ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ   作:じぇみに先生

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5巻
25話


長い夏休みが終わり、今日からはいよいよ本格的な授業が始まる。

 

午前中はいつも通りの座学をこなし、午後は二時間のホームルームにあてられていた。

最初の一時間は、茶柱先生から来月十月に開催される『体育祭』についての詳細な説明を受けた。赤組と白組に分かれて他学年とも協力して戦うという特殊な形式に、クラス全体に少し緊張感が走る。

 

そして残りの一時間は、体育館へと移動して上級生や合同で組む他クラスとの顔合わせの時間となった。

 

広々とした体育館の中に生徒たちが集まる中、私は一人の少女に目を奪われた。

周囲の喧騒からぽつりと浮いた存在。白い肌に美しい銀髪、その傍らには一本の杖があり、彼女は用意された椅子に静かに腰掛けていた。Aクラスの坂柳有栖さんだ。

 

身体的なハンデを抱える彼女の姿には、他のクラスメイトたちからも自然と視線が集まっていく。

 

そんな周囲からの注視を全身に浴びながらも、坂柳さんは少しも怯むことなく、穏やかな笑みをたたえて口を開いた。

 

「私に関しては残念ながら戦力としてお役に立てません。自分のクラスにもDクラスにもご迷惑をお掛けするでしょう。そのことについてはまず謝らせて下さい」

 

丁寧なお辞儀とともに放たれたその言葉は、どこまでも気品に満ちていて、非常に礼儀正しい少女という印象を周囲に与えていた。

 

(……でも、これで葛城くんとAクラスのリーダー争いをしてるんだよね)

 

可憐で儚げな見た目とは裏腹に、彼女が内部で繰り広げている権力闘争の噂は私の耳にも届いている。

 

あの穏やかな微笑みの裏で、一体どんな計算や謀略を巡らせているのだろうか。

 

――可愛らしい仮面の奥が見えない、底の知れない少女だった。

 

 

 

 

 

翌日。

 

HRが終わっても、私と綾小路くんは教室に残り続けた。

 

私は机の上に参考書を広げて勉強をしながら、他の生徒たちが全員教室から出ていくのを静かに待った。やがて最後の生徒がドアを閉め、室内が二人きりの静寂に包まれたタイミングで、私はペンを置いて彼へと向き直る。

 

「綾小路くん、私の携帯から伊吹さんに何かメッセージが送られたみたいなんだけど……」

 

船の上で彼に携帯を貸した、まさにあの直後だ。送信内容は既に削除されていたけれど、履歴を見れば端末が操作された痕跡は残っている。

 

「すまん、操作ミスだ。オレ宛に送ろうとしたら、アドレス帳の隣にあった伊吹の方を押してたみたいでな」

 

表情ひとつ変えずに返してきた綾小路くんの言葉に、私は「あ、そうなんだ」とあっさり頷いた。元々ほんの些細な疑問だったし、わざわざ嘘をつくような場面でもないだろうと思ったからだ。

 

「それで? 今日は何について話すの? 体育祭のことなんだろうけど……」

 

私が切り出すと、綾小路くんは淡々とした眼差しを私に向け、静かに本題を口にした。

 

「今回の体育祭で、お前には堀北にとにかく反抗するような態度を取ってほしいんだ」

 

「反抗って……どうしてわざわざそんなこと……?」

 

唐突で奇妙な要求に、思わず眉をひそめて問い返す。

 

「堀北は、一学期の噂の件からクラスに馴染もうと努力している。それに、クラスをAクラスへ導こうとも動き出している。努力しているのは分かる。……だが、それだけじゃ足りない」

 

彼の声には一切の感情が籠もっていない。まるで実験の観察結果でも述べているかのようなトーンだ。

 

「この先、堀北のやり方に不満を持つ奴や、反対意見を出す奴は必ず出てくる。そのとき、全員が堀北の考えに従うとは限らない。だから、今のうちにそれを経験させておきたい。反対意見を受け止めて、それでもクラスをまとめる。そういう力を、堀北には身につけてもらいたい」

 

「……その練習台に、私がなれってことか」

 

彼の言いたいことは理解できた。堀北さんをリーダーとして成長させるための、いわば悪役演者の打診だ。

 

「えっと……じゃあ、次のクラスでの話し合いの時に、堀北さんに対する反対の意見を出してみるね」

 

「出したうえで、徹底的に食い下がってくれ」

 

「え……」

 

思わず声が詰まる。提示された条件があまりにも予想外だったからだ。

 

「そこまでするの? それだと……普段の私と矛盾しちゃうよ……」

 

