ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
洞窟を離れ、木漏れ日が揺れる森の小道を二人で歩いていると、ふと綾小路くんが私の方に視線を向け、前を見据えたまま尋ねてきた。
「それにしても、高円寺の前だと普段の臆病な素振りを見せたりはしないんだな」
その問いに、私は小さく息を吐き出しながら肩をすくめた。
「彼は人を見た目や態度で判断する人ではなさそうだし、誰かに期待するような人でもないからね。彼にとって、自分以外の他人はみんな『凡人』みたいだし……無理に臆病な自分を取り繕う必要がないんだよ」
ずっと「気弱で臆病な女子生徒」の演技を続けるのは、想像以上に体力を消耗する。高円寺くんのように、他人に無関心で独自の基準でしか世界を見ていない人間の前では、演技を解いている方がずっと楽だった。
「それに、彼がわざわざ誰かに『露草は本当は臆病じゃない』なんて言いふらすタイプでもないでしょ? 万が一言いふらされたとしても、発言の主が高円寺くんじゃ周りも信憑性に欠けると思うしね。『露草さんが臆病なフリをしていました』なんて言われても、みんな『何で?』と首をかしげるだけじゃないかな」
「……違いないな」
納得したように頷いた綾小路くんだったが、すぐに言葉を付け足した。
「だが、この間の堀北の噂の時、お前がクラスメイトたちに声を上げて庇っていたという前例がある。あれのおかげで、お前は『ただ怯えているだけの臆病者ではない』と皆が認識し始めているぞ。現に夏休み前、よく須藤に絡まれていただろ」
「ああ……」
言われてみれば、あの事件以来、須藤くんから頻繁に話しかけられたり、お昼に誘われたりすることが増えていた。
夏休みに入る直前にも、放課後になぜかニヤニヤした須藤くんに話しかけられた時のことを思い出す。
『見直したぜ露草! お前が堀北の為にあんなに怒ってやれるなんてな!』
力強く肩を叩かれながらそう言われた時のことを思い出し、私は苦笑いを浮かべた。
「確かに須藤くんから話しかけられることは増えたけど……あれは須藤くんの下心があっての行動だよ」
「下心?」
綾小路くんが少しだけ不思議そうに首をひねる。
「うん。私を『だし』にして、堀北さんと絡みたいっていうね」
「ああ、なるほど」
綾小路くんもすぐに合点がいったようだ。
須藤くんが堀北さんに好意を抱いているのは、傍から見ていれば丸わかりだ。けれど、須藤くんが直接堀北さんに話しかけても、塩対応であっさりとあしらわれてしまう。だからこそ、はたから見て一番堀北さんと距離が近く、一緒に行動することの多い私を経由することで、なんとか堀北さんとの接点を作ろうと須藤くんなりに頭をひねった結果なのだろう。
「素直というか、わかりやすいというか……彼らしいアプローチ方法だよね」
「そうだな。お前が間に入ることで、堀北との会話のきっかけを作ろうとしているわけか」
「そういうこと。だから私の『評価が上がった』というよりは、便利な繋ぎ役として重宝されているだけだよ」
自分の立ち位置を客観的に分析して見せると、綾小路くんは「そういうことにしておいてやるか」とでも言いたげに、静かに前を見据えて歩みを早めたのだった。
「話を戻すけど、私の擬態にボロが出始めたんじゃないかって心配してくれてるんだよね?」
少し意地悪く目を細めて尋ねてみると、綾小路くんは一切表情を変えずに即答した。
「別に心配はしていない」
(……こやつ、ただの興味本位か)
心のなかで呆れつつ、私は咳払いを一つ挟んで言葉を続けた。
「……ゴホン。人は変わっていくものだよ。私は堀北さんと関わっていくうちに、内々にこもっているだけじゃダメなんだってことを学んだの。守りたいものがあるときは行動しないと守れない。だから私は声を上げた。……なんていう風に、周りは勝手に解釈してくれる」
「そう都合よくいくか?」
「わからない。けど、人の認識なんて、案外すぐ変わっちゃうよ。私はずっと目立たず過ごしてきたから、クラスメイトたちにとっても私に対する印象なんてほとんど薄かっただろうしね。『ただ臆病な子』としか思ってなかったプロフィールに、『友達の為なら怒ったりできる子』という新しい印象が書き記されただけ。だから問題は無いよ」
自分の置かれた状況とクラス内での見え方を、私は淡々と分析してみせる。人々の固定観念なんて脆いものだ。理由さえ作ってしまえば、印象のアップデートなんて簡単に受け入れられる。
私の言葉を黙って聞いていた綾小路くんは、どこか呆れたような、けれど底知れない視線をこちらに向けた。
「なんというか……疲れそうな生き方だな」
(――あんただって実力を隠して能ある鷹を気取ってるでしょうが!)
