ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
競技はいよいよ本日最後となる千二百メートルリレーへと移ろうとしていた。
「最後の競技だね……誰か代役を……」
平田くんがそう呟いた、その時だった。
「はぁ……はぁ……! 悪い、待たせた! 今どうなってる!?」
息を切らしながらグラウンドへと駆け込んできたのは、須藤くんだった。そして、彼の少し後ろから、足を庇いながら追いついてきた堀北さんの姿もあった。
「須藤くん、戻ってきてくれたんだね」
「悪ぃな。……ちょっとウンコが長引いた」
頭を掻きながらそう言う須藤くんの表情は、去っていった時の荒んだ様子とは違ってどこか晴れ晴れとしていた。けれど、さっき平田くんを殴りつけて飛び出した彼に対し、クラスメイトたちからは冷ややかな視線が向けられている。
「……悪かった。俺がキレたせいで平田を殴っちまったし、士気も下げた。それにDクラスが負けそうなのも、全部俺の責任だ」
そう言って、須藤くんはクラスメイトに向かって頭を深々と下げた。
今までの須藤くんなら、こんな風に己の非を認めて頭を下げるなんて絶対にあり得ないことだった。戻ってくるまでの間に、きっと堀北さんと何かがあったのだろう。
平田くんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。元より彼を責める気などなかったのだ。
「んだよ健、らしくねえな」
「間違ってたもんは、間違ってたって認めねーとな」
「別に負けてんのはお前のせいじゃねーし。……俺だって運動得意じゃねえからよ、役に立てなくてごめんな」
池くんがバツの悪そうに言う。須藤くん個人としてはきちんと競技で結果を残しているのだから、責められる筋合いはないはずだった。
「リレーの代役がまだ決まってねーなら、俺に走らせてくれ」
「もちろんだよ。ね、みんな」
平田くんの問いかけに、異論を唱える者はいなかった。
リレーは男女三名ずつを選出しなければならない。
「私は……代走をお願いしてもいいかしら。この足では満足な結果が残せないから。ごめんなさい」
堀北さんが、悔しさに拳を固く握りしめ、手を震わせながら深々と頭を下げる。
「だったらさ! 千歳ちゃんが代わりに出たらいいんじゃないか!?」
池くんが思いついたように声を上げた。
「露草? 今日は活躍してっけど、弱いやつとばっか相手だったじゃねーか」
「健は見てねーからな! すごかったんだぜ、さっきの二人三脚! 綾小路とすげぇ爆走したんだぜ!」
池くんの言葉に、一気にクラス全員の視線が私へと集中する。
けれど、私は何も言えずに立ち尽くしていた。堀北さんとの関係があんなことになってしまった以上、私が彼女の代わりをやるわけにはいかないはずなのに……。
「……露草さん。あなたにお願いしてもいいかしら?」
静かに投げかけられた堀北さんの言葉に、胸が跳ね上がる。
「え? 堀北さん、でも私は……」
「二人三脚も、私の代わりに出てくれたのよね? 今回も……私の代わりに出てくれないかしら?」
「あ……」
私が言い淀むのには答えず、堀北さんは痛む足を引きずりながら、申請のために茶柱先生の元へと歩いていってしまった。
「裏切るのなら、遠慮なく妨害してくれて構わないわ」
茶柱先生の元へ向かう直前、すれ違いざまに堀北さんが小さく囁いた言葉に、私は息を呑んだ。
思考が凍りつく。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、私は遠ざかる彼女の背中を見つめた。冷静でなんていられるはずがない。どうして私を代走に指名しておいて、そんなことを言うのか――堀北さんの意図が全く分からなかった。
「あなたが堂々とこのリレーで妨害行為をするのはもちろん、怠慢な行動をとれば即座にクラスメイトたちに知れ渡ることになるわ。……あなたが、龍園くんと繋がっていることがね」
手続きを終えて戻ってきた堀北さんは、私の隣に立つと、周囲に聞こえないほどの絞り出すような声でそう告げた。
言葉の裏にある意味は明白だった。もし私がここで手を抜いたり、わざと負けるような真似をすれば、クラス中に裏切り者として暴露する。そうなれば、私にはもうこのクラスでの居場所など一切なくなる――脅迫めいたその言葉で、私を真面目にリレーに参加させようという腹なのだろう。
