ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
翌日からの学校生活は、私にとって針のむしろの上で過ごすようなものだった。
私のすぐ前には、あの白い部屋でどれだけ手を伸ばしてもその背中さえ霞んで見えなかった男、綾小路清隆。そしてその隣には、周囲の空気など一顧だにしない黒髪の孤高の少女。
教室の最後方、窓際のこの一角だけが、私にとって逃げ場のないケージのように感じられてならなかった。
授業中、すぐ前の背中から放たれる圧倒的な気配に、私の心臓は常に削られるように脈打っている。彼に怪しまれないよう、私は授業中、「平均的な凡人」の擬態を徹底した。適度に背中を丸め、適度にノートを取り、適度に退屈そうな顔を作る。全神経をすり減らすような職人技だ。
そんなある日の授業中、プリントの配布をきっかけに、私はどうしても避けたかった彼らとの接触を余儀なくされた。
自分の思考に没頭するあまり、前から回ってきたプリントの存在に気づくのが一瞬遅れてしまったのだ。
「……露草?」
不意に、すぐ前から抑揚のない声で名前を呼ばれた。心臓が跳ね上がる。
見れば、綾小路がプリントを後ろに回そうと、半身をこちらに向けて待っていた。死んだような、だけどすべてを見透かすような瞳が私を捉える。
私は顔面に引き攣りそうな「無害なお面」を必死に張り付けた。
「あ、ごめんなさい! ありがとう、綾小路くん……っ」
かすれそうになる声を絞り出し、慌ててプリントを受け取る。彼がすぐに前を向いた後、私は肺の空気をすべて吐き出すように深く息をついた。
……だが、その瞬間に奇妙な悪寒が走った。
ほんの一瞬、プリントを受け取った刹那の交錯。彼はただ私を見ていただけだったのだろうか。私の指先の微かな震えを、表情のわずかな硬直を、あの男は見逃さずに観察していたのではないか──そんな疑念が頭をもたげ、背筋に冷たい汗が伝う。
押し寄せる恐怖を誤魔化すように、受け取った束を手元で捌いていると、なぜか私の分とは別に、複数枚のプリントが重なっていることに気づいた。どうやら前の席の誰かが、余りごとそのまま後ろに回してしまったらしい。
私はもう一度、震える喉を無理やり鳴らして、前の彼の背中に声をかけた。
「あ、あの、綾小路くん。これ、後ろに回ってきたプリントの余り……。先生に返した方がいいのかな?」
「……さあな。教壇の端にでも置いておけばいいんじゃないか」
やはり抑揚のない、どこか世間を達観したような声。
──いや、違う。達観しているのではない。彼はただ、この「一般社会」における普通の高校生としての振る舞い方、その正しい温度感を掴みあぐねているのだ。外の世界の常識を知らないはずの彼が、どうにか周囲に溶け込もうと不器用に言葉を選んでいる……そのぎこちなさの裏に潜む圧倒的な異質さが、私には恐怖でしかなかった。
すると、その隣の席から、氷のように冷たい視線がこちらに突き刺さった。隣の黒髪の少女が、黒板の文字を完璧にノートへと板書する手を止め、鬱陶しそうに小さく溜息をついたのだ。
「静かにしてもらえるかしら。ノートを取る邪魔よ」
その一言に含まれた他者を一切寄せ付けない拒絶に、私は本能的に肩を震わせた。
「あ、ご、ごめんなさい……っ」
慌てて謝る私を見て、綾小路は相変わらずの無表情のまま、ボソリと小さく呟いた。
「気にするな。あいつは堀北鈴音。四六時中あんな感じだから、関わらない方がお互いのためだ」
「……ちょっと、綾小路くん。勝手に人の名前を教え込まないでくれる?」
堀北と呼ばれた少女がシャープペンシルを机に置き、鋭い眼差しで綾小路を睨みつける。二人の間で繰り広げられる静かな応酬を前に、私は「えっと、じゃあ私、プリント返してくるね……!」と、気弱な少女らしく慌ててその場を離れた。
堀北鈴音。関わるなと言われるまでもない。あの苛烈なプライドと拒絶のオーラは、目立ちたくない私にとっては天敵のような存在だ。そして何より、そんな彼女と平然と言葉を交わしながら、外の世界を学習しようとしている綾小路の底知れなさが、改めて私の心に冷たい影を落とした。
その日の放課後、体育館で『部活動紹介』が行われるというアナウンスが流れた。
教室の生徒たちが「何部入るー?」などと色めき立つ中、私はカバンを抱えてそっと席を立った。
(部活動……余計な人間関係を増やすだけの、百害あって一利なしのイベント。私には関係ない)
白い部屋では、能力を誇示し、限界を超える技術を叩き込まれるのが義務だった。だが、この外の世界では、目立たないことこそが最大の防衛だ。部活に入れば、実力を測られる機会が増え、先輩や同級生との関わりで擬態が剥がれるリスクが高まる。
体育館へと向かう大勢の生徒たちの流れに逆らい、私は一刻も早く気配を消すように、一人で校舎を抜け出した。
そのまま学校敷地内にあるケヤキモールへと足を向けたのは、生活必需品を買い揃えるため、そしてこの学校の「システム」を少しでも観察するためだった。
店内は、10万ポイントという大金を手にして気が大きくなった生徒たちで溢れ返っていた。高額なゲーム機やブランド物の化粧品をカゴに放り込む他クラスの生徒たちを横目に、私は最も安価なトイレットペーパーやノートを探す。
その時、棚の最下段、埃を被るような隅のスペースに、妙なポップが貼られているのを見つけた。
『無料物品・お一人様一点まで』
置かれていたのは、一切のデザインが削ぎ落された、真っ白なパッケージの歯ブラシや、必要最低限の機能しかなさそうな固形石鹸だった。値札には確かに『0p』と印字されている。
(無料……? 10万ポイントなんて大金を全員に配っている学校が、わざわざこんな貧相な無料の救済措置を用意している……?)
