ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ   作:じぇみに先生

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√堀北も入れました


12話

――完全な、私の失策だ。

 

自室のドアを内側から施錠した瞬間、膝の力が文字通りに抜けた。床に這いつくばるようにして洗面所に駆け込み、便器を抱え込む。

胃の奥からせり上がってきた激しい嘔吐感に、抗う術などなかった。

 

「う、く、……あ、が、……ッ」

 

喉を焼く酸っぱい液体を、ただひたすらに吐き出す。昼間に何を食したかなど覚えていない。胃の中が完全に空っぽになり、胃液しか出なくなるまで、私は何度も激しく身悶えしながら吐き続けた。

 

冷水を口に含み、何度も漱ぐ。

鏡を覗き込むと、そこには青ざめ、怯え、惨めに歪んだ少女の顔があった。

 

「……最悪、だ」

 

自分の声が、情けないほどに震えている。

あの時、綾小路くんの前から逃げ帰ったという選択。それは私の構築してきたすべてのロジックにおいて、最悪の一手だった。あそこで背を向けて走り去れば、彼の疑惑を「肯定」したも同然ではないか。

 

だが、冷徹に脳内の数式を整理し直す。

……待って。まだ、向こうは『疑惑』の段階だったかもしれない。

彼の言葉は「俺と同じで普通の高校生活を送れればいいんじゃないのか」だ。私が元ホワイトルーム生であることまで、確定でバレたわけではない、はず。

実力を隠して平穏を望む、単なる「同類」だと思ってカマをかけてきただけかもしれない。

 

今すぐ。今すぐにでも、電話なりメッセージなりで言い訳の連絡を入れれば、まだ取り返せるかもしれない。

『さっきは急に驚いちゃってごめんね』とでも、恋心に戸惑う普通の女子生徒として文字を綴れば――。

 

端末を握る。画面を見つめる。

けれど、指先が激しく震えて、一文字も入力することができなかった。

 

脳裏に焼き付いて離れない。あの瞬間、私の背中を貫いた、底知れない、言語が絶するほどの『恐怖』。

あの怪物の前で、小細工が通用するはずがない。そんな本能的な制動(ブレーキ)が私の身体を完全に縛り付けていた。

 

結局。言い訳のメッセージを送ることも、彼に弁明をすることもできぬまま、私は一睡もできずに白い朝を迎えた。

 

 

 

 

翌日。私は高度育成高等学校に入学して以来、初めて「学校を休む」という選択をした。

 

昨日の敵前逃亡に続き、今日の欠席。

これが傷口を広げるだけの二連続の悪手であることなど、私にだって分かっている。

 

けれど、どうしても、身体が動かなかった。

ベッドの中でじっと天井を見つめていると、世界から切り離されたような錯覚に陥る。

 

ピコン、ピコンと、午前中から端末が何度も通知を刻んでいた。

恐る恐る画面を確認すると、そこにはクラスメイトたちからのメッセージが並んでいる。平田くんやクラスの女子たち……そして、櫛田さんからは『千歳ちゃん大丈夫? 心配だから、放課後にお見舞いに行こうか?』とまで書かれていた。

 

今の私の精神状態で、誰かと対面するのはあまりに危険すぎる。私は熱があるからと嘘を吐き、それらの好意を丁寧に、しかし頑なに拒絶して、すべて遠慮してもらった。

 

誰も来ない、静まり返った部屋。

一人きりで丸一日、私は考え続けた。

 

――いっそ、このまま退学しようか。

 

そんな極論さえ脳裏をよぎった。この学校から私の存在を完全に消去してしまえば、あの恐怖から逃れられる。

だが、即座に脳内の計算機がそれを却下する。今、私が退学すれば、Dクラスには多大なペナルティが課せられるかもしれない。それは、私が目指すべき「無害な一般生徒」としての幕引きにはあまりにも不自然で、クラスに迷惑がかかる。

 

「明日も……学校、行きたくないな……」

 

夕方になり、部屋の中に茜色の光が差し込み始める。そんな後ろ向きな思考に囚われていた、その時だった。

 

トントン、と。

静かな、規則正しいノックの音が、部屋のドアを叩いた。

 

心臓が、冷たい手で直接掴まれたように縮み上がる。

私は呼吸を止め、物音を立てないようにゆっくりとベッドから這い出た。玄関へと忍び寄り、ドアスコープに片目を寄せる。

 

「ッ…………!」

 

声になり損ねた悲鳴が、喉の奥で潰れた。

そこに立っていたのは、今、この世界で最も会いたくなかった相手。

 

――綾小路清隆だった。

 

居留守を使うか? いや、学校を休んでいる人間の部屋の電気が点いていることは外から丸見えだ。ここで無視を決め込めば、それこそ決定的な破綻を迎える。

私は震える手で鍵を解錠し、しぶしぶと、ドアを細く開けた。

 

「……綾小路、くん……? どうしたの……?」

 