「前に聞いたわよね。私に何か隠しているんじゃないかって。……あなたは『無い』と言ったけれど、本当の実力を隠していたわ。それが、とてもショックだったのよ」
私を見つめる堀北さんの瞳に、鋭い冷たさと、隠しきれない傷つきが混ざり合っていた。
胸が、痛い。
龍園くんとの繋がりなんて絶対に誤解だ。そんな取引なんてしていないと叫びたかった。けれど――本当の実力を隠しながら「友達だ」と嘯いていたのは事実だった。
言い返せる言葉なんて、ひとつも持っていない。
こうなることを自分で選んだのだから。
(綾小路くんのせいだ、なんて言えるわけもないし……)
これがすべて綾小路くんの描いたシナリオで、私が彼に利用されているだけだと説明することは不可能だった。彼の策略を明かそうとすれば、どうして彼がそんな芸当をできるのか、彼の異常な能力と、最終的にはあの『ホワイトルーム』のことにまで触れざるを得なくなってしまう。
堀北さんからの軽蔑と激しい誤解を一身に受け止めながら、私はただ、うつむくことしかできなかった。自分で自分を追い詰め、逃げ道を塞いでしまったのだ。
「……わかった、走るよ」
消え入りそうな声で、小さくそう答えるのが精一杯だった。
リレーは全学年の選抜メンバーが一堂に会する、上級生も含めた十二人での同時走行だった。
緊張感がピークに達する中、号砲が響き渡る。第一走者の須藤くんの走りは圧巻だった。周囲を置き去りにする圧倒的な爆走でぶっちぎりのトップに立ち、第二走者の平田くんへとバトンをつなぐ。平田くんも見事な走りでリードを保ったまま、第三走者の小野寺さんへと渡した。
だが、ここから上級生たちの本領が発揮される。圧倒的なフィジカルの差に押され、第四走者の前園さんにバトンが渡った頃には、かつてのリードは跡形もなく消え去っていた。
「ごめん、露草さん……ッ!」
前園さんから泣きそうな声で手渡された時、Dクラスの順位は七位にまで転落していた。
渡されたバトンの重み。堀北さんからの冷たい眼差し、背負わされたプレッシャー、そして頭の片隅にチラつくホワイトルームの恐怖――それら全てを振り払うように、私は深く息を吐き、ただ愚直に地面を蹴り飛ばした。
周囲の景色が激しく後ろへ吹き飛んでいく。観客席から一斉に大きなどよめきと歓声が上がるのが聞こえた。一人、また一人と抜き去り、七位まで落ちていたDクラスの順位を、私は気付けば四位にまで押し上げていた。
「綾小路くん……ッ!」
前を行く三位の背中に追いつくと同時、私はケガした三宅くんの代わりに出場している、アンカーの綾小路くんへと叫びながらバトンを託した。
滑らかにバトンを受け取った綾小路くんが、解き放たれたように前へと踏み出す。そのスピードは、先ほどの二人三脚すら生温いと感じるほど、凶悪で驚異的なものだった。
グラウンド全体が揺れるほどの歓声を置き去りにして、彼は前の走者たちを瞬く間に飲み込んでいく。だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。
3年Aクラスのアンカーの堀北学生徒会長が、怪物のような速さの綾小路くんとピタリと並走していたのだ。
全校生徒の視線が釘付けになる中、次元の違う二人による熾烈なデッドヒートが繰り広げられる。
そして――ほんのわずかな差で先にゴールしたのは、綾小路くんだった。
リレーが終わると同時に、グラウンドは割れんばかりの歓声とどよめきに包まれた。
「お前、あんなに速かったのかよ!?」
「生徒会長とタメ張るなんて凄すぎるって!」
さっきまで目立たなかったはずの綾小路くんの周りに、一瞬にして大勢のクラスメイトたちが群がり、彼の驚異的な脚力を口々に称賛していた。
クラスメイトたちの中心で、綾小路くんは相変わらずの無表情で、どこか困惑したような振る舞いを崩さない。あれだけの暴力的とも言える走りをしてみせたくせに、それすらも彼にとっては計算通りの出来事に過ぎないのかもしれないと思うと、背筋が冷たく凍りつくようだった。
少し離れた場所で荒い息を整えながら、私はその光景をただぼんやりと眺めていた。彼に対する恐怖と、彼の手の上でしか踊れない自分のちっぽけな無力感が、胸を重く締め付ける。
やがて全体の競技がすべて終了し、夕陽がグラウンドを茜色に染める中で閉会式が執り行われた。
緊張感が漂う中、教頭先生から結果が発表されていく。
