ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
波乱に満ちた1学期の終業式が終わり、学校全体が明日から始まる初めての夏休みに向けて、お祭り騒ぎのような熱気に包まれていた7月下旬。
放課後の賑やかさの中、私のスマートフォンがポケットの中で短く震えた。画面を開くと、そこには普段めったに通知の来ない名前から、ごく簡潔なメッセージが表示されていた。
『放課後、ケヤキモールのカラオケボックスの302号室に来てくれ。一人で』
差出人は、綾小路くんだった。
いつもなら面倒なことには巻き込まれたくないと避けるはずの彼からの、突然の呼び出し。私は「何かやらかしてしまったんじゃないか」と、最悪の想像ばかりが頭を巡り、心臓を嫌なテンポで脈打たせながら、指定された部屋の重い防音ドアを開けた。
「……あ、綾小路くん。失礼します……」
おそるおそる室内に入り、カバンを両手で抱え込むようにしてソファの端に腰掛ける。視線は泳ぎ、指先はせわしなく衣服の裾をいじっていた。そんな私のあからさまな挙動不審ぶりを見て、対面に座る綾小路くんはいつもと変わらない、感情の読めない平坦な声で切り出した。
「そうびくびくするな。取って食いはしない」
「う、うん……。ごめんね、ちょっと緊張しちゃって。それで……どうしたの? こんなところで二人きりで話すなんて、珍しいね」
私は引きつった笑みを浮かべながら、テーブルの上の用意していてくれたウーロン茶に手を伸ばした。綾小路くんは手元のグラスに視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「堀北の噂の件、クラスの空気はすっかり元に戻ったな。平田や軽井沢が動いたおかげで、結果的にDクラスの結束は前より強くなったように見える。今日の終業式も、いい雰囲気で終われたんじゃないか」
「うん、本当に良かった……。堀北さんがちゃんとみんなに謝った時はびっくりしたけど、それだけ彼女もクラスのことを大切に思い始めたんだよね。最高の形で夏休みを迎えられそう」
少しずつ硬直が解け、安堵の息を漏らした私に、綾小路くんは小さく頷き、それから視線をゆっくりと私の方へ向けた。
「だが、今回の件で一番予想外だったのは、平田や軽井沢の動きじゃない。――お前だ、露草」
「え……?」
密室という環境のせいか、彼の独特の静かな圧迫感が、普段よりも濃く部屋を満たしていく。
「普通の女子高生として、つまり目立たないように過ごしたいはずなのに、ずいぶん矛盾した行動をとったな」
彼の眠たげな瞳が、まっすぐに私を捉える。
言っているのは、あのホームルームの後のことだ。クラス中が堀北さんを疑う空気の中で、私が激昂して机を叩き、彼女を擁護したあの行動。周囲に溶け込んで無害に生きるという私のスタンスからすれば、明確なエラーだった。
「あそこまで感情を露わにして堀北のことで怒りを表したこと。お前をそこまで動かした動機はなんだ」
淡々とした、けれど逃げ道を塞ぐような重みを持った問いだった。
モニターの映像が音もなく静かに切り替わり、彼の顔を冷たく照らし出す。私は膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「私の……劣等感から、かな」
ぽつりと、私の口から本音が零れ落ちた。
「劣等感?」
「うん。堀北さんと話してね、少し分かっちゃったんだ。彼女、お兄さんに対してずっと強い劣等感を抱えて、それでも必死に追いつこうとして、一人で足掻いてる。……その姿が、誰にも頼れずに傷だらけになっても虚勢を張ってる姿が、どうしても、昔の自分と重なっちゃって。独りで戦うことがどれだけ苦しいか、私、知ってるから。だから、あそこで堀北さんを独りきりにさせたくなかった」
そこまで一気に語り終えた私を、綾小路くんの低く冷徹な声が追及する。
「お前の劣等感はどこから来るものだ」
遮るもののない密室。長い、長い沈黙が私たちの間に流れた。部屋は不気味なほど静まり返り、自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく耳に届く。
