ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
1話
嘔吐の味と、張り詰めたアドレナリンの匂い。それが、私の幼少期のすべてだった。
1分1秒単位で管理されたカリキュラム。高度な学問の詰め込みと、限界を超える格闘技術の叩き込み。
天才を人工的に作り出すというその施設において、私は人間ではなく、ただの『実験体』だった。
周囲の化け物たちは、出された課題を涼しい顔でクリアしていく。
特に、あの男──。ただ冷徹な目をした彼の背中は、どれだけ手を伸ばしても霞んで見えなかった。
ついていけない。置いていかれる。
焦燥が肉体を蝕み、ある日、私の脳はエラーを起こしてシャットダウンした。
背中に浴びせられた教官の冷ややかな一言を、今でも夢に見る。
『──使えないな。やはりこのレベルの素材では、これが限界か』
「あ……っ」
自分の荒い呼吸の音で、意識が現実へと引き戻される。
掴み損ねたカバン。汗で張り付いた前髪。窓の外を流れるのは、白い壁ではなく、春の穏やかな街並みだった。
「……ふっ、ふぅ」
浅い呼吸を繰り返し、私は自分が今、高度育成高等学校へと向かう路線バスの中にいることを思い出す。もうあの部屋にはいない。私は外に出られたのだ。
膝の上の教科書、真新しい制服の感触を確かめ、震える指先でじっとりと滲んだ額の汗を拭った。
──大丈夫。今の私はただの、どこにでもいる平凡な新入生。
そう自分に言い聞かせ、深く息を吐き出した時だった。
窓の外の景色がゆっくりと流れ、私の手元にある学生証が視界に入る。
そこに印字された文字は、『露草 千歳(つゆくさ ちとせ)』。
「露草」という苗字には、何の愛着もない。6歳で施設を放り出された私に、外の世界で生きるための『籍』として大人が事務的にあてがった、ただの記号だ。
だけど。
「千歳」──この名前だけは、私の唯一の拠り所であり、どうしようもないほど気に入っている。私を捨てた親が、唯一残してくれた名前だから。
そして何より、あの冷たい白い部屋で過ごした日々の中で、これが唯一の『安らぐ記憶』と結びついているからだ。
『───、千歳』
遠いあの日、すれ違いざまに、一人の男の子が私の名前を呼んだ。
前後に何を話したのか、どんな会話を交わしたのかはもう憶えていない。彼にその名を呼ばれたこと──それだけが、私の心に灯った最初で最後の温もりだった。
けれど、今の私はもう中身のない抜け殻だ。だからこそ、外界から遮断されたこの高度育成高等学校へ行く。
(ここでなら、誰の目にも留まらず、ただの劣等生として静かに息をしていられるかもしれない)
胸の奥で祈るようにそう唱え、学生証をポケットに仕舞い込もうとした、その時だった。
ドアが開き、乗り込んできた一人の老婦人によって、それまで緩やかだった車内の空気が一変する。
優先席の前に立ったその老人の存在は、満員の車内に目に見えない、だけど確実に不快な波紋を広げていった。誰もがスマホに目を落とし、あるいは寝たフリをして、押し付けられた『義務』から逃れようと視線を彷徨わせる。
前の席では、いかにも育ちの良さそうな大柄な男が、老人に席を譲るのを平然と拒絶していた。
同じ制服に身を包んだギャルたちがヒソヒソと非難の声を上げているが、男は前髪を弄りながら不敵に笑っているだけだ。普通の人間なら、あの状況には耐えられない。だけどあの男の重心は、呼吸は、1ミリも乱れていない。……化け物だ。あの白い部屋にいた連中とはベクトルの違う、圧倒的な強者のオーラ。関わってはいけない、と本能が告げていた。
「あの、──」
次に声を上げたのは、天使のように愛らしい少女だった。周囲を巻き込み、味方を作り、正論で空間を支配していく。
綺麗事の裏にある、ゾッとするほどの計算高さ。……あれも擬態だ。私と同じ、この一般社会という戦場で生き残るための、完璧な武装。
誰も彼もが、私の知らない『武器』を持って戦っている。
かばんを握る指先が、じっとりと汗ばむ。やっぱり私はダメな奴だ。こんな高度な心理戦が飛び交う社会に、私はついていけるのだろうか。
男の傲慢な拒絶と、あの少女の放った正論。
その板挟みになった車内の空気は、見るに堪えないものだった。
周囲のものたちは、関わり合いを恐れて露骨に見て見ぬふりをする。あるいは、正義感と気まずさの間で居心地悪そうに身をすくめるものたち。誰もが周囲の視線、同調圧力に縛られ、車内は綺麗に二極化していた。
──だが、そのどちらの引力にも、1ミリも引っ張られていない少女がいた。
窓からの春の光を反射して、静かに揺れる、長く綺麗な黒髪の少女。
彼女は乗客たちの間に流れる重苦しい空気など存在しないかのように、無表情のまま前を見据えている。無視を決め込むものたちの「後ろめたさ」も、迷うものたちの「同調」もない。完全なる無関心。
