ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
5月1日の朝。
まだ覚めきらない
ずっとこのまま、温かい檻の中に閉じこもっていたい。そんな子供じみた願望を振り払うように、私はベッドの中で静かにスマートフォンを開いた。
画面に表示された今月の支給額は、文字通り、冷酷なまでに「0」ということを示していた。
「……やっぱり、そうだよね」
声は、驚くほど平坦に室内に落ちた。
落胆も、パニックもなかった。むしろ、喉の奥につかえていた得体の知れない違和感が、すとんと腑に落ちたような感覚だった。
四月のあの狂乱。誰もが十万ポイントという大金に目を眩ませ、湯水のように浪費していたあのモラトリアム。あんな都合のいい天国が、この外の世界にあるはずがないのだ。評価、監視、そこで行われる冷徹な足切り──
私はベッドから這い出し、机の上に置かれた、四月に購入しておいた真っ白なパッケージの無料の固形石鹸に視線を落とした。
あれを見た時に確信した歪なルール。私の読みは正しかった。
幸い、私の口座には四月の残りがある。周囲に流されて最低限の付き合いはしたものの、生存に必要なコストはあらかじめ差し引いて管理していた。これだけあれば、当面は飢えることもなく、静かに、ただの背景として暮らせる。
胸の奥に冷たい安堵を覚えながら、私はいつも通り「無害な少女」の制服に身を包んだ。
それから数時間後。放課後の夕暮れが迫る校舎の片隅、人の往来が途絶えた非常階段の踊り場で、私は一人、冷たいコンクリートに背を預けていた。
いま頃教室では、平田くんを中心とした即席の対策会議が開かれているはずだ。ホームルームが終わった直後、彼は私の席までわざわざやってきて、「露草さんも、これからみんなで話し合わないかな?」と、あの眩しいほどの善意の瞳で手を差し伸べてくれた。
けれど、私は少し怯えたような「無害な少女」のお面を張り付けたまま、「ごめんなさい、ちょっと体調が……」と、それらしい嘘をついて教室を逃げ出してきたのだ。
誰もいない踊り場で、私はようやく肺に溜まっていた熱い息を吐き出した。
脳裏をよぎるのは、昼間のホームルームで茶柱先生が言い放った、あの冷酷な言葉。
『つまりお前たちは、最悪の不良品だということだ』
その瞬間は、心臓が凍りつくかと思った。白い部屋での落第者としての記憶、冷たい床の感触がフラッシュバックして、呼吸が浅くなった。
……けれど、教室を飛び出し、こうして一人で静寂に包まれている今、私の心を占めているのは、奇妙なまでの深い「安堵」だった。
(ああ、やっぱり私は不良品なんだ……。出来損ないの落ちこぼれ。だからこそ、あの白い部屋に戻されることもない。このクラスこそが、私の理想的な隠れ蓑だ)
十万ポイントを失ったことへのショックなどない。むしろ、Dクラスという「最底辺の不良品の集まり」というレッテルこそが、私が望む平穏な学生生活を守ってくれるはずだった。
私はポケットからスマートフォンを取り出し、画面に触れる。
表示された四月の残り残高は「34,500ポイント」。
(……これだけあれば、たぶん大丈夫)
一日の生活コストを頭の中で素早く弾き出す。周囲の付き合いに削られたとはいえ、生活に必要な分はしっかり残してある。無料の山菜定食や自作の弁当で食費を抑える、四月に買い込んでおいた物資で食いつなげば、飢えることは絶対にない。生存のための算段は、すでに私の頭の中で完了していた。
問題は、三週間後に行われるという五月下旬の中間テストだ。
一科目でも赤点を取れば即刻退学。
テストで赤点を取ることはないだろう。けれど、もしここで下手に高得点を叩き出してしまえば、落ちこぼれという隠れ蓑が剥がれ、クラスの注目を浴びてしまう。
(目立ってはいけない。赤点を確実に回避しつつ、平均以下の『凡人』として埋もれる点数を計算して、コントロールしなければ……)
そう思い至った瞬間、私はハッと息を呑んだ。
高円寺六助のように、突き抜けた90点を取る怪物は、いっそわかりやすくていい。野生の化物がどれだけ暴れようと、それは嵐の音に過ぎない。
だが、私のすぐ前の席に座る男――綾小路清隆の『50点』は、異質だった。
あのテストには高校1年の私たちには到底解けないような、恐ろしく難度の高い問題が紛れ込んでいた。しかし、彼ほどの男であれば、そんなものは造作もなく、100点を捥ぎ取れたはず。
それなのに、前に貼り出された彼の点数は、あまりにも凡庸な『50点』だった。
偶然などではない。彼はあえて、自分の本当の実力を隠すためにその数字を選んだのだ。
この学校という檻の中で、ただの無害な生徒に見せるための、冷徹なまでの演出。
その事実を前に、私の背中にじわりと冷たい汗が伝っていった。
(あの人は、意図的に、凡人を演じている……)
私が今まさに実践しようとしている隠蔽工作。それを彼は何食わぬ顔で成し遂げている。
なぜ、彼ほどの存在が、この最底辺のDクラスで牙を隠し、気配を消して潜んでいるのか。目的がわからない。わからないからこそ、その「凡庸な点数」の裏にある深淵が、底知れず恐ろしかった。
「不良品」の集まりであるはずのクラスに、こんな怪物が潜んでいるなんて。私の隠れ蓑だったはずの場所は、その実、一歩間違えれば喰い殺される猛獣の檻だった。
夕暮れの五月の青い光が、非常階段の狭い踊り場を静かに、そして残酷に照らし出している。