喉元まで出かかったツッコミを、私は間一髪のところで飲み込んだ。
自分のことを盛大に棚に上げて私を評する彼に、私は返答の代わりに、じとーっとした視線を静かに送るにとどめたのだった。
平田くんたちの元へと合流した直後、勢いよく駆け戻ってきた池くんから「凄いの見つけたぞ!」と報告が入った。
どうやら川とスポットを発見したらしい。彼の案内に従って移動すると、目的の場所にたどり着いた。
「ここだ! 俺たちが見つけたスポット! 凄いだろ!」
誇らしげに胸を張る池くんの言葉通り、そこは緑に囲まれた美しい川辺だった。周囲の土地も平坦に整備されており、水場が近いこともあって拠点にするにはうってつけの場所だ。クラス全員の意見が一致し、Dクラスはこの川辺を拠点と定めることに決まった。
次に議題に上がったのは、最も重要ともいえるリーダーの選出だ。
「色々考えてみたんだけど、平田くんや軽井沢さんは嫌でも目立っちゃう。でも、リーダーを任せるなら責任感のある人じゃなきゃダメでしょ? その両方を満たしているのは堀北さんだと思ったんだけど、どうかな……?」
櫛田さんが申し訳なさそうに、けれど的確な理由を添えて提案した。
目立ちすぎず、かつ投げ出さずに責任を果たせる人物――その条件に、クラスの誰も反対する者は出なかった。当の堀北さんも特に嫌がる素振りは見せず、静かに承諾。
そのまま茶柱先生からリーダー用のキーカードを受け取り、無事にDクラスのリーダーが決定した。
スポットの占拠手続きが終わると、一仕事終えた池くんが真っ先に川辺へ走り寄り、手で水をすくって豪快に口に含んだ。
「かー! キンキンに冷えてて気持ちいいぜ! うめぇ!」
ちょうど私も長距離の移動で喉がカラカラに渇いていたところだった。池くんの真似をするようにその隣へしゃがみ込み、澄んだ川水を両手ですくって一口飲んでみる。
「うん。冷たくておいしいね」
「だよな!」
ホワイトルームの徹底的に消毒された水とは違う、大自然の冷たさとすっきりした喉越し。素直な感想を口にすると、池くんが嬉しそうにニシシと笑った。
だが次の瞬間、後ろから呆れを含んだ声が降ってきた。
「ちょっと露草さん。そんな水飲んで平気なの?」
振り向くと、腰に手を当てて顔をしかめた篠原さんが立っていた。
どうやら女子たちにとって、沸騰もさせていない川の生水をそのまま口にするのは衛生面・生理的にかなり抵抗があるらしい。
「え?……うん。冷たくて美味しいよ?」
私が素直な感想を返すと、篠原さんは心底信じられないといった顔で、引き気味に言い放った。
「うわぁ。無理無理、そんなの飲むなんて。露草さんおかしいんじゃないの?」
この川の透明度と流速なら、お腹を壊すリスクは極めて低い。それに何より、目の前で池くんが普通にゴクゴクと飲んでいたから、特に何も気にせず飲んでしまったのだ。
まさかこんな些細なことで、普通の高校生女子との間に「感覚の齟齬」が生まれるとは思ってもいなかった。
(どうしよう……なんてフォローすれば角が立たないかな……)
私の常識と世間の感覚のズレに焦り、言い訳を考えていたまさにその時だった。
「はぁ!? 千歳ちゃんのこと悪く言うんじゃねぇよ!」
いきなり隣で立ち上がった池くんが、篠原さんに向かって激高した。
「うわなに、かばっちゃって。あんた露草さんに気があるんじゃないの?」
「はあ!? 今は関係ねーだろ!」
篠原さんも負けじと応戦し、一瞬で険悪な空気が漂う。思わぬ火種にハラハラしたが、すぐさま「みんな落ち着いて!」と平田くんが間に入り、なだめてくれたおかげで、喧嘩はなんとかその場で収まった。
篠原さんたちは文句を言いながら離れていき、気まずい静けさが残る。
さっきかばってくれたことに対して、本当はすぐにでも池くんにお礼を言いたかった。けれど、篠原さんの前でそれを言うと余計に話がこじれそうだったので、少し時間を置き、篠原さんの目がないタイミングを見計らってから、そっと池くんに声をかけた。
「池くん、さっきは味方してくれてありがとう」
「お、おう! 気にするなよ千歳ちゃん!なんも悪くはないんだからさ!」
