ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
7月に入り、Dクラスを取り巻く環境は一気に激動へと向かった。
事態の引き金となったのは、須藤くんがCクラスの生徒たちを殴ったという「暴力事件」の発生、そしてCクラス側からの不当な生徒会への告発だった。
このままでは、須藤くんの停学とクラスポイントの損失は免れない。
放課後、池くんや山内くん、そして櫛田さんを中心に、必死になって事件の「目撃者」を探す情報収集が始まった。私も櫛田さんたちに同行し、他クラスの生徒たちへ頭を下げて聞き込みを行った。
「あの、すみません……! 特別棟の方で何か見ませんでしたか……?」
必死に困り果てた顔を作ってみせる。けれど、返ってくるのは冷たい反応ばかり。他クラスの生徒たちは一様に口を閉ざし、有力な手がかりは一切得られなかった。ただ時間だけが過ぎ、焦りだけが教室に蓄積していく。
行き詰まった、その日の夜。
私の端末に、一通のメッセージが届いた。差出人は、堀北鈴音。
『露草さん。クラスメイトの佐倉愛里が何か事情を知っている可能性があるわ。明日、一緒に話を聞きに行くわよ』
堀北さんらしい、有無を言わせない命令調の文面。
「わかった」と短く了承の返事を送り、私は端末の画面を消した。
液晶のバックライトが落ち、暗転した画面に、自分の顔が鏡のように映り込む。
目元にも、口元にも、一切の感情が宿っていない。筋肉の弛緩すら計算されているかのような、完全な無のみが映っていた。
翌日の放課後。
私は堀北さんに連れられ、校門付近で待ちぶせをしていた。やがて、うつむきながら足早に帰ろうとする佐倉さんの姿を捉える。
「待ちなさい、佐倉さん」
堀北さんが冷徹な声で呼び止める。佐倉さんはビクッと身体を震わせ、怯えた瞳で私たちを見上げた。
「な、何ですか……? 私、急いでいるんですけど……」
「単刀直入に聞くわ。あなた、須藤くんの暴力事件のあった日、校舎裏の特別棟付近にいたでしょう。彼とCクラスの生徒たちが揉めていた現場を、見ていたんじゃないかしら?」
相変わらずの直球、あるいは高圧的な態度。堀北さんの厳しい視線に晒され、佐倉さんは完全に萎縮してしまい、細い声をさらに震わせる。
「し、知りません……! 私、何も見てないですし、関係ないです……!」
「嘘をつかないで。あなたがあの時間、あの場所にいた確証があるから聞いているの。クラスの危機なのよ、知っていることがあるなら話しなさい」
恐怖のあまり、佐倉さんは今にも泣き出しそうなほど青ざめている。私はそっと堀北さんの前に出て、佐倉さんを庇うように間に入った。
「待って、堀北さん。そんなに怖がらせたら、お話できることもできなくなっちゃうよ」
私は佐倉さんの目線に合わせるように少し屈み、とびきり優しく、安心させるような笑みを向けた。
「佐倉さん、大丈夫だよ? 私たちは怒ってるわけじゃないの。ただ、須藤くんが本当に困ってて……もし、何か小さなことでも思い出すことがあったら、教えてもらえると嬉しいなって思っただけだから」
私の穏やかなトーンに、佐倉さんの肩の力が微かに抜ける。彼女はきゅっと唇を噛み締め、カバンの紐を強く握り直した。
「それは……私、あの……」
一瞬、彼女の瞳に葛藤の光が走り、何かを話そうと口を開きかける。
だが、その瞬間。佐倉さんの視線が、私の目と真っ正面から衝突した。
「……っ!?」
ほんの一瞬の交錯。直後、佐倉さんはまるで底なしの深淵でも覗き込んでしまったかのように、恐怖で顔を強張らせた。
「ご、ごめんなさい……! やっぱり私、何も知りません……!」
佐倉さんは逃げるように、私たちの前を走り去っていった。
(私の目を見て怯えた……?)
