ようこそ、朝露に千歳を願う教室へ 作:じぇみに先生
私が放ったペットボトルは、夜の闇を一直線に切り裂いて飛んでいった。
しかし、生徒会長は振り上げようとした腕を無造作に翻すと、飛来したボトルを完璧な動体視線で叩き落とした。ベコン、と派手な音が真夜中の敷地に虚しく響く。
(──しまっ、)
自分の衝動的な行動の重さに気づき、血の気が引く。けれど、その結末を見届ける間もなく、私の視界がブレた。
隣にいたはずの綾小路くんの姿が、いつの間にか、陽炎のように消えていたのだ。
次の瞬間、生徒会長の傍らに音もなく肉薄した綾小路くんが、堀北さんの身体を掴もうとしていた彼の右腕をガシッと掴み、その動きを完全に制限した。
「──何だ?お前は」
突如として現れ、自らの腕を掴んだ同級生に、生徒会長が冷徹な声を向ける。
兄の暴力から救われた堀北さんは、信じられないものを見るかのように目を見開いた。
「あ、綾小路くん!?」
生徒会長は鋭い眼光を真っ直ぐに綾小路くんへと向ける。しかし、綾小路くんはその視線を正面から受け止め、いつもと変わらない淡々とした調子で言い放った。
「兄妹だからってやって良いことと悪いことがある」
互いの実力が底知れないことを察知し合うような、一触即発の空気。生徒会長は掴まれた腕の力を緩めないまま、冷たく言葉を紡ぐ。
「盗み聞きとは感心しないな。あれもお前が?」
生徒会長は綾小路くんへの目線は保ったまま、顎で、先ほど自分が叩き落としたペットボトルを指し示しながら問うた。
その時、綾小路くんの背後──色濃い夜の闇の奥から、私はゆっくりと二人の前へ歩み出た。いつもの覇気のない、死んだ魚のような目をしながら。
「あれは……私……です。ごめんなさい」
「露草さんも……」
堀北さんが呆然と私の名前を呟く。生徒会長の唇が、酷く冷ややかに歪んだ。
「鈴音、お前に友達が居たとはな。正直驚いた」
「ふたりは……友達なんかじゃありません。ただのクラスメイトです」
堀北さんは傷ついた表情を浮かべながらも、即座に兄の言葉を否定した。
その否定を気にする風でもなく、綾小路くんが生徒会長の腕を掴む手に微かに力を込める。
「いい加減、その手を離せ」
「それはこちらのセリフだ」
静かに火花を散らす二人。その異常な緊迫感に耐えかねたように、堀北さんが悲痛な声をあげた。
「やめて、綾小路くん……」
その声を合図にするように、綾小路くんがゆっくりと、生徒会長の腕から手を放した。
──その瞬間だった。
生徒会長の右の裏拳が、一切の予備動作なしに綾小路くんの顔面を目がけて放たれた。
ゾッとするような速度。しかし、綾小路くんは上体を微かに反らし、紙一重でそれを回避する。
すかさず生徒会長が追撃を仕掛けた。今度は急所を狙った、容赦のない鋭く重い蹴り。
「っ……!」
激しい一撃が迫る中、綾小路くんは咄嗟に頭を振ってそれを躱した。鋭い蹴りが彼の頭部を掠めるように通り過ぎ、衣服の裾が生徒会長の靴底と擦れ、バサッと鈍い音を立てる。体勢を崩しながら、まさに直撃を免れただけの、間一髪の回避だった。それすらも、綾小路くんは冷静にステップを踏んで躱してみせる。
「っぶね」
口では焦ったように呟きながら、よろめくようにして地面を踏み締める前の席の主。
だが、その一連の攻防を傍観していた私の背中には、冷たい汗が伝っていた。
生徒会長の放ったあの鋭い横蹴りは、予備動作のなさもさることながら、ギリギリまで頭と肋骨のどちらを狙った動きなのかが極めて判断しにくいものだった。普通の人間なら、軌道を読み違えて直撃をもらうか、良くて相打ち。あるいは、動くことすらできずに意識を刈り取られている。
それを、彼は今、頭を振って躱した。