言うべきか、言わざるべきか。
迷い、葛藤し、呼吸さえ忘れるほどの張り詰めた空気の中、私はゆっくりと顔を上げた。彼の暗い瞳を真っ直ぐに見つめ、もう偽ることをやめると決めて、その名を紡いだ。
「あなたからだよ――‘‘清隆‘‘くん」
あの部屋に苗字という概念はなかった。だから私は、彼のその下の名前をずっと知っていた。
「入学式の日、バスであなたを見て、身体の芯から恐怖を感じた。そして、クラスの自己紹介であなたの名前を聞いてからずっと……あの部屋での感覚が、嫌でも呼び覚まされてるの」
綾小路くんはいつも通りの無表情のままだった。眉一つ動かさず、ただ淡々と私の言葉を受け止めている。その様子は、なんとなく、驚きがなかったように感じられた。最初から、予想通りだったのだろう。
やっぱり、私のことなんて覚えてもいなかったんだ。胸の奥がチクリと痛んだけど、私は構わずに言葉を続けた。堰を切ったように、私の過去が溢れ出していく。
「あの場所ではね、トップと差がついた子から、どんどんいなくなっていった。定期的に誰かが消えていく焦りばかりの空間。そして、いよいよ自分の番になった時、私は『使えない』だとか『不用品』だとか言われて、おかしな場所に連れていかれた。そこで、決して、ホワイトルームのことを口外しないように、ちょ、調教されたの……」
思い出すだけで指先が震える。私はそれを隠すようにカバンを強く抱きしめた。
「そして、社会に放り出された。初めはね、自分と外にいる子たちが、同じ人間に見えなかったの。自分は圧倒的に劣っていて、この子たちと一緒にいちゃいけない。一緒の教室にいること自体が烏滸がましい――なんて、本気で思っちゃって」
それが、私の暗い小学生時代だった。
「いじめられて当然、むしろここにいさせてもらえるだけ感謝しなくちゃいけないなんて、卑屈に思って……」
私は自嘲気味に、力なく笑った。
「中学になってからは多少はマシになったけど、相変わらずいじめられてばかりだった。そしたらね、中学の時の担任の先生が、私を救おうとしてくれたの。でもね、私には違った。誰かにリードを握っていてほしかったから、自分で自分に首輪を付けちゃったんだよね」
自分の人生の責任を放棄し、誰かの命令を待って、その通りに動くだけの人形。
「そしたら、先生に嫌がられちゃった。中学にいる間は面倒を見てくれたけど、当然、卒業したその先までは無理だしね。進路のこと、なかなか決められなかったんだ。この学校は、先生にいくつか教えてもらった内の一つで、最終的にはここに決めたの」
黙って聞いていた綾小路くんが、ここで静かに口を開いた。
「決め手はなんだったんだ?」
「全寮制と学費免除ってだけ。施設暮らしだったし、外に出られてちょうどよかったから」
この学校で、誰の首輪も嵌めずに、自分の足で自立してくれたら――。それが、あの先生の最後の願いだった。だから私は、この高度育成高等学校で、「普通の高校生」として新生活を送ろうと決めたのだ。
私の告白を聞き終えても、綾小路くんの表情は微塵も動かなかった。グラスの氷が溶けて、カランと小さな音を立てる。
「一概に信じるとはいえないな」
淡々と、けれど鋭い刃のような言葉が静かな部屋に落ちた。
「お前は一度、俺を煙に巻こうとした。また誤魔化して、いずれは俺の寝首をかこうって腹かもしれない」
彼の言う通りだった。
この閉ざされた学園で、どれだけ自分の過去を話したところで、それを証明する証拠もすべもない。私はインターネットに残るような何かをやったわけでもなく、この学校に知り合いもいない。
口先だけであれば、同情を引くための偽りの過去など、いくらでも簡単に作り出すことができるのだから。
「私はホワイトルームのこと、そこでのカリキュラムやあなたを知っている。それで十分じゃ?」
すがるような思いで問いかけた私に、綾小路くんは冷徹な視線を崩さない。
「だれかに仕込まれてきた可能性だってある。あそこから出てきて、この学校に入った俺を監視する為か、あるいは退学させる為か」
