ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
――キーンコーンカーンコーン……。
1学期末の期末テスト終了を告げるチャイムが、静まり返った教室に響き渡る。
「そこまで。筆記用具を置いて、解答用紙を後ろから前へ集めてこい」
茶柱先生の無感動な声に従い、生徒たちが一斉に息を吐き出した。
私は解答用紙が回収されていくのを静かに見送る。
今回の私のスコアは、おそらく各教科とも平均して七十点台の後半。あえて「凡庸だが、クラスの平均点を少しだけ底上げできる程度」の数式を厳選して解答を埋めた。これなら目立つこともなく、同時に元赤点組を救うための私の役割も十分に果たせているはずだ。
ふと前を見ると、すでに堀北さんと綾小路くんの席はもぬけの殻だった。試験終了と同時に、示し合わせたように教室を出て行ったのだろう。あの夜、私の部屋で「これ以上、オレの詮索はするな」と冷徹な警告を告げた彼の背中を思い出し、胸の奥が少しだけきしむ。
「そろそろ、私も帰ろうかな……」
カバンに教科書を詰め、席を立とうとした、その時だった。
「あ、露草さん。テストどうだったー?」
声をかけてきたのは、普段の学校生活ではほとんど会話を交わしたことのない、クラスの女子二人組だった。
「え? あ、うん。いつもよりはできた……かな?」
珍しいな、と思いつつも、私はいつもの「無害で優しい普通の女子生徒」の笑みを張り付ける。すると、二人組は顔を見合わせ、どこか含みのある笑みを浮かべた。
「そっかー。それってさー、やっぱり堀北さんのおかげなのかなー?」
(……どういう意味だろう?)
胸の奥で、カチリと微かな警告音が鳴る。
「え? えっと……たしかに、堀北さんの勉強会で私も一緒に勉強させてもらってるけど……?」
「ふーん。それってさ、ホントに『勉強』してるだけ?」
もう一人の女子が、探るような目で私の顔を覗き込んできた。
「中間テストの時みたいな『特別な過去問』とかテストの傾向とかを堀北さんが用意してくれてたんじゃないの? 露草さん、あの子と仲良いし、こっそり教えてもらってたりしてー、なんてね」
――不正を、疑っている?
私は目を見開き、毅然とした、けれど困惑した少女のトーンでそれを否定した。
「そんなこと、絶対にないよ。私はただ、みんなと普通に教科書の内容を復習していただけだし、堀北さんがそんなズルをするような人じゃないことは、みんなも分かっているはずだよ」
「そ。まあいいや。それじゃあねぇ」
彼女たちは私の反論に興味を失ったように肩をすくめると、そのまま教室を出て行ってしまった。
後に残された私は、ただ立ち尽くす。「なんだったんだろう、今の……」
心臓の奥に、不気味な澱のような違和感が居座り続けていた。
数日後。ホームルームの時間。
黒板の横に、期末テストの結果が貼り出された。
結果から言えば、今回Dクラスから赤点による退学者が出ることはなかった。須藤くんたち元赤点組も、必死の勉強の甲斐あって全員がボーダーラインを大きくクリアしている。私も狙い通り、前回のテストより少し高めの安定した点数に収まっていた。
ホームルームが終了した瞬間、堀北さんは周囲に一瞥もくれず、さっさと荷物をまとめて教室を出て行った。相変わらず孤高を貫く彼女の背中を見送っていると、突然、教室の後方から池くんの大きな声が響いた。
「おい! 綾小路ー! どんな手品だよ、お前が高得点なんてよ!」
その言葉に、クラス中の視線が一斉に綾小路くんへと集まる。
私も思わず、貼り出された名簿の彼の点数に目をやった。
綾小路くんは今回、各教科70点から90点という、明らかな「高得点」が並んでいたのだ。
私には、目立たない「普通の女子高生」を演じていれば、とか言ってたくせに。
なんてね。彼なりに考えがあってのことだろう。
