の上に立つと、風が瘴気の匂いをした。壁の向こうは、灰色の海である。四十年分の理不尽が、岸壁へ寄せる潮のように、石積みのすぐ下まで来ていた。音のない圧が、頬を撫でる。
「納期どおりだな」
壁の天辺で、ヴェルン様が言った。
「納品は、期日にする主義です」
段取りは決めてある。ヴェルン様が年ごとの束を解いて声を呼び、私が案件をまとめて宣言し、監査院が記録する。それだけである。史上最大の返品も、手順にすれば三行だ。三行にしておかないと、膝が震える、とも言う。
「第一号は、済んでいます。――第二号から、参ります」
息を吸う。朝の冷気が、肺の底まで染みた。灰色の海に向かって、台帳を読み上げる。
「十一年前の冬の分、百三十七件。委任状、揃っています。返り先は、各件の決裁者様。――まとめて、受け取りません」
ぽん。ぽんぽんぽんぽん。
朱の差戻印が、海の上へ次々と灯った。荷札がひるがえり、光の粒が群れをなして、朝焼けの空を横切っていく。渡り鳥の大群である。広場から、地鳴りのような歓声が上がった。
翌年の分、二百九件。その翌年、百八十四件。読み上げの声が涸れかけると、どこからか白湯が回ってくる。宣言の文言は、一言一句、変えない。変えないことが、この仕事の礼儀である気がしたのだ。
束が解かれるたび、声がする。取り立ての声、判決を読む声、断る声、泣く声。名を呼ばれた声から順に静かになり、朱に灯って、飛んでいく。灯らない札も、あった。差出人が、もうこの世にいない分である。監査院が、無言でそれを保留の箱へ移していく。箱は、思ったより早く重くなっていった。
一筋だけ、どうしても動かない声があった。三十年前の冤罪である。委任状はある。疎明もある。それでも灰色のまま、細かく震えている。書記さんが進み出て、綴りに残る名を、声に出して読んだ。被告人の名。その父の名。その娘の名。三つ目を読み終えたとき、声はようやく静まり、朱に灯って飛び立った。字で生きてきた人の、仕事である。
――その朝、王都のあちこちに、いろいろなものが着弾していた。
査問の控えの間では、並んで沙汰を待つヴォルツ、ラング、ヘルツの頭上へ、それぞれの決裁分が几帳面に降り積もり、係の官吏が黙って新しい台帳を三冊おろした。隠居した元判事の別邸には三十年前の判決文が舞い戻り、昼の官報が再審を報じる。私は何もしていない。書類が、そうさせたのである。
物見台では、陛下が呟いたそうだ。
「……これが、手順に載った善意か」
「父上。あれは、俺が発注した仕事です」
殿下の声は、最後の語尾まで、ちゃんと立っていたという。
昼を過ぎるころ――東の空は、青かった。
灰色の海は引き潮のように痩せ、壁の下に乾いた大地の色が戻ってくる。広場では誰かが笑い、誰かが泣き、セラフィナ様の焼き菓子が飛ぶように売れていく。マルタさんは箒を杖にして、ずっと空を見上げていた。十一年ぶんの、空の色である。広場の隅では子供たちが早速「へんぴんやごっこ」を始めて、配役の取り合いで揉めていた。聖女さまごっこと違って、全員がやりたがるのだ。……複雑な気分である。
最後の束を送り出したあと、ヴェルン様は長いこと、青の広がりを見ていた。それから、見積書の控えを出せと言う。
「……検収、合格だ。期日内の納品だった」
控えの隅に、二つ目の指の跡が付いた。うちの店のどの検収印より、重い。四十年待った人の検収は、一瞬だった。長く待った人ほど、検収は早いのかもしれない。
それから彼は、壁の北側へ目を落とした。
残っている。細く、暗い灰色が、北の低みに、地層のように。手前の壁際には、委任待ちの五百九十七件が、木札を提げたまま行儀よく仕分けてある。あちらは、宛先が名乗り出れば順に返せる分だ。問題は、その奥である。
「仕分けの分は、いずれ返る。……だが、奥の古株は別だ。差出人は、もう墓の下ばかり。どうする、返品屋?」
差出人死亡。時効。特定不能。委任も宛先も揃わない規定の壁が、最後にまとめて残った。晴れた空の隅で、晴れない灰色が、静かに次の書式を待っている――。