つまり綾小路くんは、あの極限の速度のなかで、どちらに飛んでくるかを『ギリギリまで見極めてから』、化け物じみた反射神経で避けたのだ。
(……信じられない)
全身の血が凍りつくような感覚に、目の前が眩む。
見えない。いくら目を凝らして観察しても、この目の前の男の『底』が、どこにあるのかが一切見えてこない。
生徒会長はさらに踏み込み、右手を開いて綾小路くんの胸ぐらへと掴みかかった。しかし、綾小路くんはそれを自らの左手の裏でパァンと軽く弾き落とし、いなしてみせた。
その一瞬の激しい攻防を経て、生徒会長は自ら攻撃を止め、姿勢を正した。
「いい動きだな。立て続けに避けられるとは思っていなかった。──何か習っていたのか?」
「ピアノと書道なら」
緊迫した空気に似つかわしくない、とんちんかんな回答を真顔で返す前の席の主。私は心の中で(いや、それ絶対に今の動きと関係ないよね……)と静かに突っ込んだ。
生徒会長はその見え透いた嘘を追及することなく、静かに口を開く。
「……綾小路といったな。お前が居れば、少しは面白くなるかも知れないな」
妹の鈴音には一切の関心を示さなくなった生徒会長は、そのまま背を向け、綾小路くんの横を通り過ぎて歩き出した。
その帰り道、彼の足が、私のすぐ真横でピタリと止まる。
生徒会長は、所在なげに身体の前で手を弄んでいる私を冷徹な眼差しで見下ろし、低く、静かな声で問いかけてきた。
「俺の腕を狙って投げたのか?」
心臓が跳ね上がる。私は頭を激しく横に振って平謝りした。
「ぐ、偶然です……!ご、ごめんなさい!」
私の必死の言い訳を聞いた生徒会長は、それ以上何も追及することはしなかった。
ただ、酷く静かに「ふっ」と鼻で笑うような、あるいは奇妙なものを見たかのような短い笑みを漏らし、そのまま歩みを進める。
そして、闇に消えていくその間際、背中を向けたまま、そこにいる私達3人すべてに向けて冷酷な、けれど明確な現実を言い残した。
「上のクラスに上がりたかったら、死に物狂いで足掻け。それしか方法はない」
その一言だけを夜の底に残し、彼の足音は今度こそ完全に闇の中へと消えていった。
圧倒的なプレッシャーが去り、深夜の通路に三人だけが残される。
周囲を包み込んだのは、耳が痛くなるほどの、圧倒的な夜の静けさだった。冷たい夜風が通り抜ける中、私は自分のしたことの重大さにようやく気づき、一気に顔を青くしてその場に立ち尽くしていた。
誰も、何も喋らない。喋れない。
そんな重苦しい静寂を破ったのは、地面を見つめたまま、今にも消え入りそうな声で呟いた堀北さんの言葉だった。
「……最初から、聞いていたの……?」
その鋭く、けれどひび割れた瞳が、ゆっくりと私と綾小路くんの二人へと向けられる。
私は誤魔化すように、テンパった声を出しながら、先ほどロビーであった事実をそのまま口にした。
「あ、あのね、偶然一階の自販機で綾小路くんと鉢合わせて……そしたら堀北さんが外に行くのが見えたから、なんだか気になって、後を追いかけちゃったの」
堀北さんは私の言い訳にはほとんど視線を向けず、まっすぐに綾小路くんを睨みつけた。
「綾小路くん、あなたも何かやってたでしょう。それもかなりの有段者」
生徒会長のあの人間離れした強さと、それを完璧にいなしてみせた綾小路くんの実力。堀北さんが彼をいぶかしむのは当然だった。しかし、綾小路くんはやはり表情一つ変えずに聞き流す。
なおも納得のいかない様子の堀北さんは、低く冷めた声で、彼に対する決定的な疑惑を口にした。
「それに、あなたにはまだ不可解な点があるわ。──テストの点数を、わざと揃えたり、──」
その言葉が、私の耳に滑り込んできた瞬間。
脳の奥で、カチリと冷たい歯車が噛み合う音がした。
(……え?)
