聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~ 作:kuratn
元の世界へ。
その一言に、通りの空気がぐらりと揺れた。マルタさんが何か言いかけて……自分で呑み込む。セラフィナ様の指が、私の袖を掴んだ。小さい頃、そうやって乳母の袖を掴んで生きてきた指の力である。私は手帳を開いて、いつもの欄をお見せした。
「その手続きは、保留欄へお願いします。期限を切っていただければ、期限内にお返事します」
「……承りました。次の満月まで、と記載いたします。原状回復は、お客様の申し出により実行。それまで、白紙化に伴う諸権利は凍結のまま保全いたします」
神様の窓口は、保留を知っていた。話の通じる窓口である。袖の指が、少しだけ緩む。緩んだだけで、離れはしなかった。
「では、先に片付くお手続きから。――残余一式の、お引き取りを」
「承りました」
チーン、と呼び鈴が鳴った。
通りに積まれた灰色の束が、いっせいに、内側から光をこぼし始める。朱ではない。白い、朝の色である。四百三十三件が木札を残して立ちのぼり、北の古層の塊が、年輪をほどくようにゆっくりと解けていく。北の空へ目をやれば、地平に残っていた最後の灰色の芯が、根元から浮き上がるところだった。
昇っていく。四十年分が、まとめて。
声が、聞こえた気がした。取り立てる声、断る声、泣く声――それが順々に静かになって、最後は、名前を呼ばれた子供が返事をするような、短い音になる。人垣の中で、ミラさんが花束を胸に抱きしめていた。詰所長さんは帽子を脱ぎ、鍛冶屋のご主人は空を見上げたまま動かない。誰の胸にも、あの灰色に混ざった覚えが、ひとつずつあるのだ。ヴェルン様は荷車の脇で、口を結んでいた。四十年聞き続けた人の耳に、この静けさがどう響いているのか、私には測りようもない。渡り鳥、という囁きは、今日は誰の口からも出なかった。あれは、返す時の呼び名である。今日のこれは、たぶん――迎えなのだ。
壁際の五百九十七件は、残る。あちらは宛先側の委任がまだ届いていない、人間の側で照合を続ける分である。受付は、締め切らない。木札の一枚一枚には、書記さんの字で番号が振ってある。宛先が名乗り出るまで、番号は消えない。忘れない、という仕事は、こういう地味な形をしているのである。
「――続いて、白紙化に伴う差し戻しを執行いたします」
窓口の声は、変わらず平らだった。
「本契約に付随して発生した押し付けの一切は、規定により、決裁印の主へ帰属いたします」
光の紙の上に、荷札が浮かんだ。宛名が、見える。私にだけではない。今日はたぶん、通りの全員に見えている。
人垣のいちばん後ろで、白と金の法衣が、静かに進み出た。
誰も道を空けろと言わないのに、道が空く。老人は陣の際まで歩き、膝を突き、額を石畳に付けた。四十年、誰にもしなかった形だと思う。法衣の裾が石畳に広がって、白と金が、朝の光の下でただの布に見えた。
「……儂が、決裁いたしました。召喚も。聖別も。――あの子らの勤めの、すべても」
振り絞る声ではない。読み上げる声だった。この口上を、あの人はたぶん、何十年も胸の抽斗に仕舞っていたのである。
「存じております」
神様の声は、責めなかった。責めない声ほど、重いものはない。
「あなたの祈りは、届いておりました。対価を求めぬ奉仕を、と。……ですが、それを他人に課すこととは、書式のどこにも書いてございません」
ぽん。
朱の粒が、雪のように老人の背へ降り積もっていく。処罰では、ない。ただの差し戻しである。あとは神殿法と世間の目が執行する。それが、この世界の規定だ。
降り終わったとき、こん、と乾いた小さな音がした。金の円盤が額から剥がれ、石畳を転がる。静まり返った通りに、その軽い音だけが、ころ、ころ、とよく響いた。円盤は二度はねて、光の粒になって、窓口へ還っていく。任命そのものが、白紙に戻ったのである。あとの額には、うっすらと丸い痕だけが残った。押し付けの痕というものは、返したあとも、しばらく消えないものらしい。
老人は、何も貼られていない額を石畳に付けたまま、長いこと動かなかった。唇だけが動いている。位も、制度も、円盤も、もうない。生涯で初めての――ただの祈りだった。
「――本日のお手続きは、以上でございます。書式は、改訂いたします。断る欄を、設けます」
チーン。
呼び鈴の音を最後に、受付台は朝の光へ解けていった。あとには白線の陣と、木札の山と、供物の皿だけが残る。……焼き菓子が、一枚だけ減っていた。あちらの検収も、合格らしい。
空を見上げた。東も北も、継ぎ目のない青である。この街の人たちは、四十年ぶりに、切れ目のない空の下にいる。歓声は、すぐには上がらなかった。皆、しばらく黙って空を見ている。やがて人垣の裾で、子供がひとり、意味もなく笑う。それが合図だった。通りが、ゆっくりと、朝市の音を取り戻していく。
隣で、ヴェルン様がぽつりと言った。
「……終わったな」
「終わりました。納品書の控え、お渡しします」
「あとで読む。その前に――付き合え、返品屋。姉に、報告がある」