ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ   作:じぇみに先生

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26話

体育祭当日。空は青く澄み渡っていたけれど、私の心の中はどこか重苦しかった。あの日以来、堀北さんとはまともに言葉を交わさないまま、この日を迎えてしまっていたからだ。

 

競技が進む中、私が出場したのは百メートル走やハードル走といった個人競技だった。

 

結果から言えば、私は参加したすべての個人競技で一位を獲得していた。なぜなら、不思議なほどどのレースでも他クラスの有力な選手と当たることがなかったからだ。綾小路くんの狙い通り『本気』を出して走り抜けたけれど、対戦相手に恵まれたおかげで、周囲からは「たまたま運が良かった」と見えていたはずだ。

 

だが――クラス全体としての成績は、お世辞にも芳しいとは言えなかった。

 

Cクラスの露骨な嫌がらせや戦略の前に、Dクラスは苦戦を強いられ続けている。今回、クラスのリーダーとして気合を入れていた須藤くんのイライラは、種目を重ねるごとに募っていった。

 

そして、ついに破綻の時が訪れる。

 

――ゴッ。

 

鈍い音がグラウンドに響き、平田くんが派手に吹き飛んで地面に倒れ込んだ。

 

「ひっ……!」

 

周囲から悲鳴が上がる。イライラが頂点に達していた須藤くんを、平田くんがなんとか宥めようと介入した結果がこれだった。

 

「やってられっか。体育祭なんてクソくらえだ!」

 

地面に唾を吐き捨てるように言い放ち、須藤くんは怒りに任せてその場を立ち去ってしまう。リーダーでありクラスの最大の戦力である彼を失うという、最悪の状況。

 

崩れ落ちそうな空気が漂う中、まるで狙い澄ましたかのようなタイミングで、一人の男が歩み寄ってきた。Cクラスを率いる龍園くんだ。

 

「平田。須藤はどうした? 便所か?」

 

頬を腫らしたまま立ち上がった平田くんは、毅然とした態度で龍園くんを見据えた。

 

「すぐ戻ってくるよ。それよりも龍園くんは、個人競技で今まで全部1位だったんだってね。運がいいみたいだね」

 

「ククッ、ツキはあるほうだからな。……だが、全て1位なのは俺だけじゃねえ。そこにいるビビり女だってそうだろ?」

 

ギラついた視線が、すっと私へ向けられる。

 

「ひ、あ……」

 

私は肩を震わせ、心底怯えたふりをして後ずさってみせる。被り慣れた『おとなしい露草千歳』の仮面を完璧に演じるけれど、龍園くんの蛇のような瞳に見つめられるのは、演技抜きで気味の悪いものだった。

 

平田くんがさりげなく私を庇うように立ち、静かに言葉を重ねる。

 

「露草さんもそうだね。彼女も偶々対戦相手に恵まれた。……けど、本当に運がよかっただけかな?」

 

「あぁ?」

 

龍園くんが不愉快そうに眉をひそめた。

 

「君がDクラスの参加表リストや、Dクラスの生徒の身体能力の詳細を入手していることは把握してたよ。……露草さんだけ、読み違えたみたいだね」

 

平田くんの言葉に、龍園くんの口元が不敵に歪む。

 

「それがハッタリじゃなきゃ面白いんだがな。これまでの結果から嫌でも不可思議に気づく。カマぐらいかけられるからな」

 

「うん。だからひとつ宣言するよ。今日中に面白いものを見せるよ」

 

「面白いものだと? なら楽しみにしておくぜ」

 

言葉を交わし終えた龍園くんは、最後にちらりと私に視線を送ってきた。だが、私の怯えるような態度を見るや否や、興味を失ったように鼻で嘲笑い、そのまま悠々と去っていった。

 

 

 

 

 

昼休み。私は足を庇うようにして歩く堀北さんの後を追っていた。

 

障害物競走の最中、彼女が足を捻ったのは遠目からでも分かった。痛みを堪えるように顔を歪めながら保健室へと向かう彼女の姿が心配で思わず追いかけてきたものの……今の二人の関係を考えると、どんな顔をして声をかければいいのかが分からない。

 

保健室の前で声をかけるべきか迷い、立ち尽くしていた、その時だった。

 

ガラリ、と扉が開く。

出てきた堀北さんは、私と目が合っても一瞬表情を硬くしただけで、何事もなかったかのように視線を逸らし、私を無視して通り過ぎようとした。

 

「堀北さん。足、大丈夫……?」

 

意を決して、去りかける彼女の背中に声をかけた。

 

「……捻挫よ。午後の推薦競技には参加しないわ」

 

