ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
翌朝、薄明るくなった空と小鳥のさえずりで目が覚め、私は静かにテントの外へと出た。
朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、顔を洗おうと川辺へ向かうと、そこにはすでに先客がいた。
「堀北さん、おはよう」
「おはよう、露草さん」
「昨日は全然話せなかったね」
「そうね。ゆっくりしている余裕は無かったもの。あなたはほとんど綾小路くんと行動していたんじゃなかったかしら?」
言われてみれば、昨日は確かに彼と一緒の時間が長かったな、と思い返す。
「うん。スポット探索と枝集めに一緒したかな。そのあとはずっと伊吹さんと一緒だったから」
「伊吹さん……ね。彼女はスパイの可能性は無いのかしら」
その疑いは当然晴れていないし、私自身も裏ではその可能性を十二分に考えている。
けれど、疑いを持ちながら彼女の面倒を甲斐甲斐しく見ているのは、周りから見ればどうしても違和感が残ってしまうだろう。だから今は、彼女を素直に心配する「お人好しな女の子」の態度を徹底して取らせてもらう。
「ほっぺた、あんなに赤く腫れて痛そうだったよ? 嘘をついてるようには見えなかったかな……それに、クラスの男の人と喧嘩して追い出されたって言ってたし」
私が心配そうに眉をひそめて答えると、堀北さんは川面に視線を落としたまま、静かに息を吐いた。
「……確かに、あの怪我が芝居だとしたら相当な覚悟ね。けれど、相手はあのCクラスよ。どんな手段を使って探りを入れに来るか分からないわ」
「堀北さんは慎重なんだね。でも……怪我をして困っている人を、あのまま森の中に放っておくなんてできなかったよ」
困ったように苦笑いを浮かべてみせると、堀北さんはこちらに向き直り、厳しいけれどどこか柔らかい眼差しを向けてきた。
「あなたがお人好しなのはよく分かったわ。助けたことを責めるつもりはないけれど……警戒だけは怠らないで頂戴ね。私たちが隙を見せれば、つけ込まれることになるわ」
「うん、気をつけるね。ありがとう、堀北さん」
素直に頷きながら、私は冷たい水で顔を洗う。
堀北さんの言っていることはもっともだ。伊吹さんへの警戒は、今後もしっかりと続けていく必要がある。
そしてもうひとつ、気になっていることがある。伊吹さんのあの指先と爪の間の土汚れ――ただ怪我をして森を彷徨っていただけでは説明がつかないあの異質な汚れについては、後で彼に……綾小路くんに報告しておかなければならない。
「じゃあ、私そろそろ戻るね。堀北さんも大変だろうけど、あまり無理しないで」
「ええ、ありがとう」
堀北さんにひとこと声をかけてから、私は朝の澄んだ空気の中を歩き出し、クラスメイトたちが動き始めようとしているベースキャンプへと足を向けた。
森を抜ける直前の茂みから見えた浜辺には、信じられない光景が広がっていた。
Cクラスの生徒たちが水着姿になり、浜辺で遊びつくしていたのだ。仮設トイレやシャワー、パラソル、チェアーにバーベキューセットまで用意されており、沖合では水上バイクに乗って悲鳴を上げながら楽しんでいる生徒の姿まである。
相当なポイントを惜しげもなく使っている。節約する気など微塵もないのだろう。
(Cクラスの王、龍園くん……どうやら彼はこの試験に真面目に参加する気が無いみたい)
おそらく一気にポイントを使い切り、早々にクラス丸ごとリタイアする腹なのだろう。だが、真の狙いはそこではないはずだ。
(自らは豪遊してリスクをゼロにし、リーダー探しは伊吹さんに任せて、最後のリーダー当てで一気に特別ポイントを稼ぐ気なんじゃ……?)
