ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
5月2日の朝。
十万ポイントという天国から、一転して今月の収入が「0」という地獄へ突き落とされたショックから明けた翌日。Dクラスの教室は、早くも異様な熱気と困窮の空気に包まれていた。
「なあ、これマジで1万ポイントで買ってくれねえ!? 先月ケヤキモールで買ったばっかのブランドの時計なんだよ!」
「バカ言え、そんなもん今どき誰も買わねえよ! それより、こっちの新作のゲーム、五千ポイントで誰か引き取ってくれって!」
教室内では、早くも生活費に困窮した生徒たちが、先月のうちに学園内で購入した私物を机の上に広げて即席のフリーマーケットのような騒ぎを起こしていた。必死に生き残ろうとする彼らの姿を、私は机に突っ伏したまま、静かに眺めていた。
関わってはいけない。私はただの背景。この喧騒が通り過ぎるのを待っていればいい。
そう自分に言い聞かせていた、その時だった。
「……ねえ、露草さん。ちょっといーい?」
不意に上頭から降ってきた軽い声に、私の心臓が小さく跳ね上がった。
顔を上げると、そこには一人でへらへらとした薄い笑みを浮かべた軽井沢恵さんが立っていた。
「あ……軽井沢、さん……?」
私は咄嗟に、いつもの「おどおどした無害な少女」のお面を張り付け、声を縮こませる。
「実はあたしさ、ポイント使いすぎちゃってマジ金欠なんだよねー。今、クラスの女子からもちょっとずつポイント貸して貰ってるんだけど、露草さんにも助けて貰いたいって思って」
軽井沢さんは私の顔を覗き込むようにして、悪びれもしない調子で言葉を続けた。
「あたしたち友達だよね? ほんと、ひとり二千ポイントでいいんだけどさ」
友達。その言葉が、私の脳裏に先月の記憶を呼び起こす。
四月中、クラスの空気に流されて、一度だけ彼女たちギャルグループの買い出しに付き合わされたことがあった。ただの一回、その場の空気を壊さないためだけに一緒にいただけの希薄な関係。
それを彼女は今、「友達」という便利な免罪符に変えて、ポイントの徴収に利用している。
(……軽井沢恵という少女)
私はお面の下で、冷徹に彼女を分析していた。
彼女がこのDクラスにおいて絶対的な「女王」のポジションに君臨している理由。それは、彼女自身の学力や身体能力が優れているからではない。クラスの人気トップであり、誰もが頼りにする平田洋介くんと、四月の段階で早々に付き合い始めたからだ。
「平田くんの彼女」という、このクラスにおいて最強の盾を背負っている彼女。もしここで要求を拒絶すれば、この狭い教室という檻の中において、私は「空気を読まない敵」と見なされるだろう。そうなれば、私が最も望んでいる「無害な背景」でいることすら許されなくなる。
二千ポイントは決して安くない。けれど、ここでクラスの女王に目を付けられるリスクを買うためだと思えば、はるかに安い必要経費──そう割り切るべきだった。
「あ、うん……これくらい、なら……大丈夫、だよ……?」
震える手でスマートフォンを取り出し、画面を操作して二千ポイントを彼女の口座へと振り込む。
「お、マジ!? ありがとー! 露草さんってほんと優しいよね。助かったわー!」
軽井沢さんはスマートフォンの画面を確認すると、へらへらと満足そうな笑みを浮かべて、次のターゲットを探すようにあっさりと去っていった。
嵐が去り、私の中に安堵が広がる。
これでいい。これで私は、今日もまた「無害な落ちこぼれ」のままでいられる──。
「……良かったのか?」
硬直した。
背中を向けたまま、感情の読めない低い声でボソリと呟いたのは、私のすぐ前の席に座る男──綾小路清隆くんだった。
彼の方から私に声をかけてきたのは、これが初めてのことだった。
あまりの衝撃に言葉を失っている私の方へ、彼はわずかに首を傾け、死んだような、光のない瞳でこちらを振り返った。
「あれは十中八九、返ってこないぞ」
「あ、ううん…….でも、軽井沢さんとは、友達だし……。それに、困ってるみたいだったから……断れなくて……」
私は必死に、おどおどとした少女の演技を維持しながら、消え入りそうな声で返した。
