ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
『お前程度になら、本音を曝け出したところでプライドに傷はつかない。今後、人形として可愛がるために『餌』を与えたにすぎない』
はぁ、はぁ、と浅い呼吸を繰り返しながら、私は自室のドアに背中を預けたまま、冷たい床の上に力なくへたり込んでいた。胸が破裂しそうなほどにうるさく脈打ち、激しい動悸が喉の奥を塞ぎ込んでいる。
呼吸がひどく乱れているのは、綾小路くんの部屋から急いで自室へと走り込んで戻ってきたからではない。彼に突きつけられたあまりにも残酷な言葉が、毒のように全身の血に巡って心臓を締め付けているからだ。
(また……逃げ出してしまった……)
あの言葉を、必死に否定したかった。
けれど――できなかった。
私自身が、どこかで「その通りだ」と感じてしまったから。
ホワイトルームの落ちこぼれで、何の特徴もなく、いつだって恐怖から逃げてばかりの私。そんな人間に、あんなにも気高く美しい堀北さんが、打算もなしに心から優しくしてくれる理由なんてどこにあるのだろう。私なんかに、誰が本気で優しくしようと考えるのだろうか。
綾小路くんの言葉は、私の胸の奥にずっと眠っていた歪んだ自己評価そのものだったのだ。
……でも、もう大丈夫。
膝に顔を埋めたまま、私は暗闇の中で静かに、深く息を吐き出す。
だって、彼はもうきっと、私に関わってこないから。
堀北さんの
なら、それでいい。最初からそうすればよかったのだ。
特別になろうとしたり、誰かと本当の絆を結ぼうなんて高望みをするから傷つくのだから。
明日からはまた、以前のように。
クラスの誰の視界にも入らない、影のように薄い存在――無害な
自分の足で立つ必要なんてない。
ただ波風を立てず、誰にも期待せず、静かに逃げ続けていれば、これ以上傷つくこともないのだから。
静まり返った図書室。静寂が満ちる本棚の隙間で、私は椎名さんと向き合っていた。
「――仲直りができたみたいで良かったです」
小さな声でそう切り出した椎名さんは、どこかホッとしたように目を細めた。
「うん、なんとかね。ただ、あれ以来よく晩御飯を食べに来るようになっちゃった」
私は口元に笑みを浮かべ返した。
「そうですか」
私の返答に椎名さんは穏やかに頷いたものの、その声にはいつものような張りがなく、どこか元気がなさそうに見えた。
「どうかしたの? なんだか少し疲れて見えるけど……」
尋ねてみると、椎名さんは少しだけ困ったように眉を下げ、声をひそめて口を開いた。
「実は今、龍園くんの指示でDクラスの方々にお会いしているんです。その方々の不審な点を見つけたら教えるように、と」
その言葉で悟る。どうやら龍園くんは、噂に聞く『Dクラスの黒幕』を本格的に探し始めたらしい。
「それ、私に言っちゃってよかったの?」
「はい、構いません。昨日もお二人に龍園くんと伴ってお会いしてきましたから。確かお名前は……あ、あや」
「綾小路くん?」
「はい、確かその名前でした。もう一人は……すみません。顔と名前は憶えられなくて……」
自分のクラスメイトすらろくに記憶していない様子の椎名さんに、ふと疑問が湧いて口を挟む。
「私のことは、憶えていたよね?」
「露草さんはすぐに憶えられました。ちょうどここで、変わったお勉強の方法をされていましたので、ものすごく印象に残っていましたから」
「そっか……」
私は引きつった苦笑いを浮かべるしかなかった。
あの日、彼女の静かだがすべてを見透かすような探る視線に恐怖を感じて、逃げるようにこの場所を去った時の記憶が脳裏をよぎる。完璧に無害なモブとして擬態していたはずの私の化けの皮を剥がし、隠していた本心を暴かれるんじゃないかと、肝を冷やした記憶。
彼女のこぼれ落ちるような高い洞察力で、今の私の薄汚い本心がどれくらい見抜かれているのか――確かめてみたい衝動にも駆られるけれど、恐ろしくてとても聞けそうにない。