「……! じゃあ、ここに呼び出した理由は、私がホワイトルーム出身だと見抜いたからじゃないの?」
「そうだが、完全にそうだとは言い切れない。本当にお前の背後に誰もいないということを確かめなければならない」
心臓が凍りつきそうだった。
あそこを放り出されてから今日まで、私はあそこの関係者とは一切会ってなどいない。けれど、それもまた客観的に証明することはできないのだ。
もし、このまま彼の疑惑を晴らすことができなかったら、どうなるだろう。
――決まってる、彼の手で退学させられる。
あの部屋の最高傑作なら、一個人を社会的に、あるいはこの学校のルールに則って合法的に排除することなど容易いはずだ。恐怖のあまり息が詰まりそうになる。
けれど、パニックを起こしかけた脳の片隅で、ふと奇妙な違和感が首をもたげた。
そういえば、彼は私によって、自分が退学させられることを妙に警戒しているようだった。
どうしてそこまで警戒している? ホワイトルームから自分を連れ戻すための刺客が来ると、あらかじめ誰かに聞かされているのだろうか。
――いや、それは違う。
もし本当に「刺客」の存在を警戒しているのなら、彼は私の正体を知った瞬間、もっと明確な敵意や警戒を剥き出しにしていたはずだ。なにより、私の話した過去や劣等感の告白に対して、泳がせるような態度を取るはずがない。
いや、そもそも。彼はなんでここにいる? あの部屋の人間が、わざわざこんな外部と隔離された場所に自ら来るメリットなどない。彼ほどの能力があれば、どんな世界でも生きていけるはずなのに。
「……綾小路くんはどうしてこの学校に来たの?」
私のその言葉に、部屋の空気が張り詰めた。モニターの光が、彼の横顔を無機質に照らしている。
「私てっきり、あなたはホワイトルームのカリキュラムの一環でこの学校にいるんだと思ってた。けど、そうじゃない。――あなたはホワイトルームから勝手に出てきて、この学校に逃げ込んだの?」
だから、彼は私の背後関係をこれほどまでに気にするのだ。私が誰かに仕込まれていないか、自分のことをあの部屋へ連れ戻しに来た刺客ではないかと、執拗に疑う理由のすべてが繋がった。
「そうだ」
綾小路くんは否定しなかった。その平坦な肯定は、この密室においてひどく重く響く。
彼が本当にあの部屋からの逃亡者なのだとしたら、私の存在は彼にとって脅威以外の何物でもない。いくら口で白を主張したところで、彼が安心することはないだろう。
――なら、行動で示すしかない。
「ちょっと待っててくれる?」
私はそう言い残し、カバンを持って一度カラオケの部屋を出た。受付に向かい、店員に無理を言って何枚かの白紙のコピー用紙とボールペンを分けてもらう。
心臓はまだうるさいほど鳴っていたけれど、不思議と迷いはなかった。
しばらくして部屋に戻り、テーブルの上に紙を広げる。
私が迷いのない手つきでそこに書き始めたのは、自身の『退学届』だった。
高度育成高等学校長殿、という定型の文句から始まり、自身のクラスと名前を滑らせていく。その様子をじっと見つめていた綾小路くんの瞳が、かすかに動いた。あの常に冷静沈着な最高傑作が、明確に驚きの色を見せている。
書き終えた用紙を、私はそのまま彼の方へと滑らせて渡した。
「もう一つ」
そう言って、私は自分の端末を開いて調べものを始めた。画面で必要な書式を確認しながら、もう一枚の白紙の用紙を取り出し、ペンを走らせる。
そこに書き込んだのは、『委任状』だ。
日付と私の署名、そしてこの退学届の提出に関する一切の権限を「綾小路清隆」に一任するという文言。
「これで、あなたの好きなタイミングで私を退学にできる。私が少しでも怪しい動きをしたり、あなたの不利益になるようなことをしたら、いつでもこれを使って学校に提出していいよ」
私は端末を閉じ、二枚の紙を彼の前に揃えた。
「これが、私の背後に誰もいないっていう証明。私はただ、この学校で普通の高校生になりたいだけだから」
自分の退学の権利を丸ごと相手に握らせる。これ以上の絶対的な服従と、敵意がないことの証明は存在しないはずだった。