けれど、綾小路くんはそんな私の様子をじっと見つめたまま、何かを見定めようとするかのような、静かで濃密な視線を外さなかった。
「友達、か。その割には随分と、冷めた損得勘定をしているように見えたが」
ドクン、と私の心臓が不快な音を立てて波打った。
冷めた損得勘定──。
完璧に怯えた凡人を演じたはずなのに、彼は私の内面の『計算』を見抜いたのだろうか。
私が軽井沢さんを哀れんだわけでも、ただ怯えたわけでもなく、「クラス内の女王である彼女と摩擦を起こすリスク」と「二千ポイントというコスト」を天秤にかけ、最も合理的なリターンを選択したことを見透かされたのかもしれない。
彼は、あの白い部屋の住人であり、何かの目的のためにその圧倒的な実力を隠している。それは揺るぎない事実だ。だからこそ、同じように計算して「人間」を演じている私の擬態の裏にある、冷たい合理性の匂いを敏感に察知したのではないか、と思う。
(あの人は、私のことを『ただの無能』としては見てくれないのかもしれない……)
言葉にできない恐怖が背筋を駆け上がる。私が次の言い訳を必死に探そうとした、その時だった。
ガラガラと音を立てて、教室のスピーカーから無機質な館内放送が鳴り響いた。
『1年Dクラスの綾小路くん。担任の茶柱先生がお呼びです。職員室まで来てください』
張り詰めていた室内の空気が、その冷徹な声によって一瞬で霧散する。
綾小路くんはわずかに視線を落とし、いつも通りの抑揚のない声で言った。
「悪い、露草。呼ばれたから行く」
「あ、うん……」
彼はそれ以上追及することなく、静かに席を立ち、教室を出ていった。
独り残された私は、自分が無意識に呼吸を止めていたことに気づき、激しく空気を吸い込んだ。背中には、べっとりと嫌な冷や汗が伝っている。
(……何だったの、今の会話)
深まる焦燥感の中、私は心を落ち着かせようとふと周囲を見渡し、そういえば堀北さん姿が席にないことに気づいた。いつの間にか教室を出ていってしまったのだろうか。
しかし、それがまさか先ほどの「綾小路くんへの呼び出し」に関係しているとは、この時の私は露ほども思っていなかった。
しばらくして、綾小路くんと堀北さんが、ほぼ同時に教室へと戻ってきた。
戻ってきた二人の様子を盗み見ながらも、やはり私には、二人が先ほどまで同じ場所にいて、何か関係があったとは思いもしない。
ただ、自分の冷徹な本質を覗き込まれたかもしれないという恐怖の余韻だけが、いつまでも胸の奥にじっとりと残り続けていた。私はそれをごまかすように、誰もいない窓の外の、曇り空へと視線を逃がすことしかできなかった。
前の席に座った綾小路くんは、私の方を振り返ることもなく、先ほどの「損得勘定」の会話など最初からなかったかのように、ただ眠たげに黒板を眺めている。彼がそれ以上会話を続けず、私の本質を追及してこなかったことに、私は心から安堵していた。
その後、週末にかけてDクラスの日常は文字通り「極貧サバイバル」と化した。
先月までの贅沢が嘘のように、ケヤキモールの隅に置かれた「0ポイントの生活必需品」や、一人三本まで無料の山菜パックに生徒たちが群がる異常な光景。私も周囲に怪しまれない程度に貧乏なふりを装い、食堂で0ポイントの山菜定食を啜りながら、嵐のような一週間をやり過ごした。
そうして迎えた休日。私は少しの息抜きを兼ねて、ケヤキモールを訪れていた。
休日とはいえ、ポイントを失った生徒たちでごった返すモールの中、前方から独特な、規則正しい音が響いてくる。
コツ、コツ、と床を叩く白い杖。それを手に、数人の生徒を従えて歩いてくる一人の少女がいた。
その集団の中に見覚えのある顔──Aクラスの教室で見かけた生徒が混ざっていることに気づき、私は彼らが「Aクラスの集団」であることを察する。
私はおどおどした凡人の振る舞いを崩さないまま、彼らの進路を遮らないよう、自然に道を譲って壁際に寄った。
白い杖を突いた少女は、私に目もくれることはなかった。
隣を歩くクラスメイトとの会話を優雅に楽しんでいるように見え、そのまま何事もなかったかのように私の横を通り過ぎ、雑踏の奥へと消えていく。
──千歳は知り得ないことだが。