私がこの学校で作り上げ、演じ続けている『露草千歳』という人物像。

おとなしくて目立たず、主張があっても周囲に押し切られればそれ以上は強く言えなくなる――そんな少女の皮を被っている私が、クラスの場で徹底的に堀北さんに食い下がり、反抗し続けるなんてあり得ない。

 

(擬態した『露草千歳』なら、一度意見を出したとしても、堀北さんに否定されたらそれ以上何も言えなくなるはずなのに……)

 

彼の狙いと、自分の仮面との間に生じた歪みに、私は内心で冷や汗を流しながら困惑を深めていた。

 

「構わない。お前にはこの体育祭で本気を出してもらおうと思っているからな」

 

「本気を出すって……私、別に運動は得意じゃないよ?」

 

これまでの『露草千歳』のキャラ付けを守るように苦しい微笑みを浮かべてみせる。けれど、綾小路くんはそんな私の言葉など端から信じていない様子で、淡々と私を見つめ返してきた。

 

「お前に体力があるのは、この間の無人島試験の時に把握している。高円寺のペースに無理なくついて行っていたからな」

 

「じ、持久力はある方だけど……っ」

 

高円寺くんのあの破天荒で容赦のない歩調に合わせて行動していたことを見逃さずにチェックされていたとは。思わず冷や汗が流れる。

 

「それに、入学してすぐと比べて足が締まっている。この夏休み、毎日走っていたんだろ」

 

(……鋭すぎるでしょ)

 

彼の指摘は寸分の狂いもなくその通りだった。毎朝のトレーニングは欠かしていないし、夏休みの間も体力を落とさないよう徹底的に走り込んでいたのだから。

 

けれど、それを女子の脚をじっと観察して見抜いたのだとしたら、話は別だ。

 

私は自分の脚を庇うようにすっと後ろに引き、ジトッとした視線を彼に向けた。

 

「あのさ……足が締まってるとか、じろじろ見て言われるのってちょっとセクハラじゃない?」

 

「……だな。すまん」

 

悪びれる様子もなく、間髪を入れずに淡々と謝罪してくる綾小路くんに、私は小さく溜め息をつくのだった。

 

「……まぁいいや。話を戻すけど、どうしてそこまで私を目立たせようとするの?」

 

私が改めて問い正すと、綾小路くんはどこまでも淡々とした眼差しで私を見つめ返し、言葉を続けた。

 

「お前にはクラスで堀北に異論を唱える人間になってもらいたい。今の堀北じゃ、他の奴が反対意見を出してもまともに取り合わない可能性がある。自分の意見こそが正しいと信じて、考慮すらしないかもしれない。……だが、唯一お前の発言にだけは耳を貸すかもしれないからな」

 

それはあくまで一時的な役割なのだと、彼の静かな口調が物語っていた。堀北さんが周囲の声に耳を傾け、他者の考えを取り入れられるようになれば、その時こそ私の『反対派』としての役目は終わる。

 

「堀北さんがそこまで頭でっかちだとは思わないけど」

 

「それならそれで、確認が取れればいい。オレの中の堀北像を修正するだけだ」

 

確信めいた口調でそう言い切る彼に、私はそれ以上何も言い返せなくなる。

 

彼にとっては、堀北さんが自分の殻を破り、クラスのリーダーとして真の成長を遂げてくれればそれで十分なのだ。そのためなら、私という駒を使うことも、私と堀北さんの関係性に多少の波風が立つことも、躊躇なく盤上に組み込んでいく。

 

「……堀北さんと仲が悪くなるの、嫌なんだけどな」

 

思わずぽろりと本音が溢れ落ちる。せっかく少しずつ距離を縮めてきたのに、わざわざ自分から亀裂を生み出すような真似をするのは、どうにも気が乗らない。

 

「友人同士でも、意見が衝突することはある」

 

「金言だね。綾小路くんは、さぞ友人付き合いが多かったんだろうね」

 

今後訪れるであろう堀北さんとの関係悪化を憂いながら、どこか他人事のように論理を押し付けてくる元凶へと、精一杯の皮肉を込めて視線を投げる。

 

「……」

 

さすがの綾小路くんも響いたのか、わずかに気まずそうな顔をして言葉を詰まらせ、視線を明後日の方向へと逸らした。

 

まあ、追及したところでこの男が前言撤回することはない。私は小さく溜め息をつき、頭を切り替えて次の疑問を口にした。

 

「……じゃあ、体育祭で私が本気を出す理由は? 私が目立つのと、堀北さんに反抗することに何の関係があるの?」

 

「ここで存在感を示せば、今後お前の発言力が強くなっていく。周囲もお前の意見に耳を傾けるようになるし、クラスで動きやすくなるはずだ」

 