歩みを止めないまま、私の思考が急速に回転を始める。
堀北さんの言った『テストの点数をわざと揃える』という言葉。そこに、決定的な違和感──明確な矛盾が存在していた。
この高度育成高等学校に入学してから、私たちDクラスが受けた公的なテストは、まだ先日の一回きりの小テストだけだ。
『揃える』という表現は、単一のテスト内での偏りを指す言葉ではない。通常、それは「すべての教科において、狙い澄ましたかのように同じ数字を叩き出す」という意味、あるいは「複数回行われたテストにおいて、意図的に同じ点数を維持し続ける」という意味に他ならない。
もし、前者の意味なのだとしたら。
この学園に来てからのテストがまだ一回だけである以上、彼が点数を揃えたのは「この学校に届く前のデータ」──すなわち。
(……入試問題、だ)
背筋に、ぞわりと冷たい鳥肌が立つ。
この学校の入学試験。そのすべての教科において、彼は偶然を装い、あるいは狙い澄まして、全く同じ得点を取りにいったのだ。すべての科目を、目立ちもせず沈みもしない、不自然極まりない平均値に。
そこまで思い至り、私は彼を、盗み見るように一瞥した。
感情の抜け落ちた、いつもの冴えない横顔。
けれど今の私には、その横顔の裏に隠された、底の知れない底味が恐ろしくてたまらなかった。彼の卓越した実力を持ってすれば、入試の点数すらも完璧にコントロールしてみせる、本物の怪物だ。
そんな私の内心の戦慄を余所に、二人が少しの間、噛み合わない視線を交わした後、堀北さんは諦めたように息を吐いた。
「もういいわ。先に戻るわね」
「本当にもう、勉強会はいいのか?」
背を向けようとした彼女に、綾小路くんがぽつりと声を投げかける。
(勉強会……?)
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中でいくつかの点と線がつながった。
先ほどロビーで綾小路くんが言っていた『ここで堀北と顔を合わせるのは、お互いに色々と気まずい』という言葉。そして、今の『もう勉強会はいいのか』という問いかけ。
その二点から、今日の放課後に行われたはずの、須藤くんたちを交えた勉強会が、かなり芳しくない結果に終わったのだろうと私は推測した。
綾小路くんの問いかけに、堀北さんは立ち止まったが、振り返ることはしなかった。その声には、冷徹な諦めが混じっている。
「ええ。もう私には関係のないことよ。確かに私はDクラスをAクラスに引き上げることを目標にした。でも、それは私自身のためであって、──他がどうなろうと関係ないわ。むしろ、今回の中間テストで赤点組を切り捨ててしまえば、残ったのは必然的にマシな生徒だけになるでしょう?」
マシな生徒。
その冷たい言葉が胸に突き刺さり、私はどこか申し訳なさを、そして暗い陰鬱さを感じていた。
私自身は、今回のテストで赤点をとることはないだろう。だが、だからといって自分という存在が、彼女の言う『マシな生徒』の枠に入るとは到底思えなかった。
あの白い場所から脱落し、落胆され、そして人間扱いされなかった過去の私が、心の奥底で泥のようにうずくまっている。
「堀北、その考え方は間違ってるんじゃないか?」
綾小路くんが静かに、けれど明確に彼女の言葉を否定した。
しかし、堀北さんは頑なに自分の正しさを崩さない。そんな彼女に対して、綾小路くんは引き下がることなく、この学校のシステムにおいて「退学者を出すこと」がいかにクラス全体のデメリットになるかを、淡々と説き始めた。
「必死に彼らを救おうとするあなたの考え、理解に苦しむわ」
人間は打算的な生き物だと断ずる堀北さん。彼女の言葉は一見、合理的で冷酷な正論に聞こえる。
けれど、綾小路くんの瞳は、彼女のさらに奥にある本質を冷徹に見透かしていた。
「お前がその信念を持ち続けているのなら、ちゃんと物事を、視野を広く見ろ。今のお前は怒りと不満で、何も前が見えちゃいない」
その言葉を皮切りに、二人の間で激しい口論が続いた。
バスでの出来事、堀北さんの欠点、そして個々人が持つ実力の違い。綾小路くんの言葉には、感情論ではない、圧倒的な説得力と論理が詰まっていた。
