聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~ 作:kuratn
満月までの残りの日々、私は誰にも相談しなかった。
相談すれば、誰かの顔が理由になる。帰るにせよ、残るにせよ、それでは貸し借りが残ってしまう。この決裁だけは、私一人の判子で押したかった。
店は、いつもどおりに開けた。依頼を受け、荷札を読み、返品し、五時に閉める。おばあちゃんは何かを察しているらしく、いつもより飴玉を多めに寄越した。セラフィナ様は台所で、焼き菓子をいつになく焦がしている。何かを察する人が、この店には多すぎる。レナート様は定例に来て、白湯を飲み、何も聞かずに帰っていく。聞かないでいてくれることが、どれほどの技術か、私は知っている。
元の世界のことは、毎晩、順番に思い出した。終電のホームの、白い光。発車の合図、閉まる扉。あの箱を、私は九年、机の上の伝票越しに見送り続けてしまった。机の抽斗には、誰にも出せなかった退職届が、まだ入っているはずである。……原状回復とは、あの夜の続きに戻ることだ。戻って、あの私は、今度は断れるだろうか。
――断れる。もう、断り方を知っているからだ。
教わったのは、あちらの九年ではない。こちらへ来てからの、一年にも満たない月日である。
満月の前の晩、マルタさんが、湯気の立つ雑炊を黙って卓に置いた。この世界で最初に食べた、あの味である。マルタさんは、何も聞かない。ただ置いて、戻り際に一言だけ言った。
「あんたの箸は、うちの棚に置いてあるからね。……いつまでも、置いとくよ」
雑炊は、湯気の分だけ、しょっぱい味がした。
◇
満月の晩、店じまいのあとの店先で、チーン、と呼び鈴が鳴った。
軒先の行灯の隣に、あの飴色の受付台が、小さく開いている。月が高く、市場筋は寝静まって、世界に窓口と私だけである。
「期限の日でございます。――お返事を、承ります」
私は受付台の前に立つと大きく息をついた――――。
「原状回復は、辞退します」
言ってしまえば、三秒だった。三日三晩悩んで、三秒である。決裁とは、そういうものだ。
「今の暮らしが、気に入っていますので。……ただし、条件があります。新しい契約は、対等の書式で」
「拝見いたします」
私は、書き上げてあった契約書を窓口に載せた。第一条、本契約は双方いつでも解約できる。第二条、特典【返品】は業務用として引き続き使用する。対価は、召喚に伴う諸々の迷惑料と相殺。第三条、当方の営業時間は朝九時から夕五時。天地創造のご依頼も、時間外は承らない。
見えない指が、条項を辿っていく。第三条のあたりで、わずかに止まった気がした。
「……この『相殺』の査定は、当方に不利でございますね」
「はい。ですが、妥当です。押し付けの利息は、高いんです」
「利子……ですか、ふむ――」
神様は一瞬輪郭を揺らし――。
「承りました。締結いたします」
と、淡々と返した。
光の判が、契約書の隅に、ぽん、と押された。うちの朱肉より、少し温かい色である。控えが一部、手元に残る。世界と交わした、対等な取引の控えである。
「良いお取引を、お客様」
チーン。受付台は月の光へ解けて、あとには軒先の看板だけが残った。
◇
翌朝、開店前の店に、レナート様が来た。
定例でもないのに、である。
「え? 今日はどういった御用で?」
レナート様はニコッと微笑むと、卓に書面を一枚すっと置いた。
私は反射的に、ある書式を思い浮かべ――違った。
『共同人生経営契約書(案)』
「じ、人生……?」
何度かレナート様の顔と契約書の間を視線が往復してしまう。
レナート様はにこやかに微笑むばかり。
彼らしい踏み込み方だと感心してしまった。
私はコホンと咳ばらいをすると、条項を検分する。出資、監査体制、それから、妙に細かい附則。第七条、白湯ハ無償トス。第八条、定時ハ厳守トス。第九条、双方、貸シ借リヲ帳簿ノ外ニ作ラヌコト。