私の問いかけに、彼女は足を止めた。けれど、こちらを振り返ろうとはしない。その背中からは、刺すような拒絶のオーラが漂っている。

 

「そっか……。うん、今は無理しないで休むのがいいよね」

 

身体を気遣うつもりで発した言葉だった。だが、それが彼女の逆鱗に触れてしまったらしい。

 

「いいですって……? こんな不甲斐ない姿を晒して、何がいいのよ!」

 

堀北さんが激しく振り向き、激しい怒りを露にして私を睨みつけた。これまで見たこともないような強い憎悪と冷たさを孕んだ瞳に、私は思わず気圧されて後退る。

 

「あなたは嬉しいでしょうね。……狙い通り私を貶めることができて」

 

「え……? 狙い通りって、どういうこと……?」

 

思いも寄らない言葉に脳が追いつかない。困惑する私に対し、彼女は冷ややかな嘲笑すら浮かべて見せた。

 

「この期に及んで、まだしらばっくれる気かしら。最初から気づいていたのよ……あなたがクラスを裏切り、龍園くんと繋がっていることくらい」

 

「な、なんでそんなこと……ッ」

 

声が震える。一体何がどうなってそんなことになっているのか、頭の中が真っ白になる。

 

「メッセージの画像を見たわ……あなたが伊吹さんを通じてポイントをもらったり、龍園くんにお礼を言ったりしているやり取りをね」

 

――その瞬間、私は嵌められたのだと気付いた。

 

 

 

 

どれだけ必死に「誤解だ」と説明しても、冷たく心を閉ざした堀北さんには届かなかった。彼女は私に氷のような視線を向けたまま、二度と振り返ることなく去っていってしまった。

 

茫然自失のまま、私は重い足を曳くようにして綾小路くんの元へと向かう。

グラウンドでは午後の競技開始を告げるアナウンスが響き渡り、生徒たちがわさわさと持ち場へ移動し始めていた。

 

「綾小路くん……」

 

声が掠れていた。私の気配に気づいた綾小路くんが、いつものように感情の読み取れない平然とした顔でこちらを振り向く。

 

「露草、どこ行ってたんだ? 弁当食ってないだろ?」

 

「……」

 

あまりにもいつも通りな彼の態度。

どうしてこんな真似をしたのか、私を裏切り者に仕立て上げて何がしたかったのかと、今すぐこの場で問い質したかった。けれど、周囲には大勢のクラスメイトたちがいて、他クラスの視線も飛び交っている。ここでそんな話ができるはずもなかった。

 

(……分かってたはずなのに)

 

彼を完全に信用しきっていたわけじゃない。それでも、堀北さんとの天秤にかけて彼の指示に従うと決めたのは、他でもない私自身だ。この最悪な状況も、結局は自分が選んだ選択の結果でしかないのだから。

 

私は喉の奥に込み上げてくる複雑な感情を押し殺すように、渡されたご飯を口に運ぶと、ぐっと強く飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 

【堀北視点】

 

信じていたのに。

 

綾小路くんからあの画像を見せられた後も、私は心のどこかでずっとそう思い続けていた。

 

入学当初の露草千歳は、おどおどとしていて自己主張もできず、正直に言って目障りな存在でしかなかった。孤独を好み、他者との関わりを拒んでいた当時の私にとって、彼女のような弱々しい生徒は視界に入れる価値すらないものだったはずだ。

 

けれど、あの日――兄さんに暴力を振るわれそうになった時、彼女は恐れをなしながらも、私を助けようと必死に手を伸ばしてくれた。

私の悪い噂が学内に広まった時も、周囲が遠巻きにする中で、彼女だけはずっと私を心配し、声をかけ続けてくれた。

 

『私と堀北さんは、友達でしょ?』

 

友達。そんな甘っちょろい存在など、この学校で生き残るためには必要ないと切って捨てていた。……けれど、彼女のまっすぐな好意に触れるうちに、ほんの少しだけ周りを見てみようかという気持ちが芽生えていたのは事実だった。

 

だからこそ、無人島試験での龍園くんの挑発めいた言葉など、ハナから信じてなどいなかった。

試験の最中、自分の過失でキーカードを紛失してしまった時、私は彼女の濁りのない瞳を見つめるのが恐ろしかった。自分の失態に対する恥ずかしさと情けなさから、彼女にだけは真実を打ち明けることができなかった。それほどまでに、私の中で彼女の存在は大きなものになっていたのだ。

 

――それなのに。

 

夏休み中、綾小路くんから見せられた一枚の画像。

そこに映っていたのは、彼女が伊吹さんを通じてプライベートポイントを受け取り、龍園くんに謝礼を述べている決定的なやり取りだった。

 

