ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
深い、濁った泥の底に沈んでいくような夢だった。
夢の中の私は、精神に異常をきたして無気力だった、あの小中学校時代の教室にいた。
周囲の子供たちからの無邪気で残酷な悪意──嘲笑、無視、机への落書きが、容赦なく私に降り注ぐ。けれど、私はその痛みの最中で、ただ冷え切った安堵感だけを覚えていた。
場面が切り替わる。
いつかの放課後、雨の降る路地裏。段ボール箱の中に、びしょ濡れになって震える一匹の捨て犬がいた。
私は何も考えず、その泥に汚れた小さな頭をそっと撫でる。
誰からも望まれず、世界の隅っこでただ消えていくのを待つだけの存在。まるで、自分そのものみたいだった。
「……うん。誰にも見つからないで、こうやって嫌われてる方が、楽で、いいんだよ」
いじめられること、排除されることを完全に肯定するような言葉が、私の唇から滑り落ちる。それが、あの白い部屋の人たちの過剰な期待から逃れるための、唯一の防衛線だったから。
けれど、次の瞬間、世界が反転した。
私の目の前で、その捨て犬が周囲の子供たちに囲まれ、笑いながら石を投げつけられていた。
キャン、と悲痛な鳴き声をあげる小さな命。
私の大きく見開かれた瞳の奥、その濁った黒目には、激しい雨の中で石を投げつけられ、怯え、傷ついていく捨て犬の姿が、逃げ場のない残酷な光念として強く、強く映し出されていた。
ハッと息を呑んで、私は跳ね起きた。
薄暗い、高度育成高校の自室。パジャマは冷たい汗で肌に張り付いており、心臓が不快なリズムで脈打っている。
悪夢の余韻と、過去の記憶がもたらした生理的な拒絶反応のせいですぐに気づいた。喉が、焼けるようにカラカラに渇いている。
潤いを求め、私はベッドから這い出し、小さな冷蔵庫を開けたが、中には何も入っていなかった。
あの夢の残像が頭から離れない。この激しい渇きを放置して、もう一度眠ることなんてできそうにない。私はパジャマの上に薄い上着を羽織り、学生証をポケットに押し込むと、静まり返った深夜の廊下へ出た。
エレベーターで一階へと降りる。
薄暗いロビーを青白く照らす自動販売機の前に立ち、少しだけ悩んだ。百ポイントのジュースを買うのすら今の私には惜しい。結局、私は一番隅にある無料の水のボタンを押した。
冷たいペットボトルを取り出し、ようやく一息つこうとした、その時だった。
「……露草か」
背後から掛けられた低い声に、私の肩が小さく跳ねる。
振り返ると、そこにはいつもの締まりのない表情をした、前の席の主──綾小路くんが立っていた。
「あ……、綾小路くん。どうして、ここに」
「いや、少し寝付けなくてな。飲み物でも買おうと思って降りてきたんだ。露草は?」
「私は……ちょっと、目が覚めちゃって。部屋に水がなかったから、買いに……」
自分の声がまだ少し震えているのが分かった。けれど、自販機にお金を投入する彼の横顔を見つめているうちに、胸の奥の動悸が少しずつ収まっていくのを覚えていた。
入学当初、彼がホワイトルームの「本物の怪物」ではないかと怯えていた私の恐怖心は、最近、少しずつ薄れ始めていた。
もし仮に彼があの部屋の住人だったとしても、外界に出てきた今の彼が、わざわざ私のような不良品をどうこうしようと考えている風には見えなかったからだ。むしろ、普段の彼はどこか抜けていて、覇気がない。
だからこそ、私は彼が自販機のボタンを押す背中に、気になっていた疑問をそっと投げかけてみた。
「あの……昨日のこと、なんだけど」
「昨日?」
「うん。須藤くんたちの勉強会のことで、色々と裏で動いてたでしょ? なんとなく、綾小路くんってそういう、クラスのために進んで何かをする感じには見えなかったから……ちょっと、不思議で」
