ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ   作:じぇみに先生

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3巻
16話


潮の匂いを含んだ風が、日傘の縁を揺らす。

 

8月1日。夏休みに入ってすぐ、学校側が用意したこの豪華客船に乗り込んでから、まだ数時間しか経っていない。二週間の船旅——前半の一週間は無人島でのバカンス、後半の一週間はこの船での宿泊。そして今、船はその「島」に向かって進んでいる。

 

デッキの端に立ち、私は開いた日傘の下から青い海を眺めていた。どこまでも続く水平線。生まれて初めて見る海は、想像していたよりもずっと大きくて、そしてただ静かだった。

 

遠くのデッキからは、須藤くんたちの騒ぐ声が潮風に乗って届いてくる。楽しそうな声。ああいう風に、何も考えずに騒げる人たちを、少し羨ましいと思う自分がいることに、内心で少し驚く。

 

「遊ばないのか?」

 

声がして振り向くと、綾小路くんがいつの間にか隣に立っていた。

 

「後の一週間は船で過ごすから、その時に楽しもうと思ってるよ。今は、初めての海をよく見ておきたくって」

 

そう答えてから、ふと聞き返す。

 

「綾小路くんは海は?」

 

「何度か見たことはあるが、入ったことは無いな」

 

彼は水平線に目をやりながら、どこか他人事のように続けた。

 

「露草、知っているか?海っていうのはしょっぱいらしいぞ」

 

その言い方があまりにも淡々としていて、思わず笑ってしまう。

 

「ふふっ。どうだろうね、ひょっとしたら甘いかもよ?」

 

くだらないやり取り。けれど、こういう他愛のない会話が、今の自分には妙に心地よかった。誰かに評価されるためでも、探り合うためでもない言葉のキャッチボール。入学式の日に目の前の男に恐怖を感じていたなんて、微塵も想像ができない。

 

「なんだか楽しそうだね」

 

声をかけてきたのは、いつの間にか近くに来ていた櫛田さんだった。人当たりの良い笑顔。その裏に何を隠しているのか、私はまだ測りかねている。

 

「初めてのクルージングだから興奮しているのかも」

 

当たり障りなく返す。すると櫛田さんは、少し悪戯っぽい目でこちらと綾小路くんを見比べた。

 

「遠くから見た二人、なんだかお似合いのカップルって感じだったよ」

 

「お似合いだって、綾小路くん。堀北さんに嫌われちゃうね」

 

私が茶化すように言うと、綾小路くんは僅かに眉を寄せた。

 

「どうしてそこで堀北が出るんだ……」

 

その反応が、なんだか少しおかしかった。

 

「その堀北さんはどうしたの?一緒じゃないの?」

 

櫛田さんが尋ねる。

 

「誘ったんだけど断られちゃった。朝食の後は部屋にいるって」

 

「旅行を満喫するような人間じゃなさそうだしな」

 

綾小路くんが呟くように付け足す。

 

「そうなんだ」

 

櫛田さんは特に気にした様子もなく相槌を打った。堀北さんらしいと言えば、らしい。あの人は、こういう「意味のない時間」を苦手としているのかもしれない。かつての自分と、少し重なるところがある気がした。

 

——けれど、その平穏は長く続かなかった。

 

不意に、船内アナウンスが響き渡る。

 

『生徒の皆様にお知らせします。お時間がありましたら、是非デッキにお集まりください。まもなく島が見えて参ります。暫くの間、非常に意義のある景色をご覧頂けるでしょう』

 

「あ、何かアナウンスがあったね。島が見えてくるのかな?」

 

櫛田さんが声を弾ませる。アナウンスを聞きつけた他のクラスの生徒たちも、デッキにぞろぞろと集まり始めていた。船端に人が溢れ、賑やかさを増していく。

 

「あ、ごめんね。邪魔になっちゃうよね」

 

私は周りの生徒たちの視界を遮らないよう、広げていた日傘を静かに閉じた。

 

やがて、遠くの靄の向こうから、緑に覆われた大きな島がその姿を現し始めた。けれど、船はその島に設置されている桟橋に横付けすることなく、そのまま素通りしていく。どうやら島を大きくぐるりと周回しているようだった。

 

「すごく神秘的な光景だね……!感動するなぁ。ねえ、二人もそう思わない?」

「お、おう、そうだな」

「うん。そうだね」

 

無邪気にはしゃぐ櫛田さんや周囲の歓声を聞きながら、私は島の様子をじっと眺めた。

原生林が鬱蒼と生い茂る、人工物のほとんど見当たらない無人島。

 

(……“非常に意義のある景色”……?)