テーブルの上に置かれた二枚の紙を、綾小路くんはしばらくの間、無言で見下ろしていた。
受け取るのか、突き返すのか。あるいは、この場で使うのか。
彼の表情からは何も読み取れない。ただ、モニターの光だけが、静かにその横顔を照らし続けていた。
――やがて、綾小路くんはゆっくりと手を伸ばした。
私の心臓が、ドクンと跳ねる。けれど彼の指先は、紙を掴む寸前で止まった。
「……これを俺が持っていたところで、意味がない」
「え……?」
予想外の言葉に、思わず顔を上げる。
「紙切れ二枚に、お前の本気を証明する力なんてない。本当に俺を裏切るつもりなら、これを書いた後でいくらでも撤回の手は打てる。委任状なんて、公的な効力もほとんどない代物だ」
彼の言う通りだった。冷静に考えれば、こんなものはただの児戯にも等しい。それでも、私はこれ以上の方法を思いつけなかった。
「じゃあ……どうすればいいの」
縋るように尋ねた私に、綾小路くんは紙から視線を上げ、初めてまっすぐに私を見た。
「証明なんて、最初から求めてない」
「……え?」
「行動でしか示せないものを、紙切れで証明しようとした――その発想自体が、多分お前の答えだ」
彼はそう言うと、二枚の紙にはついに触れないまま、静かに私の方へと押し戻した。
「これは持っておけ。俺が使うことはない」
「で、でも……」
「その代わり」
彼の声が、僅かに低くなる。
「これからのお前の行動全部が、証明になる。俺はそれを見ている。それだけだ」
それは許しでも、信頼でもなかった。ただ、判断を保留にしたまま、これからも見張り続けるという、彼なりの回答だった。
それでも、あの瞬間の私には、十分すぎるほどの救いだった。
紙を握りしめる手から、僅かに力が抜けていく。
「……ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない。俺はまだ、お前を信用したわけじゃない」
突き放すような言葉。けれど、その声には、最初にこの部屋に呼び出された時のような、刃のような鋭さはもうなかった。
私は押し戻された二枚の紙を、ゆっくりとカバンの中へしまい込んでいく。
――受け取ってもらえなかった。
安堵するべきなのに、胸の奥に小さな影のような感情が滲んでいることに、私は戸惑っていた。これは、一体なんだろう。
紙をしまう指先の動きが、ほんの一瞬、止まる。
ああ、そうか。
残念だったのだ。私は今、確かに残念だと感じている。
自分の生殺与奪の権利を丸ごと誰かに委ねる。それは裏を返せば、自分の意志も責任も手放して、相手の判断に完全に従うということだ。
中学の時、先生に自分から首輪を付けようとして、結局嫌がられてしまった、あの感覚と同じだった。誰かにリードを握っていてほしい。誰かの命令通りに動く人形でいたい。そうすれば、自分で選んで、自分で傷つく必要がなくなるから。
私はまた、無意識のうちに、綾小路くんにその首輪を差し出そうとしていたのだ。
「証明」という綺麗な言い訳を被せて。
――彼は、それを見抜いた上で、突き返したのだろうか。
だとしたら、あまりにも見透かされすぎていて、いっそ怖い。
私はカバンのジッパーを閉めながら、俯いた顔を誰にも見られないように、そっと表情を消した。この残念だという感情の正体を、今は彼に気づかれるわけにはいかなかった。
「ねえ、綾小路くん」
その名を呼んでも、もう身体は竦まなかった。ただ、声が少しだけ、自分でも情けないくらいに掠れた。
「あなたも、独りで戦ってるんだよね。堀北さんみたいに」
綾小路くんは答えなかった。ただ、グラスに残った氷を一つ、口に含んだだけだった。
その沈黙こそが、何よりの答えのように、私には思えた。
窓の外では、夏休み前夜の喧騒が、まだ賑やかに続いている。
防音ドアの向こうの世界とは切り離された、この302号室だけが、奇妙な静けさに包まれていた。
――何かが、変わり始めている。
まだ形にならないその予感と、自分でも認めたくない小さな未練を抱えたまま、私はテーブルの上から消えた二枚の紙の重みを、カバンの中に感じ続けていた。