普段の消極的な彼とのギャップ。なぜそんな面倒な真似をしたのか。
私の問いに、綾小路くんはガコンとジュースの缶を取り出しながら、特に取り繕う風でもなく正直に答えた。
「昨日のお昼に、堀北に昼飯をおごられてな。仕方なく言うことを聞かないといけなくなったんだ」
「お、おごられて……?」
あまりにも締まらない、かつ妙な言い回しに、私は思わず彼の言葉を復唱してしまった。怪物の隠された意図を警戒していた自分が、少し馬鹿らしくなるような理由だった。
「ああ。だから、ただの義理返しみたいなものだ」
購入を終えた彼はそれだけ言うと、エレベーターの方へと歩き出す。私もその隣に並び、一緒に引き返すことにした。
歩きながら、私の頭の中に新たな違和感が首をもたげる。
あの孤高を貫き、他人を寄せ付けない堀北さんが、わざわざ綾小路くんに頼みごとをする。それは少し、不自然な気がした。単に隣の席で、唯一まともな交流があったから、というだけだろうか。
その時、私の脳裏に先週の出来事が鮮明にフラッシュバックした。
それは、綾小路くんが校内放送で、担任の茶柱先生に呼び出されたときのこと。彼が呼び出されてしばらくした後、なぜか堀北さんもほぼ同時に、教室へ戻ってきたのだ。あの二人の間には、私が知らない何かがある。
「ねえ、綾小路くん。先週、茶柱先生になんで呼び出されたの?」
歩みを止めずに、何気なく尋ねた。
しかし、彼からの返答は返ってこなかった。
「え──」
突如、私の右腕が強い力で掴まれた。
抗う隙すら与えられない圧倒的な腕力。私は声をあげる間もなく、引きずられるようにして、先ほどまでいた自動販売機の巨大な筐体の影へと連れ込まれた。
パニックで頭が真っ白になる。やっぱりこの男は怪物だったんだ、私を処分する気なんだ──。
悲鳴を上げようとした私の唇に、肉厚で冷たい彼の手のひらが、隙間なく押し当てられた。
「む、ぐ……っ」
声が出ない。
綾小路くんは私を自販機と壁の狭い隙間に押し付けたまま、自らも身を潜めるようにして、私の顔を間近で見下ろしている。その瞳には、昼間のつたなさも、先ほどの締まりのなさも、一切存在していなかった。光を通さない、どこまでも深い、底なしの虚無。
なぜ、こんなことをするのか。私をどうするつもりなのか。恐怖で心臓が破裂しそうになり、涙がこぼれそうになる。
けれどこの後、すぐに見知った姿が見えたことで、これが彼女に私達の存在を気づかせないための、咄嗟の隠蔽行動なのだと察した。その瞬間、彼に対する恐怖心自体は、すっと霧のように消え去っていった。
消え去ってはいたのだけれど──。
チーン、と深夜のロビーに静かな電子音が響き、エレベーターの扉が開く。
そこから現れたのは、長い黒髪を揺らした、堀北鈴音さんの姿だった。彼女は周囲を警戒するように見回すと、俯きがちの、どこか強張った表情のまま、まっすぐ寮の外へと歩いていく。
彼女の姿が完全に寮の外へと消えていくのを見届けてようやく、口元を覆っていた冷たい圧迫感と、体を拘束していた強い力が不意に消失した。
「ふはっ……っ、はぁ……」
解放され、奪われていた酸素を急いで肺に吸い込む。
薄暗い自販機の影、他人には見せられないほど自分の顔が真っ赤に火照っているのが、嫌というほど自覚できた。
酸素不足と、背後にいた怪物の気配を至近距離で浴びた恐怖のせいで、心臓が爆発しそうなほど波打っている。胸の奥が、冷や汗が出るほど熱い。
危機は去った。なのに、過剰に分泌されたアドレナリンのせいで、激しい動悸も体の火照りも一向に収まる気配がない。頭の命令を無視して、心臓がうるさいほど警鐘を鳴らし続けている。
一刻も早く、ただの一般生徒のフリをしてここを立ち去らなければ。