それにしても、なるほど。粗暴に見える龍園くんが、この浮世離れした彼女を傍に置き、信頼している理由がよくわかる。この観察眼なら、Dクラスの黒幕を暴くことだって決して不可能ではないはずだ。これまでもこうして彼女の目を利用し、相手に探りを入れてきたのだろう。
思考を巡らせながら、私はふと思い立ったように言葉を漏らした。
「黒幕か……綾小路くんじゃないかなって思う」
椎名さんの瞳が、わずかに揺れた。
「……なぜそう思うのですか?」
「彼、堀北さんと一番仲が良いから。立場的に堀北さんをコントロールしやすいし、姿は出さず、堀北さんを通じてクラスに干渉ができるでしょ?」
言葉にしながら、胸の奥で冷たい笑いがこみ上げる。
私はそれが『事実』だと確信を持って言える。けれど、私が今口にしたのは、状況証拠から誰にでも容易に想像できる範囲のロジックでしかない。龍園くんだって、とうに可能性の一つとして追っている程度の推測だ。
つまり、彼女に与えたところで何の情報性もない戯言。
怪物の正体を知りながら、無害なモブのフリをしてあからさまな仮説を語ってみせる。
私にとっては、ただのくだらない火遊びに過ぎなかった。
特別試験「ペーパーシャッフル」の結果が黒板に張り出され、Dクラスの勝利が確定した。私のペアも無事にボーダーラインを超えて合格していた。
自分の名前が脱落者の欄にないことを確認し、胸の奥で小さく息を吐き出す。
目立たず、出しゃばらず、ただ平均点の波に紛れ込む。完璧なモブとしての立ち回りが無事に機能してくれたことに、冷たい安堵が広がっていく。
試験の前週、学年中に走ったあの激震のことを思い返す。
『1年Bクラス、一之瀬帆波が不正にポイントを集めている可能性がある』
龍園くんの名前が添えられたあの怪文書が全員のポストに投函され、寮のロビーでひと悶着があったあの日。聖人君子のような一之瀬さんに突如突きつけられた疑念の刃。けれど結局、彼女が自ら学校側に事情を説明し、学校側から『不正なし』という公式な判断が下されたことで、騒ぎはあっけなく収束した。
(……でも、本当にそれだけなのかな)
あの龍園くんが、学校側に一蹴されるような浅はかな嫌がらせだけで終わらせるはずがない。
表舞台で繰り広げられる怪しい影の踏み合い。一之瀬さんを揺さぶり、Dクラスの黒幕を炙り出そうとする龍園くんの執念。そして、その裏で静かに糸を引いているであろう――私の前に座る怪物。
頭を振って、思考を強制的に打ち切った。
関係ない。私には、何の関係もないことだ。
クラスが勝利に歓喜しようが、誰かが誰かの策略に嵌まろうが、今の私にはどうでもいい。私はただ自分の生存だけを最低限の点数で確保し、誰の視界にも入らないように静かに呼吸をしていくだけ。
「……よかった」
誰にも聞こえない声で呟く。
嵐の暴風域から遠く離れた教室の片隅で、ただの透明な生徒として没個性に生きていく。それだけが、今の私に残された唯一の防衛策だった。
【三人称視点】
櫛田桔梗との密会を終え、闇に紛れた龍園翔は、手の中の携帯を弄びながら不敵な笑みを浮かべた。
画面を操作し、Dクラスの裏で暗躍する謎の存在――『X』宛てにメールを送信する。
「しかし――俺のことをよくわかってやがる」
夜の静寂の中に吐き出された言葉には、隠しきれない愉悦が混じっていた。
ペーパーシャッフルの特別試験が始まる前、龍園のもとにXから一通のメールが届いていた。それは、龍園の思考パターンを完璧に読み切った上での『取引』だった。
提示された内容は、龍園と櫛田の策を堀北が先手を打っているという情報。そしてその引き換え条件として提示されたのは、堀北と櫛田の個人的な勝負において、意図的に櫛田を負けさせることだった。
龍園はその取引に応じ、結果として勝負は堀北の勝利に終わった。
「鈴音を守ると同時に、桔梗封じにも成功したわけか」
自分の手駒として利用していたはずの櫛田の戦略が、逆にXによって丸ごと利用され、Dクラスの安定へと収束させられた。その見事な手並みに、龍園はクックと肩を揺らし、笑いをこらえ切れなかった。
