ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
手頃な枯れ枝を探しながら森の少し奥へと足を踏み入れた時、ふと視界の端に違和感を覚えた。
大きな幹の根元に、背中を預けるようにして一人座り込んでいる少女がいる。
胸騒ぎがして駆け寄ると、うつむいた彼女の頬には、ハッキリと分かるほど赤く腫れ上がった痕があった。
「だ、大丈夫!?」
サバイバルの疲れなどではない。明らかに意図的な暴力を受けた傷跡だ。腫れた頬から相当な痛みが伴っていることが見て取れ、私は思わず痛ましさに息を呑んだ。
「……ほっといてよ。何でもないから」
彼女は顔を背け、冷たい声で突っぱねてくる。けれど、こんなサバイバル環境で手当てもせずに放っておけば、さらに傷が悪化してしまうかもしれない。
「……一緒にベースキャンプに行こう」
「は? 何言ってんの。私はCクラス。あんたの敵ってこと、それくらいわかるでしょ」
彼女は鋭い眼光で私を睨みつけ、一向に腰を上げようとはしなかった。
相手はCクラスの生徒で、こちらはDクラス。損得勘定や合理性で考えれば、他クラスの怪我人にかかわるメリットなんて何一つないのかもしれない。
けれど、目の前で痛みに耐えている人を前にして、素通りすることなんて私にはできなかった。これは演技でも計算でもなく、心の底からの本心だった。
「怪我をしてる人を放っておくなんてできないよ……!」
私は彼女の隣に腰を下ろし、諦めずに説得を続けた。冷たくあしらわれても立ち去らず、怪我の心配と手当ての必要性を一生懸命に伝え続ける。
「……ちっ、しつこいなぁ……」
しばらくして、ついに根負けした彼女は忌々しそうに舌打ちをすると、重い腰を上げて仕方ないといった様子で立ち上がった。
「でもいいわけ? キャンプ場所教えても。しかも案内までするとか」
「それは……大丈夫。たぶん」
「……バカだな、おまえ。相当なお人よし。うちのクラスじゃ考えられない」
心底呆れたように深い溜め息をつく彼女に、私は首を傾げた。
「え? でも、Cクラスには確か椎名さんがいるんじゃ……」
「あいつは本にしか興味ないでしょ。ってか椎名のこと知ってんの?」
「うん。何度か話したこと、あるよ」
図書室で静かに本をめくっていた椎名さんの穏やかな姿を思い出す。
あれ以来、私は彼女の元へ会いに行けていない。読書好きな心優しい少女に見えるけれど……どこか底知れないところのある彼女には、私のついている嘘も、纏っている擬態も、すべてを見破られてしまいそうで会うのが少し怖いのだ。
私の言葉に、少女は少しだけ目を見開いた。
「あいつが人と喋ってるなんて意外」
驚いたように呟きながらも、彼女は先ほどまでの固い態度を少し緩め、歩き始めてくれた。
「あっ。私、露草千歳って言います。あなたは?」
「私は……伊吹」
「伊吹さん、ね」と心の中で名前を反芻しながら、私は安堵の息を漏らした。
それから、少し離れた場所で枝を集めていた綾小路くんたちの元へと向かい、伊吹さんの置かれた事情を説明した。
ある程度枝も集められたということなので、私たちは探索を切り上げ、全員でDクラスのキャンプ地へと戻ることにしたのだった。
キャンプ地に戻ってきた私たちは、ひとまず集めてきた枝を所定の場所に降ろした。
伊吹さんは「他クラスに迷惑はかけられない」と言い張り、ベースキャンプから少し離れた木陰の地面に一人ぽつんと腰を下ろしていた。
怪我の手当てをするためにも、まずはクラスのリーダー的存在である平田くんに報告しようと思ったのだが、あいにく今は席を外しているようだった。
私は近くの川辺へ向かい、手持ちのハンカチを冷たい水でたっぷりと濡らした。固く絞ってから伊吹さんの元へと歩み寄る。
「これ、使って」
差し出すと、伊吹さんは不機嫌そうに顔を背けた。
「……別にいい」
かたくなに受け取ろうとしない彼女に、私は困ったような苦笑いを浮かべて言葉を添えた。
「もう濡らしちゃってるから、このままじゃポケットにしまえないんだよね。使ってくれると助かるんだけど……」
私の理屈(のようなお願い)に伊吹さんは一瞬言葉を詰まらせ、観念したように溜め息をついてハンカチを奪い取った。そして、腫れた頬にそっと押し当てる。
「……ホント、お人よし」
ボソッと小声で吐き捨てられた言葉。
