ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
その日、堀北さんは学校を休んでいた。
ガランとした彼女の席を見つめながら、私は昨日、彼女が追い詰められる原因となったホームルーム後の「あの光景」を思い出していた。
――昨日の放課後。
『いくら今、大変なのはわかるけど、それでクラスメイトに当たるのはひどいよ』
『そうだよ。私たちが心配して聞いてあげてるのに、あの言い方は何?』
数人の女子生徒が堀北さんのデスクを取り囲み、悪質な噂を盾にトゲのある言葉を投げつけていた。見かねた平田くんが仲裁に入るも、『堀北さんも、みんな心配して言ってくれてるんだよ』と、まるで堀北さんにも落ち度があるかのような配慮に欠けた言葉を口にしてしまう。
さらに櫛田さんが『お互いに謝って、仲直りしようよ』と偽善の笑みで追い打ちをかけ、プライドをへし折られた堀北さんは無言で教室を飛び出していった。
その時、私の頭の中で何かが激しく弾けたのだ。
ドンッ! と、自分の机を両手で激しく叩いて立ち上がった。
『みんなひどいよ!』
私の張り詰めた叫び声が、教室の壁に木霊した。
その瞬間、クラスメイト全員の視線が一斉に私へと集まった。皆が目を見張り、信じられないものを見るような目をしている。
普段は目立たず、いつもニコニコと周囲に合わせているだけの「無害で大人しい露草千歳」。そんな私が、見たこともないような険しい表情で感情を爆発させている。その圧倒的なギャップに、クラス全体が言葉を失い、息を呑んで硬直していた。
けれど、当時の私には周囲の驚愕なんてどうでもよかった。
『堀北さんは中間テストの時も、須藤くんの事件の時も、私たちのために最後まで絶対に諦めなかった! そんな堀北さんが、クラスを裏切るわけないよ!』
それだけを言い残し、私はクラスメイトたちを置き去りにして堀北さんを追ったのだ。
『私も力を貸すから、この状況を……』
『あなたなんかの力を借りなくても、私は、私独りの力でなんとか……!』
必死に伸ばした手を拒絶され、今にも泣き出しそうになってしまった私の顔を見て、堀北さんは逃げるように雨の向こうへ走り去っていった。あの痛々しい背中が、今も焼き付いて離れない。
回想から意識を引き戻し、私は覚悟を決めて彼女が籠る学生寮の部屋の前へと足を運んだ。
薄暗い部屋の中で、独りで傷ついているであろう彼女に向けて、私は何度も執拗にチャイムを鳴らし、続けてドアをノックする。
「放っておいて。あなたには関係ないわ」
インターホン越しに聞こえる堀北さんの声は、硬く、冷たかった。だが、私はドアにへばりつくようにして、必死に声を張り上げた。
「関係なくないよ! 堀北さんは、みんなのためにあんなに頑張ってくれたのに……! 今度は、私が堀北さんを助けたいの!」
「無駄よ。そんなことをして、あなたに何のメリットがあるの? 私はあなたに何も返せないわ」
どこまでも頑なに壁を作ろうとする堀北さん。しかし、私はそんな計算をすべて吹き飛ばすように、純粋な叫びをぶつけた。
「メリットなんて関係ない! ……友達だから!」
「っ……」
長い、長い沈黙が流れる。やがて、ガチャリと、重々しい解錠の音が響いた。
ゆっくりと開いたドアの隙間から、私は滑り込むように部屋の中へと入る。だが、堀北さんが目を見張ったのは、その直後だった。私の背後から、まるで最初からそこに影として存在していたかのように、気配を完全に消した綾小路くんが姿を現したのだ。
「……あなたまで、どうして」
「一之瀬から、噂の明確なソースが掴めた。今後の対策を建てるなら、早い方がいい」
こうして薄暗い寮の部屋の中、三人による「反撃」の作戦会議が始まった。
幕は上がり、翌日の教室。
ホームルームが終了した直後、平田くんが意を決したように教壇へと立ち、クラス全員に向かって呼びかけた。
「みんな、少し聞いてほしい。今回の噂は、僕たちDクラスをバラバラにするために、Cクラスが仕組んだ罠なんだよ。堀北さんが僕たちを裏切るわけがない」
平田くんの必死の説得。しかし、一度染み付いてしまった猜疑心の澱はそう簡単には消えない。女子生徒たちの間に重苦しい停滞感が漂う中、その空気を一瞬で切り裂いたのは、あまりにも退屈そうな、軽い一言だった。
「うっそまじー? あんな噂話、本気で信じてる人いたんだー。あんなんどう考えても作り話っしょー」
声の主は、軽井沢さんだった。
Dクラスの女子の頂点であり、絶対的な発言権を持つ彼女のその一言は、クラスの「空気」を一瞬にして反転させた。
「え、あ、やっぱりそうだよねー?」
「私も怪しいと思ってたんだよねー!」
いとも簡単に疑惑の包囲網が霧散していく。
その様子を教壇から見守る平田くんは、安堵の息を吐きながら、後ろの席の綾小路くんに向けて微かに視線を送った。
――実は、平田くんも今回の件の協力者だったのだ。軽井沢さんのあの絶妙なタイミングでの発言は、綾小路くんが平田くんを介して、彼女にお願いしたものだった。クラスの平穏を何より望む平田くんの呼びかけと、女子のリーダーである軽井沢さんの同調。二つの影響力が噛み合って初めて、この頑固な空気の打破は成立していた。