「そろそろ追い詰めさせてもらうぜ。もし正体を見せなきゃ、その時は――こいつをぶっ壊してやるだけだけどなぁ」
龍園は端末の画面を切り替え、ある画像データを開く。
そこに映し出されていたのは、私服姿で楽しそうに街を歩くDクラスの女子生徒――軽井沢恵の姿だった。姿を隠し続けるXを引きずり出すための、絶好の
ターゲットを定め、じわじわと痛ぶって追い詰めようとしたその時、手元で携帯が短い振動を返した。
『X』からの着信通知。
画面を開いた龍園の視線に、送られてきたばかりの短い一文が飛び込んでくる。
『軽井沢さんには手を出さないで。私の正体を知りたければ教えてあげる。私の正体は露草千歳』
露草千歳。
画面に表示されたその名前と姿は、これまでにも度々目にしてきたものだった。
だが、体育祭が始まるまでは、龍園にとってあの女のことなど意識する価値すらない路傍の石に過ぎなかった。
確かに、体育祭本番で見せた露草の走りは、事前に櫛田から買い取っていたDクラスの個人データに記された数値よりも遥かに高かった。隠されていた身体能力という意外性はあったものの、だからといって龍園の中での評価が変わるほどのことではない。
後日、平田と接触した際、その傍らにいた露草は龍園の鋭い視線を受けただけであからさまに身をすくませ、相変わらずのビビり具合を晒していたからだ。ただ少し運動神経が良いだけの臆病者。それが龍園の記憶にある露草千歳だった。
だが――体育祭が終了した後、微妙な違和感が生じ始めていた。
堀北鈴音の口から、なぜか桔梗ではなく「露草」の名前が聞こえてきたのだ。
無人島特別試験の折、二人の仲違いを誘うような言葉を投げかけたのは龍園自身だ。だが、まさかそれほどまでに二人の関係が冷え切り、歪んでしまうとは龍園にとっても想定外だった。
ここにきて、突如として浮上してきた『露草千歳』という女の不自然な存在感。
「あのビビり女……露草千歳が黒幕だと?」
闇の中、無機質な画面の光に照らされた龍園の瞳が、深く凶暴に細められた。
露草千歳がDクラスの黒幕――そんなわけがない。
龍園は吐き捨てるように鼻で笑った。
そもそも、船上試験で真鍋たちを使って軽井沢恵を追い詰め、それを逆手に取って真鍋たちを脅迫・操作した黒幕の手口。あの状況を作り上げるには、真鍋と軽井沢の間にあった決定的な因縁を知っていなければ不可能な芸当だ。
あの事件の現場に居合わせ、その事実を知り得たDクラスの生徒は限られている。
綾小路清隆、そして幸村輝彦。
やはり、そのどちらかが黒幕である可能性が圧倒的に高いのだ。
それに――と、龍園は数日前の椎名ひよりとの会話を思い返す。
図書室で露草と接触したひよりから報告を受けた際、その会話内容自体は何の価値もないただの雑談であり、思いつきの推測に過ぎなかった。だが、ひよりは首をかしげながら、小さな違和感を口にしていたのだ。
『いつもの露草さんでしたら、「わからない」と答えそうなのですが……その時はすぐに綾小路くんの名前を口にされたので、それで意外だなと思ったんですよね』
あのビビりの女が、わざわざ自分から特定の名前を出して探りを入れようとした。
その不自然な挙動。そして、今このタイミングで『自分が黒幕だ』と自らメールで名乗り出てきた事実。
(黒幕の正体を隠すための身代わりか……あるいは、あの女自身が黒幕に躍らされているのか)
自分をXだと偽って軽井沢を庇おうとしているのか、あるいは裏で糸を引く本物のXが露草にこのメールを送らせたのか。真相はどうあれ、仕掛けた罠に反応があったことに変わりはなかった。
黒幕を完全に炙り出し、引きずり降ろすための『エサ』は、すでに手元にある。軽井沢恵という絶好の弱点を突けば、自ずと本物の怪物は姿を現すはずだ。
携帯をポケットにねじ込み、龍園は暗闇の中で凶暴な笑みを深めた。
「おもしれぇじゃねぇか」
己の差し出した身代わりが通用すると思っているのか、それとも別の狙いがあるのか。
目の前で踊る滑稽な人形と、その裏に潜む真犯人を見据え、龍園は狂暴な愉悦を瞳に宿らせた。