私の背後で、堀北さんの目がスッと細くなった。彼女もまた、佐倉さんの不自然な態度から「確実に何かを隠している」と直感したのだろう。
私は自分の瞳の奥にある本性が一瞬でも漏れ出たかと思案しつつも、表向きは困ったように眉を下げ、全く気づいていない純朴なフリを通した。
その日の夜。
私の端末に、再び堀北さんから連絡が入った。今度は通話だった。
『私よ。今夜、綾小路くんの部屋に池くんたちが集まって、今日の進捗を共有することになっているわ』
「うん、知ってるよ。堀北さんも行くんでしょ?」
『いいえ、私は行かないわ。あそこに私が混ざっても、無駄な摩擦が起きるだけよ。……だから、露草さん。私の代わりに、あなたが綾小路くんの部屋に行って、今日の佐倉さんの件を伝えてきて頂戴』
要するに、面倒な情報共有の場に私を代理として送り込もうというわけだ。
「分かった、任せて」と優等生らしい返事をして通話を切る。一人で行動できるのは、私にとっても好都合だった。
私は一人で、男子寮の綾小路くんの部屋を訪問した。
ドアを開けると、部屋の中には綾小路くんの他に、池くん、山内くん、櫛田さんが集まっていた。みんな床に座り込んで、どんよりとしたお通夜のような空気を醸し出している。
「あ、千歳ちゃん! そっち、何か手がかりあった!?」
池くんが縋るような目を向けてくる。私は申し訳なさそうに首を横に振った。
「ううん、他クラスへの聞き込みはやっぱり全滅。……ただね、さっき堀北さんに頼まれて、クラスの佐倉さんに話を聞きに行ってきたんだ」
「えっ、佐倉さんに?」
櫛田さんが目を丸くする。
「うん。堀北さんの調べだと、佐倉さん、須藤くんの事件の日に現場の近くにいたみたいで。……本人は『何も知らない』ってすごく怯えちゃってたんだけど、堀北さんは、彼女が何かを隠している可能性が高いって言ってた」
私の言葉を聞き、綾小路くんが表情を変えずに、じっとこちらを見つめてくる。
(相変わらず、何を考えているか分からない目をするね、君は)
私はそんな彼の視線を受け流しながら、「だから明日、もう一度クラスで彼女にアプローチしてみる必要があると思う」と、堀北さんの受け売りとしてみんなに報告を済ませた。
翌日のHR直後の放課後。櫛田さんが佐倉さんを説得するも失敗。佐倉は教室を出ていく。
「なんであんな根暗女が俺の目撃者なんだよ。ついてねーな。つか俺を救う気あんのかよ」
その言葉にクラス内は一気に険悪なムードに包まれた。堀北さんは冷徹な正論で須藤くんをまくしたて、端から協調する気のない高円寺くんは「君は退学しておいた方が良かったんじゃないかな?――レッドへアーくん」と言い放ち、感情をコントロールできない須藤くんはそれに激昂する。平田くんが必死に間に入る始末。
(他人に寄り添えないリーダー、協調性のない天才、感情のままに動く当事者。……これが、Dクラスの限界)
状況は完全に詰んでいるように見えた。
だが、その状況を動かしたのは、やはりあの男――綾小路清隆だった。
数日が経過し、須藤くんの件での話し合いの場まであと一日。その日の朝。
私は寮のエレベーターで、偶然綾小路くんと会い、一緒に登校することになった。
「それにしても今日もまた暑いな……」
寮のロビーから外へ出ると、日本の夏特有の蒸し暑い熱風がぶわっと私たちに襲い掛かる。私は片手で目に影をつくり空を仰ぐ。
「今日も日差しが強いね。最近は、日焼け止め塗ってからじゃないと外出れないよ。私すぐ赤くなっちゃうから」