周囲の目を恐れ、怯えて擬態している私からすれば、その姿は異様とも言えるほどの、完成された『孤高』だった。
(すごいな……。周りにどう思われるか、怖くないんだ──)
私が息を潜めてその横顔を見つめていた、まさにその時だった。
彼女の隣──通路側の席で完全に気配を消していたはずの、ある少年の首がわずかに動いた。
私の心臓がどくん、と嫌な跳ね方をする。
少し赤みがかった茶髪。パッとしない横顔。どこにでもいる、冴えない男子生徒の姿。
なのに──どうしてだろう。
彼の姿が視界に入った瞬間、全身の毛穴が総毛立ち、喉の奥にあの『嘔吐の味』がせり上がってきた。
名前も、顔も、はっきりとは思い出せない。白い部屋の記憶は、あの過酷な調教のせいでモザイクがかかったように霞んでいる。
だけど、私の肉体が、本能が、彼から放たれる『気配』に狂気的な警報(アラーム)を鳴らしている。
あの部屋の誰もが追いつけなかった、どれだけ手を伸ばしても霞んで見えなかった、あの絶対的な背中──。
少年は、周囲の乗客たちの「凡庸な二極化」には目もくれず、ただ隣に座る黒髪の少女の『異様さ』だけをじっと見つめていた。死んだようだった彼の瞳に、冷徹な観察の光が宿る。
視線に気づいた黒髪の少女が、冷ややかに彼を見返す。
ほんの一瞬、二人の視線が交錯した。
──心臓が、冷たい手で直接掴まれたように縮み上がる。
少女は何も知らない。彼と目が合ったことが、どれほど恐ろしいことか。
理由はわからない。けれど、あの少年の視界に入った瞬間、その人間のすべてが解剖され、盤上に乗せられてしまうような、圧倒的な絶対強者の気配。
(だめ、見ちゃだめ……! 巻き込まれる。あの男の視界に入ったら、私の擬態なんて一瞬で剥ぎ取られる──)
私は慌てて視線を逸らし、膝の上のかばんの取っ手を血がにじむほど強く握りしめた。
乗客たちの身勝手な沈黙と、二人の静かな視線が交わる空間で、私はただ縮こまって嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
バスを降り、敷地に一歩足を踏み入れた瞬間から、私はただの「無害な石」になろうと決めていた。
全面ガラス張りの近代的な校舎。春の陽気に浮き足立つ、全国から集まった優秀な生徒たち。私は周囲の生徒たちの様子を盗み見るように観察していた。退屈そうにあくびをする男子、早くも友達を作って笑い合う女子。
彼らの無防備さが、私には信じられなかった。
(──普通。これが、一般社会の『普通』の高校生)
私は胸の内でそう何度も唱え、周囲のトーンに合わせるように、少しだけ気まずそうに、だけど退屈そうに首を傾げる練習をした。目立ってはいけない。誰の記憶にも残らない、背景のグラフィックの一部にならなければ。
しかし、張り出されたクラス名簿を見た瞬間、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。
『1年Dクラス』
ただのアルファベットのクラス分けのはずだ。
だけど、この学校にはAからDまでの4クラスしか存在しない。つまり、私の配属されたDクラスというのは、文字通り『末尾』ということになる。
脱落者である私にとっては、その末尾の文字に、自分の落ちこぼれ具合がどうしても重なって見えてしまう。後ろ暗い気持ちを誤魔化すように小さく息を吐き、私は指定された自分の座席へと向かった。
私が何より絶望したのは、教室に入り、その席を確認した時だった。
窓際の列、後ろから2番目。
正式には、私のすぐ前の席──。
机に肘をつき、死んだような目で窓の外を眺めている茶髪の少年。バスの中で、私の全細胞に狂気的な警報(アラーム)を鳴らした、あの絶対強者の気配を持つ少年が、すぐ目の前に座っていた。
逃げ場のない最後列。私は彼の背中を、常に視界に入れ続けなければならない。
ガタガタと震えそうになる膝を必死に押さえ、私はただの消極的な女子高生として、静かに席についた。
やがて教壇に立った担任の茶柱佐枝先生から、毎月10万ポイント──10万円相当の電子マネーが支給されることが告げられると、教室内は一気にお祭り騒ぎになった。
「すげえ!」「マジで何でも買っていいのか!?」と色めき立つクラスメイトたち。
普通なら、こんな美味い話があるはずがない。間違いなく、何か裏がある『餌』だ。
だけど、私は声を大にして注意を促すこともしなければ、周囲のように大喜びすることもしない。ただ、机に身を伏せるようにして、周囲の狂騒から徹底的に気配を消した。ここで一人だけ冷静に罠を疑えば、それこそ余計に目立ってしまう。石になるんだ。私は、何も知らない無害な一般人。
「皆、少し話を聞いて貰ってもいいかな」