その歪さに、私の思考回路が急速に回転を始める。
毎月10万円が何のリスクもなく手に入るなら、こんな誰も見向きもしない無料の歯ブラシなど、この学校に存在する意味がない。
学校の優しいボランティア制度だろうか。いや、違う。私の本能が、冷酷な答えを弾き出した。
(違う。これは、ポイントを全て失った生徒が『最低限餓死せず、生存だけはできるようにする』ための檻のセーフティネットだ)
裏を返せば、それはつまり──本当にポイントがゼロになる状況が、この先に確実に用意されているということ。
本当に来月、また10万ポイントなんて大金が何事もなく振り込まれるのか。答えは否だ。この4月は、ただの「泳がせ期間」に過ぎない。
私はその無料の石鹸を一つだけ手に取り、自分のカゴへと入れた。この違和感に気づいている生徒が、今のクラスにどれだけいるだろうか。おそらく、私の前の席にいるあの男くらいなものだろう。
──しかし、そんな私の「徹底した事なかれ主義」を、一般社会のルールは簡単に許してはくれなかった。
「あ、露草さん! お疲れ様!」
4月中旬の放課後、目立たないように最後に出ようと教室に残っていた私に、満面の笑みで近づいてくる影があった。クラスの人気者、櫛田桔梗だ。
彼女は両手をきゅっと握りしめ、天使のような善意を全身からオーラのように放っている。
「まだクラスに馴染めてないみたいだから心配だったの。良かったら、今からみんなとケヤキモールのカフェ行かない?」
至近距離で見る櫛田の笑顔、完璧な声のトーン、細やかな視線の配り方。
それらを目にした瞬間、私の背筋に本能的な寒気が走った。
(この子、私と同じだ。……いや、私なんかよりずっと高いレベルで『完璧な理想の少女』を演じてる)
そこに本物の善意などない。恐ろしいほどの計算と、徹底された「お面」。私は直感した。この少女には、絶対に深く関わってはいけない。
「あ、ありがとう櫛田さん……っ。でも、私、ちょっとまだ体調が万全じゃなくて、今日は寮に戻るね。誘ってくれて嬉しい……!」
気弱で内気な少女の演技を120%発揮し、私は彼女を不快にさせない完璧な態度で、どうにかその場を切り抜けた。
──だが、それも一度きりだった。
数日後の放課後、櫛田は再び私の前に現れた。
「露草さん、体調はもう大丈夫? 今日こそ、みんなでパフェ食べに行こうよ!」
彼女の背後には、すでに櫛田を中心として固まりつつある女子グループの姿があった。
私は一瞬で理解した。一般社会、特にこの年頃の『女子のコミュニティ』において、人望を集めるカリスマからの好意を二度も無下にすることは、致命的な悪目立ちを意味する。「あの子、また断るんだ」という女子特有の無言の、だけど鋭利な視線が、私の肌をチリチリと焼く。ここで断れば、私は『協調性のない異分子』としてコミュニティから排除され、逆にマークされる。それだけは、何としてでも避けなければならなかった。
「わあ、嬉しい……っ! ぜひ行かせて!」
私はパッと顔を輝かせ、嬉しさに声を弾ませる内気な少女を完璧に演じてみせた。
カフェでの時間は、さながら戦場だった。
周りの女子たちの会話のテンポ、相槌の打ち方、スマホの画面の見せ合いっこ。私はそのすべてに全神経を集中させて「普通の女子高生」を模倣した。
空間に溶け込むため、周囲の視線に合わせて、大して欲しくもない、期間限定の高いパフェや、お揃いのファンシーな雑貨を購入させられた。
(……途方もない、エネルギーとポイントの消費だ)
ただ静かに、削られていくような疲弊感を覚えながらも、これも「一般社会という戦場での生存経費」だと割り切る。
口座の残高が10万のまま全く減っていなければ、それもまた「何で使わないの?」と怪しまれる原因になる。あの無料の石鹸の存在を知った今、この散財は、周りに溶け込み、私の残高をカモフラージュするためにも絶対に外せないコストなのだ。
だけど──4月も終盤になると、クラスの空気は目に見えて腐り始めていた。
授業中の激しい私語、居眠り、スマホ。それなのに、教壇に立つ茶柱先生はそれを一切注意せず、ため息さえつかず、ただ冷ややかな目で見守っている。