まず提示されたのは組全体の勝敗だった。私たちが所属する赤組の勝利。事前の予想を覆す結果に一瞬拍手が湧き起こったものの、真の緊張感はその後に待っていた学年ごとのクラス別順位の発表だった。
順位は上から順に、Bクラス、Cクラス、Aクラス、そして――Dクラス。
私たちのDクラスは、無情にも最下位という現実に叩き落とされた。
須藤くんの途中離脱、龍園くんによる周到で不気味な妨害工作、そして堀北さんの負傷。どれだけ後半で巻き返そうとあがいたところで、序盤の大きな失点を埋めることはできなかったのだ。悔しそうに拳を強く握りしめる須藤くんや、冷たい瞳で地面を見つめる堀北さんの姿が視界に入る。
ちなみに、我が一年学年の個人最優秀賞に輝いたのは、あらゆる競技で安定した強さを見せ続けたBクラスの柴田くんだった。表彰台で爽やかな笑顔を浮かべる彼の姿は、あまりにも眩しかった。
【堀北視点】
「よう、逃げずにやってきたようだな鈴音」
「ここで逃げ出したら、私は救いようのない人間になるもの。出向きもするわ」
「残念だったな鈴音。お前らDクラスは最下位なようで」
「今回あなたにはやられっぱなしね龍園くん。いいえ、もっと前からかしら。船の上、無人島、私の噂、須藤くんの件。ずっと私は負けっぱなしだった……話を済ませましょう。ポイントと土下座だったわね。あなたの望みは」
「先に断っておくが木下とお前の接触は完全に事故だ。そこには他意も悪意もない」
「……そうね。証拠はないもの。私が加害者になることは明白だわ」
木下さんは私との接触で大けがをした。私も捻挫をしたけれど、彼女も大けがをしていた。
「でも言い切っておく。今回はあなたが仕組んだこと。木下さんに命令して私を転倒させた。そう確信している」
「被害妄想だな」
「妄想でも構わないわ。せめて聞かせてもらえないかしら。あなたがこの体育祭でどんな罠を仕掛けたのか」
構わないと、龍園くんは笑いながらべらべらと妄想を話してくれる。
「俺は体育祭が始まる前、Dクラスの参加表を入手した」
「露草さんを使って入手したの?」
「露草?クッハハ。鈴音、やはりあの島で俺の言った通りだったな。勝手に潰れ崩れていく」
この反応、やっぱり参加表を流出させたのは露草さんじゃなかった。ということは……
「櫛田さんね」
「ニブイチを外したな鈴音。もっと仲間のこと信じてやれよ。最も、さっきまでのプライドの高いお前じゃ無理な話だろうがな」
「話を続けて」
「櫛田に参加表を入手させ、手に入れた。そして、それに合わせて適材適所な人材をぶつけて勝利をもぎ取った。もちろん、Aクラスもリサーチしたうえでな」
「でも、私を潰す作戦は運に頼ったものだったわ。私のケガも木下さんのケガも狙ってできるものじゃないもの」
「確かにお前のケガの度合いは偶然だ。けどな、木下のケガは偶然じゃない」
「えっ……」
そう言って龍園くんは思いっきり床を踏みつけた。
「あなたが傷つけた……?彼女を……?」
「50万分け前をやるって言ったら承諾したぜ?金の力ってのは恐ろしいよなぁ」
彼の考えと実行力が心底恐ろしい。勝つためなら手段を選ばない。でも。
「そんなこと、べらべらとしゃべってよかったのかしら」
「なに?」
携帯を操作し特定のポイントから再生する。
『俺は体育祭が始まる前……』
「あなたが私を訴えるなら、この証拠をもって戦うわ。困るのはどちらかしら」
「クク、クハハハ!困らねぇよ。その音声を一部だけ切り取って提出されたところで、俺のオリジナルを提出すればいいだけだ」
そう言って龍園くんは携帯を取り出し、画面を私に向ける。そこには今の一部始終が音声と共に映し出されていた。
そうは問屋がおろさない……ということなんでしょうね。
「認めろよ鈴音。お前の完敗だって現実をよ。プライドを捨てて土下座して見せろ」
負けを認め、私が膝をつこうととした時だった。
ピロンという音が龍園くんの携帯から鳴る。
それを龍園くんが確かめると、終始笑みを浮かべていた表情が一瞬固くなる。
『いいかお前ら。Dクラスの堀北鈴音をハメるために……』
龍園くんの声や他のCクラスの生徒の声もする。それは体育祭で戦略を練っている会話だろうか。
何が起こっているのか私にはわからなかった。
「……クク、面白いじゃねぇか。裏切者はCクラスにもいるってことか。そしてこいつは影で俺も手のひらで転がしたってことだ。クハハハ!面白ぇなあオイ!お前の裏で糸を引いてやがるヤツは最高だぜ!」