完全に空気が変わったのを見届け、堀北さんが静かに立ち上がった。彼女はまっすぐ、先日自分に突っかかってきた女子生徒の元へと歩み寄る。その足取りには、迷いはなかった。
「……ごめんなさい。あの時、あなたにひどいことを言ってしまって……。もっと冷静になるべきだったわ」
堀北さんが、自身のプライドを乗り越え、深く頭を下げた。
予想外の謝罪に、相手の女子生徒も気まずそうに視線を外し、「……う、うん。私たちが言い過ぎちゃってたし……。ごめんね」と答えた。
張り詰めていた糸が解け、クラスの蟠りが完全に解消された瞬間だった。
自席へと戻りかけた堀北さんは、ふと足を止め、クラス全体を振り返った。
「もう一つ、いいかしら」
凛とした声が、教室に響く。
「私はこのDクラスを、必ずAクラスにしてみせるわ」
堂々たる、リーダーとしての宣言。
一瞬の静寂の後、須藤くんが真っ先に激しく手を叩いた。それを皮切りに、クラスのあちこちから、温かい拍手が巻き起こっていく。
全員とまではいかなくとも、確かにクラスがもう一度一つになった。
巻き起こる拍手の音の中で、私は小さく胸を撫で下ろし、そっと微笑んだ。
騒動から数日後。休日のケヤキモールにあるカフェ『パレット』は、賑やかな生徒たちの声で満たされていた。
そんな喧騒から少し離れたテラス席で、私と堀北さんは向かい合って座っていた。
「聞いたわよ。あなた、クラスメイトを怒鳴りつけたそうね」
紅茶のカップに手を伸ばしながら、堀北さんが何でもないことのように切り出した。
「兄さんの時もそうだったけど、たまに普段のあなたからは考えられない行動をとるわね」
「怒鳴ったなんて、そんな……。どちらの時も、無我夢中で……」
私は苦笑いしながら、照れ隠しに冷たいココアをストローで混ぜる。あの時は本当に、堀北さんを助けたい一心で頭が真っ白になっていただけなのだ。
すると、堀北さんはカップを持ったまま、ジッと私を見つめてきた。その瞳が、まるで私の心の奥底を見透かそうとするかのように細められる。
「あなたまで、綾小路くんのようになにかを隠してるんじゃないでしょうね」
その言葉に、心臓が跳ね上がりそうになった。
「ま、まさか……!」
私は引きつりそうな頬を必死に抑えて、笑ってみせる。――正解です、堀北さん。でも、これだけは絶対に言えない。
けれど、会話の中に予想外の名前が出たことで、ずっと気になっていたことを聞いてみる勇気が湧いてきた。私はココアのグラスを見つめたまま、そっと切り出す。
「ねえ、堀北さん。……どうして、生徒会長……お兄さんに執着するの?」
言った瞬間、ギロリと鋭い視線で睨まれた。肌がヒリつくような冷たい圧に、私は思わず首をすくめる。あ、余計なことを聞いちゃったかも……。
気まずい沈黙が流れる中、堀北さんはふーっ、と深くため息をつき、視線をカップへと戻した。
「小さいころからずっと、私の前には兄がいたわ。何をやるにしても、全部先に兄がやり遂げていた」
彼女の声は、どこか遠いところを見つめるように静かだった。
「劣等感を抱えずにはいられなかったわ」
――劣等感。
その言葉が、私の胸に重く突き刺さる。
自分と同じだ。ホワイトルームを脱落したあの時の自分は、ただただ惨めで、自分には何の価値もないと思い知らされた。だからだろうか。独りで傷つきながらも虚勢を張る堀北さんを、私が思わず放っておけずに助けようとしてしまうのは。
「私を見てほしい。認めてほしい。あの人の……兄の見ている先を、私も見てみたい」
「それで、この学校に来たんだね」
私が呟くと、堀北さんは小さく頷いた。
彼女はお兄さんという絶対的な存在を目標にして、この高度育成高校に来た。お兄さんの背中を追いかけ、いつか同じ景色を見ようと必死に足掻いているのだ。
すると、堀北さんは今度は私の方へ真っ直ぐに視線を向けた。
「それで、あなたはどうしてこの学校に来たの?」
「え?」
突然話を振られ、私は目を丸くする。
「なに? 私にだけ話させて、自分は言わないつもり?」
「あ、いや……」
少し気恥ずかしかったけれど、私はこの学校を選んだ「本当の理由」を話すことにした。
「中3の時の担任の先生に言われたの。自立しなさい、って。私、それまでは誰かによっかかって、楽して生きてきたから。それだと、いつか立っていられなくなるから、って」
施設を出た後の世界で、私を見出していろいろと教えてくれた中学校の担任の先生。その言葉だけは、偽りのない私の本心だった。
堀北さんは私の言葉をじっくりと吟味するように聞いた後、ふっと口元を僅かに緩めた。
「なるほどね。……半分、私によっかかってないかしら?」
「そ、そうならないように気を付けます……」
皮肉混じりの言葉に、私は慌てて両手を振って答えた。
堀北さんは呆れたように、けれどどこか満足そうに再び紅茶を口に運ぶ。テラス席に吹き抜ける風は、数日前とは違って、驚くほど心地よかった。