そこへ、クラスの誰よりも早く櫛田さんが歩み寄った。彼女の顔にはいつもの天使のような笑みが浮かんでいたけれど、その声の輪郭は驚くほどに冷たかった。
「何でいきなり高得点が取れたのかな? 中間テストみたいに過去問があったわけじゃないのに」
その一言が、静まり返った教室に重く響く。
綾小路くんはいつもと変わらない死んだ魚の目のまま、淡々と答えた。
「堀北の勉強会のおかげだな。オレだけ居残りさせられて、みっちり絞られてな」
「ッ……!」
彼のその言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、数日前にあの女子二人組から投げかけられた不躾な言葉がフラッシュバックした。
『それってさ、ホントに勉強してるだけ?』
『過去問とか用意してくれてたんじゃないの?』
線と線が、最悪の形で繋がっていく。嫌な予感が、冷たい汗となって背中を伝う。
櫛田さんは目を細め、「やっぱりそうなんだ」と小さく呟いた。
「どういう意味だ、櫛田?」
綾小路くんの静かな問いかけに、櫛田さんは「どうって、そのままの意味だよ?」と、それ以上の追及を拒むように気味悪くはぐらかした。
教室全体が、目に見えない「疑念」という毒に侵食されていく。その重苦しい空気を破ったのは、激しい衝撃音だった。
「おいてめぇら、あんなくだらねぇ噂信じてやがんのか!」
須藤くんが激しく机を叩き、立ち上がっていた。その形相は怒りに満ちており、クラス全体が恐怖で一瞬にして静まり返る。
「落ち着こうよ須藤くん。みんなも、あんな噂を本気で信じてるわけじゃないと思うよ」
平田くんが即座に間に割って入り、須藤くんを宥める。
噂。やはり、何かがある。
そして、その噂の内容を全く知らないのは、このクラスで自分と綾小路くんだけだということにも気づく。理由は簡単だ。二人とも交友関係が広くない、ということもあるが、何より、私たちが「堀北鈴音に最も近しい存在」だからこそ、周囲は気を遣って、あるいは腫れ物に触るかのように隠していたのだ。
私と綾小路くんは特別棟へと向かっていた。窓の外は、いつの間にかしとしとと暗い雨が降り始めている。
向かった先に待っていたのは、Bクラスのリーダーである一之瀬帆波さんだった。
「悪いな一之瀬、急に呼び出して」
「ううん、大丈夫だよ綾小路くん。それと、露草さん……だよね?ちゃんと話すのって初めてだね。これからよろしくね!」
「う、うん!よろしく、一之瀬さん」
一之瀬さんは雨の鬱屈さを吹き飛ばすような、ひまわりのような笑顔で手を振ってくれた。
「綾小路くんの周りって、ホントに可愛い女の子が多いよね」
「からかわないでくれ。それより本題だ」
綾小路くんが一切表情を変えずに言葉を遮り、本題を切り出す。堀北さんに流れている噂の出処についてだ。
平田くんからの話と、一之瀬さんが独自に他クラスのネットワークから集めてくれた情報を統合すると、堀北さんに流されている主な噂は三つあった。
一つ目。堀北鈴音が、現生徒会長である堀北学の妹であること。
二つ目。生徒会長という立場を利用し、テストの過去問や傾向を事前に兄から教わっていること。
三つ目。兄からプライベートポイントを譲渡されていること。
「私のクラスでも誰から聞いたか辿っていったら、元々はCクラスの子がきっかけだったみたいだよ」
一之瀬さんが真剣な表情でそう告げた。
やっぱり、と私は冷徹に確信する。
この悪質な嫌がらせを仕掛けたのは、Cクラスの統率者である龍園くんだ。堀北さんを孤立させ、Dクラスの団結を内部から崩壊させるための罠。
……けれど、いくらDクラスが疑心暗鬼になりやすい未熟な集団だからといって、生徒会長の妹だとか、過去問を貰っているだとか、そんな噂「だけ」で、あの須藤くんが激昂し、クラス全体がここまで最悪な雰囲気になるだろうか?