クラスの空気を掌握するように立ち上がったのは、平田洋介という、いかにも爽やかな少年だった。どうやら入学式までの時間、皆で自己紹介をしておこうという。続いて、軽井沢恵といういかにもギャルといった少女が笑顔で賛同し、クラスの「普通」の空気が出来上がっていく。
「じゃあ、端の席から順番にお願いできるかな?」
平田の提案通り、自己紹介のカウントダウンが始まった。
池という男子、山内という男子、それぞれお調子者らしい自己紹介を終え、次にあのバスで老人に席を譲るよう頼んでいた天使のようにかわいらしかった女の子の櫛田が自己紹介を終える。
教室の反対側では、豪奢な金髪をかき上げながら手鏡を見つめる男が異彩を放っていた。彼は先ほどのバスに乗っていた男で名前を高円寺六助という。自己紹介を聞き、そのナルシストな道化の皮の下に、白い部屋の最上位ランカーすら凌駕しかねない圧倒的な野生の骨格と筋肉が隠されているのを、私の目は誤魔化せなかった。
その後、順番は確実に私へと迫ってくる。心臓の音が、耳の奥でうるさいほどに脈打ち始めた。
そして、ついに。
私のすぐ前の席の少年が、気怠げに腰を上げた。
「えー……っと、綾小路清隆です。その、えー……これと言って特技はありませんが、皆と仲良くなれるように頑張りますので、……よろしくお願いします」
『清隆』。
その名が少年の口から零れ落ちた瞬間、私の脳内で、霞んでいた白い部屋の記憶が鮮烈に弾けた。
(ああ、やっぱり──)
顔も、はっきりとした姿も、あの過酷な調教のせいでモザイクがかかったように思い出せなかった。
だけど、名前だけは知っている。あの地獄のような部屋で、どれだけ手を伸ばしても、その背中さえ霞んで見えなかったあの男。
猛烈な目眩が視界をグニャリと歪めた。
喉の奥に、あの『嘔吐の味』がせり上がってくる。張り詰めたアドレナリンの匂いが鼻腔を突き抜け、過呼吸になりかけた。机を掴む指先が、ガタガタと音を立てて震える。
綾小路が、静かに席に座る。
次は、一番後ろの、私の番。
平田がこちらを向き、優しく微笑んだ。
「じゃあ、次は君の番だね」
(動けない。声が、出ない──)
この状態で立ち上がれば、声は震え、顔は青ざめ、誰もが私を異常だと察知する。私の被ってきた「お面」が、早くも剥がれてしまう。
絶体絶命のパニックの中、私の脳がエラーを起こしかけた、そのまさに最悪の瞬間だった。
「くだらねえ」
突如として、教室の中央で大きな破裂音が響いた。
不良染みた風貌の須藤という男子が、激しく机を叩いて立ち上がっていた。
「仲良しこよしの自己紹介ごっこなんて、付き合ってられるかよ」
凄まじい威圧感を撒き散らしながら、須藤はそのまま教室のドアを乱暴に開けて出ていってしまう。さらにそれに便乗するように、私の斜め前にいたあのバスに乗っていた黒髪の少女もまた、冷ややかな一瞥をクラスに残して席を立つと、教室を後にした。
「あ、待ってよ、二人とも──!」
平田や櫛田が慌てて追いかけようとし、教室内は一気にお祭り騒ぎから騒然とした空気に変わった。
クラス全員の視線が、一瞬で私から逸れる。
(……助かった……っ)
私は机の下で、何度も何度も浅い呼吸を繰り返し、胃からせり上がるものを必死に飲み込んだ。
大丈夫。私は露草千歳。ただの、目立たない普通の女の子。脳内で呪文のように唱え続け、乱れた脈動を無理やりねじ伏せる。須藤たちの起こしたトラブルが、私に奇跡的な「猶予」を与えてくれた。
騒ぎが少しだけ落ち着き、出て行った二人を諦めた平田が、申し訳なさそうにこちらを振り返る。
「ごめんね、待たせちゃって。じゃあ最後に、後ろの席の……」
完全に、お面は整った。
私はすっと、ごく自然な動作で立ち上がった。
「……あ、はい。えっと、露草千歳です。中学の頃は目立つ方じゃなかったので、高校では皆さんとたくさんお友達になれたら嬉しいです。よろしくお願いします!」
おっとりとした、少し内気で無害な、完璧に計算された「普通の女子高生」の笑顔。
クラスからは「よろしくー」とパラパラとした温かい拍手が送られる。
擬態は、成功した。誰の記憶にも残らない、ただの無害な生徒として、私は第一関門を突破したのだ。
ホッとして、胃の腑を撫で下ろしながら席に戻ろうとした、その刹那。
すぐ前の席の──綾小路清隆が、ゆっくりと首を巡らせた。
心臓が、冷たい手で直接掴まれたように縮み上がる。
振り返った彼は、死んだようだった瞳に、冷徹な観察の光を宿し、一番後ろの私をじっと見つめていた。
すべてを解剖し、盤上に乗せるような、圧倒的な絶対強者の眼差し。
(気づかれた……? なんで、なんでこっちを見るの──?)
破裂しそうなほどの恐怖が押し寄せる。
私はその目を直視することがどうしてもできず、逃げるように視線を逸らして、ガタガタと席に座り込んだ。
机の下で、じっとりと汗ばんだ手を、皮膚が白くなるほど強く、強く握りしめながら。