「わざわざ挑発しにくるわけね。こんな状況なら、節約してサバイバル生活している他のクラスなんてバカバカしく見えているでしょうね」
少し前、Cクラスの生徒2名がDクラスの拠点に現れ、ポテチを片手に煽りにやってきた。Cクラスの状況が気になった堀北さんと綾小路くんが見に行くと聞き、私もついてきたのだ。
「確かめに行きましょう。Cクラスがどういうつもりでこんなことをしているのか」
3人で浜辺を進んでいると、男子生徒がこちらに気づきチェアーに寝そべる男子と話し、こちらへ歩み寄ってきた。
「あの、龍園さんが呼んでます……」
「――どうする?」
「いいわ。どういうつもりなのか興味はあるし、行ってみましょう」
綾小路くんの問いに、堀北さんは迷いなく答え、龍園くんのもとへと向かった。
パラソルの下で優雅に寝そべる龍園くんの傍へ近づく。
「よう。こそこそ嗅ぎまわってると思ったら、お前らか。俺に何か用か?」
「随分と羽振りがいいわね。相当、豪遊しているようだけど」
「見ての通りだ。俺たちは夏のバカンスってやつを楽しんでるのさ。つまり、この試験中お前らの敵にはなりようがないってことだ。わかるだろ?」
「敵とか言う以前の問題ね。警戒してここに来た私がバカだったわ」
「はっ、そうだな。このくそ暑い無人島で、100だか200だかの小さなクラスポイントを拾うため、お前らは飢えや暑さに耐える。想像しただけで笑えるな」
堀北さんは彼女なりにこの試験の解釈を述べて反論するが、龍園くんは鼻で笑うばかり。自分にも、この試験にも、彼がまともに取り合うつもりがないと判断した堀北さんは、その場を去ろうと背を向けかける。
堀北さん、呆れているからか大事な件を忘れている。私は慌てておずおずと口を開いた。
「あ、あの……伊吹さんのことについて、なんだけど……」
私のような取り巻きには興味もないのか、龍園くんは「ああ?」と不機嫌そうに低音を響かせ、ギロリと凶悪な眼光を向けてくる。
私は演技で小さく肩をすくめ、身を縮こまらせて怯えてみせた。
すかさず堀北さんが私の肩を優しく掴み、背後に下がらせるようにして庇ってくれた。
「あなたは、当然伊吹さんを知っているわね。彼女、顔を腫らしていたけれど……誰がやったの?」
問い詰められた龍園くんはあっさりと、彼女と対立したため頬を叩いたことを認めた。さらに、もう一人男子生徒が怒って出て行ったらしい。
「あなた……初日で全てのポイントを使い切ったのね?」
二人の生徒の不在。それは毎日の点呼時にペナルティが科されることを意味する。それをまったく気に病まない様子は、堀北さんの予想通りだった。龍園くんもそれを隠そうともしない。
今回の特別試験において、クラスポイントがマイナスになることはない。彼の作戦は、まさにそのルールを逆手に取った無茶苦茶な豪遊だった。
だが、妙な違和感を感じる。それはなぜだろう。
「結局、凡人どもには単純な考えしか浮かばないのさ。ポイントを守ろうと躍起になる。相手リーダーを探り、スポットを必死に押さえ、汗だくで森を駆けまわる。ご苦労なことだ」
龍園くんは喉を鳴らして可笑しそうに笑う。
「そこまでやったところで、お前らDクラスの不良品どもじゃ、満足にポイントなんか残せねえだろうな。勝手に潰れて崩壊する」
「……つまらない挑発ね。何を根拠にそんなことを言っているのかしら」
堀北さんが冷ややかな視線を向けたその時、龍園くんはニヤリと口角を上げ、私の目をじっと見据えてきた。
「そこのビビり女は、俺たちがあの赤髪野郎にちょっかいかけることを知ってて黙ってやがった」
「……えっ?」
唐突に飛び出した言葉に、私は思わず目を丸くして身をすくめた。龍園くんは私のおどおどした反応を心底楽しむように、凶悪な笑みを深めた。
「し……しらない!そんなこと……!」
唐突に振られた矛先に、私は思わず声を上ずらせて身を縮こまらせた。今にも泣き出しそうな表情を作り、おどおどと視線を彷徨わせて全身で否定してみせる。
「落ち着きなさい、露草さん。この男はこちらを揺さぶっているだけよ」
堀北さんは動揺した私を庇うように一歩前に出ると、冷厳な声で龍園くんを射抜いた。
「それより、須藤くんの件、今あなたがちょっかいをかけると言ったけれど……やはりあなたたちCクラスの策略だったと認めたようね。この件、学校側に報告してもいいわよね?」