決定的な、クラスメイトたちの「嫉妬」と「憎悪」を爆発させるための、強烈な一撃が足りない。
「……ねえ、一之瀬さん。本当に、噂はそれだけだった?」
私の問いに、一之瀬さんは少しだけ悲しそうに視線を下げ、声を潜めた。
「……うん。実はね、もうひとつ、一番ひどい噂があってね。二人とも、クラスポイント以外に、上のクラスへ行ける方法って知ってる?」
「2000万プライベートポイント、だな」
以前、ふと茶柱先生が教室で口にしていた、この学校の絶対的なルール。それを綾小路くんが答えると、一之瀬さんは小さく頷いた。
「卒業したらプライベートポイントがどうなるのか、そのまま現金に変換できるわけはないし、進路とかに別の使い道があるのかもしれない。それは今の私たちにはわからないけど……」
隣で聞いていた綾小路くんが、感情のない声で呟いた。
「そういうことか。Dクラスで広まっている本当の猛毒は――」
一之瀬さんは、静かにその最悪の数式を口にした。
「『堀北鈴音は生徒会長の兄から2000万ポイントを譲渡され、すでに自分一人だけがAクラスに上がれる権利を手に入れている』。……みんな、そう噂してるんだよ」
「っ…………!」
あまりにも泥臭く、そしてあまりにも効果的な一撃。
自分たちは泥をすすり、赤点に怯え、必死になってクラスポイントを集めているというのに、リーダー面をしている堀北鈴音だけが、最初から一人だけ「Aクラス卒業」という特等席を約束されている――。
それが嘘か真実かなど、疑心暗鬼に陥った人間には関係ない。ただその「不公平」の噂だけで、Dクラスの信頼関係は完全に瓦解する。
一之瀬さんに別れを告げ、私と綾小路くんは並んで足早に教室へと向かっていた。外は昨日からの雨が止むことなく、しとしとと陰鬱に校舎の窓を叩き続けている。
胸の奥で渦巻く嫌な予感を抑えきれず、私は隣を歩く少年に声をかけた。
「あ、綾小路くん、このこと堀北さんには……」
「ある程度、噂の正体は掴めたからな。早く教えておいた方がいいだろう」
いつもと変わらない、感情の起伏を取り除いた声。だがその合理的な判断には、事態の深刻さが如実に表れていた。
二人でDクラスの教室の前まで辿り着いた、その時だった。
固く閉ざされた引き戸の向こうから、鋭く、張り詰めた叫び声が廊下まで響いてきた。
「あなたたちは! そんな……!」
――堀北さんだ。
いつも冷静沈着で、他者を寄せ付けない彼女が、これほどまでに感情を剥き出しにして拒絶の声を上げたことなどなかった。
直後、勢いよくドアが開き、顔を酷く強張らせた堀北さんが教室から飛び出してきた。視線が交錯する間すらなく、彼女は私たちをすり抜けて廊下を走り去っていく。
「堀北さん!」
私は反射的に叫び、彼女の背中を追いかけた。
階段を駆け下り、堀北さんは躊躇することなく校舎の玄関を抜けて外へと飛び出していく。
外は、いつの間にか視界が白く霞むほどの土砂降りになっていた。激しい雨が容赦なく制服を濡らし、肌を刺す。
「待って! 堀北さん!」
雨音に負けないよう声を張り上げ、泥を跳ね上げながら走る。ようやく追いつき、彼女の手首を掴んだ。
「っ……!」
だが、堀北さんは拒絶の意思を隠そうともせず、私の手を強く振り払った。濡れた黒髪の隙間から覗く彼女の瞳は、冷たく、頑なに心を閉ざしていた。
「今、堀北さんの悪い噂がクラスで……」
「知ってたわよ」
「え……?」
息を切らす私に、堀北さんは短く、突き放すように告げた。知っていた。ならばなぜ、あんな致命的なバグを放置していたのか。
「じゃあなんでこんなことになっている。危うい立場なのを理解していたはずだろ」
激しい雨の中、遅れて追いついてきた綾小路くんが静かに問いかける。周囲の疑念を放置し、クラスを危機に晒した彼女の明確な落ち度を、彼は淡々と突き刺した。
堀北さんは拳を白くなるほど強く握りしめ、土砂降りの雨に打たれながら、絞り出すように言い放った。
「あなたにはわからないわよ」
悲痛なまでの孤独を孕んだその一言を残し、彼女は再び背を向けて、激しい雨の向こうへと走り去ってしまった。
「堀北さん!」
なおも追おうと一歩を踏み出した私の肩を、冷たい手が掴んで引き留めた。
「今無理やり話したところで無駄だ。少し時間を空けよう」
綾小路くんの声は、激しい雨音の中でも驚くほどクリアに耳に届いた。
彼の手をすり抜けて白く消えていく、小さく頑固な背中。
視界を遮る雨の中、綾小路くんは感情の読めない声で、ぽつりと低く呟いた。
「面倒なことになったな」
その冷淡な横顔と、すべてを押し流すような土砂降りの音が、私の脳裏に深く焼き付いていた。