TYPE-X99 建御名方 ― 約束を継ぐ者 ― 作:自己読み
昼休みが終わると、新入生たちは再び教室へ集められた。
窓の外では桜が風に揺れている。
食堂での賑やかな空気が嘘のように、教室は静まり返っていた。
ガラリ、と扉が開く。
板垣信方が入ってくる。
教壇に立つと、出席簿を置き、教室を見渡した。
「廊下へ。」
その一言だけだった。
全員が立ち上がる。
何をするのか説明はない。
廊下へ出ると、壁際に一直線で整列するよう指示された。
「前へならえ。」
革靴を揃える音が響く。
迅は背筋を伸ばし、正面だけを見つめた。
板垣は列の先頭から、一人ずつ歩き始める。
何も言わない。
制服。
襟。
袖。
靴。
髪。
視線だけで確認していく。
教室よりも、この沈黙の方がずっと苦しかった。
最初に止まったのは朝倉の前だった。
「朝倉。」
「は、はい!」
「第二ボタン。」
朝倉が自分の胸を見る。
掛け違えていた。
「あっ……。」
慌てて直そうとする。
「そのままでいい。」
板垣は淡々と言った。
「なぜ掛け違えた。」
「急いでいて……。」
「急いでいたからか。」
「はい。」
板垣は朝倉の目をまっすぐ見た。
「戦場でも急いでいる。」
朝倉の表情が変わる。
「だからこそ、急ぐ時ほど確認する。」
「覚えておけ。」
「……はい。」
板垣はそれ以上何も言わず、次へ進んだ。
迅はそのやり取りを見ながら、自分の襟元を無意識に確かめる。
大丈夫だ。
たぶん。
板垣が目の前で止まる。
「武田。」
「はい。」
視線が足元へ落ちた。
「右足。」
迅も目を向ける。
革靴のつま先に、小さく土が付いていた。
校庭を歩いた時のものだろう。
「申し訳ありません。」
迅は思わず頭を下げた。
板垣は怒らない。
ただ一つ尋ねた。
「なぜ磨く。」
迅は答えに詰まる。
「……身だしなみ、だからでしょうか。」
板垣は首を横に振った。
「違う。」
廊下に静かな声が響く。
「靴は、お前を運ぶ。」
「毎日磨けば、小さな傷にも気付く。」
「小さな異常に気付ける者は、大きな異常も見逃さない。」
迅は黙って聞いていた。
「明日の朝までに磨いてこい。」
「はい。」
板垣は歩き出す。
迅は胸の中で、その言葉を何度も繰り返した。
――小さな異常に気付ける者は。
その言葉は、靴のことだけを言っているようには思えなかった。
列の後ろでは、真壁が注意を受けていた。
「袖。」
板垣が指差す。
真壁の制服の袖口から、糸が少しだけほつれていた。
「縫います。」
「今日中に。」
「はい。」
九条の前では、板垣は立ち止まらなかった。
そのまま通り過ぎる。
朝倉が小さくつぶやく。
「さすが班長候補……。」
九条は聞こえていないふりをして前を向いていた。
点検が終わると、板垣は列の正面へ戻る。
「今日注意された者。」
数人が返事をする。
「恥じる必要はない。」
意外な言葉だった。
「気付かず卒業する方が恥だ。」
板垣は全員を見渡す。
「今日の失敗は、今日のうちに直せ。」
「以上。」
敬礼。
板垣はそのまま教室へ戻っていった。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
「終わった……。」
朝倉が大きく息を吐く。
「ボタンくらいであんな緊張するとは思わなかった。」
「でも。」
結城が自分の袖を見ながら言う。
「怒られた感じはしなかったね。」
「教えてもらった感じだった。」
真壁も静かに頷く。
「ちゃんと理由を話してくれた。」
その時だった。
朝倉が自分の制服を見て固まる。
「しまった。」
「どうした。」
迅が尋ねる。
「直したつもりが、また掛け違えてる。」
見ると、本当にボタンが一つずれていた。
「お前なぁ……。」
迅は苦笑しながら、朝倉の手を止める。
「貸せ。」
「え?」
「焦るとまた間違える。」
迅は一つずつボタンを外し、ゆっくり掛け直していく。
「ほら。」
「これでいい。」
朝倉は自分の胸元を見て笑った。
「助かった。」
「今度、昼飯のコロッケ一個やる。」
「安い礼だな。」
「じゃあ二個。」
「最初からそう言え。」
二人のやり取りを見て、結城が笑う。
真壁も小さく口元を緩めた。
少し離れた場所では、九条がその様子を静かに見ていた。
何も言わない。
ただ一度だけ、小さく頷く。
武田迅という人間は、自分のことより先に、隣にいる誰かへ手を差し伸べる。
そんな人間なのだと。
まだ出会って一日しか経っていない。
それでも九条は、そのことを少しだけ理解し始めていた。