日傘を買おうか悩んでる。なんて、いかにも普通の女子高生らしい雑談を口にしつつ、本題へと話題をスライドさせる。対象は須藤くんの件、ひいては佐倉愛里というイレギュラーの動向だ。
「佐倉さん、前向きになってくれたんだ」
「ああ。けど、本人は人づきあいが苦手だから、あまり、刺激しないでくれるとありがたいんだが」
「うん、大丈夫。遠くから見守ってるね。けど綾小路くんすごいね。堀北さんも、櫛田さんでもダメだったのに……一体どんな魔法を使ったの?」
この男が、魔法なんて大それた力を使ったわけじゃないのは分かっている。ロジックと、冷徹な状況把握。それだけであの対人恐怖症の少女を動かしてみせたのだ。
探るような私の視線に、綾小路くんは淡々とした声で煙に巻く。
「櫛田があきらめずに、佐倉に寄り添ってやったからだな。オレはただ、付き添っただけだ。何もしちゃいない」
綾小路くんの目線から見れば、私は彼が実力を隠し持っているということを、茶柱先生との会話を盗み聞きしたことで知っていることになっている。
それでもなおこうして誤魔化してくるのは、己の実力の度合いを私に掴ませないためだろう。未だ実力を隠す姿勢から、彼は「普通の男子高校生としての生活」を強く望んでいることが窺える。
別に、それを脅かそうだなんてこれっぽっちも思っていない。
しかし、この学校における私の生存戦略として、彼の実力を正確に把握することは間違いなく有益となる。引き続き、彼の観察は続けていくつもりだ。
幸い、私にはこの間手に入れた「恋心」という最強の免罪符がある。多少不自然に踏み込んだとしても、恋に盲目な女子生徒の暴走として処理され、疑われにくいはずだ。
だけど、その免罪符の効力を最大限に発揮させるために、ここで一つやっておかなければならない「儀式」があった。
「それにしても、櫛田さんにずいぶん信頼されてるんだね。わざわざ付き添いを頼まれるなんて」
――嫉妬する、という儀式である。
好きな男の子が、他の女の子と親しげにしていることへの小さな不満。これを見せることで、「露草千歳は綾小路清隆に本気で惚れている」という欺瞞の強度はさらに増す。
すると、綾小路くんは少し困ったように視線を泳がせた。
「いや、付き添いを頼まれたのは櫛田じゃなくて、佐倉からなんだ」
「佐倉さんが? どうして」
少し意外な答えに、私が小首を傾げる。
綾小路くんはしばらく黙り込んだ後、意を決したようにポツリと口を開いた。
「一目惚れ……」
「へ……?」
「いや、櫛田も不思議がっててな、それもあるかも、という冗談半分の話だ。忘れてくれ」
珍しく、彼が少し慌てているのが分かった。
私のあの告白――「入学式のバスの時から見ていた」という台詞を思い出し、不用意に他の女子からの好意(の可能性)を口にしてしまったことに気まずさを覚えたのだろう。
完璧なリアクションだ。私は心の中で小さく勝利の笑みを浮かべつつ、すぐさま「恋する少女」の表情を作った。
「ごめんね。私がいま、一方的な感情を向けているだけなのに、勝手に嫉妬して。詰めるようなことしちゃった」
一度、わざとらしく真面目な顔を作る。
「綾小路くんは気にせず、存分に、他の女の子との距離を詰めてね」
精一杯の強がり。それを演出してから、最後は耐えきれなくなったようにプッと笑いを吹き出してみせた。
私のそのおどけた態度に、綾小路くんは心底困ったように肩を落とす。
「勘弁してくれ」
その言葉を聞きながら、私は前を歩く彼の背中をじっと見つめた。
恋愛というノイズを挟むことで、彼の警戒の網を容易くすり抜けることができる。この免罪符は、思った以上に使い勝手が良さそうだ。