だが、龍園くんは動じる素振りすら見せず、可笑しそうに肩を揺らした。
「策略? なんのことだ。今言った冗談のことなら、そこのビビり女が聞いてないって否定しただろ」
どこまでも人を喰った態度で白々しく言い放つ。自分の発言ひとつでこちらが動揺するのを、まるで娯楽のように楽しんでいる顔だ。
「だが内容は違うが、俺たちの会話を聞いたってのは本当だよなぁ?ケヤキモールで俺とビビり女が話している所を多くの奴らが見ていたぜ。おい、ビビり女。石崎はなんて漏らしてたんだっけなぁ?」
確かに、石崎くんが「Dクラスをハメる」と言っていたこと、ハッキリと覚えている。その後、現れた椎名さんには「ハメる」の部分は言わなかった。探りを入れられている可能性があり、足を止めた理由に他意はなかったと思わせたかったからだ。
「……私には、Dクラスがどう、としか、聞こえません……でした」
「本当か?その程度でわざわざ足を止めたのか?もっと重要な何かを聞いちまったんじゃないのか?」
「ほ、ほんとです……! すごく怖い顔で話していたから、びっくりして固まっちゃっただけで……っ! 私、本当に何も聞いてなくて……!」
私は今にも泣き出しそうな声を絞り出し、必死に首を横に振った。弱々しく肩を震わせ、すがりつくような視線を堀北さんへと向ける。
(……龍園くんの狙いは、堀北さんに私への疑念を植え付けること。ここで下手に事実を口にすれば、Dクラス内に余計な混乱と不信感が生まれて彼の思うツボだ)
「いい加減にしなさい、龍園くん」
狙い通り、堀北さんが毅然とした立ち振る舞いで私を完全に背中に隠し、龍園くんを冷徹な眼差しで射抜いた。
「根拠のない言いがかりで私のクラスの生徒を脅すのはやめて頂戴。いくらあなたが試験を放棄したからといって、不愉快な嫌がらせにつき合う気はないわ」
「クックック……脅す? 冗談だろ。俺はただ、そのビビり女が何か隠してねえか親切に聞いてやっただけだ」
龍園くんは喉を鳴らして不気味に笑うと、興味が失せたように視線を外した。
「まあいい。お前らがどれだけ仲良しごっこを続けようが自由だが……精々、後ろ足引っ張られないように気を分けることだな。用が済んだならさっさと消えろ。俺たちのバカンスの邪魔だ」
「行くわよ、綾小路くん、露草さん」
堀北さんは二度と龍園くんを振り返ることなく、私の背中に優しく手を添えて歩き出した。
背後から響くCクラスの賑やかな喧騒と波の音を遠ざけながら、私たちは静かな森の道へと戻っていく。
「露草さん、大丈夫? あの男の戯言なんて気にすることはないわ。あなたを動揺させてクラスを乱そうとしただけだから」
木漏れ日が差し込む木々の中で、堀北さんが立ち止まり、気遣うように声をかけてくれた。
「うん……ありがとう、堀北さん。すごく怖かったから……守ってくれて嬉しかったよ」
私はほっとしたように胸に手を当て、気弱ながらも素直な感謝を口にする。
(堀北さんはすっかりCクラスを『脅威にならない脱落者』として処理しちゃったみたいだけど……本当の仕掛けはこれから。伊吹さんのあの爪の間の黒い土汚れ――Dクラスの拠点やスポットを探り回った痕跡について、早めに綾小路くんに共有しておかないと)
不安そうな表情を取り繕いながら、私は隣を歩く綾小路くんにちらりと視線を送る。
彼は相変わらず感情の読めない無表情のまま、静かに森の先を見つめて歩いていた。
「ふたりとも、ごめんなさい。先に拠点へ戻っていてくれる?」
浜辺を後にしようとしたその時、ふと視界の端にとまった影に足を止め、私はふたりに向き直った。
「……さっきの龍園くんとのことがあったばかりよ。今はCクラスの生徒と接触するのはやめておいたほうがいいわ」
堀北さんが心配そうに眉をひそめ、真剣な制止の声をかけてくる。龍園くんにあらぬ疑いをかけられた直後だからこそ、彼女が警戒するのも無理はない。
けれど、私は少しだけ困ったような、でも譲れない意志を込めた微笑みを浮かべて首を振った。
「大丈夫。どうしても……あの子と話しておきたいの」
「……そう。分かったわ。でも、長居はしないで頂戴ね」
私の表情から何かを感じ取ったのか、堀北さんはそれ以上深く追及することなく静かに頷いてくれた。隣の綾小路くんも何も言わず、ただ無言で私を一瞥すると、堀北さんと共に先へと歩を進めていく。