「……第九条は、難しい条項ですね」
「知っている。……九条だけは、生涯かけて履行する条項だ」
この人は今日も、台帳の言葉で口説いてくる。効くから、たちが悪い。私は赤ペンを取り、直しを三か所だけ入れた。第七条、白湯ハ銅貨三枚トス――貸し借りは作らない主義なので。第八条に但し書き――但シ、破ル値打チノアル残業ハ、コノ限リデナイ。それから、発効日の欄は空欄のまま、線で囲っておく。
「発効日が、空欄だが?」
「押印の日に、埋めますので」
書面を彼の胸元へ、すっと返す。
「押印はしてくれるんだな?」
「ふふっ。検討事項の一番上に載せておきます」
つい勝ち誇ったような笑みが浮かんでしまう。
「……検討期間は?」
「無期限です。――お急ぎのご用でしたら、営業時間後に特別にヒアリングの時間を取りますが?」
「悪くない」
監査卿様は返された書面を検分し、赤の三か所を長いこと眺めて、それから、私の知る限りいちばん人間らしい顔で笑った。
「妥当だ。……妥当以上の言葉を、探しておく」
探し終えた日が、発効日になるの予感がする。ならば私も、台帳の借方で『検討中』のまま眠っている、あの行を埋める言葉を探さねばならない――もらった焼き菓子の仕訳を。期限は、無期限。急ぐ理由は、ひとつもない。
でも――――少しだけ、急ぎたい気もしている。
◇
九時の鐘が鳴る。看板を表に返す。『返品 承ります(朝九時〜夕五時/昼休憩あり)』。
おばあちゃんが長椅子で飴玉を鳴らし、台所から焼き菓子の匂いが流れ、勝手口には今朝も白い花が一輪。マルタさんが戸口から首を出して、「リカちゃん、今夜は新しい樽が入るよ」と言う。理由は、たぶん何でもいいのである。街の空は、端から端まで青い。
一番札のお客さんが、恐る恐る戸を開けた。
「あんたが、噂の……聖女さま、かい?」
「いいえ」
私は帳面を開き、九年目の朝と同じ顔で、答える。
「――返品屋です。ご依頼を、どうぞ」
開いた戸から、朝の光と市場のざわめきが流れ込んでくる。今日もどこかで、理不尽は生まれるだろう。生まれたら――返すだけである。
本日も、定時で上がります。
了
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
リカがつかんだ幸せが上手く成就して欲しいですね。
さて、次回作もスタートしています。
ぜひ、こちらもお楽しみください。
心にしみるハートフルコメディ、自信作です。
https://syosetu.org/novel/419393/
五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~
「君は妻として、十分に働いてくれた。――もう、好きにしていい」
結婚三十七年目の記念日に離縁された侯爵夫人エレオノール、五十四歳。
慰謝料は辞退。持って出たのは、旅着と、古い文箱がひとつ。
中身は三十七枚の紙片。婚礼前夜に一枚、あとは毎年の結婚記念日の夜に一枚ずつ――
叶えたいことを先延ばしにするたび書きためた「いつか」である。
夜祭で、朝まで踊る。
湖で泳ぐ。
誰もわたしの名を知らない宿で眠る。
――朝寝坊。
「お母様、こんなことも、できませんでしたの?」
「できなかったのよ。不思議ね」
呆れる娘に、母は荷造りの手を止めない。
「五十四歳で?」
「五十四歳だから、急ぐのよ」
道連れは、同い年の堅物な元近衛隊長。
寡黙で、律儀で、なぜか紙片を一枚使うたび、次の旅支度まで整えている。
膝は鳴る。老眼も進む。だから何だと言うのです?
一枚燃やすたび、置いてきた屋敷は勝手に軋み、世間の評判は勝手に逆転していく。
残る一枚だけは、箱の底に裏返し。
その表には、十七歳の字で――『もう一度、恋をする』。