私は膝を抱え、自分の肩をそっと抱きしめた。
私はただの背景。何が起きても、あの綾小路清隆という怪物の蜘蛛の巣にだけは、絶対に巻き込まれてはいけない──。
そう強く、自分に呪いをかけるように言い聞かせながら、私は冷え切ったコンクリートの上で、ただじっと息を潜め続けていた。
しばらくして、非常階段の踊り場で凍りつきそうになっていた体を無理やり起こし、私は重い足取りで図書室へと向かった。
いま教室に戻れば、平田くんたちの対策会議に巻き込まれる。かといって寮に戻るのも、自分の部屋の狭い空間でさっきの恐怖が肥大化していくだけだ。それなら、誰も私に興味を持たない、静寂がルールとして保証されている図書室の片隅の方が、まだ息がしやすかった。
目的はもう一つある。三週間後の中間テストに向けた、現実的な生存戦略の構築だ。
図書室の最も奥、大型の書架に挟まれた死角の席に陣取り、私は教科書とノートを広げた。
(目立たず、かつ赤点を確実に回避する点数……)
私の実力では狙った点数をぴったり撃ち抜くような芸当は到底できない。下手に狙いすぎて計算が狂えば、赤点ラインに引っかかるか、あるいは不自然に高い点数を取って悪目立ちしてしまうかもしれない。
正解がはっきりと分かっている問題を、いくつか見逃す。解答欄を埋める記述の表現を、少しだけ稚拙なものに変える。そうして全体をボカし、ある程度の点数へ見当をつける。そうやって、クラス平均の波に紛れ込めそうな曖昧な境界線へ滑り込ませる。
シャープペンシルを握り、あえて間違えるための問題をノートに書き記していく。その作業に没頭していた時だった。
不意に、すぐ近くの席の椅子が、微かに引かれる音がした。
心臓が一瞬だけ跳ねる。息を潜めて視線を上げると、そこには独特の、ふわりとした穏やかな空気をまとった銀髪の少女が座っていた。
少女は難解そうな文庫本を大切そうに両手で抱え、私の視線に気づくと、小動物のような愛らしい動作で小首を傾げた。
「あ、こんにちは。お邪魔してしまいましたか?」
それは、敵意という概念が最初から存在しないかのような、ひどく純粋で穏やかな笑みだった。
「あ、いえ……大丈夫、です。ごめんなさい」
私は咄嗟に、いつも通りの「おどおどした、気の弱そうな、モブや背景の少女」のお面を張り付け、小さな声で縮こまった。
「ふふ、謝らなくて大丈夫ですよ。ここ、とても静かで落ち着きますよね。私、椎名ひよりと言います。Cクラスの者ですけれど、あなたが熱心にお勉強されていたので、つい」
椎名ひより。
殺伐としたDクラスの空気や、前の席の綾小路さんが放つ底知れない深淵とは全く違う、お日様のような無害な温もりが彼女からは伝わってきた。義務教育の学校にいた頃の、本が好きな優しい女の子。その懐かしい質感に、私は張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ解れるような安心感を覚えていた。
「私、は……Dクラスの、露草……千歳、です。……頭が悪いから、一人でやらないと追いつかなくて」
自虐を交ぜた擬態の言葉。彼女はそれを「そうなんですか」と優しく微笑みながら聞いていた。
けれど、椎名さんの視線が、私の広げたノートへと向けられた時、室内の空気がわずかに変質した。
彼女の好奇心に満ちた綺麗な瞳が、私の書いた『あえて間違えようとしている不自然な計算の痕跡』を、じっと見つめている。
「露草さんは、とっても『静かに』お勉強をされるのですね」
椎名さんは、文庫本を胸に抱き直しながら、ささやくように言った。
「静か、ですか……?」
「ええ。まるで、ご自分の出している音を、ひとつひとつ丁寧に消してしまっているみたいに。……なんだか、不思議な解き方をなさるのですね?」
その純粋無垢な響きの中に、私は背筋に冷水を浴びせられたような、強烈な悪寒を覚えた。
(……気のせい? いえ、違う)
彼女に悪意はない。私を陥れようとする敵意も、白い部屋のような冷徹な悪意も一切ない。
だからこそ、恐ろしかった。
彼女はただ、純粋な観察眼と好奇心だけで、私の被っている『お面』の隙間から、その奥にある本質を覗き込もうとしているのだ。私の擬態の「不自然さ」に、本能的に気づいている。
「あ、ううん……ただ、ノートを汚したくなくて、ゆっくり書いてるだけ、だよ……?」
声を震わせ、必死に無能を演じ直す。椎名さんはそれ以上追及することなく、「なるほど、丁寧なのですね」と、またふわりと微笑んだ。
「お邪魔してしまってごめんなさい。本を読むのに集中しますね。また、お話ししてください、露草さん」
「……うん」
彼女は自分の世界へと戻っていった。
けれど、私の手元にあるシャーペンは、完全に震えて止まっていた。
安全だと思っていた。他クラスの、こんなに大人しそうな女の子なら、私の背景に紛れる技術で見過ごしてもらえると思っていた。なのに、世界はそんなに甘くない。
前の席の怪物だけでなく、他クラスにすら、私の本質を無自覚に脅かすような人間が存在している。Dクラスという隠れ蓑の中にいても、いつ誰にその正体を暴かれるか分からないのだ。
窓の外の夕暮れは、もう完全に青い闇へと沈もうとしていた。
私はノートを乱暴に閉じ、逃げるように図書室を後にした。
どこまで逃げても、逃げ場なんてない。5月下旬の中間テストという容赦のない選別を前に、私は蜘蛛の巣の上を歩くような絶望的な足取りで、一人、暗い夜の廊下を歩き続けるしかなかった。