ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
【綾小路視点】
放課後、佐倉からの呼び出しを受けて、オレは彼女の部屋へと向かった。
室内に入ると、明日の審議を前にして、佐倉は酷く弱気になっていた。初めて公式の場に立って証言をするのだから、その恐怖は想像に難くない。オレはいくつかの言葉を選び、なんとか彼女を勇気づける。
佐倉は小さく深呼吸をすると、頼りなげではあるが、明日の話し合いには前向きに挑めそうな表情を見せた。
ひとまずの目的は達した。だが、部屋を出る間際、オレは一つだけ疑問に思っていたことを佐倉に投げかけることにした。
「どうして、オレに声を掛けたんだ?」
クラスで目立たない男子という点なら、他にもいくらでもいる。何より、最初に佐倉の存在に気づいたのは堀北のはずだった。
「綾小路くんは、目が怖くなかったから……」
どういうことだ。オレは確かに目つきが良い方ではないと思うが……。
「相談事なら、櫛田が親身になってくれるぞ。友達も多いし。あとは、露草だってそうだ。だれかに寄り添ってやれる奴だ」
「あ、いえ、見たままの目じゃなくて、瞳の奥っていうか……。相手の目を見ると何となくわかるんです……。優しそうな人も、急にその、怖くなったりするから……」
佐倉のその言葉は、同時に一つの引っかかりをオレの中に残した。
櫛田の本性をオレは知っている。だが、佐倉が露草を警戒する理由はなんだ?
(確かめなければならないことが出来たな……)
【千歳視点】
昨日の生徒会での話し合い。
佐倉さんはしっかりと証言をし、持参したデジカメ内のデータによって、彼女が事件当日に現場にいたことも証明できたようだ。
それでも、須藤くんの完全無罪までは証明できず、Cクラス側からは「お互いに一週間の停学」という妥協案が出されたらしい。並の人間ならそこで手を打つところだが、あの頑固な堀北さんはそれを一蹴し、完全無罪を主張。結果、本日もう一度だけ話し合いの席が持たれることになった。
そして今。私は特別棟の、生徒会室前にある廊下で、話し合いの終わりを静かに待っていた。
すると、廊下の奥から足音が響き、綾小路くんが歩いてくるのが見えた。
「てっきり、一緒にいるんだと思ってた」
声をかけると、彼はいつも通りの抑揚のない声で答える。
「堀北に頼まれて、用事を済ませてきたところだ」
「それって、さっきCクラスの石崎くんたちが慌てて生徒会室に入っていったことと関係ある?」
「まあ、詳しくは堀北が話してくれるさ」
そっけない返答。昨日から、彼との間にほんの少しだけ距離を感じるような気がする。……まあ、さすがに今は大事な話し合いの最中だし、意識がそっちに向いているだけだろう。
やがて、重々しい生徒会室のドアが開き、中からCクラスの担任である坂上先生が出ていった。
次に姿を現したのは、須藤くんだった。その顔は、驚くほど明るい。
「須藤くん、うまくいったの?」
「ああ、何が何だかしらねぇけどな! 堀北がなんかしてくれたのか?」
綾小路くんが小さく頷いた。
「やっぱりな。あいつは俺のためにやってくれると思ってたぜ。へへっ」
須藤くんはすごく嬉しそうに白い歯を見せると、「部活があるから」と言って足早に廊下を去っていった。須藤くんを見送っていると、室内から二人の人物が出てくる。
生徒会長である堀北学先輩と、その隣に控える橘茜書記。
橘先輩のことは、生徒会長同様、入学式の時にステージ上で名乗っていたのをしっかりと記憶している。
私は足を揃え、丁寧な会釈を交わした。隣の綾小路くんは、いつも通りの気怠げなトーンで「お疲れです」とだけ挨拶をする。
すると、生徒会長が足を止めた。
「Cクラスは告訴を取り下げた。これがお前の言った、佐倉が嘘つきではないと証明する方法か。――」
「あんたの妹がうまく運んだんだ。オレは何もしちゃいない」
綾小路くんはまるで他人事のように、淡々と責任を堀北さんへと押し付ける。その徹底した隠蔽体質に内心で感心していると、横にいた橘先輩が小さく微笑んだ。
「答えを聞いてみれば単純な話ではありますが、感心しました」
パチパチと胸の前で小さく手を叩く橘先輩。……かわいい。
「綾小路。現在、生徒会の書記の席が一つ空いている。お前にその席を譲っても構わん」
唐突に投げかけられた、生徒会長からの直接のスカウト。
その言葉に、一番驚いたのは隣にいた橘先輩だった。「えっ……!?」と目を丸くして、信じられないといった風に綾小路くんと会長を交互に見つめている。
「俺は面倒ごとが嫌いなんだ。生徒会なんて冗談じゃない。普通の学生生活を送るさ」
秒速での拒絶。綾小路くんは表情一つ変えずにそう言い切った。
生徒会長の誘いを一瞬で袖にするその度胸と、再び「えええっ!?」と漫画のように驚愕する橘先輩のリアクション。……かわいい。
先輩はコホンと一つ咳払いをすると、今度はじっと私の方を見つめ、少しからかうような笑みを浮かべた。
「ところで、こちらのかわいい娘は君の彼女ですか?」
「――っ、」
不意を突かれた質問に、私はいつもの「恋する乙女」の役割にスイッチし、驚いたように頬を微かに染めてみせる。