最初は、当然信じなかった。何かの間違いか、巧妙なコラージュなのだと自分に言い聞かせた。けれど、綾小路くんがわざわざ私にそんな嘘をつく理由も動機もない。

胸を押し潰すような疑念と恐怖に苛まれながらも、私は本人に真偽を確かめることができないまま、うやむやに夏休みを終えてしまった。

 

そして始まった、体育祭の準備期間。

彼女の行動は明らかに変わった。

 

クラスの話し合いの場で、私の提案に対して明確な異議を唱えてきたこと。普段なら絶対にそんなことはしないはず。

 

(……どうしてなの、露草さん)

 

信じたくない。絶対に誤解なのだと、彼女を信じ抜きたい。

それなのに、目に見える彼女の裏切りとも取れる行動の数々が、あの画像を真実だと証明しようとしてくる。

 

拒絶すればするほど、冷たい現実が私の胸を鋭く穿っていくのを、私はただ黙って耐えることしかできなかった。

 

体育祭当日。

 

転んでけがをした。

 

障害物競走の最中、後ろから何度も名前を呼んできたCクラスの木下さんには不審感を抱いていた。けれど、結局のところ転んで怪我をしたのは私の未熟さゆえだ。自分が悪い、それ以外の何物でもない。

 

だが、足の痛みなど比べものにならないほど、一つの言葉が胸の奥を鋭く抉り続けていた。

 

『いつまで役立たずでいるつもりだ、堀北』

 

先ほど綾小路くんから投げつけられた、あまりにも冷酷な言葉。

Dクラスの参加者リストが龍園くんに漏れ、須藤くんが意図的に挑発され、そして私自身も狙い撃ちにされて怪我を負わされた。すべてを図星として突かれ、言い返す言葉すらなかった私は、底知れない敗北感と喪失感に打ちのめされていた。

 

(……それでも、止まっているわけにはいかない)

 

激しい惨めさを押し殺し、私は行動を起こすために保健室へと向かった。足を診てもらった結果は無情なものだった。午後の推薦競技への出場断念――歯痒さと悔しさで奥歯を強く噛み締めながら、私は保健室の扉を開けて外へと足を踏み出した。

 

そこに、彼女がいた。

 

露草千歳。今の私にとって、最も顔を合わせたくない相手。

見なかったことにして通り過ぎようと足早に歩みを進めたけれど、彼女は私に心配そうに声をかけてきた。仕方なく捻挫であること、午後の競技に出ないことを短く告げると、彼女は静かに言った。

 

「そっか……。うん、今は無理しないで休むのがいいよね」

 

まるで他人事のように受け流すその態度に、胸の奥で何かがぷつりと弾けた。

 

「いいですって……!? こんな不甲斐ない姿を晒して、何がいいのよ!」

 

抑えきれない怒りが爆発し、自分でも信じられないほどの声が喉から飛び出していた。振り返り、彼女を激しい視線で睨みつける。私の変貌ぶりに、彼女は息を呑み、怯えたように後ずさった。

 

もう、止められなかった。

感情を乱し、子供のように癇癪を起こすなんてバカのすることだと、ずっと見下してきたはずなのに。いま自分がまさにそのバカな振る舞いをしている。

 

(どうして……どうして私は、こんなにも取り乱しているの……?)

 

激しい怒りと不甲斐なさの渦中で、私はハッと気づかされた。

裏切られたことへの悔しさだけではない。こんなにも感情が制御不能になるほど、露草千歳という存在が、自分の中でかけがえのないほど大きくなっていたのだと。

 

でも、彼女との関係はもう終わったのだ。

 

失われた信頼が元に戻ることは二度とない。胸の奥を抉るような痛みが走るけれど、私はそれを無理やり心の底へと押し込めた。

 

私には、いつまでも個人的な傷に浸っている時間など残されていない。怪我を負い、戦力を失い、リーダーである須藤くんすら去ってバラバラになりかけたこのDクラスを、誰かが引き上げなければならないのだから。

 

(立ち止まるわけにはいかない……私は、前へ進むしかないのよ)

 

深く一度息を吸い込み、私は溢れそうになる弱音をすべて吐き出した。もう振り返らない。私は須藤くんの元へ行く。

 

 

 

 

 

 

【千歳視点】

 

男女二人三脚の競技が始まろうとしていたが、怪我をした堀北さんも、立ち去ったままの須藤くんも、未だグラウンドには戻ってきていなかった。このままでは不戦敗になってしまうため、だれか代役を立てなければならない。

 

代役を立てるには、一回につき十万プライベートポイントを支払うルールになっている。そして、ここまで不在の須藤くんの代役費用は、すべて平田くんが一人で肩代わりしてくれていた。