 

胸の奥に、不気味な違和感が身震いとなって走る。

ただ観光して楽しむだけの島なら、わざわざ船で1周させて生徒に見せつけるような真似をするだろうか。まるで、これから足を踏み入れる土地の「全体像」をあらかじめ観察させようとしているかのような、奇妙な放送。

 

隣に立つ綾小路くんに目をやると、彼もまた無言のまま、険しい眼差しで無人島の地形を目に焼き付けているように見えた。彼がどう思っているのか、この違和感をどう捉えているのか聞いてみたかったけれど、すぐそばに櫛田さんがいる手前、深読みを悟られるわけにはいかない。私は口を閉ざし、ただ冷や汗を握りしめた。

 

船が島をちょうど1周し終えたあたりで、再びスピーカーから無機質なアナウンスが流れた。

 

『これより当学校が所有する孤島に上陸いたします。生徒たちは30分後、全員ジャージに着替え、所定の鞄と荷物をしっかりと確認した後、携帯を忘れず持ちデッキに集合してください。それ以外の私物は全て部屋へ置いてくるようお願いします』

 

皆が部屋へと戻っていく。

 

私も客室へ戻るとすでに堀北さんの鞄は無くなっていた。先ほどのアナウンスからすぐに着替えてデッキへと向かったのだろう。

 

制服から学校指定のジャージへと着替える。言われた通り、決まった荷物だけが中に入っているのを確認し鞄を肩にかけ、再びデッキへと戻った。

 

デッキにはすでに多くの生徒たちがクラスごとに集まっているようなので、Dクラスのもとへ行き船の到着を待った。周りのクラスメイト達はこの後のバカンスを心待ちにしているようだったが、私は皆と同じ気持ちにはなれない。さきほどの妙なアナウンスや島の周囲を進んだ船。おそらく、この後には何かよからぬことが待ち構えているように感じるからだ。

 

停泊後、先生の指示でAクラスから順に降りていく。下船後は担任の先生の点呼と同時に整列するよう指示を受け、言われたとおりにして待っていると、やがて、正面の壇上にAクラス担任の真島先生が拡声器をもって上がった。まず、Aクラスから1名病欠がでたということを伝えられる。そして……

 

「——これより、本年度最初の特別試験を行いたいと思う」

「え?特別試験って?どういうこと?」

 

池くんから放たれた疑問は、彼だけでなくほぼすべてのクラスで巻き起こった。

 

多くの生徒が混乱している中、真島先生からルールの説明がされた。

 

これから、8月7日の正午までの1週間、この無人島で生活すること。

 

各クラスにはこの試験だけ使える300ポイントが配布される。

 

また、クラスごとに1冊ずつマニュアルが配られる。このマニュアルにはポイントで買える物品のリストとこの試験でのルールが載っている。

 

そして、最後に余ったポイントはクラスポイントに上乗せされる。

 

 

 

 

 

 

真島先生の説明後、4つのクラスは距離をとって集まりだした。

 

そして、茶柱先生がルールの補足説明をする。

 

担任が定期的に点呼を取る。その際に不在だった場合、ペナルティ。

 

島内に点在する『拠点(スポット)』を占有することでボーナスポイントを獲得。

 

リーダーを1名指名。他クラスのリーダーを当てればボーナス、自クラスのリーダーを看破されればペナルティ。

 

体調不良によるリタイアやルール違反には厳しい罰則ポイント。

 

学校からの初期支給物として、8人用テント2つ。

 

また、簡易トイレ用のビニール袋と給水ポリマーシート、生理用品および日焼け止めは、申請すれば無制限で支給。

 

「――説明は以上だ。健闘を祈る」

 

茶柱先生が説明を終えた直後、さっそくクラスでは篠原さんを中心にした女子たちからトイレについての不満が出た。ワンタッチテントを用いて姿を隠すことができるとはいえ、生理的に受け付けられない子たちも一定数いるようだ。20ポイントの仮設トイレの購入を平田くんにお願いしている。しかし、男子たちは貴重な20ポイントを使うのはもったいないと反発。しばらく、この論争は止みそうに無い。

 

揉めだしたクラスメイトたちをよそに、私は静かに踵を返し、説明を終えて一歩離れた位置でクラスを眺めていた茶柱先生のもとへと歩み寄った。

 

「茶柱先生、日焼け止めを一ついただけますか?」

「……ほう、お前は呑気なものだな、露草」

 

茶柱先生は少し意外そうに眉をひそめたが、すぐに無言で支給品用の箱から日焼け止めのチューブを取り出し、私に手渡してくれた。

 

「ありがとうございます」

 

私は丁寧にお礼を言うと、その場でジャージの袖をまくり、日焼け止めを手に取って腕や首筋に丁寧に塗り伸ばしていく。照りつける強烈な日差しから肌を守るため、静かに指を動かしていると――。

 

「おやおや、パラソルガール。無人島でも紫外線との戦いを優先するとは、実に君らしいね。私にもそれを貸してもらえるかな」

 

頭上から、朗々と響く華やかな声が降り注いだ。

 