かわいさで言ったらあなたに負けますよ。そんなお世辞を心の中で処理していると、綾小路くんが平然とした声で遮った。
「違います、ただの友人ですよ」
きっぱりとした全否定。普通の女子生徒なら少し傷つく場面かもしれないが、彼の徹底した「普通」への執着を知っている身としては予測の範疇だ。
「いつも一緒にいるようだがな」
そういえば、あなたの前だとそうですね。
それ以上、追及する価値はないと判断したのか、生徒会長はそのまま興味が尽きたように歩き出してしまった。
「あ、ちょっと、待ってください会長!」
慌ててその後を追おうとする橘先輩。彼女は走り去る間際、わざわざ私の方を振り返ると、小さくひらひらと手を振ってくれた。
……最後まで、本当にかわいい人だった。
それから少しして、中から堀北さんと茶柱先生が出てきた。
茶柱先生は私たちの姿を一瞥したものの、特に何も言うことはなく、ヒールの音を響かせながらそのまま無言で去っていった。その冷徹な背中を見送ってから、私はいつもの明るい優等生の笑顔を作って、堀北さんの元へと駆け寄る。
「うまくいったみたいだね、堀北さん。完全無罪を勝ち取れるなんて、本当にすごいよ」
綾小路くんも「よう」と短く声をかけて近づいていく。
私が今回の見事な結果を称えていると、堀北さんは少しだけ誇らしげに、けれどいつも通りの厳しい表情を崩さずに言った。
「当然の結果よ。あんな稚拙な嘘に、私たちが屈するわけにはいかないもの」
その勝利の余韻に浸っていた、まさにその時だった。
静まり返った廊下の向こうから、床をだらしなく引きずるような足音と、不穏な低い笑い声が近づいてくる。
「ククッ……カメラを仕掛けるなんて、面白いことやってくれるじゃねぇか」
その声に、私たちの身体が自然と強張った。
ゆっくりと歩み寄ってきたのは、独特の威圧感を放つ長髪の男子生徒――Cクラスを裏で牛耳る独裁者、龍園翔だった。
堀北さんは瞬時に鋭い視線を向け、警戒を露わにしながら問い詰める。
「あなたは……? 」
龍園くんは堀北さんの質問には一切答えなかった。ただ、傲慢な笑みを浮かべたまま彼女を見下ろし、楽しげに肩を揺らす。
「今度は俺が相手してやるから、楽しみにしてな」
宣戦布告。今回の事件をただの『前哨戦』とでも思っているかのような、圧倒的な不敵さだった。
彼はそのまま、私たちの横を悠然とすり抜けて歩き出す。
その去り際、ほんの一瞬だけ。
すれ違う刹那、龍園くんの蛇のように濁った鋭い瞳が、私の目と真っ正面から交錯した。
「…………」
先日のケヤキモールでの出来事を思い出しているのだろうか。私はその時と変わらず、「怯える哀れな少女」の演技で彼を見ている。龍園くんはそれ以上足を止めることなく、廊下の向こうへと去っていった。
夜。事件解決を祝して綾小路くんの部屋で開かれていた、Dクラスの小さな祝勝会。
お開きになり、私が少し席を外してトイレから出ると、室内にはすでに誰もいなかった。池くんたちも櫛田さんも、私が用を足している間に帰ってしまったらしい。
「あ、みんなもう帰っちゃったんだね。……じゃあ、私もそろそろ帰るね」
私はいつも通りの穏やかな笑顔を浮かべ、リビングに残っていた部屋の主――綾小路くんに声をかける。
そのまま玄関へと向かい、踵をトントンと整えながら靴を履いていると、後ろから彼の抑揚のない声が降ってきた。
「今回は何とかなってよかったな」
「うん。須藤くん、自分の過ちに気づいてくれたみたいだし……この調子で行けば私たち、きっとAクラスに上がっていけるよね」
いかにもクラスの勝利を喜ぶ女子生徒らしい言葉を口にしながら、私は玄関のドアノブへと手をかけた。冷たい金属の感触が手のひらに伝わる。
早くこの場を立ち去ろうとした、その瞬間だった。
「本当に、上がれると思っているのか?」
――え。
背後から放たれたその低い声音に、私の心臓がドクリと不穏な音を立てた。ドアノブを握る手に、思わずぎゅっと力がこもる。
「露草は、Aクラスに興味があるのか?」
振り返ることはできなかった。
暗闇の中でじっと獲物を狙う猛獣に背中を晒しているかのような、凄まじい圧迫感が狭い玄関を支配していく。いつもなら「恋の免罪符」で茶化せるはずなのに、今の彼の声には、それを一切許さないだけの絶対的な強さがあった。
「も、……もち……」
もちろん、と言おうとしたのに、喉が完全に貼り付いてうまく言葉が出ない。
答えに窮する私を、綾小路くんの静かな声が容赦なく追い詰めていく。
「本当は興味がないんじゃないのか? ――‘‘俺と同じ‘‘で普通の高校生活を送れれば、それでいいんじゃないのか?」
俺と同じ。
その言葉の持つ意味の重さに、頭を殴られたような衝撃が走る。
彼にはすべて見抜かれていたのだ。私がホワイトルームの出身であることも、Aクラスへの執着が皆無であることも、そして「普通の女子高生」を必死に演じているこの擬態の裏側までも。
「っ……!」
これ以上ここにいてはいけない。防衛本能が、脳内で最大級の警報を鳴らし響かせる。
私はドアノブを乱暴に押し下げると、綾小路くんの顔を見ることも、その問いに答えることもできず、ただひたすらに逃げるようにその部屋を飛び出した。