精一杯の、体調の悪い、そして昨日気まずい別れ方をした少女の声音。

けれど、ドアの隙間から覗く綾小路くんの瞳は、いつも通りの死んだ魚の目のようでいて、その奥にはすべてを見透かしたような昏い光が宿っていた。

 

「平田や櫛田が、お前が学校を休んだと心配していた。クラスの連絡役として、様子を見に来ただけだ」

 

淡々とした、建前通りの言葉。

私は必死に心臓の鼓動を抑え込み、玄関口で言葉を紡ぐ。

 

「そ、そうなの……? ごめんね、心配かけちゃって。昨日は、その……綾小路くんが急に変なこと言うから、びっくりして……恥ずかしくて、逃げちゃって。今日も、なんだか知恵熱が出ちゃったみたいで……」

 

恋心に戸惑う少女の、完璧なはずの言い訳。

けれど、それを口にしながら、私は自分自身でその論理の脆さに吐き気がしていた。あまりにも苦しい。あまりにも、お粗末な欺瞞だ。

 

案の定、綾小路くんは相変わらず無表情のまま、私の言葉を拾うことすらしない。ただ、剥き出しのチェス盤を睨みつけるかのような冷徹な視線が私を刺す。

 

……これ以上、この玄関先で「普通の女子高生」を演じ続けるのは、不可能だ。

これ以上の抵抗は、彼の前ではただのエラーを重ねる行為でしかない。

 

「……入って、ください」

 

私はドアを大きく開き、彼を部屋の中に招き入れた。

 

完全に「平穏な日常」という仮面を剥ぎ取られた、逃げ場のない密室。しかし、綾小路くんはいつもと変わらない無駄のない足取りで室内へ進むと、勧められる前に適度な距離を保って足を止めた。

 

「突然押しかけて悪かったな。一応、これ。平田たちから預かってきた」

 

彼が差し出してきたのは、コンビニの袋だった。中を覗くと、スポーツドリンクやゼリー飲料、それに熱冷却シートがいくつか入っている。

 

「……ありがとう。わざわざ届けてくれたんだ」

「いや、俺はただ寄るついでがあったから引き受けただけだ。お前が学校を休むなんて珍しいから、クラスの連中も本気で心配してたぞ。……熱は、少しは下がったのか?」

 

淡々とした声。けれど、その響きにはごく一般的なクラスメイトが向けるような、自然な気遣いが完璧に混ざり合っていた。はたから見れば、体調を崩した女子生徒を不器用に心配する、ただの男子高校生そのものだ。

 

「うん、おかげさまで……。もう大丈夫。明日はちゃんと学校に行くね」

 

私も無理に喉を鳴らし、いつもの調子を意識して声を返す。

けれど、そんな私の言葉を肯定も否定もせず、綾小路くんはただ静かに私を見つめていた。その死んだ魚の目の奥にある昏い光が、室内の温度をじわじわと下げていくような錯覚に陥る。

 

「そうか。ならいいんだ。お前が『普通の女子高生』として、ここにいたいならな」

 

雑談の空気は、その一言で一瞬にして霧散した。

綾小路くんは感情の削ぎ落とされた瞳でまっすぐに私を射抜くと、本質へと踏み込んでくる。

 

「露草、お前は何を望んでこの学校にいる?」

 

存在意義そのものを問うような、直球の問いかけ。

私は自身の震える呼吸を整えるために、一度深く息を吸い込んだ。そして、取り繕うための敬語でも、ホワイトルーム生としての冷徹なトーンでもない、私の心の底にある本物の願いを、絞り出すように告げた。

 

「ただ……普通の高校生として、暮らしたい……です」

 

それだけ。それだけが、私の望みのすべて。

これで互いに「平穏を望む同類」という着地点が見えるはずだった。しかし、綾小路くんはその裏に潜む致命的なバグを、冷酷に突き刺した。

 

「なら、なぜそこまで俺のことを怖がる」

 

――脳内の数式が、一瞬で真っ白に染まった。

 

その質問の意味を、私の脳は瞬時に理解し、そして絶望した。

彼は、見抜いているのだ。これまでの私の彼に対する『恋心(好意)』のすべてが、自分を欺き、警戒を解くための(カモフラージュ)だったということを。

同じ目的を持つ同類であれば、お互いに不可侵を貫けばいいだけ。それなのに、私が彼に対して野生の草食動物のような絶対的な恐怖を抱いているのは――私が、彼の「本質」を知っているからに他ならない。

 

どうしよう。本当のことを答えようか、それとも黙っておくべきか。

完全な思考停止(フリーズ)。選択肢のどちらを選んでも破滅へ向かうような極限の葛藤の中、私は消え入りそうな声で、真実の一部を告げるしかなかった。

 

「……あなたを見ると、思い出すんです」

「何をだ?」

 

綾小路くんの声には、一切の感情が乗っていない。

私はしばらく黙ったあと、ただ一言、重く、祈るように呟いた。

 