やがて、綾小路くんの言葉にこれ以上逃げられなくなった堀北さんは、ある程度の納得を示し、小さく息を吐いた。
ただ、彼女のひび割れた瞳には、まだどうしても腑に落ちない、最大の疑問が残っていた。
「あなたの真意。あなたにとってこの学校は何なの? 何のためにそんなに必死になって私を説得するの?」
心臓がどくり、と跳ねた。
それは、私自身が一番知りたかったことだった。
あの白い部屋にいたはずの自分たち。あの場所を思い出させるような、実力だけが全てを決定するこの歪な学校で、なぜ彼はそこまで必死になって立ち回るのか。できることなら、目立たず、関わらず、一刻も早くここから出たいとは思わないのか。
息を殺して、彼の唇を見つめる。
綾小路くんは、夜の闇よりも深い、光を通さない瞳のまま、静かに答えた。
「知りたいからだ。本当の実力ってやつが何なのか。平等ってのが、何なのかを」
彼の言葉が、冷たい夜風に乗って私の耳に届く。
「実力と、平等……」
私はその言葉を、反芻するように小さく呟いた。
それが、彼がこの学園に来た理由。いまだに底の全く見えない、彼の真の目的。
曖昧としていて、答えが見つかるのか、そもそも答えなんてものが存在するのかすら分からないものを、彼はこの学校に探しに来たというのだ。
堀北さんはしばらく彼の目を見つめていたが、やがて、微かに唇の端を上げた。
「私があなたに言いくるめられるなんてね」
彼女は一歩踏み出し、綾小路くんをまっすぐに見据えて言葉を続ける。
「私は私自身のために須藤くんたちの面倒を見る。これから先有利に運ぶことに期待しての打算的考え。それでもいい?」
あくまでも自分のため。そう言い切る彼女に、綾小路くんはいつもの抑揚のない声で、けれど確かな肯定を返した。
「その方が堀北らしい」
「契約成立ね」
二人は静かに、手を取り合った。
真夜中の校舎裏、奇妙な契約を結ぶ二人を、私はただ無言で見つめていた。綾小路くんの背中が、先ほどよりも少しだけ遠く、そして途方もなく巨大なものに見えた。
「先に戻るわ」
手を離した堀北さんは、そのまま寮の方へと歩き出す。そして、私の横をすれ違いざま、小さく声を落とした。
「前にあなたに言ったこと、取り消すわ」
彼女が残した、微かな歩み寄り。けれど私は、その言葉の余韻に浸る余裕はなかった。
(兄妹揃って去り際に、私に何か言い残していく……。)
「オレたちも戻ろう」
綾小路くんが、地面に転がっていた無料の水のペットボトルを回収し、私に促す。二人で静かに夜の敷地を戻り、寮のロビーへと滑り込んだ。
チーン、と静かな音が響き、案内板のランプが上へと動いていく。堀北さんが乗ったであろうエレベーターが、今まさに上層階へと移動しているところだった。
大事な場面に、部外者である自分が居合わせてしまった。その強烈な気まずさを誤魔化すように、私はエレベーター前に立ち尽くす彼の背中に、そっと声をかけた。
「よ、よかったね。堀北さん、協力?してくれるみたいで」
「どちらかというとあいつの目的のためにオレが手を貸すんだがな」
「そ、そうなんだ……」
相変わらずの他人事のような口ぶりに、私が曖昧に相槌を打つと、綾小路くんがこちらを振り返った。
「すまない。露草を巻き込んでしまったな」
「気にしないで。私が勝手についてきたんだから」
申し訳なさそうな彼に、私は慌てて、空いた手をブンブンと振って否定した。すると、彼は自販機から視線を外し、極めて淡々とした調子で、突拍子もない言葉を口にした。
「巻き込まれついでというわけじゃないが、よければ露草も、これからオレたちのやることに付き合ってくれないか。せっかく前後の席同士、縁があったんだしな」
唐突な誘いだった。
けれど、あまりにも日常の偶然を装った、だからこそ逃げ道のない囲い込みに、私の脳内が警報を鳴らす。
先ほどのふたりのやりとりを見ていたからこそ、分かる。堀北さんが、簡単に人と協力しない性格だなんて、彼だって百も承知のはずだ。それなのに、「席の近さ」なんていう無害な理由で私を近くに固定しようとしてくるなんて。
(……何か、狙いがあるの?)