だが、私は彼女がハンカチを受け取ったその瞬間の「手の動き」を見逃さなかった。
(……爪の間が、土で黒く汚れてる)
さっき森で出会った時にも感じていた違和感。ただ座り込んでいただけなら、指先や爪の隙間にこれほどびっしりと土が入り込むはずがない。彼女がただ怪我をして彷徨っていたのではないという確信が、私の中で深まっていく。
午後5時頃。
探索に出ていた平田くんが、櫛田さんたちを連れてキャンプ地へと戻ってきた。
クラスの中心人物たちが帰ってきたことで、それまでバラバラに過ごしていた生徒たちの半数以上が彼らの周囲に集まり始める。
すぐにでも伊吹さんのことを報告したかったのだが、平田くんの周りにはひっきりなしに人が集まり、声をかけるタイミングが掴めない。
どうしようかと様子を伺っていると、ふと側で池くんが篠原さんに声をかけているのが目に入った。
「……なあ、篠原。今日一日考えてみたんだけどさ。こんななんもない島でトイレのない生活なんてキツイよな。ポイントを守るためだからって、言い過ぎた。悪かったよ」
頭をかく池くんの言葉に、篠原さんも少し毒気を抜かれたような表情を浮かべた。
「私も……さっきはごめん。感情的になりすぎてたと思う。少しは自分たちで何かやらないとポイントは残せないよね」
互いに頭を下げ合う二人。それから篠原さんは私の視線に気づくと、少し気まずそうに歩み寄ってきた。
「露草さんも、さっきはごめんね」
「ううん、大丈夫」
微笑んでそう返すと、篠原さんはホッとしたように頷き、女子たちの輪へ戻っていった。
池くんの素直な謝罪のおかげでギスギスしていた雰囲気が和らぎ、クラス全体にどこか温かい一体感が生まれつつあるのが分かった。
集まった全員を見渡しながら、平田くんが通る声で今後の方針を語り始める。
「みんな、集まってくれてありがとう。水や食料の確保、ベースキャンプの環境維持について、これからは役割分担をして協力して乗り切ろうと思うんだ」
彼が提示する合理的で優しい方針に、クラスの誰もが納得の表情で頷く。
そして、平田くんの話が一区切りついたその時だった。
「ねえ、ところでさ……あの子、Cクラスの伊吹さんだよね? 前に見たことあるんだけど」
軽井沢さんと仲が良い佐藤さんが、離れた木陰に座る伊吹さんを指差して声を上げた。それをきっかけに、視線が一斉に伊吹さんへと集まる。
「あ、実はね……」
良い機会だと思い、私は静かに手を挙げて経緯を説明した。森の中で怪我をして動けなくなっていたこと、見過ごせなくて連れてきたことを伝える。
事情を聞き終えた平田くんは、穏やかに頷いた。
「なるほど。それは正しい判断だよ、露草さん。怪我をしている人を放っておくわけにはいかないからね」
しかし、すべての生徒が彼のように寛容なわけではなかった。
「ちょっと待ってよ。いくら怪我してるからって、他クラスの奴を置いとくの?」
「スパイかもしれないじゃん! 情報を探りに来たんじゃないの!?」
クラスメイトたちから次々と懸念や疑念の声が上がる。サバイバルという極限状態ゆえの正当な警戒心だった。
動揺が広がりかける中、平田くんは落ち着いた態度で全員を見渡した。
「みんなの言うことも分かるよ。だから……今からそれを確かめてくる」
平田くんは一度伊吹さんの方へ視線を向けると、私と、そして少し後ろにいた綾小路くんに向かって優しく語りかけた。
「露草さん、いいかな?」
「うん、分かった」
私は小さく頷き、平田くんの後に続いてベースキャンプから少し離れた木陰へと向かった。
そこでは伊吹さんが、相変わらず不機嫌そうに膝を抱えて座り込んでいた。手渡した濡れハンカチはすでに冷たさを失っているのか、彼女の膝の上にぽつんと置かれている。
「少し時間いいかな。伊吹さん? 詳しく話を聞きたいんだけど」
平田くんは威圧感を与えないよう、彼女の目線に合わせてその場に屈み込み、柔らかい声で話しかけた。
だが、伊吹さんは不快感を露わにして立ち上がり、そのままどこかへ去ろうとする。
「邪魔だろ私は。世話になったな」
「ちょっと待って。何があったのか聞かせてもらいたい……力になりたいんだ」
平田くんは慌てることなく、真摯な眼差しで彼女の前に立ち、優しく語りかけた。こんなサバイバル環境で、傷ついた女子生徒をそのまま森へ追い返すことなんてできない――彼の言葉には一切の嘘偽りがなく、どこまでもまっすぐだった。
