逃げちゃだめ?いや、全力で逃げるが?   作:李忠成

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見知らぬ、天井

 

白い天井だった。消毒液の匂いがした。病院だ、とすぐわかった。

 

体のあちこちが痛かった。そうだ、あの転倒だ。十五メートルの巨人が前のめりに倒れたのだから、中の人間がただで済むはずもない。軽い打ち身と擦り傷、という診断だったが、それでも全身がじんじんしていた。

 

ドアが開いた。

 

「シンジくん! 起きた!?」

 

紫の髪の女——葛城ミサトが飛び込んできた。後ろにリツコもいた。二人とも目に見えてほっとした表情をしていて、俺は「あ、これ大事にされてるやつだ」と瞬時に把握した。

 

「……はい」

 

「よかった! 意識があって! どこか痛いところは?」

 

「全部です」

 

「あはは! それはそうよね!」

 

なんで笑うんですか。

 

「ねえシンジくん」

「はいシンジです」

 

ミサトが俺の手を両手で握った。童貞には刺激が強い。

 

「すごかったわよ、昨日。本当に。誰も信じられないって顔してたわよ、みんな」

 

「自分が一番信じてないです」

 

「また謙遜して」

 

謙遜じゃないんですよ。

 

俺はため息をついた。この人、さっきから俺の言葉を全部「謙遜」に変換するな。便利な変換機能を持ってるな。

 

「シンジくん」今度はリツコが口を開いた。「あなた、初号機との適合率が初回起動で四十一パーセントだった。素人が最初からその数値を叩き出したことは——」

 

「すごいんですよね、わかりました」

 

「……飲み込みが早いわね」

 

「えっとですね」

 

俺は体を起こした。ここからが本番だった。俺の得意分野——交渉だ。アクア相手にコツコツ磨いてきた、ダメ神相手の交渉術が今こそ活きる。

 

「俺、これからもエヴァに乗るんですよね?」

 

「ええ」ミサトが頷く。

 

「定期的に命がけで働くわけですよね?」

 

「……まあ、そうなるわね」

 

「住む場所とか、生活費とか、そういうのは……?」

 

ミサトとリツコが顔を見合わせた。

 

「もちろん、NERVとして保護するわよ? シンジくんは特務機関NERVの正規パイロットなんだから」

 

「どのくらい保護してもらえるんですか、具体的に」

 

「……どのくらい、って?」

 

「例えば、住居の広さとか。ベッドの質とか。あと手当の額とか」

 

沈黙。

 

リツコが眼鏡を押し上げた。「要求が具体的ね」

 

「だって命がけですよ? あんなの毎回やるんですよ? 命には相応の対価があって然るべきだと思うんですが」

 

ミサトがまた口元を手で覆った。今度は笑いをこらえているのか、感心しているのかよくわからない表情だった。

 

「……わかった。私のマンションに来なさい。広いし、私が面倒みるわ」

 

「ベッドは?」

 

「ふかふかよ」

 

「手当は?」

 

「……交渉次第ね」

 

(チョロい)

 

俺は「ありがとうございます」と神妙な顔で頭を下げた。内心では両手をガッツポーズしていた。

 

(チョロすぎる! この世界の大人、チョロすぎる! 異世界じゃギルドのお姉さん相手に何度追い返されたと思ってるんだ! こっちの大人は話が早い! これ、ひょっとしてひょっとするか!? ニート生活いけるんじゃないか!?)

 

---

 

ミサトのマンションに来て最初に思ったのは、汚い、だった。

 

「散らかってるのはご愛嬌ね!」

 

ご愛嬌で済む量じゃなかった。ビールの空き缶がそこかしこにある。ペンギンがいる。なんでペンギンがいるんだ?

 

でも、ベッドはふかふかだった。

 

シーツも清潔で、枕も高さがちょうどよくて、横になった瞬間に「あ、これ沈む」とわかる質のやつだった。

 

(……いい!)

 

異世界でははじめ、俺はまともな寝床に縁がなかった。安宿のぼこぼこしたベッド、馬小屋まがいの宿、使いかけの毛布一枚——そういうものとずっと戦ってきた俺に、このふかふかは効いた。

 

「で、シンジくん」

 

夕食のあと、ミサトがテーブルにビールを置きながら言った。

 

「明日から転入の手続きするから。あなたと同じくらいの子がいる中学校よ」

 

「……はい」

 

「他のパイロットとも顔合わせしてほしいし。連携訓練も必要だから」

 

「……はい」

 

「制服は明日の朝までに届けさせるわ。教科書も——」

 

「ちょっと待ってください」

 

俺は箸を置いた。

 

「学校」

 

「そう」

 

「連携訓練」

 

「そう」

 

「……つまり、俺、働くんですか。毎日」

 

「まあ、学校は働くとは言わないけど——」

 

「それ以外にも訓練があるわけですよね? エヴァの」

 

「必要なことだもの」

 

「使徒が来たらまた戦うわけですよね」

 

「シンジくんが人類の希望だもの」

 

俺は天井を仰いだ。

 

(……ニート生活、三秒で終わった)

 

思えばそうだった。あの世界でも、最初「楽して暮らせるかも」と思って、気づいたら毎回最前線で命を張っていた。どうやら俺という人間は、楽な生活に向いていないらしい。体質的に。

 

「わかりました」

 

「協力的ね、今日は」

 

「……まあ」

 

俺はそれ以上何も言わなかった。言っても仕方なかった。

 

---

 

夜。

 

ふかふかのベッドの上で、俺は一人だった。

 

天井を見ていた。今日で三回目の知らない天井だったが、そんなセリフを言う気力もなかった。

 

(なんで俺がこんな……)

 

窓の外に、第三新東京市の夜景が広がっていた。派手な街だ。電気がまだ普及してなかった異世界と違って、どこもかしこも煌々と光っている。

 

(……あいつら、どうしてるかな)

 

めぐみんの顔が浮かんだ。ダクネスの顔が浮かんだ。アクアの顔も、まあ一応浮かんだ。

 

(魔王討伐より割に合わないだろ、これ……。魔王倒せば終わりだったのに……こっちは使徒が何体いるかも教えてもらってないし……)

 

しかも乗ったらシンクロ率とかいうので痛みが来る。あれ絶対おかしい。人間の乗り物の設計じゃない。誰が作ったんですか。

 

(……でも、あの子)

 

綾波レイの顔が脳裏をよぎった。あの包帯。あの無表情。あの「わかりました」と言いそうな目。

 

(ま、いっか)

 

俺はそう思うことにした。損な性分だとは自分でも思う。

 

でも、俺が乗らなかったらあの子が乗ってたわけで。

 

それはそれで寝覚めが悪い。

 

「……魔王討伐より、ぜったい割に合わない」

 

誰にも聞こえない声で愚痴って、俺はふかふかのベッドに顔を埋めた。

 

シーツが目に染みた気がしたが、たぶん気のせいだ。

 

エリス様、また会えますか。

 

そう思いながら、佐藤カズマは——碇シンジの体で——この世界での最初の夜をやり過ごした。

 

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