そのためには、この過呼吸寸前の無様な姿さえも『理不尽に巻き込まれて怒り狂う一般生徒』のリアクションへと、無理やりにでも変換し、利用しなければならない。
私は乱れる呼吸を無理やり抑え込み、それを彼に対する抗議の勢いへと乗せて、声を絞り出した。
「……な、なにするの、いきなり……っ」
「すまない。声を出す暇がなかったんだ。ここで堀北と顔を合わせるのは、お互いに色々と気まずいだろうと思ってな」
綾小路くんはいつもと変わらない淡々とした調子で、けれど一応は申し訳なさそうに手を下げて謝罪した。本当に、この男の肝の座り方はおかしい。
「き……気まずい、って?」
「すまないが、また今度にしてくれ。俺は少し、堀北の様子を見ておきたい。こんな時間にどこへ行くのか気になるからな。露草は先に部屋に帰っていてくれ」
彼はそう言い残し、堀北さんの後を追うようにロビーの出口へと歩き出す。
いつもなら、面倒事には一歩引いて「背景」に徹するのが私の生存戦略だ。
しかし、リスクを避けてばかりでは真の意味で命を守ることはできない。
あの怪物が何を企み、なぜ堀北さんを追っているのか──それを把握できないことこそが、今の私にとって最大の
この手負いの状況すら、利用してでも情報を引き出す。
「……私も、行く」
「おい。露草は関係ないだろう」
引き留めるような綾小路くんの声を無視して、私は彼の隣に並んだ。なぜ、と目で問いかけてくる彼に、私は少し視線を逸らしながら答える。
「気になるから。……それに、さっきあんな乱暴なことされたんだから、ちょっとくらい付き合ってもいいでしょ」
我ながら少し子供っぽい理屈だとは思ったけれど、先ほどの行動に少なからず負い目があるのか、綾小路くんはそれ以上、私を強く追い返そうとはしなかった。
二人で静かに寮を抜け出し、夜の敷地内を進む。
街灯の光が届かない植え込みの影を縫うようにして、前方を歩く堀北さんの背中を追った。彼女が足を止めたのは、校舎裏の物静かな通路だった。
そこには、一人の男が待っていた。
見覚えがある。学校のパンフレットや入学式で壇上に立っていた、生徒会長・堀北学だ。
私たちは近くの遮蔽物の陰に身を潜め、息を殺して二人の会話を盗み聞きすることになった。
「鈴音。ここまで追ってくるとはな」
生徒会長の声は、驚くほど冷酷だった。
漏れ聞こえてくる会話から、あの男が堀北さんの実の兄であること、物怖じしない彼女がその背中を追ってこの学校へ来たこと、けれど兄には全く受け入れられていないという事実が、パズルのピースのようにつながっていく。
兄である生徒会長は、妹のその切実な願いを、一切受け入れていなかった。
「愚かだな、本当に。昔のように痛い目を見ておくか?」
「兄さん──私は──」
普段は誰に対しても毅然として、高圧的な態度を崩さないあの堀北さんが、今にも泣き出しそうなほどに肩を震わせている。
「お前には上を目指す力も資格もない。それを知れ」
生徒会長の放つ、圧倒的な強者のプレッシャー。
それは、かつて小中学校時代に一方的な悪意に晒され、ただ心を殺して蹲るしかなかった私の、暗い過去の記憶を強烈に呼び覚ました。
生徒会長が、冷徹な足取りで堀北さんへと一歩近づく。その腕が、拒絶を体現するように容赦なく振り上げられた。
暴力を振るおうとしている。あの凛とした堀北さんが、かつての私のように、何もできずにすり潰されようとしている──。
(──嫌だ)
頭で考えるよりも先に、私の右腕が動いていた。
ポケットから引っ掴んだ、先ほど自販機で手に入れたばかりの、冷たい無料の水のペットボトル。
私はそれを、生徒会長の振り上げられた腕を目がけて、渾身の力で投げつけた。
夜の闇を切り裂いて、透明なボトルが一直線に飛んでいく。