その真情が伝わったのか、伊吹さんはどこか悟ったかのような表情を浮かべると、諦めたように重い口を開いた。
「……クラスのある男と揉めた。それでそいつに叩かれて追い出された、それだけだ」
忌々しそうに腫れた頬に触れながら吐き出す彼女の言葉には、生々しい憤りが籠もっていた。
伊吹さんの話を聞き終えた平田くんは、痛ましそうに目を細めると、しっかりと頷いた。彼女を保護することに決めたらしい。
「露草さん、伊吹さんを見ていてもらえる? 僕は今から皆に事情を話してくるから」
「うん、分かったよ。任せて」
私が頷くと、平田くんは伊吹さんに「すぐ戻るからね」と言い残し、クラスメイトたちが待つ賑やかな輪の中へと戻っていった。
遠ざかっていく平田くんの背中を見送った後、伊吹さんは心底呆れたように吐き捨てた。
「……お人よしばっかだな。Dクラス」
「誰だってそうだよ。それよりハンカチ、また濡らしてこなきゃ。ついでに何か食べるものも貰ってこよっか」
そう言って、私は彼女の細い手首をギュッと掴み、そのまま一緒に立ち上がらせようと引っ張った。
「……っ、なんで手掴むんだよ」
突然腕を引かれた伊吹さんは、あからさまに嫌そうな顔をして手首を振り払おうとする。けれど、私は掴んだ手にそれとなく力を込め、容易には解けないようにした。
「平田くんに『見ていて』って言われたから。目を離したら、伊吹さんまたどっか行っちゃいそうだし」
「離せよ!」
「いいからいいから」
「ちょっと、引っ張るなって……!」
「はいはい、転ばないように足元気をつけてねー」
嫌がって突っぱねようとする伊吹さんと、それを「まあまあ」と笑顔でいなしながら半ば強引に引っ張っていく私。
平田くんの説明に耳を傾けていたクラスメイトたちがふとこちらに視線を向けると、そこにはなんとも言えない妙な距離感で押し問答を繰り広げる女子二人の姿が、バッチリと映り込んでいたのだった。
平田くんの説得により、伊吹さんの保護は正式に決定した。
当然、クラスメイトたちからは「スパイかもしれないのに」と反対の声が上がったけれど、平田くんの説明はとても合理的だった。伊吹さんがうちのキャンプにとどまるということは、彼女がCクラスの点呼に参加できないことを意味する。点呼に不在となればCクラス側にペナルティが与えられるため、結果としてDクラスにとってはアドバンテージになる――そう説明されると、みんなも渋々ながら納得してくれた。
とはいえ、いくら保護するからといって無防備に受け入れるわけにはいかない。伊吹さんには、拠点(スポット)を占有する装置には絶対に近づかないことを約束してもらった。万が一、リーダーの情報や装置の仕組みを知られればこちらの大きな損害になるからだ。それはお互いのための当然のルールだった。
そして現在は、ポイントで購入した食べ物と水のセットを使っての食事時間。
買い取ったセットはクラス人数の40人分ぴったりしか購入できなかったため、当然ながら余分な食料はない。
「はい、伊吹さん」
私は自分の分の栄養食を半分に割り、未開封のペットボトル1本と一緒に彼女へ差し出した。
「……なによ」
「私はこれくらいで十分だから。食べて」
一瞬拒むような視線を向けられたけれど、拒絶したところで私が折れないと察したのだろう。伊吹さんは溜め息をひとつ吐くと、黙ってそれを受け取った。
周囲でみんなが手持ちの食料を口に運ぶ中、ふと辺りを見回していた平田くんが不思議そうに首をひねった。
「あれ? そういえば……高円寺くんは?」
そう言われてみれば、森で姿を見失ってから一度も彼の顔を見ていない。
平田くんの疑問に答えたのは、近くで腕を組んでいた茶柱先生だった。
「高円寺なら体調不良を訴え、リタイアした。ポイントは30差し引かれ、一週間船内で治療と待機が義務付けられた」
あまりにも淡々と告げられた絶望的な事実に、一瞬、その場の全員が凍りついた。
そして――。
「「「ええええええええええ!?」」」
Dクラス全員の絶叫にも似た衝撃の悲鳴が、夕闇の迫る無人島の空へと響き渡ったのだった。
しかし、クラス全員が絶望の悲鳴を上げる中、千歳だけは「高円寺くんがいないなら、あの余った一人分の食料をもらえないかな……」とちゃっかり計算していた。