聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~ 作:kuratn
神様宛ての書類仕事は、初日から難物だった。
なにしろ、前例がない。監査院の様式集を第一巻から繰っても、「神」の宛名欄はどこにもないのである。敬称からして分からない。様か、殿か、陛下か。半刻悩んで、「様」にした。うちは商店である。お客様も設計者様も、様は様だ。
件名『召喚契約ノ検収、及ビ残余一式ノ返品』。要請の趣旨、根拠、疎明資料。夜ごと、店の卓が製図室になった。行灯を二つに増やしても、夜半には墨の匂いが煮詰まってくる。窓の外の下町は寝静まり、時おり夜回りの拍子木が遠くに鳴る。世界でいちばん大きな書類仕事が、世界でいちばん小さな店で進んでいた。
草案には、レナート様が赤を入れた。『御高配ヲ賜リ』の一句に、迷いのない二重線が引いてある。曰く、窓口は、へつらいより正確さを好む。……なぜ知っているのだろう。良い窓口を、この人はたくさん見てきたのだと思う。
「式次第の写本、書き写して参りました。……存外、素っ気ないのです」
書記さんが文書庫から写してきた巻物によれば、要るものは三つ。願いの立つ場所に正しく引かれた陣。宛先へ届く祝詞。そして、供物。供物の欄には『心尽くシノ品』とだけある。神様の書式は、案外、庶民的である。供物の選定会議では、マルタさんが樽を推し、おばあちゃんが飴玉を推し、決選の結果、焼き菓子に決まった。神様の食卓に飴玉が並ばずに済んで、私は心から安堵している。
「祝詞なら、あたし、誰にも負けないの。言ったでしょ?」
台所から出てきたセラフィナ様が、粉のついた手で胸を張る。祝詞の稽古は、翌朝から竈の前で始まった。パンの膨れる匂いの中を、澄んだ声がまっすぐ立ちのぼっていく。勝手口ではネリちゃんが、花を抱えたまま聴き入っていた。パンと祝詞の取り合わせは、たぶん建国以来初めてである。
殿下の発注書も届いた。『御出頭要請 支援一式』。国璽、副署、予算、納期。直しなし、二件目である。六度目の直しに耐えていた人の書式が、いまや監査院の若手の手本らしい。人は、育つ。
順調だったのは、そこまでで――。
三日目の朝、大聖堂の扉が閉まった。
『神域不可侵。冒涜ノ儀ヲ企ツル者、何人モ立チ入リヲ許サズ 大神官』
久しぶりに、判のある紙が出た。召喚の陣は大聖堂の広間にある。窓口を、膝元ごと閉じてしまう腹らしい。見上げた扉は樫と鉄で、こういう時ばかり、神の家はやけに堅牢である。レナート様は触れ書きを検分し、短く言った。
「神域は監査権の外だ。……ここを力ずくで開ければ、向こうの言い分が立つ」
「開けません。うちは、押し込みはしない主義ですので」
箒を担ぎかけていたマルタさんが、そっと箒を下ろす。触れ書きの前では、下町の野次馬が首をひねっていた。「冒涜だってさ」「呼びつけるんじゃないよ、お招きするんだろ?」――下町の解釈は、今日も強い。
行き詰まった晩である。写本を繰り直していた書記さんが、あっ、と小さな声を上げた。巻末の付記。古い、掠れた字である。読める字も読めない字も書き写して食べてきた目が、行灯の下で拾い上げた一行だった。
『陣ハ器ナリ。窓口ハ、願イノ正シク立ツ所ニ開ク』
「それに、これを。初代の召喚の記録です。場所は、大聖堂ではありません。――粉挽き小屋の、土間です」
一同が、顔を見合わせた。始まりの窓口は、石の広間ではなかったのだ。飢えた年の、粉の尽きた小屋の土間。誰かが本気で願った場所、そこに窓口は開く。大聖堂は、後から窓口を囲い込んだだけである。
「でしたら、話は早いです」
私は手帳を閉じて、宣言した。
「うちの店先で、承ります。受付なら、あります」
陣は書記さんが引き写す。会場は店の前の通り。マルタさんが場を仕切り、おばあちゃんが整理券。いつもの布陣で、宛先だけが史上最大だった。
◇
前夜、店じまいのあとに、鈴が鳴った。
白と金の法衣が、行灯の光の際に立っている。あの夜と、同じ立ち位置である。ただ、今夜は口上がなかった。老人は長いこと黙って、軒先の看板を見上げている。夜風が行灯の火を揺らし、彫りの深い顔の影を、揺れるままにしていた。額の円盤が、火の色を鈍く映している。あの夜と、同じ光り方である。
「……明日、あのお方が来ると、本気で思うてか?」
「参ります。呼び出しは、規定の書式で出しましたので」
「――来るぞ」
遮った声が、掠れていた。
「儂は知っておる。あの方は、正しく呼べば、必ず来られる。……四十年、正しく呼ばずにきたのは、人の側なのだ」
それだけ言って、老人は夜へ戻っていく。振り返らない背中が、初めて、年相応に見えた。白い息が肩越しに、二度、三度、闇に散る。
脅しに、来たのではないと思う。あれはたぶん――白状である。この街の誰より、あの方が来ることを疑っていない人の、四十年ぶんの白状である。
私は看板の縁を、布で一度だけ拭いた。明日の朝、この軒先が世界の窓口になる。……何度考えても、字面がすごい。考えるのはやめて、寝ることにする。
明日の天気は、晴れらしい。