ふたりの背中を見送ってから、私は砂浜の少し離れた場所へと向かった。
木陰に立てられたパラソルの下。ビーチチェアーに腰掛け、海を眺めている少女の姿があった。
フリルがあしらわれた水色の水玉模様が入った控えめなワンピース型の水着に、大きな麦わら帽子。風に揺れる灰色の髪が、真夏の陽光を浴びて透き通るように輝いている。
「……椎名さん」
声をかけると、麦わら帽子の
「あら、露草さん。こんなところでお会いするなんて奇遇ですね」
椎名さんはふんわりとした柔らかい笑みを浮かべ、パタパタと胸元を手で仰ぐ。
「お話できる方がいらしてくれてうれしいです。荷物はすべて船の中。大好きな本も読めませんし、……少し暇を持て余していたところなんです」
「ふふ、椎名さんらしいね。……あのね、ずっとちゃんと会いに行けなくてごめんなさい」
申し訳なさそうに眉を下げて謝る私に、椎名さんは優しく目を細め、首を横に振った。
「いいんですよ、気になさらないでください。Dクラスは須藤くんの暴力事件や、堀北さんの良くない噂の件でずっとバタバタしていましたから。仕方ありません。ってCクラスの私に言われたくはありませんよね」
自虐混じりにくすりと笑う椎名さんは、どこまでも穏やかで、何の毒気も感じさせない。
「そんなことないよ……本当に、ごめんね」
私は気まずそうに目を伏せ、申し訳なさそうに声を落とした。
けれど――私の胸の奥に渦巻いていたのは、罪悪感などではなかった。
時間なんて、作ろうと思えばいくらでも作れた。
図書館へ行けば彼女に会えることも、本の話を口実に会話の機会を作れることも、分かっていたのだから。
それでも私が彼女に近づかなかった本当の理由。
それはDクラスのゴタゴタのせいでも、忙しさのせいでもない。
ただ、椎名ひよりという少女が怖かったからだ。
龍園くんという暴君のすぐ近くに佇みながら、一切の濁りを見せない淡々とした佇まい。何事にも執着しないように見えて、ふとした瞬間に本質を鋭く射抜いてくるような、あの静けさ。
自分の本性を隠して「無害でお人好しな少女」を演じている私にとって、彼女のその浮世離れした聡明さは、いつ化けの皮を剥がされるか分からない恐怖そのものだった。
「Cクラス、なんていうか……すごいね」
言葉を選びながら、波打ち際で大はしゃぎするCクラスの生徒たちへと視線を向ける。
「そうですね」
椎名さんは小さく頷き、パラソルの影から賑やかな浜辺を眺めた。
「ですが、龍園くんが決められたことですから、私は従うだけです」
少し申し訳なさそうに、苦笑交じりの笑みを浮かべる彼女。その態度には、クラスの異常な状況に対する不満も、龍園くんに対する恐怖も感じられない。ただ、決定事項として淡々と受け入れているだけだ。
そして、訪れた会話のネタがない沈黙。何かないかと急いで探し、思考が脳内をぐるぐる回っている。
「え……えーっと……」
「露草さんは不思議な人です」
「……え?」
不意に投げかけられた言葉に、私は胸の奥が跳ねるのを感じながら首をかしげた。
「人を怖がっているのに、自分から近づいてきますから。話題もないのに、無理に話しかけてきたり」
波の音に紛れるような、どこまでも静かな声だった。けれどその言葉は、鋭利な針のように私の胸の深くだけを的確に刺してくる。
(……見抜かれている、のかな)
それは自分でも困っていることだった。人を警戒し、無害な存在として平穏に過ごしたいと願いながらも、つい孤立していたり、いじめられていたりする人を放っておけない時がある。
リスクを排除しようとして逆に深入りしてしまう愚かさ。今こうして、化けの皮を剥がされるリスクを冒してまで椎名さんに声をかけたのだって、まさにそれだった。
「そろそろ、帰られた方がいいかもしれません」
椎名さんの視線が、私の背後――遠くのビーチチェアーで不気味に腰掛けている龍園くんへと向けられる。
彼女の親切とも警告とも取れる静かな気遣い。これ以上ここに留まるのは、あの暴君に余計な不信感を与えるだけだ。
「……うん、そうだね。話してくれてありがとう、椎名さん」
「こちらこそ。お気をつけて」
私は小さくお辞儀をしてさよならを告げると、砂を踏みしめて足を翻した。
背中に残る波の音と不思議な視線の余韻を振り払いながら、私は一人、静寂の広がる森の道を通ってDクラスの拠点へと足を向けた。