見上げると、そこには砂浜の混乱など意にも介さず、優雅に髪をかき上げる高円寺くんが立っていた。

 

「高円寺くんも……使うの?」

 

私が少し引き気味に問いかけると、高円寺くんはフッと不敵な笑みを浮かべ、胸筋を誇示するように悠然と背筋を伸ばした。

 

「当然、私の肉体は最高峰の芸術作品だ。紫外線ごときに傷付ける理由はないのだよ」

「そ、そうなんだ……」

 

圧倒的な自己愛に若干気押されつつも、私は手の中の日焼け止めを高円寺くんに手渡した。彼がそれを受け取り、まるで儀式でも行うかのように滑らかな手つきで腕や首筋に塗り伸ばし始めるのを眺めながら、ふと胸に引っかかっていた疑問を口にしてみる。

 

「ねえ、高円寺くん。さっきから私のこと『パラソルガール』って呼んでいるけれど……」

「フッ、言葉通りの意味さ。君はいつ見ても日傘(パラソル)を手放さず、太陽の光から逃げるように陰に隠れている。あるいは、何かから自分を護るための『盾』としてそれを使っているように見える。日差しを遮る陰の中から静かに世界を観察する少女――まさにパラソルガールだろう?」

 

あまりにも高円寺くんらしい、けれど驚くほど核心を突いた洞察。

私が日傘を差すのは、ただ日焼けを防ぐためだけじゃない。ホワイトルームという暗闇から抜け出してもなお、眩しすぎる「普通の日常」に怯え、守られるための殻を求めていたからだ。彼にそこまでの内情が伝わっているとは思えないけれど、その鋭さに背筋がすっと冷たくなる。

 

高円寺くんは手際よく日焼け止めを塗り終えると、チューブを私に返しながら、退屈そうに目を細めた。

 

「ときにパラソルガール。君はこの試験で何を得るつもりかね?」

 

思考を巡らせる。特別試験で得られる個人報酬なんて、たかが知れている。プライベートポイントだって、クラスポイントが上がらなければ雀の涙だ。この無人島で苦労してサバイバルをする理由は、クラス全体の勝利以外に思いつかない。

 

「えっと……クラス貢献……とか?」

 

無難な言葉を口にすると、高円寺くんは「フハハハ!」と砂浜に響き渡るような声で高らかに笑い飛ばした。

 

「実につまらない回答だ。他人の利益を、自分の目的として語るとはね。もっと君自身の利益を追求したりはしないのかい?」

 

笑い飛ばされて、思わずむっとした顔になりかけたけれど、同時に——痛いところを突かれた、という感覚もあった。

 

自分自身の利益。そんなもの、本当にあっただろうか。少し考えてから、私は口を開く。

 

「……得たいものはない、かな」

 

「ほう?」

 

高円寺くんの片眉が、興味深そうに持ち上がる。予想と違う答えだったのか、それとも予想通りだったのか。その表情からは読み取れない。

 

得たいもの。手に入れたい評価も、地位も、ポイントも——本当に、何ひとつ思いつかなかった。ホワイトルームにいた頃から、「欲しい」という感覚自体が、自分にはずっと縁遠いものだった気がする。

 

けれど。

 

「失いたくないものなら、あるよ」

 

自分の口から出た言葉に、少しだけ驚く。考えるより先に、それが零れていた。

 

「それは何かね?」

 

高円寺くんが、珍しく茶化す様子もなく、まっすぐにこちらを見ていた。

 

「今の生活」

 

言ってしまってから、その響きの頼りなさに、内心で苦く笑う。壮大な目標でも、明確な野心でもない。ただ、須藤くんたちの騒がしい声も、堀北さんの気難しさも、綾小路くんとの他愛のない会話も——この、砂浜の向こうまで含めたすべてが、崩れずに続いてほしいという、それだけの願い。

 

「今の生活」

 

高円寺くんは繰り返すと、しばらく黙って私を見つめた。それから、ふっと目を細めて笑う。

 

「なるほど、現状維持への執着というわけだ。守るための戦いとは些か防衛的で退屈だが……自分の欲望に嘘をついていない点だけは、評価してあげようじゃないか」

 

そう言い残すと、優雅に髪をかき上げ、砂を踏みしめながら踵を返す。

 

その背中を見送りながら、私は今しがた自分が口にした言葉を、もう一度胸の内で反芻していた。

 

——失いたくない。

 

その感覚が自分の中にあることに、正直、驚いていた。何かを失うことなど、今まで恐れたためしがなかったはずなのに。壊れることには、むしろ薄い親和性すら感じていたはずなのに。

 

なのに今は、この空気も、この距離感も、壊したくないと思っている。

 

(——厄介だな)

 

篠原さんたちの言い争いは、まだ続いている。その喧騒の外側で、私は小さく息を吐いた。

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