ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
椎名さんと話をしてから、三日が経過した。
三日目はこれといって大きな動きもなく平和に過ぎたが、異変が起きたのは四日目のことだった。あんなにも賑やかだった浜辺へ様子を見に行くと、パラソルもバーベキューセットも綺麗に消え去り、もぬけの殻になっていたのだ。全員がポイントを使い切り、クラス丸ごとリタイアしたのだろう。
そして――五日目の今朝、Dクラスの拠点に決定的な亀裂が入る事件が起きた。
「男子は信用できない。このまま同じ空間で過ごすなんて絶対無理……」
目を真っ赤に腫らした軽井沢さんが、怒りと屈辱に全身を震わせていた。
今朝、彼女の下着がテントから盗まれるという事件が発生したのだ。すぐに平田くんが立ち上がり、男子全員の荷物検査を穏便に行ったものの、それらしきものは何一つ出てこなかった。
「でも、男女で離れて生活するのはちょっと問題じゃないかな。――協力し合わないと」
「下着泥棒と一緒の場所なんて耐えられない!」
必死に宥めようとする平田くんに、篠原さんを筆頭とした女子たちが鋭い視線を浴びせる。
「男子が隠したに決まってるじゃない! 平田くんの手荷物検査をうまく潜り抜けたかもしれないし!」
「これ以上、男子と同じエリアで寝起きなんて無理。私たち、男子から離れて生活するわ」
女子たちの不信感はピークに達し、結局拠点内で男女が分かれて生活することが決まってしまった。溝を埋めるための助っ人として、男子側からは平田くん、そして堀北さんの推薦によって綾小路くんが女子エリアのサポートに入ることになる。
どんよりとした重苦しい空気が漂う中、苛立ちを隠せない男子生徒の一人がぽつりと呟いた。
「……なあ。もしかして、犯人って伊吹なんじゃねえの? Cクラスの奴なら妨害工作したっておかしくないだろ」
(――伊吹さんの可能性は、十分にある)
私は俯きながら、内心で冷ややかに事実を整理する。
あの指先の土汚れ、彼女がクラスを追いだされた理由。男子を揺さぶり、クラスを崩壊させるための罠としては完璧だ。
けれど、今の私は『伊吹さんを心から信じ込んでいる無害な少女』でなければならない。
「伊吹さんは、絶対にそんなことしないよ……!」
私は弾かれたように顔を上げ、必死に首を振りながら庇うような声を張った。
「彼女は……あんなに酷く顔を叩かれて、Cクラスから追い出されたんだよ!? そんな人が、こんな嫌がらせなんてするはずないよ……っ!」
悲痛な面持ちで訴えかけると、女子たちの視線が一斉に私へと集まった。
「……そうだよ。露草さんの言う通りじゃない」
「自分たちの疑いを晴らせないからって、怪我してる伊吹さんに罪を擦り付けようとするなんて最低……」
女子たちから同意の声が次々と上がり、男子への冷ややかな蔑みがさらに強まっていく。
(……これで私は伊吹さんを疑っていないというアリバイはできた)
男子への不信感を募らせるクラスメイトたちの後ろで、私は弱々しく胸を撫で下ろすフリをしながら、静かに冷たい息を吐き捨てた。
女子エリアの設営が進み、伊吹さんと二人で作業していたテントの設置がようやく一段落した。
「ふぅ……これでなんとか形にはなったかな」
額に浮かんだ汗を指先で拭い、私は足元に置いていたペットボトルの水に口をつけた。喉を潤してから、横に立つ伊吹さんへとそのボトルを手渡す。
「はい、伊吹さんも飲んで」
「……サンキュ」
受け取った伊吹さんは、喉を鳴らして豪快に水を煽ると、息を吐きながら木々に囲まれた女子エリアを見渡した。
「今朝の下着泥棒の件、何ていうか大変そうだな。Dクラスも一枚岩じゃないっつーか」
他人事のように、どこか投げやりなトーンで溢される言葉。
私は少しだけ眉を下げ、悲しげに視線を落としてみせる。
(……伊吹さん自身がその手で盗み、男子の荷物以外のどこかに隠した可能性だって十分にある)
内心で冷ややかに事実を反芻しながらも、私は悔しそうに拳を小さく握りしめて見せた。