「なるほどね……」

 

彼の言いたい意図が嫌というほど伝わってくる。

運動神経や能力を示してクラス内での評価を引き上げ、ただの「おとなしい女子」から「言動に重みのある存在」へと立場を昇格させる。そうすれば、私が堀北さんに意見した際の周囲への影響力も増し、彼にとっての『駒』としての使い勝手も格段に良くなる、というワケだ。

 

(どこまでも合理的で、どこまでも冷徹だな……)

 

正直、気は進まない。目立つこと自体、自分の本意ではないのだから。

 

けれど――彼と堀北さんを自分の天秤にかけたとき、どちらが重いかなど一目瞭然だった。

 

「……わかったよ。綾小路くんの言う通りにする」

 

私は彼から目を逸らさずに、静かにそう頷いてみせた。

 

話は終わったとみて鞄を持ち立ち上がる。しかし、綾小路くんは席を立たない。

 

「あれ?帰らないの?」

 

「ああ。オレはまだやるべきことがある」

 

視線は携帯に落としたままそう告げる彼に、「さよなら」とだけ言って教室を後にした。

 

帰る途中で水巻きの準備をしている茶柱先生に会ったが、特に会話をすることも無く挨拶だけして寮へ帰った。

 

 

 

 

 

 

体育祭に向けた本格的な準備が、いよいよ始まった。

 

週に一度設けられた二時間のホームルームは、体育祭の準備に充てるのであれば生徒同士で自由に時間を使って構わないとお達しが出ている。その貴重な時間を使って真っ先に決めなければならないのは、全員参加競技の走順や組み合わせ、そして推薦競技に誰が出場するかという点だった。

 

教壇の前に立ち、クラス全体を円滑にまとめてくれているのは平田くんだった。

 

「まず、全員参加の競技についてだけど、順番はどうやって決めようか。挙手制でやりたい場所を選ぶか、それとも能力制で割り振るか……みんなはどう思う?」

 

平田くんが問いかけると、すぐさま威勢のいい声が上がった。

 

「そりゃ能力制一択だろ! 勝てる奴が得意な種目に出て、確実に点数を稼ぐ。俺が出る種目は全部勝ってみせるぜ」

 

声を張り上げたのは須藤くんだった。クラス内で高円寺くんを除けば、運動神経の高さは圧倒的に彼が一番だ。その彼が自信満々に断言したこともあり、クラスの生徒たちの多くも「確かに」「須藤に任せた方が勝ち目は高いよね」と能力制へ賛同の声を上げ始める。運動が得意な人間に引っ張ってもらう方が勝利に繋がるというのは、至極当然の道理だった。

 

そこへ、凛とした声で堀北さんが補足の提案を口にする。

 

「私も須藤くんの意見に賛成よ。ただ、もう少し具体的に詰めるべきだわ。推薦競技に運動能力の高い生徒を優先して割り当てるのは当然として、全員参加の百メートル走のような競技でも、ただ速い順に並べるのではなく『勝ちを拾える組み合わせ』を作るべきよ。足の速い人と遅い人を意図的にペアにして、こちらの速い生徒同士が潰し合わないよう、戦略的に配置するの」

 

静まり返った教室に、彼女の合理的な説明が響き渡る。

 

実に理にかなった考えだ。クラスの勝利を最優先に考えるなら、これ以上ない最適解と言っていい。私だって、心の中では「絶対にそうすべきだ」と同意していた。

 

そうだ、このまま黙っていよう。そうすれば今まで通り「無害な少女」を続けていられる……。

 

(……!?)

 

ふとプレッシャーのような視線を感じ、前の席に目をやる。

綾小路くんが、ほんの少しだけ顔を横に向け、こちらを見ていた。

感情の読めないその冷ややかな瞳が、無言で訴えかけてくる。――『やれ』と。

 

胸の奥で重苦しい溜め息をひとつ吐き出し、私は意を決して静かに右手を挙げた。

 

「あの……平田くん、ちょっといいかな?」

 

控えめな声ではあったけれど、静まり返っていた教室には十分に届いたようだった。一斉に私へと集まるクラスメイトたちの視線。そして、堀北さんの訝しげな眼差しを受け止めながら、私は腹を括って言葉を絞り出した。

 

「堀北さんの言うことも分かるんだけど……それだと、運動が苦手な人が置いてけぼりになっちゃわないかな?」

 

私の異議に、堀北さんは一瞬だけ目を開いたが、すぐに眉を寄せ私をじっと見つめてくる。

 

「特典があるのに、最初から強い人と組まされちゃったら貰えなくなっちゃうよ」

 

私の言葉に、堀北さんは呆れたようにふぅっと深く息を吐き出した。

 

