聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~ 作:kuratn
当日の朝は、風のない晴れだった。
店の前の通りは、夜明け前から人で埋まった。夜通し場所取りをした組もあるらしく、石畳の際には毛布と欠伸が並んでいる。市場筋は店を閉め、屋台だけが景気よく湯気を上げている。物見高いのは下町の徳である。揚げ油の匂いと、緊張と、祭りの気配が、ひとつ鍋で煮えていた。人垣には知った顔が並ぶ。革前掛けの鍛冶屋のご主人、干し肉の包みを提げた詰所長さん、花を配って歩くネリちゃんとミラさん。三歩下がる係のあの使いの神官さんまで、今日は私用らしく、人垣の後ろで背伸びをしていた。
陛下と殿下には灯火亭の二階に席が設えられ、監査院は記録の卓を並べ、衛士の列が人垣を優しく押し返している。二階の窓辺で、陛下は眼下の下町をじっと見下ろしていた。王宮のどの窓より、
石畳には、陣。書記さんが三晩かけて引き写した図形が、白い線で静かに横たわっている。歪みのない、美しい写しだった。引き終えた本人の指は、三晩ぶんの白墨で白い。中心の小卓には、供物。うちの心尽くしは、焼きたての焼き菓子である。皿の上で、まだ湯気が動いていた。
ヴェルン様の荷車が、最後に着いた。灰色の束、四百三十三件。それと、北の古層から抜き出した、年輪のように固い塊がひとつ。荷が降りるたび、通りの空気が指先から冷えていく。朝の冷え込みとは別筋の、骨に覚えのある冷たさである。
「配達完了だ。……検収は、届け先にさせろ」
「そのつもりです」
鞄には手帳、朱肉、控えの紙。いつもの戦支度である。史上最大の案件の朝も、支度は変わらない。変わらないことが、今朝はいちばんの味方だった。
定刻、鐘が九つ。開店の時間である。
セラフィナ様が陣の際に立ち、息を整えた。白い普段着に、前掛け。聖衣は着ない。あの子が、そう決めた。胸元には白い花が一輪。マルタさんが、その背中を一度だけ、パンっと大きな手のひらで叩く。
祝詞が、通りの上へ立ちのぼっていく。
儀式のたびにこの子を三日寝込ませてきた声が、今日は誰の命も削らずに、ただ高く、澄んで伸びた。人垣は水を打ったように静まり、屋台の湯気だけが、声と連れ立って朝の空へ昇っていく。
祝詞が終わる。私は一歩進み出て、要請書を読み上げた。
「一。差出人死亡・時効・特定不能により、通常の返品がかなわない理不尽、四百三十三件、ならびに北の古層一式。差し戻す先のない荷物に付き、書式の発行元に引き取りを求めます。二。召喚契約の書式一式につき、検収を求めます。三。本要請は脅迫ではなく、手続きです。――差出人のいない荷物は、設計者へ。規定ですので」
風が、止まった。
いや――揃った、と言うほうが近い。通りじゅうの音が、ひとつの静けさに折りたたまれていく。屋台の油の歌も、赤ん坊のぐずり声も、消えたのではない。姿勢を、正したのだ。陣の白線が、朝日とは別の白さで光り始めた。眩しくは、ない。ただ、深い。
光の中に、小さな影が立ち上がる。
玉座でも、翼でもなかった。現れたのは――簡素な、受付台である。飴色の木の、よく磨かれた小さな窓口。長年、良い手入れを受けてきた家具の色だった。その向こうに、輪郭だけの人影がひとつ、静かに立っている。顔は、見えない。見えないのに、目を伏せたくなる。通りのあちこちで、人々が膝を折る音がした。香も鐘もないのに、通りいちめん、朝の光が水底のように澄んでいる。
チーン、と呼び鈴が鳴った。向こうから、である。
「――お呼び出しにより、出頭いたしました。当書式群の、設計者でございます」
声は、老いても若くもなく、男でも女でもなかった。強いて言えば、長く窓口に立ってきた人の声である。丁寧で、平らで、それなのに、くたびれていない。大聖堂の説教壇から降ってくる声とは、似ても似つかない。それなのに、腕の産毛が立った。
膝を折った人垣の間から、おばあちゃんが、するすると進み出た。臆面というものを、六十年前にどこかへ置いてきた人である。皺だらけの手が、木札を差し出す。
「はい、一番札。順番だからね」
どよめきが広がった――――。
神様にも順番を求める。それは常軌を逸しているように見えてみんな固唾を飲んで見守った。
「……頂戴いたします」
なんと神様が、整理券をお受け取りになった。
うちの受付は、今日も規定どおりである。人垣のどこかで、詰めていた息が、ぷっ、と小さく噴き出す。ありがたい。あれで、通りの肩から力がすこし抜けた。三歩下がる係の神官さんが、人垣の後ろで深々と手を合わせている。気持ちは、分かる。
窓口の人影が、こちらへ向き直る。見えないはずの目が、まっすぐ私を見た、と分かった。
「一番札の、お客様。それでは始めさせてください」