鼻の下を指でこすりながら、照れくさそうに笑う池くん。
かばってくれたこと自体は素直に嬉しかったし、感謝もしている。けれど、このままうやむやにしておくわけにもいかない。
(……ありがたかったけど、いずれはこの件も、ちゃんと解決しなきゃいけないな)
去っていく池くんの背中を静かに見送りながら、私は胸の奥でひとつ、小さな溜め息をついたのだった。
無事にテントの設営も終わり、ようやく一息つこうかというところで、綾小路くんが私に声をかけてきた。
「平田に頼まれて、焚き火用の枝を拾いに行くんだが、付き合ってくれないか?」
「ふふっ、いいよ」
二つ返事で了承したものの、思わずクスクスと笑いが漏れてしまう。私の表情を見て、綾小路くんは不思議そうに眉をひそめた。
「どうした?」
「先に須藤くんたちを誘ってたでしょ?」
「見られていたのか」
「綾小路くんが珍しく人を誘ってたからね。色んな人に断られて、最後にたどり着いたのが私だったわけだ……あ、べ、べつに何か探ろうとしてたわけじゃないからね!」
観察していたことが変な誤解を生むんじゃないかと焦り、私は慌てて両手をぶんぶんと横に振った。そんな私の大袈裟な反応に、綾小路くんは呆れたように息を吐く。
「敏感過ぎだ。疲れるだけだぞ」
そう言われて返事に詰まっていると、綾小路くんは「それじゃあ行こうか」と歩き出そうとした。だがその時――。
「あの……私も……一緒について行っても、いい、かな?」
すぐ近くから、か細い声が響いた。振り向くと、そこには胸の前で手をギュッと握りしめた佐倉さんが立っていた。
近くで私たちのやり取りを聞いていたのか、事情は把握しているらしい。人見知りで大人しい彼女にとって、居心地の悪いクラスの喧騒から離れたいという気持ちもあるようだった。
「もちろん、一緒に行こう」
私が頷くと、佐倉さんはホッとしたように表情を緩めた。
さあ今度こそ出発しようとしたその瞬間、今度は後ろから慌ただしい足音が近づいてきた。
「お、おい! 俺も枝拾い行くぞ! 人手は多いほうがいいだろ!」
山内くんが露骨に佐倉さんの姿を気にしながら、息を切らして参加を表明してきた。佐倉さんと二人きりにさせまいという意図が透けて見えているけれど、断る理由もない。
こうして私、綾小路くん、佐倉さん、山内くんの4人で、枝集めのために森の中へと入っていった。
森に入ると、それぞれ少しずつ距離を広げながら、足元に落ちている手頃な枝を拾い始めた。
静かな木々の中で黙々と作業を進めていると、少し離れた場所にいた佐倉さんが、遠慮がちに私の元へ歩み寄ってきた。
「あの、露草さん……」
「ん? どうしたの、佐倉さん?」
手を止めて振り向くと、佐倉さんは気まずそうに視線を泳がせながら、小さな声で言葉を紡いだ。
「このあいだは……逃げ、ちゃったりして、ごめん、なさい……!」
深々と頭を下げる彼女を見て、私は合点がいった。前回の出来事をずっと気に病んでいたらしい。
彼女は鋭い勘を持っている。私が普段作っている「大人しくて怯えがちな少女」という擬態の裏にある冷徹な素顔を、本能的に察知して恐ろしくなったのだろう。
もちろん、私としても本心から彼女を傷つけたり追いつめたりするつもりはなかった。
「気にしてないから大丈夫だよ」
私はいつも通りの柔らかい笑みを浮かべ、優しく声をかけた。
「あ……う、うん……っ」
だが佐倉さんは、私の笑顔に安らぐどころか、どこか居心地悪そうに身を縮こまらせると、逃げるようにして再び枝集めへと戻っていってしまった。
遠ざかっていく彼女の背中を、私は無表情で見送る。
(気にしてない、なんて……嘘だけどね)
心の奥底で、冷たい感情が静かに渦を巻く。
佐倉さんが私から逃げ出したことで、彼女を経由して「露草千歳の不自然さ」が綾小路くんに伝わってしまったのだと、私は見ている。
もしあの時、彼女が私の素顔に感づいて逃げ出したりしなければ。
今でも彼の中での私は、ただの「恋に一途で、どこか放っておけない女の子」のままでいられたというのに――。
木々の隙間から差し込む光の中で、怯えるように遠ざかっていく佐倉さんの小さな背中を、私はただ、冷めた目で見つめ続けていた。