ホワイトルームの影が、再び彼の背後にちらつく。断れば「なぜそこまで警戒するのか」と不審がられる。だけど、この怪物の手の届く場所に自ら飛び込むなんて、正気の沙汰じゃない。
私は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え、なんとか気弱な凡人の仮面を張り付けた。
「え、ええっと……私なんかが、ふたりの役に立てるのかな? 堀北さん、すっごく頭いいし、私みたいなのがお邪魔虫になっちゃわないか心配なんだけど……」
「私は役に立たない凡々な存在ですよ」というアピールをクッションとして挟み、彼の反応を伺う。
綾小路くんはやはり感情の読めない瞳で私を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「オレも堀北も、クラスじゃ浮いてるからな。お前みたいに普通に話せる奴が近くにいてくれるだけで、十分助かる。……まぁ、気が向いたらでいい」
「あはは……じゃあ、前向きに考えておくね」
愛想笑いを浮かべながら、背中に冷たい汗が流れる。気が向いたら、なんて言っているけれど、私に拒否権なんて最初からないのだ。
やがて降りてきたエレベーターに、二人で無言のまま乗り込む。
男子生徒の部屋は下層階、女子生徒の部屋は上層階。そのため、先に降りることになるのは綾小路くんの方だ。
出入口側に立つ綾小路くん。そして、その背中を眺めている私。上に向かうエレベーターのゴーという音が箱内の静寂に鳴り響いている。その沈黙を破るように彼は振り返らないまま、低い声をエレベーターの中に落とした。
「そういえば、露草。さっきオレが茶柱に呼び出された理由を聞いてきてたよな」
不意に、前に立つ彼が、低い声を密室の中に落とした。
「え──」
心臓が、冷たく脈打つ。
彼はゆっくりと顔だけをこちらに向けた。その瞳は、相変わらず光を一切反射しない、絶対的な暗黒。そこにあるのは、凍りつくような底知れなさだけだった。
「どうしてそこが気になったんだ? 普通、クラスの連中なら、教師が誰を呼び出そうが興味を持たないと思うんだが。……それとも、何かオレから聞き出したいことでもあるのか?」
感情の起伏が一切ない、淡々とした声が密室に響く。
それはただの純粋な疑問の形をしていた。けれど、逃げ場のない密室で、あの怪物に真っ直ぐ理由を求められるその状況自体が、私にとっては恐ろしい『詰め』のように感じられてしまう。
(何か言わなきゃ、怪しまれる──!)
私は引きつりそうになる顔の筋肉を必死に動かし、しどろもどろになりながらも、即座にそれっぽい言い訳を絞り出した。
「え、ええっと……ち、違うの! ほら、茶柱先生って、いっつもすごく冷たいっていうか、怖いじゃない? だから……そんな先生に綾小路くんが呼び出されてたから、何か悪いことでもして怒られたのかなって、ちょっと、心配になっちゃって……あはは」
声を震わせながら、いかにも「クラスの不穏な空気に怯える臆病な女子」としての理由を返す。
私の必死の回答を受け、綾小路くんは何も言わず、感情の読めない瞳でじっと私の表情を見つめていた。
息が詰まるような、一瞬の静寂。
私の額を冷たい汗が伝う。
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「なるほどな」
──チーン。
タイミングを合わせたように電子音が鳴り、エレベーターが静かに停止し、滑るように扉が開いた。
そして、彼は至極あっさりと頷いた。
「確かに茶柱先生は怒ると怖そうだし、お前の言うことも一理ある。……まぁ、オレが何かやらかしたわけじゃないから安心しろ」
それは、私の言い訳をそのまま受け入れた、どこまでも抑揚のない物言いだった。
疑いが晴れたのだとしたら、ホッとするべきなのに。彼のあまりの物分りの良さが、逆に私の心臓を激しく揺さぶる。本当に、今の拙い嘘で誤魔化せたのだろうか。
彼はふっと視線を前方に戻した。
「──じゃあな。また明日、教室で」
何事もなかったかのように、彼はいつも通りの淡々とした足取りで廊下へと一歩踏み出していく。
「……っ」
滑り込むようにして扉が閉まる。
その瞬間、私はエレベーターの壁に背中を預けたまま、激しい恐怖でがたがたと身体を震わせていた。
何かやらかしたのだろうか。
先ほど、堀北さんを説得する彼の姿を見て、私はどこかで、彼を信頼しかけていたのだ。同じ部屋の空気を吸った存在として、少しだけ、理解できたような気がしてしまっていた。
けれど、去り際のあの無機質な挨拶一つで、そんな甘い感情は一瞬で吹き飛んだ。
本当に私の言葉を信じたのか、それとも「ただの臆病な一般生徒」のフリをしている私に合わせてくれただけなのか。
茶柱先生の件を詮索した私のボロを、彼はちゃんと覚えている。そして『明日、オレの正面の席で、いつでもお前を見ているぞ』と、確定した未来で私の逃げ道を塞いでみせたのだ。
彼はやっぱり、ただのクラスメイトなんかじゃない。逆らってはならない、底知れない恐怖の対象──あの部屋の住人だ。
それに比べて、自分は。
あの場所から脱落し、間引きされた不良品。何の価値もない、ただの落ちこぼれ。
(私の考え方……間違っていないよね?)
手元に残された、冷たい無料の水のペットボトル。
私はそれを、指が白くなるほどに、強く、強く握りしめた。
ゴウン、と重い音を立てて、エレベーターがただ上へと上がっていく音が、深夜の静寂に虚しく響いていた。