「仕方がないわ。それがクラスの勝利のためだもの」

 

「でも……私だって、個人的に貰えるプライベートポイントが欲しいよ」

 

「諦めてもらうしかないわね。だけど、クラス全体が勝てばその分だけ自分にも大きく返ってくるわ。それで十分じゃないかしら?」

 

「特典でもらえるテストの点数も大きいよね。それを欲しがる人だって、絶対にいるんじゃない?」

 

私が教室を見回しながら言うと、後ろの方で篠原さんたちが「確かに……」と胸の前でうんうんと頷いていた。クラスの誰もが勉強で余裕を取れているわけではないのだ。

 

「おかしな話よ。最初からその点数に頼らなくてもいいよう、普段から勉強しておけばいいだけのことだわ。……それにあなた、プライベートポイントが欲しいと言ったけれど、申し訳ないけれどあなたの能力で三位入賞なんて厳しいんじゃないかしら?」

 

堀北さんの切り捨てに、クラスの空気は一気に彼女の意見へと傾いていく。

運動神経が良い生徒、Aクラスを目指したい生徒、あるいは勉強が得意で運動が苦手な生徒――そういった層は、無理に自分が走るより強い人に任せた方がいいと判断するからだ。

 

けれど、もし相手次第では三位入賞なら自分にもワンチャンあるかもしれない、と淡い期待を抱いている生徒だって確実にいるはずだ。

 

「そんなの……やってみなくちゃ分かんないよ……」

 

「いい加減にしろよ露草! お前らみたいなのが足引っ張って負けたら、責任取れんのかよ。あ!?」

 

痺れを切らした須藤くんが机を叩いて立ち上がり、威圧的な視線を向けてくる。

 

(……うん、これ以上は無理だな)

 

能力主義で固められた手堅い案を、普段おとなしい私の言葉だけで崩すのは到底不可能だ。私はそれ以上何も言えず、申し訳なさそうに俯いて黙り込んだ。

 

「……あなたが、私に反論してくるなんてね」

 

堀北さんはどこか不機嫌そうにそれだけ吐き捨てると、前を向いた。

これで話し合いは堀北さんの思惑通りにまとまった――誰もがそう思った、その時だった。

 

「あー、ちょっといい? あたし、反対なんだけど」

 

だるそうに髪を弄りながら声を上げたのは、軽井沢さんだった。

 

「露草さんの言う通りじゃん。なんで最初から諦めさせられなきゃなんないわけ? 他の生徒が泣きを見るのってどうなの?」

 

軽井沢さんは堀北さんを強く睨みつけ、堂々と食ってかかる。さらに彼女は、ここまでずっと静かに成り行きを見守っていた櫛田さんに視線を向けた。

 

「櫛田さんはどう思う?」

 

「え? うーん……そうだね。やっぱり1位と最下位を取った生徒、両方が納得できる形が理想的だとは思うかな」

 

櫛田さんが波風を立てないように言葉を選んでそう答えると、堀北さんは即座に切り返した。

 

「それなら考えがあるわ。上位を取ってテストの点数が不要な生徒が、代わりに得たポイントと、最下位を取ってポイントを失った生徒の損害を相殺すること。これなら不満は出ないでしょう?」

 

「でもそれってポイントだけでしょ? 結局、入賞して点数がもらえる可能性は減るよね。みんなはどうなの?」

 

軽井沢さんが教室の後方へ問いかけると、佐藤さんをはじめとする彼女と仲の良い女子たちが一斉に「そうだよね」「あたしも入賞狙いたいな」と賛同の声を上げ始めた。

 

一気に形成される反対派の勢力。女子グループにおける軽井沢さんの発言力の強さを、見せつけられた瞬間だった。まさかここまで大きな反発が起きるとは思っていなかったのか、堀北さんは信じられないといった表情で目を見開いている。

 

結局、このままでは拉致があかないと判断した平田くんが間に入り、多数決を取ることになった。

 

結果は――16対13。

 

わずか三票差で堀北さんの提案が可決された。

堀北案の手堅さを考えれば圧倒的な差がついてもおかしくなかったのに、ここまで肉薄した結果に持ち込めたのは、間違いなく軽井沢さんの影響力のおかげだった。

 

その後、推薦競技の参加者決めへと移り、その日の話し合いは終了した。

当然、自ら志願もしなかった私が推薦競技に選ばれるはずもない。

 

(綾小路くんには『本気を出せ』って言われたけど……自分の足がこの学校でどれくらい通用するのかも分かってないし、今回はこれで良かったよね)

 

少しだけ肩の荷が下りたのを感じながら、私はカバンに教科書を詰め込んだ。

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