私はその先生の「視線」に気づき、確信していた。
(先生は、私たちの減点ポイントを数えている。やっぱり、この10万ポイントには最悪の裏がある)
私は絶対に授業中、私語もしないし寝もしない。だけど、一人だけ背筋を伸ばして真面目に受けすぎると、それもまた悪目立ちする。悩んだ末、私は「背筋は適度に丸めつつ、目だけはしっかり黒板を追ってノートを取る」という、誰も気に留めない、だけど決して減点はされない極限の擬態を編み出した。
そんなある日の放課後、斜め前の席の堀北鈴音が、不意に、鋭い一瞥を私に投げかけてきた。
「あなた、いつも怯えた小動物みたいに周囲をキョロキョロ見ているわね。正直、目障りよ」
心臓が跳ね上がる。他者を一切寄せ付けない冷徹な視線。私は慌てて、おっとりとした気弱なお面を引っ張り出した。
「えっ、ご、ごめんなさい……! 私、人見知りだから、どうしても緊張しちゃって……」
堀北はそれ以上何も言わず、ふんと鼻を鳴らして前を向いた。どうにか切り抜けられたようだったが、私は冷や汗で制服が肌に張り付くのを感じていた。
そして、4月30日。
月末の3時間目、担任である茶柱先生の社会の授業中、突如として教壇から冷淡な声が響いた。
「今から小テストを行う。机の上を片付けろ」
教室内から「ええーっ!?」「聞いてないよ!」と不満の声が上がる中、茶柱先生は淡々とプリントを配っていく。
「安心しろ。このテストの点は今後の参考用だ。成績表に反映されることはない」
配られたのは、5教科から4問ずつ出題された、計20問、100点満点のテストだった。
最初の17問を見て、私は小さく息を吐く。ほとんどの問題が、一般社会の高校受験のレベルよりも2段階ほど落ちる、拍子抜けするほど簡単なものだった。Dクラスの生徒たちでも、真面目にやっていればそれなりの点数が取れる難易度だ。
──しかし、ラストの3問を見た瞬間、私のペンがピタリと止まった。
(……何、これ……っ)
桁違いだ。大学入試、あるいはそれ以上の、悪意すら感じるほどの超難問。白い部屋の教育を途中で脱落した今の私の知識では、どれだけ脳細胞を絞っても、到底解き明かせないレベルの数式や問題が並んでいた。
私は早々にラスト3問を諦め、最初の17問の解答を、わざと「数問間違えた凡人の点数」になるよう調整して記入した。
「よし、後ろから前へ回収しろ」
茶柱先生の指示が下る。最後列の私は、自分のテスト用紙を手に立ち上がり、前の席の綾小路へと提出しなければならない。
私は自分の解答を見られないよう、用紙を裏返すようにして、彼の背中に近づいた。
「……綾小路くん、はい」
声をかけると、綾小路がゆっくりと振り返った。
その瞬間、私は彼の机の上に置かれているはずのテスト用紙に、どうにか視線を走らせようとした。
あの部屋の男だ。この簡単すぎる17問と、異常なラスト3問の歪さに、気づかないはずがない。
(綾小路くん、あなたは……一体何点取るつもりなの?)
しかし、私の予想はあっさりと裏切られた。
振り返った彼の机の上には、すでに完璧に裏返され、白紙の裏面しか見えない状態のテスト用紙が置かれていたのだ。私が声をかける直前、あるいは立ち上がった瞬間に、彼は私の視線を予測して隠したのだろうか。解答欄は、文字通り一文字たりとも見ることができなかった。
完璧な隠蔽。それを見せつける風でもなく、彼は相かわらずの死んだような横顔のまま、私のプリントを受け取り、自分のものと重ねた。
「ああ」
それだけ言うと、彼はすぐに前を向き、集まったプリントをさらに前の席へと回していった。
その隙のないガードの固さに、私は背中に冷たいものを感じながら自分の席へと戻った。
その日の夜。
スマホの画面に表示されたポイント残高を見つめながら、暗雲が立ち込めるような嵐の予感に、私はただ静かに身を震わせる。
(明日、この優しくて残酷なモラトリアムが終わる。……耐えろ。私はただの背景。何が起きても、絶対に巻き込まれてはいけない──)
5月1日の朝が、すぐそこまで迫っていた。