「過去を」

 

それっきり、私は口を閉ざした。それ以上は何も言えないし、言うつもりもなかった。

 

部屋の中に、張り詰めた、長い沈黙が続く。

やがて、綾小路くんは静かに口を開いた。

 

「露草。お前の過去に何があったか知らないが、お前が本気でこの学校での平穏を望むなら、忠告しておく。これ以上、オレの詮索はするな」

 

お前の過去に何があったか知らない、という言葉が建前であることくらい私にも分かる。

けれど、彼が発した「オレの詮索はするな」という言葉に込められた絶対的な警告の冷たさは、本物だった。

 

「平田や櫛田が心配していた。明日は顔を出せよ」

 

それだけを残し、彼は静かに私の部屋を去っていった。

嵐が去った後、私はただベッドに倒れ込むしかなかった。再起を誓うことすらできない。彼という存在の圧倒的な影の前に、これ以上踏み込んではいけないという底知れない恐怖だけが、冷たく部屋に残されていた。

 

 

 

翌朝。私は重い足取りで登校した。

教室のドアを開けると、待っていたのは、昨日までの私が「ノイズ」だと切り捨てていたはずの日常だった。

 

「あ、千歳ちゃん! 体調は大丈夫? 心配したんだよ?」

「露草さん、無理しちゃダメだからね?」

 

櫛田さんや平田くん、クラスの皆が次々に温かい言葉を掛けてくれる。私は頬の筋肉を必死に動かし、無理に作った笑顔で「うん、もうすっかり大丈夫。心配かけてごめんね」と、いつもの「無害で優しい普通の女子生徒」としてお礼を言った。

 

けれど。

自分の席に着いた瞬間、私の視界には、嫌でも『彼』の姿が入ってくる。

 

綾小路くんの座席は、私のすぐ前だ。

彼はいつもと全く変わらない様子で、ただそこに座っていた。

昨日、私の部屋であれほど冷徹に私の本質を抉り、私の「過去」を引きずり出した男の「背中」が、すぐ目の前にある。今はまるで、死んだ魚の目をした無気力な、どこにでもいる平凡な男子高校生に偽装している。その徹底した二面性に、私は背筋が寒くなるのを禁じ得なかった。

 

千歳と綾小路くんの間には、あの日を経て「お互いの背後にある巨大な闇を隠匿し合う共犯関係」としての、極限まで張り詰めた均衡が生まれていた。私はもう、彼に無駄な牙を剥こうとは決して思わない。ただ「普通の生徒」の枠に収まることに必死だった。

 

 

 

 

それから、数日後。

私はすっかり日常の仮面を取り戻し、図書室の大きな机にノートを広げていた。

 

「堀北、ここの公式、もう一回教えてくれねえか……?」

「ここはまずこの数式をバラして――」

 

1学期末の期末テストに向けた、Dクラスの勉強会。

赤点者を一人も出さないために必死にノートを教える私の横で、真面目に勉強している須藤くんたち。

 

ここ数日は、これと言って大きな変化は起きなかった。

自分にとっては、以前のような穏やかな日々が続いていた。綾小路くんはあの日以来、特に私を追及してくることはなく、ただのクラスメイトとして存在している。たまに教室内で目が合うと、あの夜の恐怖で心臓がドキッとしてしまうけれど、はたから見れば私たちはただの席が前後の生徒だ。

 

逆に、私の周囲で明確な変化を見せていたのは、堀北さんだった。

 

最近の堀北さんは、少々行動的になっている。

普段なら絶対に関わろうとしなかったクラスメイトの佐倉さんや、あの奇人である高円寺くん、その他多くのクラスメイトにも自ら話しかけたりしていて、明らかに「クラスに溶け込もう」と画策していた。

 

それについて、以前お昼休みに堀北さん本人にそれとなく聞いたことがあった。

彼女は口では「今後、Aクラスに上がるためにクラスをまとめる必要があるから」と気丈に答えていたけれど、彼女の会話の端々、視線の揺らぎから、それが本人のあまり乗り気ではない行動であることが簡単に読み取れた。

 

ロジックを組み立てれば、答えは一つしか残らない。

……おそらく、自発的にではなく、あの綾小路くんに言われてやっているのだろう。

 

彼は徹底的に、堀北さんを自分の「隠れ蓑」にするつもりだ。

自分が表に出ず、彼女を動かしてクラスをコントロールしようとしている。

 

彼が関わっていると分かった以上、この件には絶対に一歩たりとも関わりたくない。巻き込まれれば、今度こそ私の望む「平穏」は木端微塵に破壊される。

 

(――次の問題へ)

 

私は思考を強制的にシャットダウンし、シャープペンの芯をノートに押し当てた。

前の席にいる「怪物」の背中を、意識して視界の外へと追いやる。

 

今の私はただの、普通の女子高生。

迫り来る期末テストの勉強を、しなくてはならないのだから。

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