間違いない、どうやったのかは分からないけれど彼がCクラスの誰かを利用して龍園くんの作戦を録音させた。それだけは確信がもてた。
そして、彼がこの体育祭で急に目立つ行動をとった理由も分かった。このタイミングで目立つ行動は怪しく感じる。裏で支配している人間が突然表に出てくれば偽物を疑う。
「今回はこれで終わりだ。土下座せずに済んだな鈴音」
【千歳視点】
「お前にオレが葬れるのか」
Aクラスの神室真澄さんに呼び出され特別棟3階の教室で待っていたら、廊下から綾小路くんと坂柳さんの会話が聞こえてきていた。
「ふふ。……ふふふ。すみません、笑ってしまって。でもあなたの発言を侮辱したつもりはありません。私があなたがどれだけ凄い方かよく知っていますから。今から楽しみになりました。あなたのお父様が作り上げた最高傑作を破壊してこそ悲願を達成できるというもの」
とんでもないことを聞いてしまった。
坂柳さんがホワイトルームのことを知っていたことにも驚いたけれど、あの怪物を壊すと宣言したことに何よりも衝撃を受けていた。
あの場所で生み出された『最高傑作』――綾小路清隆。
あんな怪物に勝てる人間なんてこの世に存在するはずがない。それを、彼女は本気で破壊すると言っていたのだ。
恐怖と動揺で背中を冷や汗が伝う。心臓が嫌な音を立てて打ち鳴らされていた。
しばらくして、教室の扉が静かに開き、坂柳さんが入ってきた。
「お待たせしてすみません」
杖を突き、何事もなかったかのような優雅な足取りで近づいてくる。
「……気にしないで。神室さんに呼ばれたと思っていたんだけど」
声が震えてしまわないよう、私は必死に息を整えながら短く返した。
「ええ、神室さんには代理で声をかけてもらったのです。あなたと直接、お話ししたいことがありましたので」
「私に……何か用?」
警戒を隠せない私の問いに、坂柳さんはどこか楽しげに目を細めた。
「簡単な確認ですよ。――ホワイトルームの『脱落者』である露草千歳さん」
その言葉が落ちた瞬間、頭の中が真っ白になった。
呼吸が止まる。脳裏を焼き尽くす過去の記憶と、脱落した際に叩き込まれた徹底的な拒絶反応が全身を襲う。喉が強く痙攣し、激しい吐き気が押し寄せてきた。
(どうして……なんで、この人がそれを知っているの……?)
恐怖で動けない私を見て、坂柳さんはどこか懐かしむように目を細めた。
「以前、あの施設を訪れた際、脱落者の記録資料を見せてもらったことがあるんです。過酷すぎる教育の末、ほとんどの生徒が精神を壊して去っていく中で……あなただけが唯一、比較的精神を保った状態で退所していた。だからこそ、名前と顔をよく覚えていたんですよ」
カン、と小さな音を立てて杖が床を突く。
彼女は絶望に凍りつく私との距離を、ゆっくりと詰めてきた。
「ですが……今のあなたを見る限り、精神を保っているというのも過信だったようですね」
私の顔を覗き込む坂柳さんの瞳には、冷ややかな、けれど底知れない興味が宿っていた。
「まるで壊れたお人形のようですね」
呼吸の仕方を忘れたように胸を上下させ、震えることしかできない私を、坂柳さんは冷ややかな、けれど心底興味深そうな瞳で見下ろしていた。
「単語をひとつ口にしただけで、そこまで思考が停止してしまうとは……。なるほど、最高傑作である彼と、脱落者であるあなたの差は、能力以前に『心の脆さ』にあるわけですか」
「……っ、なん……で……」
胃から押し寄せる吐き気を必死に抑え込み、途切れ途切れに声を絞り出すのが限界だった。
「安心してください。私はあなたを脅すつもりも、その過去を学校中に言いふらすつもりもありません。ただ……あなたがこれからどう壊れていくのか、観察したいだけなのです。彼と同じように」
カン、と小さな音を立てて杖が床を突く。
「綾小路くんは、自分と同じ場所から来たあなたを『仲間』だなんて思っていませんよ。ただの便利な捨て駒です。そしてあなたも、彼に恐怖し、言われるがまま踊らされるしかない……」
坂柳さんはクスリと可憐に微笑むと、私の横を通り過ぎた。
「せいぜい、彼と私の戦いを彩る『哀れな犠牲者』として、最後まで舞台の上にいてくださいね」
優美に背を向け、杖の音を廊下に響かせながら去っていく彼女の後ろ姿を、私は冷たい床に崩れ落ちそうな脚を必死に支えながら、ただ絶望とともに見送るしかなかった。