 

そんな平田くんの元へ、綾小路くんが歩み寄る。

 

「なあ平田。この競技、オレが須藤の代わりに出てもいいか? ポイントも払う。勝ってクラスに貢献できる保証はないんだが、それでもよければ」

 

「……私も出るよ。平田くん。ポイントも支払う」

 

私も綾小路くに続いて声をかけた。堀北さんとの関係は決定的に崩れてしまい、胸の奥には重い痛みが残ったままだ。けれど、ここで引くわけにはいかない。

 

「いいのかい、二人とも?」

 

申し訳なさそうに尋ねる平田くんに、綾小路くんは淡々とした口調で答えた。

 

「おまえだけに負担させるのは気が引けるし。それに、次のテストのために一点くらいは確保しておきたいっていう、やましい気持ちもある」

 

「……私も、そう」

 

平田くんから感謝と許可をもらい、私たちは茶柱先生に代役の申請を報告した。

 

手続きを終え、二人で二人三脚の待機場所へと向かう。道中、お互いに一言も言葉を交わさない。重苦しい沈黙だけが、二人の間に流れていた。

 

「やっほー、綾小路くん! それに露草さんも。私たち、一緒の組みたいだね」

 

待機場所に着くと、明るい声とともにBクラスの一之瀬さんと柴田くんがやってきた。

 

「露草さん、今日大活躍みたいだね。強敵だー」

 

爽やかな笑顔でそう言ってくる柴田くんに、私は俯き加減で短い返答を返す。

 

「別に……運がいいだけだから」

 

「……? そっか。柴田くん、結んじゃおっか」

 

私のそっけない態度に何かを察したのか、一之瀬さんは追及せずに切り上げ、柴田くんと紐を結び始めた。

 

私も綾小路くんの隣に屈み込み、用意された布紐を手にとってお互いの足首へと巻き付けていく。結び目を固く縛っていると、頭上から静かな声が降ってきた。

 

「なあ、露草。どうして代役をやる気になったんだ?」

 

「言ったでしょ。……本気を出せって」

 

しっかりと紐を結び終え、私はゆっくりと立ち上がった。そして、感情を押し殺した瞳で綾小路くんをまっすぐに見つめる。

 

「あなたが手を抜くと、私も本気を出せない。だから」

 

彼がどこまでの身体能力を隠しているのかは知らない。だから、それを引き出す必要があった。

 

「ーー本気で走って」

 

言葉とともに、私は彼へと視線を固定し、スタートの合図を静かに待った。

 

勝負が始まる。

 

 

 

 

 

「位置について――パンッ!」

 

スタートの合図とともに蹴り出した瞬間、私は己の過信を思い知らされた。

 

(――速い……っ!?)

 

身体が置き去りにされそうになるほどの、暴力的とも言える爆発的な加速。綾小路くんの走力は異次元だった。

 

だが、私が体勢を崩しかけたその一瞬で、彼はこちらの限界を完璧に察知した。

衝撃を殺すように滑らかにスピードを落とし、私が追従できる極限のトップスピードへとギアを合わせてくる。彼の完璧な微調整のおかげで体勢を立て直した私たちは、そのままBクラスのペアすら遥か置き去りにして、圧倒的な差をつけてゴールを駆け抜けた。

 

「……うそ、だろ……!?」

「凄すぎるよ二人とも! 圧勝じゃないか……!」

 

静まり返っていたグラウンドから、一気にクラスメイトたちの驚きと称賛の声が弾け飛ぶ。綾小路くんと私が見せたあまりの爆走に、周囲は騒然となっていた。

 

足を縛っていた紐を解きながら、私は荒い息をつく。

 

(なんなの、あのポテンシャルは……)

 

あれだけの爆走を見せながら、彼にとっては「本気」どころか、私に合わせたただの「微調整」に過ぎなかったのだ。手加減されてなお、肌が痺れるような底知れなさ。

 

堀北さんとの絆を切り裂かれ、裏切り者の濡れ衣を着せられ、駒として利用された。悔しくて、理不尽で、問い詰めたい気持ちは溢れるほどある。けれど、目の前にいるのは次元の違う怪物だ。抗おうとすることすらおこがましいほど、圧倒的な力の差がそこにはあった。

 

どんなに抗っても、強者が描いたシナリオ通りにしか動けない。

弱者はただ、強者に食われ、利用され尽くすのみ。

 

熱気に包まれるグラウンドの真ん中で、冷たい諦念が身体を侵食していく。私はただ、深く深く、自分の心の殻へと閉じこもるしかなかった。

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