この時、少女はクラスメイトとの他愛のない会話に興じながらも、その実、その瞳の奥には底知れない退屈さを、静かに、深く湛えていた。この学校に自分を満足させてくれる存在など、果たしているのだろうか、と。
そんな少女の内心など知る由もない私は、通り過ぎていくAクラスの集団の後ろ姿を見つめながら、ただ無意識に強張っていた身体を緩める。
綾小路くんに本質を覗かれかけた恐怖の残滓のせいか、今の私には、すれ違う優秀な生徒たちの誰もが怪物のように思えてしまう。
目立ってはいけない。私は、ただのモブ。無難な背景でいなきゃいけない。
週が明けてからのDクラスは、先月までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
4月に比べ、誰もが極端な金欠に陥っているせいだろう。放課後になっても、部活動に所属していない生徒たちが「どこかへ遊びに行こう」などと浮き立った会話を交わすことはほとんどなくなっていた。当然、凡人以下を自認する私に声をかけてくる物好きなクラスメイトなどいるはずもなく、私は誰にも呼び止められないまま、無事に自室へと帰宅することができた。
時刻は夜。
今日出された課題と、自分なりの予習を一段落させた私は、張り詰めていた息を吐き出して椅子から立ち上がった。少し一息入れることにしよう。
マグカップにインスタントコーヒーの粉末を落とし、電気ケトルから熱いお湯を注ぎ入れる。湯気とともに立ち上る苦い香りを嗅ぎながら、私はいつの間にか、すでに日課となりつつある思考に没頭していた。
前の席に座るあの怪物──綾小路清隆くんについての観察と、思案だ。
振り返ってみれば、今日は普段とは違う、奇妙な出来事がいくつか起きていた。
まず一つ目は、珍しく堀北さんが、綾小路くんをお昼ご飯に誘っていたこと。
この学校に来てまだ一ヶ月しか経っていないのだから、「珍しい」などと言うのは早計かもしれない。けれど彼女はこの一ヶ月、綾小路くん以外のクラスメイトとは全くと言っていいほど関わろうとせず、必要最低限のやり取りしかしてこなかった。入学初日のバスの中で見た、彼女のあの凍りつくような孤高さを思い出せば、それがどれほど異例なことかは分かる。これまでは、彼女の方から彼をお昼に誘うなんてことは一度もなかったのだ。
私はお昼時、自作のお弁当を作ったときはいつも教室の自席でひっそりと食べている。だから、普段と違う行動は怪しまれるリスクを感じ、二人の後をついていくことはしなかった。なので、食堂で彼らがどんな会話を交わしたのかまでは分からない。
そして、違和感の二つ目。
その放課後、今度は綾小路くん自身が、須藤くんや池くんに向けて勉強会の誘いをかけていたのだ。
これまで一切の積極性を見せず、ただの無害な背景として教室に馴染んでいたはずの彼が、自ら動いた。ここから推測できる事実は一つ。おそらくお昼の時点で、堀北さんから「彼女の開く勉強会に、須藤くんたちを参加させてほしい」と頼まれたのだろう。感情の起伏が見えない彼が、なぜそんな面倒な依頼を快く請け負ったのか、その理由は不明だけれど。
さらに、三つ目。
先ほど放課後になってすぐ、綾小路くんは今度は櫛田さんに声をかけていた。
おそらく須藤くんたちににべもなく断られ、その代役として、クラスで最も人望のある櫛田さんに彼らを説得してもらおうと考えたのだろう。
この学校に来て初めて、私は彼の具体的な「行動」をこの目でつぶさに見た。
だが──その一連の立ち回りは、私が彼に対して抱いている深淵のような恐怖とは、あまりにもかけ離れていた。周囲への根回しや誘い方がどこかぎこちなく、コミュニケーションが少しつたない、ごく「普通の男子高校生」のそれに見えたのだ。
(……どういう、ことだろう)
手元のマグカップを見つめ、思考を巡らせる。
あのバスの中で彼の視線に射抜かれた時の恐怖。時折、彼の背中から立ち上る、すべてを突き放したような冷めた目。あれらは私の見間違いだったのだろうか。
彼はあの
もしそうなら、あの底知れない威圧感の正体は何なのか。
冷めかけたコーヒーを口に含んでも、私の胸の奥に渦巻く不気味な疑問符は、何一つ消えてはくれなかった。