「せっかく……みんなで協力し合えるようになってきたところだったのに……。でも、男子の人たちが伊吹さんを犯人扱いして疑ったことだけは、私、絶対に許せないよ」
語気を強めて訴えかけると、伊吹さんは不意を突かれたように一瞬目を見開いた。
そして、まっすぐに私の目を見てくる。私の真意を確かめているかのよう。私はしっかりその目を見つめ返す。
「……ありがと。そんなに、かばってくれるとは思わなかった」
ぼそりと小さく呟かれた、素朴な感謝の言葉。
「ううん。当然のことだよ」
私はいつもの「優しくてお人好しなクラスメイト」として、柔らかく暖かな微笑みを返した。
だが――彼女が顔を背けたその瞬間、私の表情から一切の温もりが削ぎ落とされる。
そらされた伊吹さんの横顔を、私は無言のまま、氷のように鋭い眼光で見つめていた。
六日目の朝を迎えた。
今朝早く、綾小路くんに伊吹さんのことを伝えたら、彼はしばらく思案した後に『食料探索に行くとき、伊吹も誘ってくれないか』と指示を受けた。
……一体、何をするつもりなんだろう。
森の道を進みながら、私は隣を歩く伊吹さんの様子を密かに伺う。
綾小路くんの真意は掴めない。けれど、私は提示された役割通り、伊吹さんを「気分転換に行こうよ」と自然に連れ出すことに成功していた。
今回の食料調達に向かうのは、私、伊吹さん、綾小路くん、堀北さん、山内くん、佐倉さんの六人。
「広範囲を効率よく探すわよ。二人一組で分かれて行動しましょう。私と綾小路くん、露草さんと伊吹さん、山内くんと佐倉さんで」
堀北さんの指示に異論はなく、それぞれペアに分かれて探索を開始する。
「一緒に探そーぜ佐倉! 俺がうまい果物とか見つけてやるからさ!」
「え、あ……うん、ありがとう、山内くん……」
距離を詰めようと妙に張り切る山内くんに、佐倉さんが困惑しながら気圧されている。
(……山内くん、佐倉さんへのアピールが凄まじいな)
そんなやり取りに心の中で苦笑しつつ、私は伊吹さんと共に木々の隙間を調べていった。
しばらく探し始めてから、少し離れた場所で不意に声が上がった。
「あっ!」
綾小路くんの間抜けた声に振り返ると、彼が足元に落とした一枚のカードを慌てて拾い上げ、堀北さんに手渡しているところだった。薄暗い森の中でもはっきりと分かる、あのリーダーカードだ。
その姿を、傍にいた伊吹さんも見ていた。
それから、しばらく経った頃――突然、森の奥から山内くんの大爆笑が響き渡った。
「ギャハハハハ! 泥だらけだぞ堀北! おもしれぇーー!!」
一体何が起きたのかと驚いて声のする方へ駆け寄ると、全身泥まみれになった堀北さんと、お腹を抱えて笑う山内くんの姿があった。あまりの光景に、私は思わず目を丸くしてぎょっと立ち尽くす。
「ふふ……あはははっ! 最高だなオイ!」
怒りで震える堀北さんの雰囲気にすら気づかず、爆笑を続ける山内くん。
次の瞬間、限界を迎えた堀北さんが無言で山内くんの腕を掴むと、綺麗なフォームで一気に背負い投げ。
ドサッと豪快な音を立てて地面に叩きつけられる山内くんの姿を、私はただただ呆然と見つめることしかできなかった。
投げ飛ばされた山内くんは、泥の上に叩きつけられて相当痛そうに身悶えしていたけれど、怪我というほどではなさそうだった。痛みに顔を歪ませながらも、どこか達成感すら漂わせたやり切ったような顔をしているのは……正直、理解に苦しむ。
「堀北さん、大丈夫? 早く洗ったほうがいいよ」
私が駆け寄って声をかけると、堀北さんは泥まみれのまま、怒りを押し殺した表情で小さく息を吐いた。だが生憎なことに、仮設シャワー室の前にはすでに女子生徒たちの長蛇の列ができていた。これだけの順番待ちを泥だらけのまま耐えるのは酷だ。
「川を使ったらどうだ? それなら手っ取り早いだろ」
綾小路くんが、淡々とした口調で提案する。確かに敷地内の川なら並ぶ必要もない。堀北さんもその提案に頷き、テントで水着に着替えて川へと向かうことになった。
「伊吹さんはどうする? 一緒に行く?」
私が尋ねると、伊吹さんは不機嫌そうに腕を組み、ぷいと顔を背けた。
「私はパス。泳ぐのは好きじゃないから、大人しくシャワー室を待つ」
「そっか。じゃあ私も――」
伊吹さんに付き添ってシャワー待ちをしようとした、その瞬間だった。
「しまった。焚き火用の枝を集めておくのを忘れていたな。すまない、露草。手伝ってくれ」
綾小路くんが平然とした顔で私の言葉を遮り、ごく自然に指示を出してきた。
「あ……うん、わかった」
私は疑問を表情に出さず、素直に頷いて見せる。
この間の枝集めのときは「付き合ってくれないか?」という遠回しな打診だった。けれど今回は「手伝ってくれ」と、断る隙すら与えない明確なトーンだ。
(……ただの枝拾いなわけがないよね。また私に、何かさせたい役目があるのかな)
胸の中でそっと思考を巡らせながら、私は静かに綾小路くんの後ろをついて歩き出した。
「どう? 狙い通り上手くいきそう?」
荷物置き場へ移動すると、私は周囲を警戒しながら皮肉交じりに声をかけた。先ほど山内くんが起こした暴走――堀北さんを泥だらけにするよう裏で誘導したのはお前でしょ、と言わんばかりに鋭い視線を綾小路くんに向ける。
「悪いな。どうしても川に行かせたかったからな」
彼は悪びれる様子もなく、いつも通りの淡々としたトーンで返してきた。
「謝るのは私じゃなくて、堀北さんにでしょ」
「そうだな。すまん、堀北」
綾小路くんは感情の篭っていない声で、遠くの川の方角へ向かってボソリと呟いた。
(……本当に悪いなんてこれっぽっちも思ってなさそう)
あまりに投げやりな謝罪に、私は心の中で深く溜め息をつく。
すると彼は、おそらく自分の鞄を拾い上げた後、ごく自然な動作で――隣にあった別の生徒の鞄のチャックを何の躊躇いもなく開け始めた。平然と他人の私物を漁るその横顔に、私は思わず数センチ引き下がり、冷ややかなドン引きの視線を送る。
「露草にやってもらいたいことがある」
綾小路くんは他人の鞄から慣れた手つきで『あるもの』を取り出すと、それを迷わず私の方へと差し出してきた。
「これを使ってくれ」
視界に提示された物体と、それに続いて耳元で囁かれた低く短い指示。
彼が何を企み、盤面をどう動かそうとしているのか――その全貌と私に割り振られた役割の意図を瞬時に察し、胸の奥で冷や汗が伝う。
私は無言のままそれを受け取ると、表情を消して静かに首を縦に振った。
「火事だーっ! 火を消せ!」
緊迫した叫び声と共に、黒い煙が空へと立ち上っていく。拠点は一気にパニックに包まれ、クラスメイトたちが慌ただしくペットボトルを手に駆け回っていた。
火元は仮設トイレの裏手。燃やされたのは、無人島試験のマニュアルだ。
(……当然、犯人は私)
混乱に陥る仲間たちの姿を、私は遠巻きに冷ややかな目で見つめる。
これは全て、綾小路くんの指示だった。
この火事はDクラスを攪乱させるための工作であり、同時に、彼に状況を伝えるための合図でもある。
『伊吹を監視しろ。彼女がある行動を起こしたら、火事を起こせ』
荷物置き場で綾小路くんにそう命じられた後、私は言われた通り伊吹さんの動向を目で追い続けていた。
しばらくすると、彼女はシャワー室の列を抜け出し、堀北さんの使用する女子テントへと忍び込んだ。そして事もなげに姿を消すと、何食わぬ顔で出てきたのだ。
彼女と入れ替わるようにして、私は静かにテントへ足を踏み入れた。
(さっきの彼と同じことしてる……)
他人の荷物を勝手に漁るという罪悪感を噛み締めながら、堀北さんの荷物を改めると、そこにあるはずのリーダーカードが消えている。
――伊吹さんが堀北さんのカードを盗み出した。
その事実を確認した瞬間が、私が火をつけるための『キー』だった。
燃え上がる煙を静かに見つめながら、ふと虚しさに似た思いが胸を掠める。
(堀北さん……私には、リーダーカードを盗まれたこと、教えてくれなかったなぁ)
テントから慌てた表情で出てきた彼女。すぐに目が合ったのだが、彼女はそのまま綾小路くんの方へ向かっていった。
高いプライドゆえに自分の失態を見せたくなかったのか。それとも、単に私のことを信用していなかっただけなのか。
ぽつり。
冷たい一粒のしずくが、静かに私の頬を撫でた。
ふと空を見上げると、いつの間にか太陽は隠れ、どんよりとした黒ずんだ雲が空一面を覆い尽くそうとしていた。